戻れない場所へ
地の底へは、一度、運ばれたことがある。
あのときは、石の箱のなかだった。番号を書かれて、荷物として。下りていく自分の足を、だれも数えなかった。数えられていないものは、止められない。だから、止まらずに、いちばん下まで、運ばれた。
いまは、自分の足で、下りていた。
同じ坂だった。同じ、湿った石の階。同じ、低くなっていく天井。壁にはめこまれた魔石は、半分が死んでいて、生きているものも、青い光を、ためらいながら出していた。
ちがうのは、足だけだった。
運ばれるのと、歩くのとでは、同じ道が、こんなにもちがった。
ユアンが、先を行った。剣を鞘ごと肩にかけて、道がいちばん狭くなるところで、いつも半歩、先に立った。ネリが、そのうしろ。テオは、しんがりで、時々立ち止まって、指を折った。
「四つ」テオが、小さく言った。「まだ、四つ。……抜けてない」
リディアは、うなずいた。
下りるほど、鐘が、遠くなった。
坂の上の、母の鐘。にごった音は、まだ、聞こえていた。けれど、一段下りるごとに、うすい布を一枚ずつあいだに挟んでいくように、その音は、遠くなった。
いつもなら、それで、石は静まる。鐘から離れれば、胸の石は、冷たくなる。ゆうべまでは、そうだった。
でも、今日は、ちがった。
鐘が遠くなるぶんだけ、べつのものが、近くなった。
下から。
足の裏の、そのずっと下から。低い脈のようなものが、上がってきていた。石が、そちらへ、傾いだ。鐘に引かれて上を向いていた石が、いまは、下を向いていた。
下りるほど、静まるのでは、なかった。下りるほど、こんどは、下のものが、石を、呼んだ。
母から、離れる。
一段ごとに、母の音が、遠くなる。それは、母を、置いていくことでも、あった。母は、来られない。鐘に縛られて、あの坂の上に、いる。半分浮いた手のひらで、何百年ぶんの名前を、押さえたまま。
いつか、あの手を、あけてやりたい。
そのためには、いちばん下まで、行くしかなかった。母から、いちばん遠いところまで。
母に近づくために、母から、遠ざかる。
おかしな話だ、と思った。でも、足は、止めなかった。
袖の内側で、父の手帳が、胸に当たっていた。歩くたび、角が、肋に触れた。ひらかなくても、書いてあることは、覚えていた。リディアは、探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。
探す人が、いなくなった場所へ、いま、自分から、下りていた。
それでも、こわくはなかった。探してくれる人は、もう、うしろに、四つ、いた。
*
しばらく下りて、リディアは、足音が増えているのに気づいた。
自分たちの、四人ぶんでは、なかった。
壁のわきの細い横穴から。天井の、崩れた裂け目から。乾いた人影が、いくつも、下りてきていた。
飢えた民だった。
坂の下で、うずくまっていた者たち。列をなすのを、やめた者たち。いま、その者たちが、おなじ坂を、下りていた。おなじ、下のほうへ。
だれも、リディアを、見なかった。腕をつかもうとも、しなかった。ゆうべまで、乾いた手は、リディアの器をほしがって、伸びてきた。いまは、ちがった。だれも、手を伸ばさない。みんな、下だけを、見ていた。
呼ばれているのは、リディアのなかのものだけでは、なかった。
この者たちも、呼ばれていた。腹の底の、いちばん古い飢えを、揺り起こされて。王が、帰る。その音を、地面ごしに、聞いて。顔に、あかりのようなものが、ともっていた。うれしさに、似ていた。こわいくらい、しずかな、うれしさに。
リディアは、その流れの、まんなかを、下りた。
まぎれこむ、というより。おなじほうへ、いっしょに、運ばれていくようだった。
荷物みたいに、と、頭のすみで、声がした。
ちがう、と思った。
ひとりの、痩せた影が、リディアのとなりに、並んだ。老いた冥族だった。落ちくぼんだ目が、ちらと、こちらを見た。
「あんたも」その影は言った。声は、枯れ葉のようだった。「呼ばれて、来たのか」
リディアは、足を、止めなかった。
「呼ばれて、来たんじゃない」
自分の声が、思ったよりしずかだったので、すこし、おどろいた。
「決めて、来た」
痩せた影は、しばらく、リディアを見た。それから、また、下を向いた。ちがいが、わからない、という顔だった。呼ばれて下りるのと、決めて下りるのとでは、足の向きは、おなじだったから。
でも、リディアには、わかった。
おなじ坂を、おなじほうへ、下りていても。運ばれる荷物と、歩く自分は、ちがう。ゆうべ、坂の上で、決めたことだった。荷物は、行き先を選べない。わたしは、選ぶ。
だから、この流れのなかにいても。わたしは、この流れでは、なかった。
ネリが、痩せた影の背を、目で追っていた。
「あの人たち」ネリは、小さく言った。「戦いに、行くんじゃ、ないんだね」
「うん」リディアは言った。「ごはんを、もらいに行くの。ずっと、もらえなかった、ごはんを」
その言い方が、自分でも、かなしかった。止めに行く先へ、この人たちは、救いだと思って、下りている。おなじ音を、こんなにも、ちがうふうに、聞いていた。
*
やがて、見おぼえのある踊り場に、出た。
リディアの足が、止まった。
鉄の扉が、あった。
いや、あった、というより。あった場所が、あった。
扉は、ちょうつがいから、もぎ取られて、壁に、もたれかかっていた。その奥に、四角い、せまい部屋。
最深房。
リディアが、運ばれて、閉じこめられた部屋だった。
降りるほど鐘が遠ざかり、石が静まり、そのぶん自分も、世から薄く溶けていった部屋。母が、鉄の扉までしか、来られなかった部屋。壁の上のほうに、小さな、通気の穴があった。そこから、はじめて、ミラの声が、聞こえた。——まだ、外していないのね。
ここで、泣いた。
母にも、セラフィナにも、言えなかったことを、扉の向こうの、顔も知らない声に、こぼした。こぼしながら、はじめて、泣いた。石は外れないのに、自分の蓋が、外れたみたいに。
その穴は、いま、ふさがれてなど、いなかった。
半分をふさいでいた石が、崩れて、穴は大きく口をあけていた。そこから、下の、赤い光が、こぼれていた。
リディアは、部屋のなかに、入った。
「おい」ユアンが、うしろから言った。「そんなとこ、入るな。時間が、ない」
「うん」リディアは言った。「すぐ、出る」
湿った石の壁に、手を、当てた。
ここに閉じこめられたとき、みんなが言った。ここが、いちばん安全な場所なのだと。鐘から、いちばん遠い。だれの手も、届かない。だから、ここへ、しまわれた。
でも、いまは。
その、いちばん安全なはずの部屋の壁が、下から、裂けていた。
押しこめた側は、ここを、いちばん奥だと思っていた。ふたを、いちばん固く、閉めたつもりだった。けれど、いちばん奥の、そのまた下から、裂けてくるものが、あった。ふたの下に、押しこめたものは、消えては、いなかった。ずっと、下で、目を、覚ましかけていた。
しまった場所が、いちばん、危なかった。
あのとき、穴の向こうの声は言った。ここは、いちばん向こう側に近い、と。意味は、半分しか、わからなかった。いまは、わかった。裂けているのは、上からでは、なかった。下から、向こう側から、裂けていた。しまえばしまうほど、それに、近づいていた。
リディアは、壁から、手を離した。
「行こう」
「どっちへ」ユアンが聞いた。
リディアは、部屋の床を、見た。
いちばん奥。裂けた石のあいだに、下へ続く、暗い口が、あいていた。赤い光は、そこから、上がってきていた。
「下」リディアは言った。「この部屋の、もっと下」
だれも、来たことのない場所だった。運ばれたリディアでさえ、ここが、いちばん底だと思っていた。ちがった。ここの、もっと下が、あった。呼び合いの、源が。
*
裂けた床の口から、下りた。
石の階は、もう、なかった。人が作った道では、なかった。土と岩の、うねった裂け目を、手をつきながら、下りた。
下りるあいだ、うしろで、音がした。
石が、崩れる音。
ふりむくと、いま下りてきた口が、上から落ちた岩で、半分、ふさがっていた。地の底のうねりが、道を、内側から、押していた。来た道が、閉じていく。
「戻り道が」ネリが、震える声で言った。
「戻り道は、ふさがった」テオが、上を見あげて、言った。声が、いつもより、低かった。
リディアも、上を、見た。
落ちてくる石。ゆがむ天井。もう、来た道を、まっすぐには、戻れない。
生きて、帰るために来た。ゆうべ、そう決めた。なのに、下りるそばから、帰り道が、閉じていく。
こわかった。
でも、と思った。
帰り道が閉じるのは、追ってくる手も、ここまでは来られない、ということでも、あった。乾いた手も、冷たい手も。上では、封印線が裂けて、白い塔の者たちが、青い顔で走っていた。地の底のうねりの前で、境を引く縄は、ほどけていった。追う者は、もう、追ってこられない。閉じこめる者も、もう、閉じこめられない。
どちらの手も、届かない場所へ、下りていた。
それは、だれにも、助けてもらえない場所、ということでも、あった。
戻れない場所へ、来た。自分の足で。
テオが、崩れた口から目を離して、指を、折りなおした。
「四つ」テオは言った。「戻り道は、ふさがった。……でも、四つは、まだ、四つだ。ここにいる。ぜんぶ、数えられる」
「うん」リディアは言った。
ユアンが、剣を、握りなおした。
「戻り道がないなら」ユアンは言った。「前に進むしか、ない。……ちょうどいい。おれは、うしろを守るのが、苦手だった。前なら、守れる」
いつか、ユアンは言った。運ばれてくやつのうしろは守れない、歩くやつのうしろなら守れる、と。いまは、それより、もう一歩、先だった。うしろが、なくなった。あるのは、前だけ。ユアンの守る場所も、前だけ。
ネリが、震える手で、リディアの袖を、握った。それから、離した。歩けるように。
「わたし、うしろを、見てる」ネリは言った。「テオが数えてるあいだ、わたしは、みんなの、息を、聞いてる。……ひとつも、止まらないように」
下りるほど、赤い光が、濃くなった。
熱が、上がってきた。息が、乾いた。石は、下へ、下へと、引かれた。鐘の音は、もう、聞こえなかった。かわりに、下から、低いうねりが、体のなかを、通った。
三つの音が、ひとつに、なりたがっていた。
上の鐘。下の、これ。そして、リディアのなかの、もうひとつ。ばらばらだった三つが、いま、この、いちばん下で、ひとつの音に、なろうとしていた。
その、なろうとする音の、まんなかへ。
リディアは、下りていった。
*
岩の裂け目が、ふいに、ひらけた。
広い、空洞だった。
天井は、見えなかった。底も、はっきりとは、見えなかった。ただ、赤い光が、そこらじゅうから、脈を打つように、あふれていた。壁が、生きているみたいに、ゆっくりと、うねっていた。空気は、重く、熱く、なにかを、待っていた。
飢えた民が、その空洞のふちに、ならんでいた。もう、下りてはいなかった。ふちに立って、赤い光のほうへ、顔を向けて、待っていた。ひざまずく者も、いた。祈るような、かたちで。だれも、声を、立てなかった。ただ、待っていた。王の、帰りを。
ここが、源だった。
三つの呼び合いの、いちばん深いところ。
リディアは、空洞の口に、立った。
一歩、踏みこめば、もう、あとには、ひけない。ここは、逃げてきた場所で、いちばん、逃げられない場所だった。ゆうべ、坂の上で、母に言った。いちばん、こわいところへ、行く、と。
これが、その場所だった。
胸の石が、両側から引かれた——のでは、なかった。
もう、上は、なかった。鐘は、遠すぎて、届かなかった。石を引くのは、下だけ、だった。この、赤い脈だけ。石は、そちらへ、まっすぐ、傾いでいた。留め金の内側で、跳ねていた。外れたがって、いた。
外せ、と、いつもの声がした。ここまで来たなら、いっそ。
リディアは、石を、握った。
外さなかった。
外すために、来たのでは、なかった。運ばれるためでも、集められるためでも、なかった。止めるために、来た。母を、放すために。——生きて、帰るために。帰り道が、ふさがっても。
「入るのか」ユアンが、となりに立った。
「うん」リディアは言った。
声は、震えていた。それでも、言った。
「呼ばれて、来たんじゃない。ここへ来るって、わたしが、決めた。……だから、入る」
ネリが、うしろで、両手を、握りしめた。テオが、指を、折った。ユアンが、剣を、抜いた。四つの気配が、リディアの背に、ならんだ。
リディアは、赤い光の、まんなかへ、一歩、踏みこんだ。
足の裏に、うねりが、伝わった。近づくほど、大きく、なった。三つの音が、もう、すぐそこで、ひとつに、なりかけていた。
空洞の、いちばん奥。
赤い脈の、そのまた奥で。
なにかが、ゆっくりと、身を、起こしかけていた。
まだ、かたちは、なかった。名前も、なかった。ただ、大きかった。山が、寝返りを打つように。ずっと、割られて、眠っていたものが、そろいはじめた三つの音に、呼ばれて。
飢えた民が、いっせいに、額を、地につけた。
リディアは、逃げなかった。隠れなかった。薄くも、ならなかった。
ただ、その、起きあがりかけたものの、まんなかに向かって、まっすぐに、立った。
「見てて」
だれにも、聞こえない声で、言った。上の、鐘の下の、母に。
「わたし、ここにいる。……いちばん、こわいところに、ちゃんと、いる」




