↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
43/52

戻れない場所へ

地の底へは、一度、運ばれたことがある。


 あのときは、石の箱のなかだった。番号を書かれて、荷物として。下りていく自分の足を、だれも数えなかった。数えられていないものは、止められない。だから、止まらずに、いちばん下まで、運ばれた。


 いまは、自分の足で、下りていた。


 同じ坂だった。同じ、湿った石の階。同じ、低くなっていく天井。壁にはめこまれた魔石は、半分が死んでいて、生きているものも、青い光を、ためらいながら出していた。


 ちがうのは、足だけだった。


 運ばれるのと、歩くのとでは、同じ道が、こんなにもちがった。


 ユアンが、先を行った。剣を鞘ごと肩にかけて、道がいちばん狭くなるところで、いつも半歩、先に立った。ネリが、そのうしろ。テオは、しんがりで、時々立ち止まって、指を折った。


 「四つ」テオが、小さく言った。「まだ、四つ。……抜けてない」


 リディアは、うなずいた。


 下りるほど、鐘が、遠くなった。


 坂の上の、母の鐘。にごった音は、まだ、聞こえていた。けれど、一段下りるごとに、うすい布を一枚ずつあいだに挟んでいくように、その音は、遠くなった。


 いつもなら、それで、石は静まる。鐘から離れれば、胸の石は、冷たくなる。ゆうべまでは、そうだった。


 でも、今日は、ちがった。


 鐘が遠くなるぶんだけ、べつのものが、近くなった。


 下から。


 足の裏の、そのずっと下から。低い脈のようなものが、上がってきていた。石が、そちらへ、傾いだ。鐘に引かれて上を向いていた石が、いまは、下を向いていた。


 下りるほど、静まるのでは、なかった。下りるほど、こんどは、下のものが、石を、呼んだ。


 母から、離れる。


 一段ごとに、母の音が、遠くなる。それは、母を、置いていくことでも、あった。母は、来られない。鐘に縛られて、あの坂の上に、いる。半分浮いた手のひらで、何百年ぶんの名前を、押さえたまま。


 いつか、あの手を、あけてやりたい。


 そのためには、いちばん下まで、行くしかなかった。母から、いちばん遠いところまで。


 母に近づくために、母から、遠ざかる。


 おかしな話だ、と思った。でも、足は、止めなかった。


 袖の内側で、父の手帳が、胸に当たっていた。歩くたび、角が、肋に触れた。ひらかなくても、書いてあることは、覚えていた。リディアは、探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。


 探す人が、いなくなった場所へ、いま、自分から、下りていた。


 それでも、こわくはなかった。探してくれる人は、もう、うしろに、四つ、いた。


     *


 しばらく下りて、リディアは、足音が増えているのに気づいた。


 自分たちの、四人ぶんでは、なかった。


 壁のわきの細い横穴から。天井の、崩れた裂け目から。乾いた人影が、いくつも、下りてきていた。


 飢えた民だった。


 坂の下で、うずくまっていた者たち。列をなすのを、やめた者たち。いま、その者たちが、おなじ坂を、下りていた。おなじ、下のほうへ。


 だれも、リディアを、見なかった。腕をつかもうとも、しなかった。ゆうべまで、乾いた手は、リディアの器をほしがって、伸びてきた。いまは、ちがった。だれも、手を伸ばさない。みんな、下だけを、見ていた。


 呼ばれているのは、リディアのなかのものだけでは、なかった。


 この者たちも、呼ばれていた。腹の底の、いちばん古い飢えを、揺り起こされて。王が、帰る。その音を、地面ごしに、聞いて。顔に、あかりのようなものが、ともっていた。うれしさに、似ていた。こわいくらい、しずかな、うれしさに。


 リディアは、その流れの、まんなかを、下りた。


 まぎれこむ、というより。おなじほうへ、いっしょに、運ばれていくようだった。


 荷物みたいに、と、頭のすみで、声がした。


 ちがう、と思った。


 ひとりの、痩せた影が、リディアのとなりに、並んだ。老いた冥族だった。落ちくぼんだ目が、ちらと、こちらを見た。


 「あんたも」その影は言った。声は、枯れ葉のようだった。「呼ばれて、来たのか」


 リディアは、足を、止めなかった。


 「呼ばれて、来たんじゃない」


 自分の声が、思ったよりしずかだったので、すこし、おどろいた。


 「決めて、来た」


 痩せた影は、しばらく、リディアを見た。それから、また、下を向いた。ちがいが、わからない、という顔だった。呼ばれて下りるのと、決めて下りるのとでは、足の向きは、おなじだったから。


 でも、リディアには、わかった。


 おなじ坂を、おなじほうへ、下りていても。運ばれる荷物と、歩く自分は、ちがう。ゆうべ、坂の上で、決めたことだった。荷物は、行き先を選べない。わたしは、選ぶ。


 だから、この流れのなかにいても。わたしは、この流れでは、なかった。


 ネリが、痩せた影の背を、目で追っていた。


 「あの人たち」ネリは、小さく言った。「戦いに、行くんじゃ、ないんだね」


 「うん」リディアは言った。「ごはんを、もらいに行くの。ずっと、もらえなかった、ごはんを」


 その言い方が、自分でも、かなしかった。止めに行く先へ、この人たちは、救いだと思って、下りている。おなじ音を、こんなにも、ちがうふうに、聞いていた。


     *


 やがて、見おぼえのある踊り場に、出た。


 リディアの足が、止まった。


 鉄の扉が、あった。


 いや、あった、というより。あった場所が、あった。


 扉は、ちょうつがいから、もぎ取られて、壁に、もたれかかっていた。その奥に、四角い、せまい部屋。


 最深房。


 リディアが、運ばれて、閉じこめられた部屋だった。


 降りるほど鐘が遠ざかり、石が静まり、そのぶん自分も、世から薄く溶けていった部屋。母が、鉄の扉までしか、来られなかった部屋。壁の上のほうに、小さな、通気の穴があった。そこから、はじめて、ミラの声が、聞こえた。——まだ、外していないのね。


 ここで、泣いた。


 母にも、セラフィナにも、言えなかったことを、扉の向こうの、顔も知らない声に、こぼした。こぼしながら、はじめて、泣いた。石は外れないのに、自分の蓋が、外れたみたいに。


 その穴は、いま、ふさがれてなど、いなかった。


 半分をふさいでいた石が、崩れて、穴は大きく口をあけていた。そこから、下の、赤い光が、こぼれていた。


 リディアは、部屋のなかに、入った。


 「おい」ユアンが、うしろから言った。「そんなとこ、入るな。時間が、ない」


 「うん」リディアは言った。「すぐ、出る」


 湿った石の壁に、手を、当てた。


 ここに閉じこめられたとき、みんなが言った。ここが、いちばん安全な場所なのだと。鐘から、いちばん遠い。だれの手も、届かない。だから、ここへ、しまわれた。


 でも、いまは。


 その、いちばん安全なはずの部屋の壁が、下から、裂けていた。


 押しこめた側は、ここを、いちばん奥だと思っていた。ふたを、いちばん固く、閉めたつもりだった。けれど、いちばん奥の、そのまた下から、裂けてくるものが、あった。ふたの下に、押しこめたものは、消えては、いなかった。ずっと、下で、目を、覚ましかけていた。


 しまった場所が、いちばん、危なかった。


 あのとき、穴の向こうの声は言った。ここは、いちばん向こう側に近い、と。意味は、半分しか、わからなかった。いまは、わかった。裂けているのは、上からでは、なかった。下から、向こう側から、裂けていた。しまえばしまうほど、それに、近づいていた。


 リディアは、壁から、手を離した。


 「行こう」


 「どっちへ」ユアンが聞いた。


 リディアは、部屋の床を、見た。


 いちばん奥。裂けた石のあいだに、下へ続く、暗い口が、あいていた。赤い光は、そこから、上がってきていた。


 「下」リディアは言った。「この部屋の、もっと下」


 だれも、来たことのない場所だった。運ばれたリディアでさえ、ここが、いちばん底だと思っていた。ちがった。ここの、もっと下が、あった。呼び合いの、源が。


     *


 裂けた床の口から、下りた。


 石の階は、もう、なかった。人が作った道では、なかった。土と岩の、うねった裂け目を、手をつきながら、下りた。


 下りるあいだ、うしろで、音がした。


 石が、崩れる音。


 ふりむくと、いま下りてきた口が、上から落ちた岩で、半分、ふさがっていた。地の底のうねりが、道を、内側から、押していた。来た道が、閉じていく。


 「戻り道が」ネリが、震える声で言った。


 「戻り道は、ふさがった」テオが、上を見あげて、言った。声が、いつもより、低かった。


 リディアも、上を、見た。


 落ちてくる石。ゆがむ天井。もう、来た道を、まっすぐには、戻れない。


 生きて、帰るために来た。ゆうべ、そう決めた。なのに、下りるそばから、帰り道が、閉じていく。


 こわかった。


 でも、と思った。


 帰り道が閉じるのは、追ってくる手も、ここまでは来られない、ということでも、あった。乾いた手も、冷たい手も。上では、封印線が裂けて、白い塔の者たちが、青い顔で走っていた。地の底のうねりの前で、境を引く縄は、ほどけていった。追う者は、もう、追ってこられない。閉じこめる者も、もう、閉じこめられない。


 どちらの手も、届かない場所へ、下りていた。


 それは、だれにも、助けてもらえない場所、ということでも、あった。


 戻れない場所へ、来た。自分の足で。


 テオが、崩れた口から目を離して、指を、折りなおした。


 「四つ」テオは言った。「戻り道は、ふさがった。……でも、四つは、まだ、四つだ。ここにいる。ぜんぶ、数えられる」


 「うん」リディアは言った。


 ユアンが、剣を、握りなおした。


 「戻り道がないなら」ユアンは言った。「前に進むしか、ない。……ちょうどいい。おれは、うしろを守るのが、苦手だった。前なら、守れる」


 いつか、ユアンは言った。運ばれてくやつのうしろは守れない、歩くやつのうしろなら守れる、と。いまは、それより、もう一歩、先だった。うしろが、なくなった。あるのは、前だけ。ユアンの守る場所も、前だけ。


 ネリが、震える手で、リディアの袖を、握った。それから、離した。歩けるように。


 「わたし、うしろを、見てる」ネリは言った。「テオが数えてるあいだ、わたしは、みんなの、息を、聞いてる。……ひとつも、止まらないように」


 下りるほど、赤い光が、濃くなった。


 熱が、上がってきた。息が、乾いた。石は、下へ、下へと、引かれた。鐘の音は、もう、聞こえなかった。かわりに、下から、低いうねりが、体のなかを、通った。


 三つの音が、ひとつに、なりたがっていた。


 上の鐘。下の、これ。そして、リディアのなかの、もうひとつ。ばらばらだった三つが、いま、この、いちばん下で、ひとつの音に、なろうとしていた。


 その、なろうとする音の、まんなかへ。


 リディアは、下りていった。


     *


 岩の裂け目が、ふいに、ひらけた。


 広い、空洞だった。


 天井は、見えなかった。底も、はっきりとは、見えなかった。ただ、赤い光が、そこらじゅうから、脈を打つように、あふれていた。壁が、生きているみたいに、ゆっくりと、うねっていた。空気は、重く、熱く、なにかを、待っていた。


 飢えた民が、その空洞のふちに、ならんでいた。もう、下りてはいなかった。ふちに立って、赤い光のほうへ、顔を向けて、待っていた。ひざまずく者も、いた。祈るような、かたちで。だれも、声を、立てなかった。ただ、待っていた。王の、帰りを。


 ここが、源だった。


 三つの呼び合いの、いちばん深いところ。


 リディアは、空洞の口に、立った。


 一歩、踏みこめば、もう、あとには、ひけない。ここは、逃げてきた場所で、いちばん、逃げられない場所だった。ゆうべ、坂の上で、母に言った。いちばん、こわいところへ、行く、と。


 これが、その場所だった。


 胸の石が、両側から引かれた——のでは、なかった。


 もう、上は、なかった。鐘は、遠すぎて、届かなかった。石を引くのは、下だけ、だった。この、赤い脈だけ。石は、そちらへ、まっすぐ、傾いでいた。留め金の内側で、跳ねていた。外れたがって、いた。


 外せ、と、いつもの声がした。ここまで来たなら、いっそ。


 リディアは、石を、握った。


 外さなかった。


 外すために、来たのでは、なかった。運ばれるためでも、集められるためでも、なかった。止めるために、来た。母を、放すために。——生きて、帰るために。帰り道が、ふさがっても。


 「入るのか」ユアンが、となりに立った。


 「うん」リディアは言った。


 声は、震えていた。それでも、言った。


 「呼ばれて、来たんじゃない。ここへ来るって、わたしが、決めた。……だから、入る」


 ネリが、うしろで、両手を、握りしめた。テオが、指を、折った。ユアンが、剣を、抜いた。四つの気配が、リディアの背に、ならんだ。


 リディアは、赤い光の、まんなかへ、一歩、踏みこんだ。


 足の裏に、うねりが、伝わった。近づくほど、大きく、なった。三つの音が、もう、すぐそこで、ひとつに、なりかけていた。


 空洞の、いちばん奥。


 赤い脈の、そのまた奥で。


 なにかが、ゆっくりと、身を、起こしかけていた。


 まだ、かたちは、なかった。名前も、なかった。ただ、大きかった。山が、寝返りを打つように。ずっと、割られて、眠っていたものが、そろいはじめた三つの音に、呼ばれて。


 飢えた民が、いっせいに、額を、地につけた。


 リディアは、逃げなかった。隠れなかった。薄くも、ならなかった。


 ただ、その、起きあがりかけたものの、まんなかに向かって、まっすぐに、立った。


 「見てて」


 だれにも、聞こえない声で、言った。上の、鐘の下の、母に。


 「わたし、ここにいる。……いちばん、こわいところに、ちゃんと、いる」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。