集めなくても、そろう
坂を、下りきった。
下り口の、いちばん狭いところに、ユアンが立っていた。剣を鞘ごと肩にかけて。リディアの姿を見て、腫れた肩から、すこし力が抜けた。
「戻ったか」
「うん」
「母さんは」
「鐘のところ」リディアは言った。「まだ、押さえてる。……わたしが近づくと、鐘が暴れるから。離れるしかなかった」
ネリが、駆け寄ってきた。震える手で、リディアの袖を握った。それだけで、なにか言ったつもりの手だった。
テオは、すこし離れて、指を折っていた。数え終えて、顔を上げた。
「ふたつとも、ある」テオは言った。「君の名前も、母さんの名前も。抜けてない。……戻ってきて、よかった」
リディアは、うなずいた。それから、坂の上を、ふりむいた。
にごった鐘の音が、まだ、聞こえていた。母の手の下で、苦しそうに、鳴っていた。
のぼって、下りて。おなじ坂を、二度。足が、重かった。胸の石は、坂の上にいたときより、いくらか、静かになっていた。母から、離れたぶん。それでも、脈は、打っていた。ゆうべ、テオが八と数えた脈の間が、いまは、四つか、五つ。近づけば詰まり、離れれば、ひらく。体が、もう、それを覚えていた。
言おうか、迷った。
でも、言わないほうが、こわかった。
「ひとつじゃ、なかった」リディアは言った。「呼んでるのが」
「なんの話だ」ユアンが眉を寄せた。
「鐘だけだと、思ってた」リディアは、胸の石に手を当てた。「ちがった。もうひとつ、あった。ずっと遠く。地の底の、もっと下。……さっき、応えたの。鐘の音の、うしろで」
テオが、数える指を、止めた。
「三つ目」テオは、ちいさく言った。「ふたつは、知ってた。鐘と、君。……三つ目は、どこにあるかも、なにかも、だれも、言わなかった」
「なにかは、わからない」リディアは言った。「でも、呼んでる。わたしのなかの、おなじものを。鐘と、おなじに」
そのとき。
足の裏が、ゆれた。
*
大きくは、なかった。遠くを荷車が通ったくらいの、ちいさなゆれ。けれど、それは、横からでも、上からでもなかった。足の裏の、そのずっと下から、来た。
飢えた民の列が、ざわめいた。坂の下でうずくまっていた者たちが、いっせいに、地面に手をついた。なにかを、聞くように。
その列の先で、乾いた気配が、立ちあがった。
集める手だった。ゆうべ、リディアの腕をつかみ損ねた男。きょうは、手を伸ばさなかった。ただ、地面に手のひらを当てて、目を閉じていた。祈るような、かたちで。
「はじまった」集める手は言った。
目を開けて、リディアを見た。ゆうべの飢えた目とは、ちがっていた。もっと静かで、遠い目だった。
「おまえが、来た。鐘のそばへ」集める手は言った。「三つ目が、目を覚ました。……もう、いい。もう、手は、いらない」
「なにを言ってる」ユアンが、剣の柄に手をかけた。
集める手は、ユアンを見なかった。リディアだけを見ていた。
「ずっと、集めてきた」集める手は言った。「散ったものを、ひとつずつ。運んで。そろえて。飢えた足で、地の底から、昇って。……けれど、もう、運ばなくていい。三つが目を覚ませば、あとは、たがいに呼び合う。近づく。ひとりでに」
乾いた口が、笑うように、動いた。
「集めなくても、そろう」
坂の下の飢えた民が、ひとり、また、ひとりと、立ちあがった。列をなさなくなった。集める手のうしろにならんでいた者たちが、その男を、見なくなった。かわりに、みんな、おなじほうを向いていた。地の底の、うねりの来るほう。
呼ばれていたのは、リディアのなかのものだけでは、なかった。飢えた者たちも、その音に、呼ばれていた。腹の底の、いちばん古い飢えを、揺り起こされて。王が、帰る。そう信じて地の底から昇ってきた者たちが、いま、その帰る音を、地面ごしに、聞いていた。
顔に、なにか、あかりのようなものが、ともっていた。うれしさに、似ていた。こわいくらい、しずかな、うれしさに。
「あんたたちの、王」リディアは言った。「その帰る音で、腹は、ふくれるの」
集める手は、すぐには、答えなかった。しずかな目で、リディアを見ていた。
「わからない」しばらくして、集める手は言った。「けれど、待つことに飽きた者に、待たなくていいと言うのは……たぶん、パンより、はやく、腹にしみる」
正しさでは、子どもは眠らない。いつか、飢えた声が、そう言った。あの声に、似ていた。
その言葉が、リディアの、いちばん深いところに落ちた。
わたしが、来たから。
鐘のそばへ。母を置いていけなくて、戻って。それから、また、下りてきた。そのあいだ、ずっと、胸のなかのものが、鐘へ、呼びかえそうとしていた。噛みころしても、噛みころしても、にじみ出ていた。
その、にじみが。
地の底の、眠っていたものを揺り起こした。
動くたび。呼びかえすまいと、口を結ぶたび。それでも漏れていたものが、遠くの、三つ目を起こしていた。
逃げても。隠れても。薄くなっても。
いるだけで、そろえてしまう。
*
白い塔の方角で、澄んだ音が、ひとつ、はじけた。
ガラスが割れるような。けれど、もっと太い音。
封印線だった。王都のまわりに、魔術院が打った、白木の杭と、灰色の縄。境を引く線。入れない、出さない、ための。その杭が、一本、根元から、裂けた。
次の一本も。その次も。
地の底のうねりに、引かれて。杭が、地面から抜けていく。縄が、ゆるむ。境の線が、ほどけていく。
長衣が、ひとり、その方角から、走ってきた。総長の使いだろう。青い顔で、だれにともなく、叫んでいた。
「線が、もたない。杭が、勝手に……総長は、なんと。総長は──」
だれも、答えなかった。
アデルバートの冷たい声は、聞こえなかった。にごりを書きとめてたどると言った男の帳面は、地面のほうから裂けてくるうねりの前で、なんの役にも立たなかった。
境を引いて、押し込める。その、いちばん、かたい守り方が。いま、地の底のほうから、裂けていた。
杭の裂けた線から、白い封じの光が、糸のように、こぼれて消えた。何十年、この街を囲っていた線が。ほどけるのは、いっしゅんだった。
乾いた手が集めるのでも、冷たい手が閉じこめるのでもなく。三つが、たがいを呼んでいた。どちらの手も、もう追いつかない場所で。
*
胸の石が、両側から、引かれた。
上から、鐘。下から、地の底の、三つ目。ふたつの呼び声が、リディアのなかの、おなじひとつを、右と左に、引っぱった。
これまでは、ひとつだった。鐘だけ。口を結んで、奥歯で噛みころせば、こらえられた。
ふたつには、こらえきれなかった。
鐘の呼び声が、上から、降りてきた。地の底の呼び声が、下から、突きあげた。リディアは、そのまんなかで、両方に引き裂かれるように、立っていた。
石が、留め金の内側で、跳ねた。呼びかえしが、のどまで、せり上がってきた。応えたい。両方に。それが、こんなにも、体にしみついていた。
痛い、と思った。力ではなかった。石は、まだ、胸にあった。外れていない。ただ、外れたがっていた。上と下から糸で引かれた石が、留め金を内から叩いていた。叩くたび、胸の奥が、鐘のように鳴った。息が、浅くなった。
外せ、と、いつもの声がした。
外せば、ぜんぶ、終わる。石を引きちぎって、あふれさせて、自分ごと──
だめだ。
それは、いちばん待たれている手だった。集める手が。名を喰う声が。みんな、外すのを待っている。外せば、そろうのが、早くなるだけ。自分でけりをつけたつもりで、いちばん、敵の望むとおりになる。
母が、命がけで、隠したものだった。それだけは、しないと、決めた。
では、どうする。
立っていれば。こうして、ふたつのあいだに立って、こらえていれば。石は、鐘と三つ目のまんなかで、ふるえつづける。呼び声を、右から左へ、渡す。
中継してしまう。
動かない自分が、いちばん、そろえる手つだいを、していた。荷物のように、まんなかに置かれているだけで。
ゆうべ、母が言った。あなたが器なの。石じゃない。ずっと、あなただった。
その意味が、いま、体で、わかった。器は、運ばれるものだと思っていた。ちがった。器は、まんなかにいるだけで、両方を呼ぶ。空っぽで、置かれているだけで、まわりを、そろえてしまう。動かずにいることが、いちばん、危なかった。
だから、リディアは、動くことにした。
こらえるのでも、外すのでもなく。まんなかに立ちつくすのでも、なく。
三つ目の、いるほうへ。地の底の、もっと下。呼び声の、片方の、源へ。自分から。
運ばれるのでは、なかった。集められるのでも、なかった。右と左に引かれてふるえる、荷物でも。どこへそろうか、それを、自分で決める。そのために、いちばん深いところへ、自分の足で行く。
ゆうべ、坂の上で、思った。いつか、母の、あの手を、あけてやりたい、と。鐘から。何百年ぶんの、名前から。
その「いつか」は、もっと先の、いちばんこわい場所の話だと、思っていた。
もう、先では、なかった。
三つがそろいはじめた、いま。母を鐘から放すことも、この呼び合いを止めることも、ぜんぶ、おなじ、いちばん深い場所に、あった。逃げていては、届かない。近づくしか、なかった。いちばん危ない、そのまんなかへ。
自分ごと壊すためでは、なかった。止めるために、行く。母を、放すために。──生きて、帰るために。
*
「地の底へ、行く」リディアは言った。
ユアンが、こちらを見た。ネリの手が、袖の上で止まった。テオが、数える指を下ろした。
「あてが、あるのか」ユアンが聞いた。ゆうべと、おなじことを。
「ある」リディアは言った。きのうは、なかった。きょうは、あった。「三つが呼び合ってる、そのまんなか。いちばん深いところ。そこでなら、たぶん、止められる。母も、放せる。……ぜんぶ、そこに、ある」
「こわいか」ユアンが聞いた。
「こわい」リディアは言った。「地の底は、いちばん、いやな場所だった。もう一度、あそこへ、自分から行くなんて。……でも」
石が、両側から、引かれた。鐘と、三つ目に。
「もう、そろいはじめてる。だれかが集めなくても」リディアは言った。「なら、どこへそろうかは、わたしが決める。荷物は、行き先を選べない。わたしは、選ぶ。……だから、荷物じゃ、ない」
ユアンは、しばらく黙っていた。それから、腫れた肩を、まわした。
「いちばん深いところ、か」ユアンは言った。「あてがない道を選ぶ、って、ゆうべ言ったよな。きょうは、あてが、できたわけだ。……なら、なおさら、行くしかない。下りるぞ」
「わたし、地の底は」ネリが言った。声が、震えていた。「こわい。……でも、あなたが、いちばんこわいって、言った。なら、わたしの手は、あなたのために、震えるほうが、いい」
テオが、指で、なにかを数えなおした。
「四つ」テオは言った。「君と、ユアンと、ネリと、僕。四つ、数えた。……下りても、抜けないように、見てる。地の底でも」
ネリが、震える手で、もう一度、リディアの袖を握った。それから、そっと、離した。歩けるように。
*
坂の上で、鐘が、鳴った。
いつもの、にごった音。母の、手の下の。けれど、その尾を追うように、地の底が、応えた。低く。ずっと遠く。
ふたつの音が、山びこのように、呼び合った。そして、リディアの胸の石を、まんなかで、鳴らした。
三つの音が、ひとつに、なりたがっていた。
それが、始まりの音だった。
もう、鳴りやまない音。だれにも止められないところまで、来てしまった音。ゆうべまでは、予感だった。いまは、地面が、ゆれていた。
リディアは、坂の上を、ふりむいた。
母の背は、見えなかった。鐘楼の、影のなか。けれど、その目が、こちらを見ているのが、わかった。隠れていなさいとは、もう言わない人の目が。どこへ行っても、そらさないと決めた人の目が。
「見てて」リディアは、ちいさく言った。声は、届かない。届かなくても、よかった。「いちばん、こわいところへ、行くから。……隠れずに」
坂の下には、乾いた目が、待っていた。白い塔には、冷たい目が、あった──はずだった。けれど、いまは、どちらも、地の底のほうを、見ていた。追う者も、閉じこめる者も、その音の前では、おなじ顔を、していた。だれにも止められないものを、聞く顔を。
そして、歩きだした。
坂の下でも、なく。白い塔でも、なく。ふたつのあいだの、細い道でも、なかった。
地の底へ、まっすぐ。呼び合う三つの、そのまんなかへ。集めなくても、ひとりでに、そろっていく、その音の、いちばん深いところへ。
自分の、足で。
うしろで、鐘が、鳴った。地の底が、応えた。石が、鳴った。三つの音は、もう、ばらばらでは、いなかった。
冥王の、帰る音が、地の底で、鳴りはじめていた。
リディアは、その音の、まんなかへ、下りていった。




