もう、隠さないで
坂を離れて、いくつも歩かないうちに、リディアは足を止めた。
うしろで、鐘が鳴っていた。
ずっと鳴っていた。歩いても歩いても、その音は遠くならなかった。何百年ぶんの名前が、たったふたつの手の下でほどけそうになっている音だった。
母の手の、音だった。
最後に見た母の手を、リディアは覚えていた。手のひらの半分が、青銅から浮いていた。ゆうべは爪ひとつぶんだったのが、いまは、半分。押さえきれなくなってきている。母は、それでも「行きなさい」と言った。あなたが逃げる、そのぶんだけ、押さえる、と。
わたしが遠くへ行くほど、母は長く、あそこに縛られる。
そう気づいたら、足が、前に出なくなった。
「どうした」
ユアンが振りむいた。腫れた肩を、かばうように傾けて。
「置いてきた」リディアは言った。「お母さんを、置いてきた」
「置いてきたんじゃない」ユアンは言った。「あの人が、行けって言ったんだ。おれも聞いた」
「うん」
「せっかく、抜けたんだぞ」ユアンの声が、低くなった。「両方の手から。あの、縄からも。いま戻ったら――」
「わかってる」
わかっていた。戻れば、また見つかる。にごりを追う目にも、においを追う目にも。いちばん濃い自分が、いちばん呼び合う場所へ、自分から帰ることになる。逃げたぶんが、ぜんぶ、なかったことになる。
それでも。
「運ばれるのは、いやだった」リディアは言った。「荷物みたいに。だから、抜けた。……でも」
母のことを、荷物みたいに置いていくのは、それと、同じことだった。
「行ってくる」
「ひとりでか」
「うん。あそこは、ひとりじゃないと、だめだから」
近づくほど、鐘は暴れる。人が多いほど、危ない。ゆうべ、体でわかったことだった。
ユアンは、しばらく黙っていた。それから、剣を鞘ごと肩にかけ直した。
「下り口で待つ」ユアンは言った。「来た道の、いちばん狭いところだ。だれか来たら、稼ぐ。……お前が戻ってくるまで」
「うん」
「早くしろ」ユアンは、そっぽを向いた。「……戻ってこいよ。いない相手は、おれには、守れないんだ」
テオが、指を折って、なにかを数えていた。
「リディア」テオは言った。「行くなら、名前を、置いていって。君の。……いや、置いていかなくていい。僕が数えてる。母さんのぶんも。ふたつ、抜けないように、見てる」
ネリが、震える手で、リディアの袖に触れた。
「行って」ネリは言った。「でも、ひとつだけ。……あなたも、荷物じゃないから。戻るのも、あなたが決めたんだよね」
「うん」リディアは言った。「わたしが、決めた」
だれかに言われて戻るのでは、なかった。行けと言われて、逆に、戻る。それも、自分で選んだ、道だった。
*
坂を、のぼった。
ゆうべは、下りた。敵の待つ、下へ。いまは、のぼる。だれも待っていない、鐘の下へ。同じ坂なのに、上り坂は、下り坂より、ずっと長かった。
のぼるほど、胸の石が、脈を打った。
ゆうべ、テオが八と数えた脈の間が、いまは、三つ数えるうちに来た。近づくほど、詰まっていく。石の下の、そのまた下で、呼びかえそうとするものを、リディアは奥歯で噛みころした。呼びかえせば、鐘が答える。答えれば、母の手が、もっと苦しくなる。
鐘楼の下に、母が、いた。
背中しか、見えなかった。灰色の髪が、汗で、首すじに張りついていた。両腕を、頭より高くあげて、傾いだ鐘の縁を、下から押さえていた。半分ふさがれた通気の穴から差す光のなかで、母の背中だけが、細く、白かった。
十四年、なにかを両手で塞いできた人の、背中だった。
「お母さん」
母の背が、こわばった。
振りむけなかった。両手が、鐘にあったから。声だけが、肩ごしに、返ってきた。
「……なぜ」母は言った。あえぎながら。「行きなさいと、言った。なぜ、戻ったの」
「戻りたかったから」
「だめ。近づいては、だめ。あなたが近づくと――」
鐘が、鳴った。
リディアの胸の奥の、いちばん深いところが、応えた。石ではなかった。石の下の、そのまた下。呼ばれた火が、呼びかえすように、身をよじった。
鐘が、いっそう、傾いだ。
母の腕が、下から突きあげられ、母は全身で押さえ返した。指が、白くなった。
「これよ」母は、歯のあいだから言った。「これが、あるから。あなたが、そばに来ると。鐘が、あなたを、ほしがる。……だから、遠くへ、やったの」
リディアは、足を止めた。母から、五歩ほどの、ところで。
それより先に、行けなかった。行けば、鐘が暴れる。母が、潰される。近づきたいのに、近づけない。手を伸ばせば届く距離が、いちばん、遠かった。
*
「手伝う」リディアは言った。
「なにを」
「その鐘。半分、わたしが、持つ」
母が、はじめて、首だけをねじって、こちらを見た。影のなかの目が、見開かれていた。
「だめ」
「ふたりなら」リディアは言った。「ひとりより、楽でしょう。あなた、もう、半分、浮いてる。手のひらが。見えてる」
「リディア。聞いて。だめなの」
リディアは、聞かなかった。
一歩、踏み出した。四歩の距離が、三歩になった。両手を前に出した。母の腕の、すぐ下。青銅の冷たい縁に、指をかけようとした。
その指が、鐘に触れる、前に。
鐘が、吠えた。
音ではなかった。もっと下の、腹の底を殴るような、うねりだった。リディアの胸のなかのものが、それに応えて、はじけそうになった。石が、留め金の内側で、跳ねた。外れかけた。目の前が、白く、割れた。ぜんぶが見える、あの感覚が、来かけた。
「退がって!」
母が、叫んだ。
リディアは、後ろへ跳んだ。指が、鐘から離れた。
うねりが、引いた。石が、胸に戻った。冷たいまま。外れずに、すんだ。
息が、切れていた。母も。リディアも。
わかって、しまった。
持てない。半分も。指一本ぶんも。自分が触れれば、鐘は、暴れる。自分がそばにいるだけで、母の手は、重くなる。手伝うどころか、じゃまに、なる。
母を助けたくて、戻ってきた。その自分が、いちばん、母を危なくする。
「これが」リディアは言った。声が、震えた。「わたし、なんだね」
母は、答えなかった。青銅を、押さえ直していた。
「兄弟の、核だから」リディアは言った。「呼び合うから。だから、わたしは、あなたの、となりに、立てない。いちばん、立ちたいのに」
「そう」母は言った。「だから、隠したの。遠くへ。あなたを、うすくして。あなたが、いちばん、危ないものに、なってしまわないように」
*
「ごめんね」母は言った。
鐘を押さえたまま。背を、向けたまま。
「ずっと、ごめんね。あなたに、お守りだと言って。ほんとうは、蓋だった。あなたを、うすくして。班分けで、余らせて。名前を、飛ばされる子に、して。……ぜんぶ、わたしが」
「お母さん」
「あなたを、抱けなかった」母の声が、割れた。「はじめての日も。ゆうべも。いまも。両手が、いつも、なにかで、ふさがっていた。あなたを守るものは、いつも、あなたを、抱く手を、奪ったの」
抱かないことで、抱いてきた。
その言い方が、いま、わかった。母の手は、リディアを隠すために、いつも、別のなにかを握っていた。首飾りを。杖を。鐘を。娘を抱くための手が、娘を守るために、ふさがっていた。
リディアは、五歩、離れたところに、立っていた。
そして、言った。
「もう、隠さないで」
母の背が、止まった。
「あやまらないで」リディアは言った。「あなたの守り方は、わかった。ぜんぶ、わたしのためだった。それも、わかった。……でも」
声が、震えた。それでも、続けた。
「隠す守りは、もう、終わり」
鐘が、鳴った。母の腕が、突きあげられた。母は、押さえ返した。それでも、こちらの声は、聞いていた。背中で、聞いていた。
「わたしを、うすくして、遠ざけて、見つからないようにする。それは、ゆうべまでの、守り方。もう、いい。冥族も、人間も、においを覚えた。にごりを、書きとめた。もう、どこにも、隠れる場所は、ない。……隠す守りは、効かなくなった」
「わかってる」母は言った。「わかってるから、こわい」
「こわくていい」リディアは言った。「わたしも、こわい。でも、これからは、ふたりで、こわがる。あなたが、勝手に決めて、勝手に、わたしを隠すんじゃなくて」
母の肩が、ふるえた。鐘の震えでは、なかった。
「わたしのことは」リディアは言った。「わたしが、決める。あなたと、いっしょに。……わたし抜きで、決めないで」
はじめての日、北門で、母の背中に、投げた言葉だった。あのときは、突き放す言葉だった。母が、遠くて、届かなくて、それでも言うしかなかった言葉だった。
いまは、ちがった。
同じ言葉なのに、いまは、手を、つなごうとする言葉だった。ひとりで決めないで。ふたりで決めよう。わたしを、あなたの計画の、荷物にしないで。いっしょに、運ぶ人にして。
母の、影のなかの目から、なにかが、落ちた。
汗ではない、ものが。
*
リディアは、歩いた。
五歩を、四歩に。四歩を、三歩に。胸の石が、脈を打った。鐘が、身をよじった。それでも、止まらなかった。
三歩を、二歩に。
鐘が、うなった。母が「だめ」と言いかけた。
二歩を、一歩に。
そして、リディアは、母を、抱いた。
うしろから。鐘を押さえた、その腕の下をくぐって。細い背中に、腕をまわして。汗で冷えた母の背に、頬をつけた。
母は、抱きかえせなかった。
両手は、鐘にあった。ひとつも、動かせなかった。娘に抱かれて、なお、母の手は、何百年ぶんの名前を、押さえていた。
鐘が、暴れた。呼びかえしが、強くなった。リディアの胸のものが、鐘へ、まっすぐ、伸びようとした。危なかった。いまにも、石が、跳ねそうだった。
それでも、リディアは、離さなかった。
ほんの、いっとき。数えるほどの、あいだ。
「あなたの手が、ふさがってるなら」リディアは、母の背に、言った。「わたしが、抱く。抱けない人を、抱くほうに、まわる。……こういうのも、あり、でしょう」
母の背中が、大きく、上下した。声を、殺していた。殺しきれずに、いた。
「あなたは」母は言った。「あなたは、そういう、子」
「うん」
「ノアに、そっくり」母は言った。「あの人も、そうだった。役に立つ前から、そこにいていい、って。……見つける人、だった」
「じゃあ」リディアは言った。「わたしも、見つける人に、なる」
鐘が、限界の音を、立てた。
リディアは、腕をほどいた。母から、離れた。一歩、二歩、三歩。呼びかえしが、引いていく。石が、胸に戻る。
抱いていられたのは、数えるほどの、あいだだけだった。それ以上いれば、鐘が、割れる。母が、潰れる。抱くことさえ、長くは、できなかった。
それが、代償だった。和解しても、なにも、楽にならない。母は、まだ、鐘に、縛られている。手のひらは、まだ、浮いている。ふたりで決めると言っても、母は、ここから、動けない。
それでも。
「いつか」リディアは言った。「その手が、あいたら」
母は、鐘を押さえたまま、こちらを見た。
「となりに、立つ」リディアは言った。「ゆうべは、立ってって、頼んだ。きょうは、ちがう。……わたしが、あなたを、見つける。あなたが、どんなに薄くなっても。何百年ぶんの名前に、埋もれても。わたしが、見つけて、となりに、立つ」
*
母は、しばらく、黙っていた。
鐘を、押さえながら。汗を、垂らしながら。
それから、言った。
「行きなさい」
いつもの、言葉だった。ゆうべも、その前も、母は、そう言った。行きなさい。隠れなさい。近づいてはだめ。
でも、今度の続きは、ちがった。
「見てる」母は言った。「あなたが、どこへ行っても。見えるところに、いなさい、とは、言わない。……薄いところに、隠れていなさい、とも、言わない。どこへでも、行きなさい。わたしは、見てる。今度は、そらさない」
隠れていなさい、では、なかった。
母は、はじめて、それを、言わなかった。
守るために、隠す。遠ざける。薄くする。その守り方を、母は、いま、手放した。かわりに、見る、と言った。両手は、ふさがったまま。抱けないまま。それでも、目だけは、そらさない、と。
見届けることで、そばにいる。手が出せなくても、目だけは、離さない。
「うん」リディアは言った。声が、掠れた。
「見てて」リディアは言った。「ちゃんと、見てて。わたし、隠れないから。もう、薄くなって、消えたりしないから。……あなたに、見えるところで、決める」
「うん」母は言った。「見てる」
*
リディアは、坂を、下りかけた。
一度だけ、ふりむいた。
鐘に張りついた母の背は、ゆうべと、同じに、小さかった。何百年ぶんの名前を、たったふたつの手で、押さえていた。けれど、その背中を、リディアは、もう、こわいとは思わなかった。かわいそうとも、思わなかった。
あれは、母の、戦い方だった。剣も、光もない、いちばん静かな戦い方。だれにも、かわってもらえない場所で、母は、立っていた。
いつか、あの手を、あけてやりたい、と思った。
そのためには、なにをすればいいのか、まだ、わからなかった。鐘を、記憶の核を、どうにかして、母を、そこから放してやるには。それは、きっと、今日の話ではなかった。もっと先の、いちばんこわい場所の、話だった。
そのとき。
鐘が、鳴った。
いつもの、にごった音だった。母の手の下で、苦しそうに、鳴る音。けれど、その尾のあとに、もう、ひとつ。
遠くで、なにかが、応えた。
鐘では、なかった。母の押さえる、この鐘の音でも、なかった。もっと、遠く。もっと、低く。地の底から、這いあがってくるような、別の、うねり。
リディアの胸の石が、それにも、脈を打った。
ひとつ目は、鐘。目の前の、記憶の核。
ふたつ目は――わからなかった。けれど、それも、呼んでいた。自分のなかのものを。兄弟のように。
二つ、あった。呼び合う相手が。
ずっと、ひとつだと思っていた。鐘だけだと。ちがった。もう、ひとつ、どこかで、目を覚ましかけている。それが、こちらへ、応えていた。
「集まりはじめてる」
リディアは、ちいさく言った。だれにも、聞こえないように。
坂の下では、乾いた目が待っていた。白い塔では、冷たい目が、書きとめていた。そして、地の底のどこかで、三つ目のなにかが、目を覚ましかけていた。ぜんぶ、自分のなかの、ひとつに向かって。
母は、まだ鐘を押さえていた。
その背中に、リディアは、声をかけなかった。呼べば、鐘が答える。かわりに、坂を、下りはじめた。
ふりむかなかった。ふりむかなくても、母の目が、背中にあるのが、わかった。見えるところにいなさい、とは、もう言わない人の目が。どこへ行っても、そらさないと決めた人の目が。
その目に、押されるように、リディアは、下りていった。乾いた目と、冷たい目と、目を覚ましかけた三つ目の、待つ、そのまんなかへ。
隠れずに。




