運ばれて、いかない
坂を、下りきった。
乾いた気配が、待っていた。
集める手が、飢えた民の列の先で、こちらを見ていた。ふりむかずに下りていったはずの背が、坂の下で、もう一度、正面を向いていた。急がなかった。昇ってくることも、しなかった。ただ、待っていた。器が、自分の足で、下りてくるのを。
リディアは、口を、固く結んでいた。呼びかえさないように。胸の石が脈を打つたび、坂の上の鐘へ、なにかが伸びようとした。それを、奥歯で、噛みころしていた。
背に、母の声が、あった。行きなさい。近づいてはだめ。呼びかえしては、だめ。
わかっている。わかっているから、口を閉じている。
そのとき、右手の方角で、乾いた地面が、別の音を立てた。
乾いた気配では、なかった。
規則正しい、足音だった。石畳を、揃って踏む音。金具の触れ合う、冷たい音。
白い塔の方角から、長衣の列が、来た。
*
白木の杭を、二人がかりで運ぶ者。灰色の縄を巻いた者。手燭を掲げる者。その列の先頭に、痩せた男が、いた。
アデルバートだった。
地の底で、日に二度、水晶をかざした男。娘ではなく、保持者、と呼んだ男。その声を、リディアは、忘れていなかった。
「そこにいたか」アデルバートは言った。感情の、ない声だった。「封印線の内で、にごりが動いた。記録のとおりだ。──保持者を、確保する」
「アデルバート」母が、鐘の上から、叫んだ。「その子に、触るな」
アデルバートは、鐘を見上げた。母を、見た。それから、また、リディアに目を戻した。母の声など、はじめから聞こえていないような、目だった。
「白暁の魔女」アデルバートは言った。「あなたは、鐘を押さえていればいい。それが、あなたの仕事だ。この娘は、あるべき場所へ、戻す。最深の、封印房へ。今度こそ、鍵の、内側へ」
戻す。
その一語で、リディアは、地の底の、あの匂いを、思い出した。石の、湿った冷たさ。日に二度、水晶をかざしにくる、足音。半分ふさがれた、通気の穴。あそこへ。もう一度。今度は、母も、石段を、降りてこられない場所へ。
膝の裏が、冷えた。あの房の石畳の冷たさを、体が、先に覚えていた。けれど、リディアは、その足を、動かさなかった。退がれば、退がったぶんだけ、坂の下の乾いた目が、近くなる。前も、うしろも、なかった。
「戻さない」母は言った。「あの子は、荷物じゃ──」
鐘が、鳴った。母の言葉が、途切れた。腕が下から突きあげられ、母は、押さえ返すしか、なかった。
両手は、塞がっていた。ずっと。
*
「渡してもらおう」
坂の下で、集める手が、言った。乾いた声だった。
「散ったものの、最後の、ひとつだ」集める手は言った。「そちらの、封印房へは、やれない。それは、こちらのものだ。王のもとへ、集める」
「封印具は、魔術院の管理下にある」アデルバートが、冷たく返した。「冥族に、渡す道理は、ない」
二つの声が、リディアの、頭ごしに、やりとりした。
白い塔の男と、乾いた民の手が、リディアをまんなかに置いて、言い合っていた。まるで、市の立つ朝に、ひとつの荷を、どちらの荷車に積むかで、もめている人たちのように。
リディアの名前は、そこに、なかった。
保持者。封印具。散ったもの。最後のひとつ。
どれも、リディアの名前では、なかった。
「まただ」リディアは、ちいさく、言った。
だれも、聞いていなかった。
学校の、班分けの朝と、おなじだった。名前が、次々と、飛んで、そのなかに、自分のは、なかった。あのときは、余った。いまは、奪い合われている。反対のことのようで、おなじだった。どちらも、リディアという名前を、見ていない。ひとつは要らないと言い、ひとつはよこせと言う。名前の話は、していなかった。
量られて、書かれて、運ばれていく。地の底で、感じたことが、いま、二重になって、両側から、来ていた。
*
ユアンが、動いた。
白い塔の列と、リディアのあいだの、いちばん狭いところに、腫れた肩で、割って入った。
「稼ぐ」ユアンは言った。剣を、抜かずに、鞘のまま、横にした。「こっちには、来させない。……あっちにも、な」
テオが、その隣で、両側を、見ていた。右の長衣の数と、左の乾いた民の数を。指が、忙しく、動いていた。
「右、九」テオは言った。「左、数えきれない。……ネリ、リディアのうしろ」
ネリが、リディアの背に、まわった。震える手で、それでも、盾のように、立った。
「行こう」ネリは言った。「どっちも、だめ。リディアちゃんは、リディアちゃんの、行きたいほうへ」
行きたいほう。
リディアには、それが、どこか、わからなかった。坂の上は、母と、狂った鐘。坂の下は、乾いた民。右は、封印房。どこにも、リディアの行きたい場所は、なかった。
ただ、荷物に、なりたくは、なかった。
*
二つの手が、同時に、伸びた。
長衣の者が、灰色の縄を、投げた。乾いた民の手が、坂を、駆け上がってきた。右と左から、リディアの腕を、つかもうとした。
こわい、と思った。
運ばれる。どちらかに。荷車に積まれて。鍵の内側か、暗い王のもとか。どちらでも、おなじだった。リディアという名前は、そこには、要らなかった。
外せば、と、いつもの声が、した。
外せば、ぜんぶ、見える。この縄も、この手も、指を向けて、消して、と思うだけ。
だめだ。
外せば、蓋が、外れる。あふれたそれが、坂の下の塊へ、まっすぐ、呼びかける。それこそ、乾いた目が、待っているものだった。
外さなかった。
かわりに、リディアは、石を、胸に、押さえた。外さずに。ゆうべと、おなじに。蓋の隙間から、ほんの、すこしだけ。力を、通した。
見えた。ほんの、一瞬。
縄の、繊維の、一本ずつ。長衣の者の、芯の火。乾いた民の、飢えた、うろ。それを、消すことも、できた。願えば。
消さなかった。
ただ、薄くした。自分を。もっと、もっと、薄く。つかまれる、その手の下で、水のように。
こわかった。消すより、薄くするほうが、こわかった。消すのは、相手を、無くすことだった。薄くするのは、自分を、無くしていくことだった。どこまで薄くすれば、この手から、逃げられるのか。薄くしすぎて、もう、戻れなくなったら。班分けで余ったあの日みたいに、こんどこそ、だれの目にも、映らなくなったら。
それでも、指は、石を、押さえたままだった。外さない。外さずに、薄くなる。その、いちばん細い道を、通した。
*
縄が、滑った。
乾いた手も、滑った。
リディアの腕を、つかんだはずの、両方の手が、なにも握れずに、宙で、止まった。まるで、水を、すくおうとした指のように。
「──掴め、ない」長衣の者が、うろたえた。
乾いた民が、手を、見た。空っぽの、手を。
喰えないから、隠せない。ヴェールの声を、思い出した。つかめない。どちらの手にも。荷物にすら、なれない。薄すぎて。
その隙に、リディアは、動いた。
右でも、左でもない、方へ。二つの手の、あいだの、細い隙間へ。自分の、足で。
運ばれるのでは、なかった。運ばれないために、薄くなった、その体で、一歩、踏み出した。荷車に積まれるのではなく、自分で、歩いた。それだけの、ちがいだった。けれど、その、それだけが、いちばん、大きかった。
「わたしは」リディアは言った。声が、通った。「荷物じゃ、ない」
長衣が、乾いた民が、こちらを、見た。
「運ばれて、いかない」リディアは言った。「どちらの器にも、ならない。封印房にも。王のもとにも。──わたしは、わたしの足で、立つ」
*
代償は、すぐに、来た。
胸の奥の、いちばん深いところが、鐘へ、呼びかえしていた。石を外さずに、力を通したせいだった。呼ばれた火が、答えてしまった。坂の下の塊と、リディアのなかのなにかが、さっきより、強く、呼び合った。
集める手が、笑った。
「そうだ」集める手は言った。「それでいい。応えろ。応えるほど、鐘は、近づく。おまえが、逃げるほど、そろっていく」
しまった、と思った。薄くなった、そのぶん、うしろで、ネリが、よろけた。
「あれ」ネリが言った。「いま、いっしゅん……だれの、うしろに、いるんだっけ」
テオが、はっと、指を、止めた。
「リディア」テオが言った。急いで。数えなおすように。「リディア。……ある。まだ、ある。二回、数えた。抜けてない」
薄くするたび、いちばん近くにいる者から、名前が、こぼれかける。それも、代償だった。
そして、胸の石の下で──蓋の、隙間で、細い線が、また、一本、はしった。
音は、しなかった。ただ、冷たい石の、どこかが、ほんの、すこし、ゆるんだ。前より、力が、通りやすく、なっていた。それが、こわかった。使うほど、通りやすくなる。通りやすくなるほど、次は、もっと、大きく、あふれる。
限りが、近いのだと、体で、わかった。あと、何回、これができるのか。だれも、数えて、くれなかった。
*
「保持者」アデルバートが、言った。
滑った縄を、長衣に巻きとらせながら。目は、リディアの顔の上を、また、滑っていた。顔を、覚えられない目だった。
「逃げても、無駄だ」アデルバートは言った。「顔は、追わない。にごりを、追う。おまえが、どこを通ったか。いつ、脈を打ったか。書きとめて、たどる。──おまえは、もう、記録のなかに、いる」
「わかってる」リディアは言った。
こわかった。けれど、退がらなかった。
「あなたは、わたしを覚えない」リディアは言った。「あの人たちも、わたしを、名前で呼ばない。──それでも、わたしは、いる。あなたたちが、なんと書いても」
アデルバートは、答えなかった。長衣に、なにか、短く、命じた。列が、退がった。今日は、引くらしかった。滑った縄では、荷は、積めない。
けれど、退がりながら、アデルバートの声が、残った。
「次は、道具を、変える」
*
二つの手が、退いた。坂の下へ。白い塔へ。
リディアは、まんなかに、ひとり、立っていた。仲間と。母の、鐘の音の、下で。
勝った、のでは、なかった。
今日、はっきりした。冥族も、人間も、おなじものを、ほしがっている。自分のなかの、ひとつを。どちらも、リディアを、荷物と見ている。そして、どちらからも、追われる身に、なった。もう、どこの壁の内側にも、居場所は、なかった。魔術院の保護も、終わった。あれは、はじめから、保護では、なかったけれど。
これまでは、隠れていれば、よかった。薄くなって、忘れられて、見つからずに、いれば。けれど、いまは、両方が、においを、覚えた。においで追う、乾いた目と。にごりを書きとめる、冷たい目と。薄くなるほど、片方には、くっきり映り、もう片方の、帳面に、増える。隠れる場所が、なくなった、ということだった。今日、それを、自分で、手放したのでも、あった。運ばれない、と言った、そのぶん。
石が、脈を、打った。細い線が、また一本、増えたばかりの石が。
リディアは、坂の上を、ふりむいた。
母は、まだ、鐘を、押さえていた。両手を、塞がれたまま。けれど、その目は、坂の下の争いの、はじめから終わりまで、リディアを、見ていた。一度も、そらさずに。
「見てた?」リディアは言った。
「見てた」母は言った。あえぎながら。「ぜんぶ。あなたが、どちらにも、いかなかったのを。──ちゃんと、見てた」
守るために、隠すのでは、なかった。手を出せないまま、それでも、見ていた。見届けることで、そばに、いようとしていた。
「いつか」リディアは言った。「その手が、あいたら」
「うん」
「となりに、立って」
母は、こたえるかわりに、鐘を押さえた腕に、ぐっと、力を込めた。いま渡せる返事は、それだけ、というように。押さえつづけることが、いまの母の、うなずきだった。
*
リディアは、仲間のほうへ、向きなおった。
ユアンの、腫れた肩。テオの、欠けた掌。ネリの、震える手。三人とも、どこか、欠けていた。それでも、立っていた。荷物ではない者の、顔で。
「行こう」リディアは言った。「どちらでも、ない、ほうへ」
「あてが、あるのか」ユアンが言った。
「ない」リディアは言った。「でも、荷物には、道は選べない。わたしは、選ぶ。だから、荷物じゃ、ない」
ユアンは、しばらく、黙っていた。それから、腫れた肩を、かばうように、まわした。
「あてがない道を、選ぶ、か」ユアンは言った。「──いいな。それ」
「こわく、ない?」リディアは、聞いた。
「こわいさ」ユアンは言った。「けど、荷物にされるほうが、おれは、いやだ。運ばれてくやつの、うしろは、守れない。歩くやつの、うしろなら、守れる」
テオが、うなずいた。ネリが、震える手で、リディアの手を、いちど、握った。
だれも、行き先を、知らなかった。それでも、四人とも、おなじほうを、向いていた。荷物には、できない、四つの背中だった。
坂を、離れた。
うしろで、鐘が、鳴った。石が、呼びかえしそうに、なった。リディアは、口を、結んだ。呼びかえさなかった。呼びかえせば、また、線が、増える。次の一本を、いつ使うかは、自分で、決める。今日では、ない。
ゆうべは、坂を、下りた。敵の待つ、下へ。
いまは、坂を、離れる。だれも、待っていない、ほうへ。
行き先の、ない道だった。荷札の、貼られない道だった。追われながら、それでも、自分の足で選んだ最初の道を、リディアは、歩きだした。




