わたしは、器じゃない
鐘が、二度めに鳴った。
こんどは、押さえる母の手のほうが、先にゆるんだ。
リディアは、それを見ていた。指が、青銅から浮いた。ほんの、爪ひとつぶんだった。それでも、いままで一度も浮かなかった指が、浮いた。
母は、すぐに押さえなおした。全身で。けれど、さっきの爪ひとつぶんが、消えなかった。
「お母さん」リディアは言った。
母は、答えなかった。歯を、食いしばっていた。鐘は、その下で、身をよじるように鳴りたがっていた。
坂の下で、オルガの背が、乾いた民のあいだへ溶けていった。腕のなかの子は、もう、動かなかった。集める手が、その隣で、こちらを見上げていた。急がなかった。急ぐ理由が、ないからだった。
「まだ、聞いてない」リディアは言った。「わたしの、ふた。それ、なに」
母の唇が、動いた。音は、こなかった。鐘が、また、持っていった。
*
「稼ぐ」ユアンが、坂のいちばん狭いところに、体を置いた。
腫れた肩が、剣を持ちあげるだけで、鈍い音を立てた。それでも、ひとりぶんの幅しか通れない場所に、立った。
「聞け」ユアンは、ふりむかずに言った。「いま、聞いとけ。──おれが、持つ」
テオが、その隣で、坂の下を見ていた。集める手の足が、石段を、一段、上がった。
「一段」テオは言った。声が、平らだった。「……次で、二段。数えたくないのに、数えちゃう」
ネリが、リディアの背に、手を添えた。震える手だった。
「行って」ネリは言った。「わたしたちは、いる。ここに、いるから」
リディアは、母のほうへ、向きなおった。
坂の下と、鐘に張りついた母の背と。そのあいだに、自分が立っていた。ゆうべから、ずっと、そうだった。母の言葉の続きは、まだ、宙に浮いたままだった。最初の夜から、ずっと。
「話して」リディアは言った。「今度は、逃げないって、言った。生きてるでしょう。わたしも、あなたも。──なら、話して」
母の、影のなかの目が、こちらを見た。濡れていた。ゆうべと、おなじに。
*
「この石は」母は、鐘を押さえながら、言った。ひと言ずつ、押し出すように。「封じる道具ではない。ゆうべ、言った。隠す道具だと。──それは、ほんとうよ」
「うん」
「魔力を、うすくする。気配を、名前を、うすくする。身につけた者を、世から、薄くする。──だれにも、見つからないように」
リディアは、胸の石に、手をやった。冷たかった。生まれたときから、ずっと冷たかった石だった。
「わかってる」リディアは言った。「だから、わたしは、忘れられる。班分けで、余る。名前を、飛ばされる。──ぜんぶ、これのせい」
「ちがう」母は言った。
リディアの手が、止まった。
「石のせいではない」母は言った。「石は、蓋よ。蓋の下に、なにかがなければ──蓋を、する意味がない」
鐘が、鳴った。母の腕が、下から突きあげられた。母は、押さえ返した。青銅の縁を、指が、白くなるほど掴んだ。
「蓋の、下に」リディアは言った。声が、細くなった。「なにが、あるの」
母は、こちらを見た。
十四年、両手でなにかを塞いできた人が、いま、その手を鐘にふさがれたまま、それでも、渡そうとしていた。抱けない手で。触れられない距離で。
「あなたのなかに、あるのは」母は言った。
*
そのとき、鐘が、大きく、傾いだ。
母の両手が、鐘に、引き戻された。ゆうべと、おなじだった。何百年ぶんの名前の網が、いっせいにほどけようとする、地鳴りのような音。母の言葉は、また、鐘に喰われる。そう思った。
けれど、こんどは、ちがった。
傾いだ鐘が鳴った瞬間、リディアの胸の奥の、いちばん深いところが、応えた。
石ではなかった。石の、もっと奥。石が抑えていた、そのさらに下。ゆうべ、石を外さずに力を通したとき、鐘に応えたのと、おなじところが。呼ばれた火が、呼びかえすように、鳴った。
見えた。
はじめて石が外れた、あの日と、おなじに。ぜんぶ、見えた。鐘の下でうねる、大きな塊。それと、呼び合う、自分の胸の、なにか。そして、そのふたつのあいだで、震えているだけの、小さな黒い石。
石は、鳴っていなかった。
石は、ただ、上に、乗っているだけだった。下から鳴るものと、坂の下の鐘とが、呼び合っている。その振動を、真上の石が、受けて、脈打っていた。それだけだった。
ずっと、石が呼ばれている、と思っていた。石が、鐘に、引かれている、と。
ちがった。
呼ばれていたのは、石じゃない。
リディアは、母を見た。母も、こちらを見ていた。リディアの顔に、それが浮かぶのを、見ていた。
「わかった、のね」母は言った。
「──呼ばれてるのは」リディアは言った。うまく、声が出なかった。「わたし。石じゃない。わたしの、なか」
母は、うなずいた。鐘を押さえたまま。歯を、食いしばったまま。
「あなたが」母は言った。「器なの。石じゃない。──ずっと、あなただった」
*
風が、坂を、撫でて通った。
リディアは、動けなかった。
鐘の下の塊。自分の胸の、なにか。それが、兄弟のように、呼び合っている。集める手が、ほしがっている。オルガが、においだけは、と言った。ヴェールが、喰えない、隠せない、と言った。ぜんぶ、これだった。ぜんぶ、自分の、なかのものだった。
「もとは」母は言った。声が、震えていた。鐘の震えでは、なかった。「わたしの、なかに、あった。戦のあと。白暁の魔女として、わたしが、抱えた。──二度と、目覚めないように」
「お母さんの、なかに」
「あなたを、産んだとき」母は言った。「移った。あなたの、なかへ。わたしが、いくら、止めようとしても。──赤ん坊のあなたに、それが、宿った」
リディアは、ラウムの見せた、あの光景を、思い出した。灰色の髪を長く垂らした、若い母。震える手で、赤子に、首飾りをかけようとしていた。
あの震えの、意味が、いま、わかった。
「だから」リディアは言った。「震えてた。わたしに、これを、かけるとき」
「こわかった」母は言った。「あなたを、失うことが。あなたの、なかにあるものを、あの人たちに、渡すことが。──だから、隠した。世から、薄くして。だれにも、見つからないように。あなたごと」
母の腕が、また、突きあげられた。母は、押さえ返した。もう、限界に近かった。それでも、こちらを見る目だけは、そらさなかった。
「ごめんね」母は言った。「あなたを、お守りだと、言って。ほんとうは、蓋だった。あなたに、蓋を、して。あなたを、うすくして。──それが、わたしの、守り方だった」
*
リディアの手が、胸の石に、かかった。
外せば、と思った。
いつもの、こえだった。外せば。この石を。けれど、こんどは、いつもと、ちがう続きが、あった。
外せば、この、蓋が、外れる。わたしのなかの、それが、あふれる。あの、暴発が。ぜんぶが見える、あの力が。──それを、みんなに、向けるのではなく。
自分に、向ければ。
わたしごと、この石ごと、壊してしまえば。
鐘の下の塊も、呼び合う相手を、なくす。集める手も、ほしがるものを、なくす。オルガの、あの子も、もう、飢えなくていい。街の名前も、消えなくていい。ヌイも。あの、垂れた手も。
わたしが、消えれば。
邪魔にならないように、消えることは、いちばん、得意だった。
指が、鎖に、かかった。引きちぎりたい、と思った。いつか一度だけ、胸をよぎった思いが、いま、はっきりと、かたちを持った。
「だめ」母が、叫んだ。鐘を押さえたまま。「リディア。それだけは、だめ。──だから、言えなかった。あなたが、それを、知ったら」
母の声が、割れた。
「自分から、外すと、思ったから」母は言った。「身を守るためじゃない。あなたは、自分で、けりを、つけようとする。そういう、子、だから」
リディアの指が、鎖の上で、止まった。
「外せば」母は言った。「あなたのなかのそれが、目を、覚ます。清潔には、消えない。あべこべに──近づく。あの人たちの、いちばん、ほしいものへ」
坂の下で、集める手が、笑うような息を、吐いた。
「そうだ」集める手は言った。乾いた目で、リディアの手もとを見ていた。「外せ。自分から。──いつか、そう言った者がいる。誰も、来なくなったとき、と。だが、今日でも、いい。おまえが、外せば、それで、そろう」
いずれ、外す。お前が、自分から。
あの、赤い目の声が、坂の下から、聞こえた気が、した。ずっと、待たれていた。この手が、鎖にかかる日を。
*
リディアは、鎖から、指を、離した。
ゆっくりと。ひとつずつ。爪が、鎖から、抜けた。
「わたしが」リディアは言った。「消えたら。あなたたちが、勝つ」
集める手が、なにも言わなかった。それが、答えだった。
「消えて、終わらせる」リディアは言った。「それが、いちばん、楽で。──いちばん、あなたたちの、思うつぼ」
手を、下ろした。石は、胸に、残った。冷たいまま。
リディアは、坂の下の乾いた目を、見た。それから、鐘に張りついた母の背を、見た。それから、うしろの、三人を。ユアンの、腫れた肩。ネリの、震える手。テオの、欠けた掌。
「わたしは」リディアは言った。
声は、震えていた。それでも、坂の下まで、届いた。
はじめての、あの日。学校の迷宮で、黒い影が、器はここにあった、と言った。あのとき、言いたくて、言えなかった。声に、ならなかった。
いまは、なった。
「わたしは、器じゃない」
風が、止まった。
「なにかを、入れるための、ものじゃない」リディアは言った。「蓋を、される、ものでも。壊して、なかったことにする、ものでも。──わたしは、わたし。ここに、いる」
母が、鐘を押さえたまま、こちらを見ていた。影のなかの目が、ひかった。
はじめて、それは、後悔の目では、なかった。
*
わかっていた。
これで、なにも、終わらないことは。
自分が器だと知っても、集める手は、坂の下にいた。鐘は、母の手の下で、鳴りたがっていた。蓋を、開けるわけにも、いかなかった。開ければ、敵が勝つ。閉めたままなら、自分は、うすいまま。名前を、飛ばされたまま。忘れられたまま。
消えて、終わらせることも、できない。いちばん得意だったことが、いちばん、してはいけないことに、なった。
真相は、なにも、軽くしなかった。むしろ、重かった。自分が、坂の下の乾いた目の、いちばんの獲物だと、はっきり、わかっただけだった。オルガの飢えも、ヌイの朝も、街の名前も、ぜんぶ、自分のなかのもの一つに、つながっていた。
それでも。
下がる場所は、もう、なかった。消えることが、できないのなら、立っているしか、なかった。
「立ってる」リディアは、ちいさく、言った。だれにともなく。「まだ、立ってる」
テオが、うしろで、口を、開いた。
「一つ、抜けたところに」テオは言った。「君の名前は、ちゃんと、ある。……いま、数えた。リディア。抜けてない。ひとつも」
リディアは、うなずいた。うなずくと、目の奥が、熱くなった。
*
集める手が、坂を、下りはじめた。
昇ってくるのでは、なかった。下りていった。オルガの、消えた先へ。飢えた民の、待つ、暗がりへ。
「待って」リディアは言った。「まだ、なにか、言うことが」
集める手が、止まった。ふりむかなかった。
「言うことは、ない」集める手は言った。「見た。それで、じゅうぶんだ。──器が、自分で、器だと、知った。あとは、待てばいい」
「待つ?」
「おまえは、もう、消えられない」集める手は言った。「消えれば、こちらの勝ち。それを、おまえは、知ってしまった。だから、消えない。消えずに、そこに、いる。──いちばん、濃いものが、いちばん、動けない場所に」
乾いた目が、坂の上を、なめるように見た。鐘を。母を。リディアを。
「それに」集める手は言った。「ほしがるのは、こちらだけではない」
リディアの足が、半歩、退がった。
「あの、白い塔の連中も」集める手は言った。「散ったものが、一つ所に、そろったと、知る。封じたいものが、坂を、歩いていると、知る。──向こうも、来る。おまえを、あるべき場所へ、戻すために」
白い塔。魔術院。アデルバートの、冷たい声が、耳の奥で、鳴った。封印具。保持者。少女ではなく。
両方が、来る。
こちらからも。あちらからも。
「そのとき」集める手は言った。「おまえは、どちらの、器に、なる」
そして、集める手は、坂を、下りていった。乾いた足音が、石段を、一段ずつ、遠ざかった。
*
鐘が、鳴った。
母の手が、また、ゆるみかけた。こんどは、爪ひとつぶんでは、なかった。手のひらの半分が、青銅から、浮いた。
「リディア」母は言った。あえぎながら。「行きなさい。ここから。──近づいては、だめ。呼びかえしては、だめ。あなたが、応えるほど、鐘は、あなたを、ほしがる」
「お母さんは」
「わたしは、押さえる」母は言った。「最後まで。──あなたが、逃げる、そのぶんだけ」
リディアは、動けなかった。
母は、また、両手が塞がっていた。抱けなかった。はじめての日、学校の迷宮で、苦しいくらいに抱きしめてくれた、あの手は、いま、鐘に、ふさがれていた。真相を、渡しても、母は、こちらへ、片手も、出せなかった。
それが、母の、守り方だった。ずっと。両手を、なにかで、塞いで。娘を、抱かないことで、抱いてきた。
「聞いた」リディアは言った。「ぜんぶじゃないかもしれない。でも、聞いた。──あなたの、口から」
母の、目が、濡れた。
「だから」リディアは言った。「もう、いい。あとは、わたしが、決める。わたしの、ことだから」
リディアは、坂を、下りかけて、一度だけ、ふりむいた。
鐘に張りついた母の背は、小さかった。何百年ぶんの名前を、たったふたつの手で、押さえていた。その背中を、リディアは、はじめて、こわいとは、思わなかった。
ただ、となりに、立ちたい、と思った。
いつか。両手が、あいたら。
石が、胸で、脈を打った。坂の下の塊へ、なにかが、呼びかけていた。けれど、もう、石のせいだとは、思わなかった。石は、震えているだけだった。呼んでいるのは、自分のなかの、なにかだった。
それでも、リディアは、下りていった。呼びかえさないように、口を、固く、結んで。
消えられない体を、まっすぐに、坂の下へ、運びながら。




