呼べば、燃えつきる
布が坂の下の暗がりへ溶けたあとも、乾きだけが残った。
喉から水を持っていく風だった。リディアは息を吸って吐いた。名前は、まだあった。
「リディア」ネリが呼んだ。「いる。ちゃんと、いるよ」
「うん」
うなずきながら、胸の石を握っていた。指の腹が新しい線をなぞる。ゆうべまで、なかった線だった。爪でひっかいたようなざらつきが、いつまでも指に残った。
外さなくても削れた線だった。
坂の下で、集める手が足を止めていた。昇るのをやめたのではない。待っていた。
「来る」テオが言った。「石段の下。……数えきれない」
ぼろの外套が坂を埋めていった。荒れ地で追いつかれたときより、ずっと多かった。落ちくぼんだ目がいくつも上を向いている。誰も走らなかった。たぶん、走る力がなかった。
その列の真ん中を、ひとつの影が昇ってきた。
低い影だった。けれど重かった。まわりの民が道をあけるのではなく、寄っていった。外套の裾に触れて、すぐに離した。
「巫女さま」と、誰かが言った。
リディアは、その低い影を知っていた。
外縁の穴の向こう。火を囲む子らのそば。膝をついて、いちばん弱った子の前にいた女。
オルガは、その子を抱いていた。
腕のなかで、子は動かなかった。痩せた手が外套の外へ垂れている。あのとき、リディアのほうへ伸びてきた手だった。ほしい、と言って伸びて、もらえずに引かれた手だった。
*
オルガが坂のなかほどで止まった。
鐘楼の下を見上げた。鐘を見たのではない。鐘に両手をあてた女を見た。
母はふりむかなかった。ふりむけなかった。青銅が内から鳴ろうとして、母の手のひらがそれを押さえていた。
「白い」オルガが言った。「朝のいちばんはじめの色だ。──白暁か」
母の背がこわばった。
「なんと呼ばれても」母は押さえたまま言った。「いまは、鐘を押さえている者よ」
「都合のいい名乗りだ」オルガは腕の子を抱きなおした。「あんたの手が線を引いた。わたしは、その線の下で生まれた」
リディアは母を見た。母はなにも言わなかった。
ゆうべ聞いたばかりだった。境を引いた。線の下に村があった。人を入れたまま閉じた。それが白暁の魔女のいちばん古い罪だと、母自身の口が言った。
その罪が、いま、坂を昇ってきていた。抱かれて。名前も呼ばれずに。
リディアの手が動きかけた。あの垂れた手のほうへ、半歩ぶん。行き場をなくして、その手は右の袖を握った。
「線を引いたとき」オルガは言った。「あんたは、下を見たか」
母の指が青銅の上でわずかに動いた。
「見なかった」母は言った。
声はいつもの声だった。台所で、忘れ物はないかと聞くときの声だった。
「見れば、引けなかった」母は言った。「だから、見なかった」
リディアは、その背を見ていた。知らない背中ではなかった。それが、いちばん怖かった。
「鐘を」オルガは言った。「渡してもらおう」
「渡せない」
「理由を」
母は答えなかった。
オルガが笑うような息を吐いた。
「またそれだ」オルガは言った。「あんたたちは理由を言わずに閉める。閉めてから、こちらを化け物と呼ぶ」
「あそこには」オルガは鐘を指した。「何百年ぶんの名前がある。毎日、呼ばれつづけた名前が。ひとつもこぼさずに」
リディアは鐘を見上げた。
あなたの名が、呼ばれつづけますように。教会の人が別れぎわに言った古い祈りだった。何百年、一日も黙らなかった鐘。
こちら側から見れば、それは祈りだった。
向こう側から見れば。
「食べもの」テオが低く言った。「……いちばん、大きいやつだ」
「一日ぶんでいい」オルガは言った。「この子が、朝まで持つだけ」
*
「だめだ」ユアンが前に出た。剣を抜いた。腫れた肩が、抜くだけで鈍い音を立てた。「渡すな。あれを渡したら、街のやつら全員の名前が」
「知っている」オルガが言った。
ユアンが黙った。
「知って言っている」オルガは言った。「あんたたちの街の名前と、この子の朝を、天秤にかけている。──いやなら、ほかのものを出せ」
テオがリディアの隣で、口のなかでなにか数えていた。
「息」テオは言った。「あの子の。──さっきは五つ数えるあいだに一回だった。いま、八つ」
「テオ」
「数えたくない」テオは言った。声が平らだった。平らすぎた。「数えられるものは、数えちゃうんだ。石の脈も、忘れた人の数も。ぜんぶ。……いま、九つ」
リディアの足が勝手に半歩前へ出た。
あの穴の向こうで、火を分けたいと思った。弱い火をつくって、そっと置こうとした。届かなかった。ちがう火だと言われた。いまは、まだ、と言われた。
いまは、まだ。
まだが、来なかった。
「わたしを」リディアは言った。
声は小さかった。それでも坂の下まで届いた。
「わたしは、たくさん持ってる」リディアは言った。「名前も。覚えてることも。──食べて、いい」
「リディアちゃん!」ネリが袖を掴んだ。
ユアンがふりむいた。剣の柄を握りなおして、それから切っ先を下げた。
「……お前が決めろ」ユアンは歯のあいだから押し出すように言った。「おれは、どっちでも稼ぐ。それだけだ」
オルガの目が、はじめてリディアをまっすぐ見た。
「におう」オルガは言った。「あのときから、においだけは、ずっとしていた」
オルガが片手をリディアの胸の前へ伸ばした。石ではなく、その少し上。名前のあるあたりへ。
乾きが皮膚の上を通った。
舐められている、とリディアは思った。ゆうべの布と、おなじに。
オルガの手が止まった。
「取れない」
指が宙をかいた。二度。三度。
「においだけが、ここにある」オルガは言った。「なのに、口に入るものが、どこにもない。差し出しているのに、受け取れない。──こんなものは」
オルガは言葉を切った。腕の子を見た。
リディアは動けなかった。
ゆうべの布は、喰おうとして掴めなかった。この人は、もらおうとして掴めない。
おなじことのはずだった。それなのに、こちらのほうが、ずっと痛かった。
いちばん濃いのに、そのひとかけらも、この子には分けられなかった。
*
「名前を」テオが言った。
みんながテオを見た。
「その子の名前を呼べばいい」テオは言った。淡々としていた。手だけが震えていた。「名前は、呼ばれると燃える。……僕は、そう思ってる」
オルガがテオを見た。長く見た。
「あんたは」オルガは言った。「持っているな。人の落としたものを」
「うん」テオは言った。「数えてる。忘れないように。──一つ、なくした。持っていかれた」
「わたしは、六十四なくした」オルガは言った。
テオが口を閉じた。
「この子の名前は」オルガは言った。「わたしのなかにある。忘れていない。呼ばないだけだ」
「なぜ」リディアは聞いた。
「呼べば、燃えつきる」
風が坂を撫でて通った。
「そちらの名前は、呼ぶと継ぎ足される」オルガは言った。「まわりに燃やすものがあるからだ。飯がある。母がいる。明日がある。──こちらには、ない。呼べば燃える。燃やすものがないから、そのぶん早く終わる」
リディアは、垂れた小さな手を見た。
「呼ばなければ、名前はゆっくり冷める」オルガは言った。「どちらにしても、なくなる。だから、呼ばずに抱いている。一日でも長く」
ネリが前へ出た。
膝をついた。震える手を、子どものほうへまっすぐ伸ばした。
「こわいよ」ネリは誰にともなく言った。「でも、手は」
やわらかい光がネリの掌に生まれた。傷を塞ぐ光だった。人の血を止め、人の骨をつなぐ光。
光は子の胸のうえで揺れた。
沈まなかった。
水に浮いた油のように皮膚をすべって、消えた。
「なんで」ネリが言った。「なんで、入らないの」
「それは」オルガは言った。その声から、はじめて責めるひびきが抜けていた。「生きているものの傷を塞ぐ光だろう。──この子には、塞ぐ傷がない」
ネリの掌が、宙で止まった。
「減っているのは、血ではないんだ」オルガは言った。「あんたの手は悪くない。塞ぐところが、どこにもない」
リディアは胸の石に手をやった。
外さなくても力は通せる。ゆうべ、それを知った。蓋の縁からあふれさせれば、布は退き、母の背は支えられた。
通せば。この子にも。
通そうとして、リディアはわかってしまった。
あの力は、見えて、願えば解ける力だった。芯で燃えている小さな火を、蝋燭のように吹き消す力だった。
消せる。壊せる。退けられる。
食べさせることは、できない。
リディアは手を下ろした。石は冷たいままだった。
「十二」テオが言った。
*
リディアは、母の背を見た。
両手が青銅にはりついている。指の節が白い。あの手が離れれば、鐘は鳴る。鳴りきる。何百年ぶんの名前が、いっぺんにこぼれる。
離して。
喉まで、その言葉が来ていた。
一日ぶんでいい、とオルガは言った。一日ぶん。この子が朝まで持つだけ。それだけのために、母の手が離れる。そして街の戸口の人たちが、子の顔を見ても誰の子か思い出せなくなる。もう半分そうなっている。あとの半分も、いく。
言えば、この子が助かるかもしれない。
言わなければ、あの垂れた手は、二度と伸びない。
言えば、街が消える。
どちらも、リディアの前にあった。手を伸ばせば届くところに。あの穴の向こうで火が届かなかったときと、ちょうどおなじだけ近かった。
母は、ふりむかなかった。
助けてほしかった。言ってほしかった。だめよ、と。あなたが決めることではないと。いつものように、決めてほしかった。
母は、なにも決めてくれなかった。
わたしのことを、私抜きで決めないで、と言ったのは、自分だった。
リディアは口を閉じた。
言わなかった。
*
子の指が、いちどひらいた。
なにかを掴もうとしたのではなかった。力が抜けただけだった。
テオが、数えるのをやめた。
オルガが石段のうえに膝をついた。
「冷めた」オルガは言った。
リディアは、その前にしゃがんだ。鐘からは遠ざかるほうだった。それでも、近づいてはだめと母は言っていた。近づいた。
子の顔は、眠っているのとほとんど変わらなかった。ただ、眠っている子には、呼べば起きるという感じがある。それがなかった。
「奪われたんじゃない」テオがうしろで言った。声がかすれていた。「……燃えつきたんだ。だれも、呼ばなかったから」
ネリが、両手で口をふさいだ。ユアンが剣を鞘に戻した。音を立てないように、ゆっくり戻した。
リディアはオルガを見た。
「呼んで」
オルガの乾いた目が、こちらへ動いた。
「もう」リディアは言った。喉がうまく動かなかった。「もう、燃えつきるものは、ないでしょう。──だったら、呼んで。いま、呼んで」
オルガは長い息を吐いた。
それから、ひとこと言った。
「ヌイ」
名前だった。
小さな名前が石段のうえに落ちて、風にさらわれた。誰も継ぎ足さなかった。継ぎ足すものが、どこにもなかった。
オルガは、二度は呼ばなかった。
リディアは懐から父の手帳を出した。
炭の切れはしで書いた。ユアン。ネリ。テオ。お母さん。リディア。そのあとの、空いた行に。
ヌイ。
書いてから、声に出した。
「ヌイ」
誰も答えなかった。答える子は、もういなかった。
それでも、もう一度呼んだ。
二度めのほうが、すこし大きな声だった。
オルガが、リディアの手もとを見ていた。手帳を。炭の字を。人間の紙に書かれた、冥族の子の名前を。
なにか言いかけて、言わなかった。
*
オルガが立ち上がった。
子を抱いたまま、坂を下りはじめた。集める手のほうへ。
「待って」リディアは言った。
オルガは止まった。ふりむかなかった。
「まだ」リディアは言った。「まだ、なにかある」
「なにがある」オルガは言った。「あんたは正しかったよ。渡さなかった。街の名前を守った。──たいしたものだ。この子は、それを朝まで待てなかったが」
リディアはなにも言えなかった。
「明日も腹は減る」オルガは言った。「あさっても減る。正しさは、いっぺんも、腹に入らない」
「あの男は」オルガは坂の下の乾いた目を顎で示した。「そろえれば飢えは終わると言う。王が帰れば迷わなくて済むと言う。──嘘かもしれない」
オルガが、はじめてこちらへ顔を向けた。
「でも」オルガは言った。「あんたたちは、嘘さえくれなかった」
集める手が坂の下で両手を広げていた。迎えるように。オルガがその隣に立った。飢えた民が、ぼろの音を立ててうしろへ集まった。
「これで、二人」集める手が誰にともなく数えた。「そろってきた」
リディアの胸で、石が脈を打った。坂の下の乾いた目が、その脈のたびにこちらを見上げた。隠れる場所は、どこにもなかった。
オルガが最後にリディアを見た。
「あんたは、いっぱい持ってる」オルガは言った。「においで、わかる。なのに、ひとかけらもこぼさない。──こぼれない入れものってのは、ふたが閉まってるってことだ」
リディアの指が、石の上で止まった。
「だれかが」オルガは言った。「閉めたんだ」
そしてオルガは、鐘楼の下を見た。
両手を鐘にあてたまま、こちらへ顔だけ向けている女を。
母が鐘から片手を離しかけた。伸ばしかけて、途中で止めて、また青銅へ戻した。
オルガは、それきりなにも言わずに坂を下りていった。腕のなかの子は、もうどこも動かなかった。
リディアは母を見た。
「お母さん」
母は答えなかった。
「わたしの、ふた」リディアは言った。「それ、なに」
鐘が鳴った。ひびの入った音だった。母の唇が動いたのは見えた。音は、こなかった。
リディアは手帳を握った。書いたばかりの、まだ乾いていない字を。
消せない、と思った。この子はいなくなった。それでも、いた。
鐘が、二度めに鳴った。
こんどは、押さえる母の手のほうが、先にゆるんだ。




