消そうとして、消えない
坂の下から、乾いた風が昇ってきた。
火の匂いも、土の匂いもしない風だった。ただ、乾いていた。喉の奥から水を持っていくような、そういう乾き方だった。
リディアは、その乾きを、知っていた。
地の底の最深房で、肌を舐めた。外縁の穴の向こうで、寄り添っていた。街道の検めで、番人の目を滑らせた。ずっと、気配だけだった。名前をほしがる、乾いた気配。
それが、いま、坂の下で、かたちを持ちはじめていた。
集める手が昇ってくる石段の、そのさらに下。ぼろの外套の民が這うあいだから、白いものが立ち上がった。
布だった。何枚もの、色の抜けた布。人の背丈より高く重なって、風もないのに、ゆれていた。布の隙間から、手が見えた。指の細い、骨ばった手。顔は、なかった。布のあわいに、暗がりがあるだけだった。
「あれは」テオが、うしろで言った。声が、かすれていた。「──来る。いちばん、いやなのが」
テオは、自分の掌を、また見ていた。ひとつ、欠けたところを。
*
布が、坂を、昇ってきた。
足を使っていなかった。滑るように、石段のうえを渡ってきた。集める手も、飢えた民も、その布のために、道を空けた。
リディアの前まで来て、布は、止まった。
「しずかだ」
声がした。かすれた、ひくい声だった。布のあわいの暗がりから、こぼれてきた。
「よい場所だ。ここは、しずかで、こわい。人が、いちばん、黙る」
布が、リディアたちを、ひとりずつ見た。顔がないのに、見られている、とわかった。ユアンを。ネリを。そして、テオのところで、止まった。
「おまえ」布は言った。「たくさん、持っているな。みんなが、こぼしたものを。ひとりで、抱えて」
テオの肩が、こわばった。
「渡さない」テオは言った。短剣を握りなおした。手が、震えていた。
「渡すも、なにも」布は言った。「呼ばれなければ、名は、燃えつきる。おまえが、いくら抱えても、呼ぶ口がなければ、消える。──わたしは、消えかけたものを、しずかに、しまうだけだ」
布の一枚が、テオのほうへ、伸びた。
風もないのに。ゆっくりと。テオの名を、探すように。
テオが、一歩、下がった。下がって、なにか言おうとして──言葉が、出てこなかった。自分の名も、探すように、口が、動いた。
沈黙が、テオのまわりに、降りていた。呼ぶ声のない、しずけさ。その窓が、開こうとしていた。
「テオ」リディアは、呼んだ。
声が、届いた。テオの目が、こちらへ戻った。名前が、燃えなおした。
けれど、布は、退かなかった。もう一枚、テオのほうへ、伸びた。
*
リディアは、前へ出た。
テオとヴェールの、あいだへ。
薄くなれ、と自分に言った。修行で、なんども、ためした。息を、細く。気配を、広く。輪郭を、床の石と、風と、坂の乾きに、溶かす。おとりに、なる。いちばん薄いものを、いちばん、おいしそうに見せる。
戻る場所を、さきに決めた。胸の石の重み。うしろの、テオの息。ユアンの、腫れた肩の匂い。──ここへ、戻る。
「わたしを」リディアは言った。「喰えば、いい。いちばん、薄いのは、わたし」
顔のない暗がりが、テオからリディアへ移った。
「ほう」ヴェールは言った。すこし、うれしそうだった。「みずから、差し出すのか。──めずらしい。おまえたちは、たいてい、逃げるのに」
布が、リディアを、包みはじめた。
乾きが、頬に触れた。首に。名前のあるあたりに。リディアと、だれかが呼んだ音の、燃えかすのあたりに。それを、布は、舐めた。ひとくち。
まわりの音が、遠のいた。ユアンの息。ネリの、こらえた声。母の押さえる鐘の、うなり。ぜんぶ、水の底へ、沈んだ。誰も、リディアを、呼んでいなかった。
沈黙の窓が、いちばん大きく、開いていた。
喰われる、とリディアは思った。ここで、わたしの名は。
布が、ひとくち、舐めた。
*
喰えなかった。
布の奥の闇が、止まった。
舐めた口が、リディアの名の燃えかすを、掴もうとした。掴めなかった。溶けかけたはずの名が、手のなかでほどけた。舐めても、舐めても、そのあとに、なにかが残った。
「──なんだ、これは」
ヴェールの声が、はじめて、乾き方を変えた。戸惑いの湿りが、混じった。
布が、リディアを、いくえにも包みなおした。喉のあたりを。心のあたりを。名の根のあたりを。それでも、掴めなかった。
「消えろ」ヴェールは言った。「おまえは、いちばん薄い。呼ぶ者もいない。いちばん、消えやすいはずだ。──なのに、なぜ」
幾枚もの布が、いちどにこすれ合った。虫の翅のような、かさついた音だった。
「消そうとして」ヴェールは、つぶやいた。「消えない」
リディアは、動けなかった。包まれたまま。喰われかけたまま。それでも、名が、抜けていかなかった。
「名は、溶ける」ヴェールは言った。声が、ふるえていた。「たしかに、溶けた。おまえの名は、いま、半分、わたしの口のなかにある。──なのに、溶けたあとに、かたちが、残る。おまえが、いた場所の、かたちが」
布のあわいの暗がりが、リディアの胸を、見た。石ではなく。そのもっと奥を。
「存在は、薄い」ヴェールは言った。「なのに──痕跡だけが、濃い。喰っても、喰っても、いた場所の、へこみが、消えない。こんなものは、ない。長く、喰ってきたが、こんなものは」
リディアは、その言葉を、聞いていた。
ずっと、わからなかったことだった。なぜ、自分にだけ、効きにくいのか。地の底で、外縁で、街道で。乾いた気配は、いつも、手をすべらせた。理由を、だれも、言わなかった。自分でも、わからなかった。
いま、それを、消す側の口が言った。喰おうとして、喰えない側が。
喰われて、なお、残るもの。それが、自分のなかにも、あるらしかった。
*
「なぜ、そんなものが」ヴェールは言った。もう、リディアに、言っているのではなかった。自分に、問うていた。「こんな薄い子に。喰えない子など、王のほかに──」
布が、途中で、止まった。
言いかけた先を、ヴェール自身が飲みこんだ。まるで、触れてはいけないものに触れかけたように。声が、低くなった。
「──なるほど」ヴェールは言った。「王が、ほしがるわけだ。あの、黒鳥も。そういうことか。おまえは、喰えない。喰えないから──隠せない」
リディアには、その意味が、わからなかった。
わからないのに、こわかった。喰えないことが、隠せないことに、つながっていた。母が、ずっと、隠してきた。薄くして、隠してきた。その隠すことのいちばん奥が、いま、この飢えた口に、見透かされかけていた。
布が、リディアから、ほどけた。
包みが、解けていく。喰うのを、やめた。かわりに、布の奥の闇が、リディアのうしろを見た。
テオを。ユアンを。ネリを。母を。
「おまえは、喰えない」ヴェールは言った。「だが、おまえのいた場所のかたちは、まわりに、ある。おまえが、かばった者に。呼びかえした名に。結びなおした糸に。──そこを、切ればいい。濃い痕跡も、置き場をなくせば、消える」
布が、いっせいに、リディアの、うしろへ、なびいた。
*
「テオ!」リディアは叫んだ。
布の先が、テオの欠けた掌へ伸びた。ひとつ、ものを持っていかれた、あの空いたところへ。そこは、もう、脆かった。ひとつ抜けた縁は、次を抜かれやすい。
ユアンが動いた。腫れた肩で、剣を、布へ振った。刃は、布を、切らなかった。空を斬るのと、おなじだった。ヴェールにも、斬られる体は、なかった。
「くそっ」ユアンが、膝をついた。肩が、鈍い音を立てた。
布が、テオの掌に、触れた。テオの息が、止まった。
同時に、坂の下で、集める手が、声を上げた。
「鐘と、その子を」集める手は言った。落ちくぼんだ目で、母とリディアを見くらべていた。「近づければ、いい。喰えぬなら、呼ばせればいい。あの子の中のものが、鐘に応える。応えれば、こぼれる。こぼれたものは──運べる」
母の背が、こわばった。
「だめ」母は言った。鐘を押さえたまま。ふりむけないまま。「リディア、下がりなさい。鐘に、近づいては、だめ。呼ばせては──」
そのとき、鐘が、傾いだ。
母の両手が、下から突き上げられた。青銅が、うなった。何百年ぶんの名前の網が、いっせいにほどけようとする音だった。母の足が、石を掻いた。押さえきれずに、鐘のほうへ引き込まれかけた。
母が、鐘に、呑まれる。
リディアは、見た。テオの、脆い掌に触れる布を。鐘に、引き込まれる母を。どちらも、間に合わない。魔法では。薄さでは。おとりでは。もう、足りなかった。
胸の石が脈を打った。とくん、と。強く。ここにいる、と。
外せば、届く。
いつもの、こえが、した。外せば。この石を。そうすれば、力は。
でも、外さなかった。
*
外さずに、力を、通した。
石を、胸につけたまま。蓋の縁から、無理やり、あふれさせた。ずっと薄く抑えられていた力を、蓋を割らんばかりに、外へ押し出した。
見えた。ぜんぶ、見えた。はじめて石が外れた、あの日と、おなじに。布のあわいの、暗がりの芯。鐘を下から突き上げる、記憶の核のうねり。母の、震える腕。テオの、欠けた掌。
リディアは、手を、伸ばした。
布のほうへ。止まって、と思った。テオに触れる布の先が、白い光に、押し返された。焼いたのでも、斬ったのでもない。ただ、そこに、あった手が、退けられた。
もう一方の手を、鐘のほうへ。倒れかける母の背を、光が、下から、支えた。母の足が、石を、掴みなおした。
守れた。ふたつとも。石を、外さずに。
けれど。
胸の石が、熱くなった。いや、熱さとは、ちがった。もっと、いやなものだった。石の表面を、細い線が、また一本、横切った。ぴき、と乾いた音を立てて。前からあった線の、すぐ隣に。
力を、通しただけだった。外して、いない。それなのに、石は、削れた。
外さなくても。使えば。この石は。
リディアは、はじめて、それを、知った。
*
石を通したとたん、胸の奥の、いちばん深いところが、鐘に、応えた。
石ではなかった。石の、もっと奥。リディア自身の、なにかが。鐘の狂った音に応えて、鳴った。呼ばれた火が、呼びかえすように。
母が、押さえていた鐘が、その応えを、聞きつけた。ひときわ、大きく、うなった。呼び合いが、強くなった。母の腕が、また、突き上げられた。
「呼んだ」母は、あえいだ。「リディア、あなた、いま──呼びかえした。だめ。それが、いちばん、だめなの」
集める手が、坂を、一段、詰めた。乾いた目が、光っていた。
「そうだ」集める手は言った。「それだ。応えた。──近づけば近づくほど、あの子は、鐘に、こたえる。こぼれる。もう、すぐだ。記憶の核。願いの核。あとは──運ぶだけ」
母が、恐れていたことだった。
リディアには、まだ、その全部はわからなかった。願いの核が、なにか。自分の中の、なにが鐘に応えたのか。けれど、力を使ったこと自体が、敵を近づけた。守るために出した手が、敵のいちばんほしいものを、坂の上へ引き寄せた。それだけは、わかった。
力は、快感ではなかった。恐怖だった。守れたのに、そのぶん、負けに近づいた。
*
通した力が、引いていった。
石が、締めなおすように、冷たくなった。世界が、また、遠のいた。音が、鈍る。体が、重くなる。輪郭が、削れる。石が戻った、あの日と、おなじだった。
ユアンが、膝をついたまま、リディアを見た。
「おい、あの……」ユアンは言った。眉を、寄せた。「お前、名前……」
そこで、止まった。
ネリが、口元を、押さえた。テオが、欠けた掌のうえで、名前を、探した。ひとつ抜けた縁の、そのすぐ隣を。
「リディアだよ」リディアは言った。声が、震えた。「わたしの名前は、リディア」
「──悪い」ユアンが、歯を、食いしばった。「思い出した。もう、忘れない」
テオが、いちばん、こたえていた。
「一つ、抜けたところに」テオは、ちいさく言った。「もう一つ、ひびが。──君の名前まで、一瞬、なくなった。僕が、いちばん、忘れちゃいけないのに」
「戻った」リディアは言った。「大丈夫。呼べば、戻る」
言いながら、こわかった。使うたびに、石は削れる。使うたびに、まわりは、忘れる。守るために力を出せば、そのぶん、自分は薄くなり、鐘は近づく。出口が、どこにも、なかった。地の底で、思ったことが、いまも、続いていた。もっと、悪くなって。
*
布が、退いた。
いくえもの布が、ゆっくりと、坂の下へ、しりぞいていく。ヴェールは、リディアを、もう、喰おうとしなかった。
「きょうは、これでいい」ヴェールは言った。乾いた声で。「わたしは、喰う係だ。喰えぬものは、わたしの仕事では、ない。──だが、覚えておく。おまえは、消えない。消そうとして、消えない。そういうものが、この世に、あるのだと」
顔のない暗がりが、最後に、リディアを見た。
「それは」ヴェールは言った。「わたしには、こわいことだ。わたしは、消す者だから。消えないものが、いちばん、こわい」
布が、坂の下の、暗がりへ、溶けていった。
あとに、看破だけが残った。消えない。痕跡だけが濃い。喰えないから、隠せない。その言葉は、坂の下の集める手にも、遠景の黒鳥にも、聞こえる大きさで置かれていた。隠すために薄くされた子が、隠せないと見抜かれた。それは、この子こそ探していたものだ、というしるしになった。
*
集める手が、坂を、また一段、詰めてきた。
「もう、すぐだ」集める手は、独りごとのように言った。ゆっくりだった。追いつめる者の、足どりだった。「近づけば、こぼれる。あとは、待てばいい」
リディアは、胸の石を、両手で、握った。
新しい線が、指の下に、あった。前より、一本、多い。外さなくても、削れた線が。使うほど、増える線が。
母は、鐘を、押さえていた。腕が、限界に、近かった。それでも、ふりむいて、リディアを、見た。影のなかの目が、濡れていた。
「これ以上は」母は言った。ひと言ずつ、押し出すように。「近づいてはだめ。──応えるほど、あれは、あなたをほしがる。あなたが呼びかえすことが、いちばんの、餌になる」
「わかった」リディアは言った。わからないまま、言った。
わかったのは、ひとつだけだった。喰われはしない。消されはしない。敵が、そう言った。消そうとして、消えない、と。
なら。
リディアは、坂の下の乾いた暗がりと、鐘に張りついた母の背とのあいだに、立ちなおした。石の増えた線を、握ったまま。
消えないなら。
わたしは、いる。
邪魔にならないように、消えることは、もう、できなかった。消えられない、と、いちばん消したがる者が、言ったのだから。だったら、下がらない。下がる場所は、もう、なかった。
鐘が、うなった。石が、応えた。集める手が、坂を、昇ってくる。
それでも、リディアは、そこに、いた。




