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母の、いちばん古い罪

母の唇が、動きかけて、止まった。


 声のかわりに出てきたのは、白い息だった。冷えた鐘楼の下で、それはほどけて、すぐに消えた。


 母は、両手を鐘にあてていた。


 狂った鐘は、大人ふたりぶんの高さの、黒ずんだ青銅だった。誰も鳴らしていないのに、内から鳴ろうとしていた。ひびの入った音が、鳴るたびに外へこぼれようとする。それを、母の両手が押さえていた。手のひらを腹に押しあてて、指の節が白くなるほど。


 だから、母は、リディアを抱けなかった。


 いつか迷宮で、母はリディアを抱きしめた。強く、苦しいくらいに。あのときの手が、いまは鐘にふさがっていた。ふりむいても、母は片手も、こちらへ出せなかった。


 守るために、母はいつも、両手をなにかで塞いでいる。リディアは、ぼんやり、そう思った。


 「リディア」母は、もう一度、名を呼んだ。「よく、ここまで来たわね」


 「来た」リディアは言った。「何度でも来るって、言ったから」


 うしろで、テオが、鐘楼の外を見張っていた。ユアンが、腫れた肩を押さえて、坂を上がってくる道に体を向けた。ネリが、その隣で、震える手を、それでもひらいていた。


 「近い」テオが、低く言った。「鳥も。飢えてるのも。──別の口から、こっちの足もとへ。もう、脈を数えるまでもない」


 テオの声が、ゆうべまでと、ちがっていた。頼りなかった。ひとつ、記憶を持っていかれてから、テオは、自分の掌をときどき見るようになっていた。


 「稼ぐ」ユアンが、前を向いたまま言った。「お前が、聞き終えるまで。──話せ。早く」


 リディアは、母のほうへ、向きなおった。


     *


 「ラウムが」リディアは言った。「羽のなかに、見せた。若い女の人を。灰色の髪を、まだ長く垂らして。震える手で、赤子に、この首飾りをかけようとしてた。──あれは、あなた?」


 母の目が、影のなかで揺れた。


 「そう」母は言った。「あれは、わたし」


 はじめて、母が、隠さずに答えた。ずっと、宙に浮いたままだった問いに。最初の夜から、ずっと。


 「話して」リディアは言った。「ぜんぶ。あなたが、なにをしたか」


 母は、鐘を押さえたまま、しばらく黙っていた。押さえる手に、また力がこもった。鐘が、その下で、身をよじるように鳴った。


 「昔」母は言った。「わたしは、勇者の一行にいた。白暁の魔女と、呼ばれた。冥王を、倒しに行った。──倒せなかった」


 「倒せ、なかった?」


 「あれは、殺せるものではなかった」母は言った。「憎しみと、飢えと、忘れられた者たちの、集まりだった。斬っても、また寄り集まる。──だから、わたしたちは、割った。三つに。怒りと、記憶と、願いに。ばらばらにして、遠くへ、封じた。二度と、ひとつに戻らないように」


 リディアは、胸の石を、手で押さえた。石は、脈を打っていた。とくん、とくん、と。母の押さえる鐘と、呼び合って。


 「そのひとつが」リディアは言った。「この、鐘?」


 「記憶の核」母は言った。「そう。もうひとつは、遠い北の、氷の下。──三つ目は」


 母の言葉が、途切れた。


 鐘が、また鳴った。ひびの音が、母の手の下から漏れて、坂の下の街へ、濁った尾を引いていった。どこかで、また誰かが、名前を、行き先を、手をつないだ子を、忘れた。


 「三つを封じるのに」母は、途切れた先を飲みこんで、続けた。「わたしたちは、境を引いた。ここまでは人の側。ここから先は、封じる側。──線を引くたびに、その線の下に、村があった。人が、いた。それを、中に入れたまま、閉じた。飢える者を、忘れられる者を、線の向こうへ、押しこめて」


 リディアは、いつか聞いた声を、思い出した。迷宮で、北門で、赤い線のうえから。


 平和に見える場所と、苦しみを押しこめる場所を、分けただけだ。


 「あれは」リディアは言った。「ほんとうだったの」


 「ほんとうだった」母は言った。「わたしたちは、平和を作らなかった。分けただけ。──それが、白暁の魔女の、いちばん古い罪。あなたが外縁で会った飢えた人たちは、わたしが線の向こうへ押しこめた者たちの、なれの果てよ」


 リディアは、外縁の穴の向こうで見た、火を囲む子らを思い出した。灯を細く分け合う手を。飢えの巫女の、乾いた祈りを。グレイヴの村を。中に人がいたまま閉じられた、あの線を。


 あれを引いたのが、目の前の、この人だった。パンを持たせ、寝ぐせを直してくれた、この手だった。


 わからなかった。母を、責めればいいのか。抱きしめればいいのか。リディアは、どちらもできずに、ただ、母の背を見ていた。母の罪は、遠い昔の、大きな話のはずだった。それが、いま会った飢えた人たちと、一本の線でつながっていた。物語ではなかった。まだ、続いていた。


     *


 鐘の震えが、強くなった。


 母の足が、半歩、鐘のほうへ踏みこんだ。押さえる腕の筋が、張った。坂のずっと下、街の別の口から、黒い羽が渦を巻いて昇るのが見えた。ラウムだった。飢えた民の影も、そのあいだを、鐘のほうへ這うように寄っていた。


 時計が、動いていた。母が鐘を押さえていられるあいだだけ。集める手が足もとへ着くまでのあいだだけ。


 「来る」ユアンが言った。剣を抜いた。「聞いとけ。いま聞いとけ。──おれが、稼ぐ」


 リディアは、母のほうへ一歩詰めた。


 「首飾りのことを、聞かせて」急いで言った。「あなたは、聖域から、これを盗んだ。セラフィナが言った。あなた自身も、盗んだと言った。──どうして。どうして、これを、わたしに」


 母の、影のなかの目が、リディアの胸の黒い石を見た。


 「コレーの環は」母は言った。「封じる道具では、なかった。隠す道具よ。身につけた者を、世から薄くする。魔力を、気配を、名前を、うすくして、誰にも見つからないようにする。──聖域の、いちばん奥に、しまってあった。わたしは、それを、持ち出した。許しも得ずに」


 「なぜ」


 「あなたを、隠すため」母は言った。「あなたが、生まれたとき。──わたしは、あなたを、隠さなければならなかった。冥族からも、聖域からも。あなたのなかに、あの人たちが、ほしがるものが、あったから」


 リディアの、指が、止まった。


 わたしのなかに。


 「なにが」リディアは言った。「わたしのなかに、なにが、あるの」


 母は、答えなかった。


 鐘を押さえる手が、震えた。鐘の震えでは、なかった。母自身の手が、震えていた。ラウムが羽のなかに見せた、あの、震える手と、おなじだった。


 棘が当たった、とリディアは思った。会ったら聞いてみろ、母がなんと言うか、その顔を見たい、とラウムは言った。いま、母の手が、震えている。ラウムの見たかった顔が、ここにあった。


 「震える手で」リディアは言った。声が、細くなった。「あなたは、わたしに、これをかけた。ラウムは、そう見せた。──こわかったの? 赤ん坊のわたしが」


 「あなたが、こわかったのではない」母は言った。「あなたを、失うことが。──わたし自身の手で、あなたを、線の向こうへ、押しこめてしまうことが」


     *


 坂の下で、飢えた民の先頭が、崩れた石段に手をかけた。


 ぼろの外套。落ちくぼんだ目。十人より、多かった。そのあいだを、乾いた目の集める手が、ゆっくり昇ってくる。急がなかった。急ぐ理由が、ないからだった。


 「ユアン」ネリが言った。「肩」


 「知ってる」ユアンは言った。剣を両手で持ちなおした。腫れたほうの肩が、持ちあげるだけで鈍い音を立てた。それでも、坂のいちばん狭いところへ、体を置いた。ひとりぶんの幅しか通れない場所だった。「ここなら、ひとりずつだ。──来られるぶんだけ、来い」


 テオが、その隣に立った。短剣を抜いた。手が、少し震えていた。


 「僕は、数える係だった」テオは言った。「いまは、数がうまく合わない。ひとつ、抜けてるから。──でも、いる。ここに、いるってことは、数えなくても、わかる」


 リディアは、ふたりの背を見た。母のほうへ行きかけた足が、止まった。戻って、助けたかった。母の言葉の続きも、ほしかった。どちらかを選べば、どちらかをこぼす。学校の迷宮の日から、ずっと、その選び方が、下手だった。


 「行け」ユアンが、ふりむかずに言った。「こっちは持つ。お前は、聞け。──それが、いちばん、ここまで来た甲斐だ」


 リディアは、母のほうへ向きなおった。逃げるのでも、助けに走るのでもなく、そこに立ちつづけることを、選んだ。いつもなら、うしろへ下がった。いちばん邪魔にならない場所へ。いまは、下がらなかった。下がれば、また、母の背中が遠くなる。


     *


 「なぜ、隠したの」リディアは言った。「ずっと。最初の夜から、いままで。──わたしの、ことなのに」


 「言えば」母は言った。「あなたは、これを、自分から引きちぎろうとする。そういう子、だから」


 いつか、家の台所で聞いた言葉と、おなじだった。あのときは、まるごと謎だった。いまも、半分は謎のままだった。けれど、半分は、わかってしまった。


 「わたしが」リディアは言った。「邪魔にならないように、消えようとするから?」


 母の手が、鐘のうえで、止まった。


 その沈黙が、答えだった。ずっと、そうだった。母は、リディアの困りごとには、たいてい沈黙で答えた。


 リディアは、続けた。声は、震えていた。それでも、言った。


 「ずっと、そう思ってた。いないほうが、みんな、楽なんだって。班分けで余っても、名前を忘れられても、そのほうがいいんだって。──だから、あなたは、こわかったんでしょう。わたしが、自分のなかのなにかを知ったら、それごと、自分を、消そうとするって」


 「リディア」


 「でも」リディアは言った。「もう、消えない」


 鐘が、鳴った。強く。母の腕が、下から押し返された。母は、腕を突っぱって、押さえ返した。


 「わたしは、引きちぎらない」リディアは、鐘に張りついた母の背へ、言った。「知りたいのは、消えるためじゃない。──ここに、立つため。あなたの、となりに。線の、どっち側でもなく」


 母の、影のなかの顔が、こちらへ、ふりむきかけた。


 はじめて、隠す顔ではなかった。なにかを、渡そうとする顔だった。十四年、両手で塞いできたものを、いま、片手だけでも、こちらへ差し出そうとする顔だった。


 「あなたのなかに、あるのは」母は言った。「──」


     *


 そのとき、鐘が、大きく、傾いだ。


 母の両手が、鐘に引き戻された。全身で、押さえた。青銅が、内から鳴ろうとしていた。いままでの、ひびの音ではない。もっと大きい。何百年ぶんの名前の網が、いっせいにほどけようとする、地鳴りのような音だった。


 坂の下から、黒い羽が噴きあがった。ラウムだった。飢えた民が、鐘楼の足もとに、たどりついていた。集める手が、そのあいだを、乾いた目で歩いてきた。鐘と、その下で押さえる母と、坂のうえのリディアを、順に見た。


 「散ったものが」集める手の声が、坂を昇ってきた。「ひとつ所に、そろった。──記憶の核。願いの核。あとは、一緒に、運ぶだけだ」


 母の、最後の言葉は、鐘の音に、喰われた。


 リディアは、聞けなかった。母の唇が、なにかの形に動いたのは、見えた。あなたのなかにあるのは──そのあとの音が、なかった。鐘が、ぜんぶ、持っていった。


 「お母さん」リディアは言った。「聞こえなかった。もう一度、言って。──なにが、わたしのなかに」


 母は、両手で鐘を押さえたまま、リディアを見た。影のなかの目が、ひかった。濡れていた。


 「行きなさい」母は言った。「これ以上、近づいては、だめ。あなたと、この鐘を、近づけては。──近づくほど、鐘は、あなたを呼ぶ。呼ばせては、だめ」


 「まだ、聞いてない」リディアは言った。「ぜんぶ話すって、言った。最初の夜も、あなたは、そう言った」


 「話す」母は言った。鐘を押さえながら。歯を、食いしばりながら。ひと言ずつ、押し出すように。「生きて、いれば。──かならず。今度は、逃げない」


 石が、脈を打った。鐘と呼び合って。とくん、とくん、と。休みなく。ここに、最後の一つがあります、と。集める手にも、運ぶ鳥にも、母を呑もうとする鐘にも、聞こえる大きさで。


 集める手が、坂を、昇りはじめた。


 リディアは、胸の石を、両手で握った。外せば、この脈は止まる。けれど、外せば──母の言葉の、続きが、いよいよ遠くなる。


 外さなかった。


 半分だけ聞いた真実を、握ったまま、リディアは、坂の下から昇ってくる乾いた目と、鐘に張りついた母の背とのあいだに、立った。まだ、ぜんぶじゃない。それでも、逃げるほうへは、行かなかった。


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