母から、聞く
壁の内は、しずかだった。
外の荒れ地とは、ちがうしずけさだった。人が、いなくなったのではない。人は、いた。それでも、しずかだった。
石畳の道の両側に、家が並んでいた。戸口に、人が立っていた。買い物かごを提げた女。杖をついた老人。まだ小さい子どもの手を引いた男。みんな立っていた。行くのでも帰るのでもなく、ただ立っていた。
「どこへ、行くところだったかな」
男が、子どもの手を握ったまま、つぶやいた。北の街道で会った御者と、おなじ言葉だった。けれど、あの御者は行き先だけを忘れていた。この男は、ちがった。
「あんたは、だれの子だったかな」
男は、手のなかの小さな手を見ていた。子どもは、父の顔を覚えている目で、男を見上げていた。けれど男のほうは、その子がだれなのか、思い出せずにいた。
リディアは、足を止めそうになった。テオが、袖を引いた。
「止まるな」テオは小声で言った。「ここは、進むしかない。──行き先じゃない。もっと深いのが、抜けてる」
鐘楼から、音がこぼれていた。誰も鳴らしていないのに、鳴っていた。ひとつ鳴るたびに、ひびの入った濁った尾を引いた。その尾が通りを渡るたびに、戸口の人が、また一つ、なにかを忘れた。名前を。行き先を。手をつないだ子が、だれかを。
空を、黒い鳥が渡っていた。一羽ではなかった。何十羽も、鐘楼のほうへ、まっすぐ流れていく。鳴りやまない鐘の上を。
「脈は」リディアは言った。
テオが、指を折った。
「六」テオは言った。「線の外では、八だった。──鐘に近い。母さんに、近い」
*
広場に出たところで、黒い鳥の流れが、止まった。
空のなかばで、いくつもの鳥が、渦を巻いた。まるで、水が、排水口のうえで巻くように。何十もの黒い点が、一つのところへ、吸い寄せられていく。
それが、地に降りた。
降りながら、鳥は、鳥でなくなった。羽がほどけ、影が伸び、束ねられていく。いつか学校の迷宮で、赤い目の影が人の形になった。あれと似ていた。けれど、あれよりずっと大きかった。
広場のまんなかに、黒い外套の男が立った。
背が高く、痩せていた。外套の裾から下は、まだ鳥だった。何百もの黒い羽が地を這うように広がって、外套の裾と区別がつかなかった。顔はあった。けれど、羽が寄せては返す波のように渡って、輪郭が、たえずゆれていた。
「ずっと、見ていた」男は言った。乾いた木を折るような声だった。リディアは、その声を知っていた。あの迷宮で灰のなかから、町の北門で赤い線のうえから聞こえた声と、おなじ系譜だった。
「あのとき、迷宮で消えたのは」男は言った。「おれの、いちばん下の使いだ。物見の、ひとひらだ。──おれは消えていない。ずっと、お前を見ていた。壁の外の鳥も、この街のうえの鳥も、ぜんぶ、おれの目だ」
「ラウム」テオが、低く言った。うしろで。「黒鳥の、ラウム。──冥王七座の、二番目」
男は、テオのほうを、ちらりと見た。羽が、顔のうえを、ひとわたりした。
「おれを、知っているのか」ラウムは言った。すこし、うれしそうだった。「めずらしい。おれの名を、覚えている人間は、すくない。──おれは、覚えられる仕事を、していない。おれは、運ぶ」
「運ぶ」リディアは言った。
「散らばったものを」ラウムは言った。「この街の人間が、いま、こぼしている。名前。顔。手をつないだ子が、だれか。──こぼれて、地に落ちて、踏まれて、消える。もったいない。だから、おれが拾って、運ぶ。忘れられたものにも、味がある」
リディアは、戸口の男を思い出した。あのこぼれた記憶を、この鳥が拾って、冥界へ運んでいく。散らばる前に、集めて。
「王が、帰るからだ」ラウムは言った。「散ったものを、集める。名前も、記憶も、核も、ぜんぶ、一つの器に戻す。──おれは、その、記憶を運ぶ係だ」
*
ラウムの、ゆれる顔が、リディアのほうへ、向いた。
「お前の記憶は、薄い」ラウムは言った。「街ひとつぶんより、お前ひとりのほうが薄い。おかしいくらいに。だが」
羽が、顔のうえで止まった。
「苦い。いちばん、苦い。──こんな味は、めったにない」
ラウムが、片手を上げた。外套の袖から、黒い羽が、ひとひら、抜けて、リディアの前の宙に、浮いた。
その羽のなかに、なにかが、映った。
水面のように。窓のように。
リディアは、見た。若い女がいた。灰色の髪を、まだ長く垂らした女。薬草の匂いのしない、かたい顔の女。腕に、白い布のかたまりを抱いていた。女は、その布のかたまりに、黒い石の首飾りをかけようとしていた。手が震えていた。唇が、なにか言っていた。
「お母さん」リディアは、思わず言った。
声は、羽のなかまで届かなかった。若い母の唇は動いた。けれど、その言葉は音にならないまま──羽が閉じた。
映像が、消えた。
「これは、おれが拾ったものだ」ラウムは言った。「ずっとまえに。──お前の母が、いちばん深くに埋めたはずのものだ。埋めても、いちど地に落ちたものは、こぼれる。おれは、それを拾った」
リディアは、羽を見つめた。あの閉じたひとひらのなかに、母の言葉があった。母が、なにを言おうとしていたのか。なにを隠しているのか。その、いちばん深いところが、あの黒い羽のなかに。
「ほしいか」ラウムは、しずかに言った。「やろう。お前の母の、ほんとうのところを。──お前の知っている母は、やさしい。パンを持たせて、寝ぐせを直す母だ。だが、おれの拾ったのは、ちがう母だ。震える手で、赤子に首飾りをかける母だ。そちらが、ほんとうだ。取り替えてやろう。やさしい母の記憶を、ほんとうの母の記憶に」
リディアの指が、羽のほうへ動きかけた。
知りたかった。ずっと、知りたかった。母が、なにを隠しているのか。最初の夜からずっと、宙に浮いたままの問い。それが、いま、手を伸ばせば届くところにあった。
けれど、リディアは指を止めた。
「取り替えない」リディアは言った。
「なぜ」ラウムは言った。「ほんとうを、知りたいのだろう」
「知りたい。でも、あなたからじゃない」
リディアは、羽から目をそらさずに言った。
「母のことは、母から聞く。あなたからは、聞かない。──あなたが見せるのは、あなたが持って帰りたい記憶でしょう。わたしの母を、わたしの知らない母に取り替えて、運んでいく。わたしは、母を、こぼさない。やさしい母も、震えていた母も、ばらばらのまま、ここに置いておく」
ラウムの、ゆれる顔が止まった。
抜けた羽が、宙で力を失った。取り替わるはずだった映像が、取り替わらずに、ただ地に落ちた。ラウムは、そのひとひらを見ていた。まるで、いつもは掴めるものが、この娘の薄すぎる記憶の上では、掴む縁を見つけられなかったように。
けれど、ラウムは、なにも言わなかった。その戸惑いを、リディアも、まだ読めなかった。
*
ラウムの目が、リディアの、うしろへ、移った。
テオのほうへ。
「では、お前だ」ラウムは言った。「お前は、掴みやすい。──みんなが、こぼしたものを、ぜんぶ、ひとりで持っている。こんなに集めやすい子は、ない」
テオの顔が、こわばった。
「僕は、渡さない」
「渡すのではない」ラウムは、やさしく言った。「おれが運ぶだけだ。お前のなかにしまいこんでいるより、こちらのほうが、まだもつ。お前ひとりが持っていても、いつか、お前もこぼす。おれが、運んでやる」
ラウムが、片手をテオのほうへ伸ばした。何百もの羽が、いっせいに、テオのほうへなびいた。
「テオ!」リディアは叫んだ。
ユアンが動いた。剣を抜いて、腫れた肩で、テオの前に割って入る。剣を、羽の波へ振った。
剣は、羽を切らなかった。刃のところで羽はほどけて散り、また、うしろで束ねられた。空気を斬るのと、おなじだった。ラウムには、斬られる体がなかった。切れば散り、散ればまた集まる。
「ユアン、下がって!」ネリが叫んだ。
剣を返した拍子に、羽の波が、ユアンの腫れた肩を押した。ただ押しただけだった。それでも、ユアンの口から、押し殺した息が漏れた。ゆうべから腫れていた肩が、また鈍い音を立てた。ユアンは、剣を手放さずに、膝をついた。
リディアは、指をテオのほうへ向けた。
消して、と、いつものように願おうとした。伸びる羽を。芯の火を、蝋燭を吹き消すように。
けれど、羽には芯がなかった。消すべき小さな火が、どこにもなかった。ラウムは、火ではなかった。空気だった。記憶だった。指を向けても、願っても、消すものがなかった。
伸びた羽の先が、テオの額に触れた。
テオの肩が、びくりと跳ねた。
一瞬だった。羽は、すぐに引いた。テオは倒れなかった。名前も、忘れなかった。自分の名を言えた。リディアの名も言えた。
けれど、テオの目が、宙を探した。
「……ない」テオは、ちいさく言った。「さっきまで、あった。──だれかの名前が。橋の、女の人の。魚を売ってた。子どもがいた。僕が、落とさないように持ってた。──ない。持っていかれた。まるごと」
テオは、自分の掌を見た。なにもなかった。
「僕は、忘れない。忘れたこと、なかった」テオの声が、はじめて、頼りなくかすれた。「ずっと、持ってた。みんながこぼしたのを。──いま、一つ、ない。だれのだったかも、もう、わからない。ない、ってことだけ、わかる」
リディアには、それがなにを意味するのか、わかった。
橋のたもとで、名前を奪われて天幕に閉じられた、あの女。リディアは、その名を取り戻せなかった。あの女が、この世でまだつながっていた、たった一本の糸。それが、テオだった。テオだけが、あの女を覚えていた。
その最後の一本が、いま、運ばれた。あの女は、これで、どこにもいなくなった。
*
リディアは、テオの空になった掌に、指を向けた。
弱い明かりを一つ灯した。人を焼く火でも、羽を散らす光でもない。ただ、いた、と告げる火。それを、テオの掌に置いた。
「いた」リディアは言った。「魚を売ってた。子どもがいた。──名前は、もう、わからない。テオも覚えてない。それでも、いた。ここに、糸を結び直す。だれも覚えてなくても」
名前は戻らなかった。運ばれたものを取り返す力は、リディアにはない。できたのは、いた、と、もう一度、糸を結ぶことだけだった。なんの役に立つのか、わからないまま。それでも、置いた。
ラウムが、ゆれる顔で、その明かりを見ていた。
「おかしなことをする」ラウムは言った。「もう運んだ。あれは、こちらのものだ。明かりを置いても、名前は戻らない」
「戻さなくて、いい」リディアは言った。「取り返せないのは、知ってる。──でも、いた、ってことだけは、運べない。それは、まだ、ここに残る。あなたには、渡さない」
ラウムの羽が、ざわ、と鳴った。
「妙な味だ」ラウムは、つぶやいた。「薄いのに、苦い。──なるほど。王がほしがるわけだ」
伸びていた羽が引いた。何百もの羽が、また、外套の裾へ束ねられていく。
「きょうは、これでいい」ラウムは言った。「おれは、運ぶ係だ。奪い合いは、ほかの者の仕事だ。──おれは、鐘へ行く。あそこに、いちばん大きい記憶がある。何百年ぶんの名前の網が。あれを運べば、王が、いちばん早く帰る」
ゆれる顔が、最後に、リディアのほうを向いた。
「お前の母は、いちばん苦い記憶を、いちばん深くに埋めた。埋めるほど、味は濃くなる。──じきに、会うだろう。あの鐘のそばで。会ったら、聞いてみろ。おれの見せた、震える手のことを。母が、なんと言うか。──おれは、その顔を見たい」
ラウムの体が、ほどけた。
外套が、羽になった。何百もの黒い鳥が、いっせいに空へ舞い上がった。鐘楼のほうへ、まっすぐに。まだ鳴りやまない、狂った鐘のほうへ。
*
広場に、四人が、残された。
ユアンが、膝をついたまま、肩を押さえていた。ネリが、その肩に手をあてた。光をかけても、骨の痛みは引かなかった。ゆうべより、悪かった。
「立てる」ユアンは、ネリがなにか言う前に言った。「立てる。──行くぞ」
テオが、まだ、自分の掌を見ていた。リディアの置いた、弱い明かりを。
「一つ、ない」テオは言った。「はじめてだ。──こわい。忘れないのだけが、僕のいいところだったのに」
「まだ、ある」リディアは言った。「わたしの名前。ユアンの。ネリの。あの女の人のことも、いま、糸を結び直した。テオが忘れても、わたしが覚えてる。──ひとりで、ぜんぶ持たなくていい。みんなで、ばらばらに持てばいい」
テオが、リディアを見た。それから、ちいさくうなずいて、明かりをこぼさないように、掌を握った。
リディアは、鐘楼のほうを見た。
丘の上に、細い塔が立って、そのそばに鐘楼があった。ひびの入った音を、こぼしつづけていた。黒い鳥の群れが、その口のまわりで渦を巻いていた。飢えた民が、別の道から、その足もとへ集まりつつあった。
その鐘楼の下に、白い光が一つ、灯っていた。
母だった。
あと、いくつか道を抜ければ、届くところに。
*
石畳の坂を、四人で下りた。
胸の石が、脈を打った。いままでで、いちばん強く。とくん、とくん、と、休みなく。テオが数えるまでもなかった。近づいた分だけ、石は大きく鳴った。ここに、最後の一つがあります、と。集める手にも、運ぶ鳥にも、聞こえる大きさで。
鐘楼の下の、白い光がゆれた。
その光の主が、坂の下に近づく気配に気づいた。狂った鐘を、いちばん強い封じの手で押さえたまま、母が、ふりむいた。
夕日を背にしていたので、顔が影になっていた。いつか、学校の校門で、そうだったように。
母の目が、坂の上のリディアを見つけた。
街じゅうが名前を忘れ、記憶を運ばれ、手をつないだ子がだれか思い出せなくなる、この壁の内で。たったひとり、母だけが、迷わずにリディアを見た。世界中がリディアを見失っても、母だけは、最初からそこにいると知っていたみたいに。
「リディア」
母が言った。
その名を、母は忘れていなかった。この街で、たったひとつ、運ばれも、こぼれもしなかった名前だった。
リディアは、坂の上で足を止めた。
うれしかった。会えた。ずっと危ないほうへ、自分から向かって、やっと母のところへ着いた。
けれど、ラウムの言葉が、耳に残っていた。いちばん苦い記憶を、いちばん深くに埋めた。会ったら、聞いてみろ、と。
リディアは坂を下りきり、母のあと数歩の前で立った。影になった顔を、見上げた。
「お母さん」リディアは言った。震える声で。「わたし、あなたに、聞きに来た」
母の、影のなかの目が、すこし揺れた。
「震える手で、わたしに首飾りをかけた日のこと」リディアは言った。「あなたから聞く。──話して。ぜんぶ、話して」
狂った鐘が、ひとつ、ひびの入った音で鳴った。
母の唇が、あの最初の夜と、おなじように、動きかけて──止まった。




