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どちらにも、渡さない

道のないほうへ入ってから、半日が過ぎた。


 畑のあとの、荒れた土。膝までの枯れ草。崩れた石垣が、そのまま残っていた。人が耕すのをやめた土地が、北へ、王都の塔のほうへ、ずっと続いていた。


 街道を行けば、道はなだらかで、水もある。けれど遠回りだった。リディアは、遠回りをえらばなかった。


 胸の石が、脈を打っていた。


 街道を外れてから、脈は休まなくなった。とくん、とくん、と、歩くたびに。北へ近づくたびに。鐘は、ここからでは見えない。それでも石は、応えつづけていた。


 「さっきより、短い」テオが、うしろで指を折りながら言った。「脈と脈のあいだ。──朝は、二十数えるうちに一つだった。いまは、十二」


 「近づいてる」リディアは言った。


 石が鐘に近づくほど、こちらの居場所も、大きく鳴って教える。わかっていた。近づくほど、見つかる。それでも、止まらなかった。


 ユアンが、腫れた肩を片手で押さえて、隣を歩いていた。ゆうべの傷は、まだ引いていなかった。


 「肩」ネリが、小さく言った。「まだ、痛む?」


 「歩ける」ユアンは言った。


 「それ、痛むって意味だよ」ネリは言った。けれど、それ以上は言わなかった。ユアンは、痛いとは言わない相棒だった。だから、ネリが先に見る役だった。


     *


 枯れ草の丘をひとつ越えたところで、リディアは、足を止めた。


 北の斜面に、白いものが並んでいた。


 杭だった。人の背より高い、白木の杭。それが、荒れ地を横切って、東から西へ、まっすぐに一列。杭と杭のあいだに、灰色の縄が渡してあった。縄に結んだ白い布に、環の紋。魔術院の紋だった。橋の検めの天幕と、おなじ。


 杭のそばで、灰色の長衣が何人か、根元にかがんで、白い粉のようなものを、土に引いていた。


 「封印の線だ」テオが言った。声を落として。「王都のまわりに、線を敷いてる。──入れないように。出さないように」


 リディアは、その白い列を見た。町の北門に立っていた、あの黒い杭を思い出した。あれは、冥族が立てた。これは、白木で、人間が立てている。色は逆で、していることは、似ていた。境を引く。内と外を、分ける。


 「鐘を、守ってるつもりなんだ」リディアは言った。「集める手が来ないように。線を引いて、閉める」


 「おれたちも、閉め出されてる側だ」ユアンが言った。「あの線の、外だ」


 線の内に、鐘がある。母がいる。線の外に、リディアがいた。


 白い列のまんなかに、切れ目があった。人ひとりが通れるだけの、狭い口。そこに、台が一つ。水晶が、置いてある。橋のたもとと、おなじだった。通る者は、みな、そこで検められる。


 「石が、にごるぞ」ユアンが言った。


 「橋では、番人の目が滑った」ネリが言った。「ここでも、そう、なる?」


 リディアには、わからなかった。橋では、たすかった。にごった水晶を見ても、番人は、にごらせた者を、覚えていられなかった。毎回そうなる保証は、ない。


 「わからない」リディアは言った。「でも、あそこを通らないと、鐘に着けない」


     *


 切れ目の口に近づくと、長衣のひとりが、顔を上げた。


 水晶をさし出す。リディアは、手をかざした。


 水晶が、灰色に、くもった。橋のときより、深かった。近づいた分だけ、にごりも増していた。


 長衣は、それを見た。そして、リディアの顔のあたりへ目を上げ──滑らせた。橋の番人と、おなじだった。にごらせた者を、目が、素通りした。


 「……次」長衣は、リディアの背後の、誰もいない草へ向かって言った。


 たすかった、とリディアは思った。手をかざしたまま、一歩、口を通ろうとした。


 「待ちなさい」


 別の声がした。


 低い、乾いた声だった。長衣たちが、いっせいに、そちらへ頭を下げた。


 白い列の内側から、ひとりの男が歩いてきた。ほかの長衣より、丈の長い、白の外套。襟に、環の紋が二つ。年は、母より上に見えた。顔に、感情の線が、一本もなかった。


 リディアは、その顔を、覚えていた。地の底の、最深房。日に二度、水晶を見に降りてきた男。たしかめに来た、と言った男。


 アデルバートだった。


 「にごりました」アデルバートは、長衣に言った。リディアにでは、なかった。「いまの手のあたりで、濃く。──記録しなさい。刻と、にごりの濃さを。橋のたもとでは、うすい灰色だった。ここでは、濃い。にごりが、王都のほうへ、濃くなりながら動いている」


 リディアは、動けなかった。口は、狭い切れ目の、まんなかにあった。


 アデルバートの目は、リディアの顔を、見ていなかった。長衣の目とおなじに、するりと滑った。けれど、滑ったまま、彼は言った。


 「そこにいますね」アデルバートは言った。顔ではなく、リディアの胸のあたりへ、目を落として。「顔は、覚えられない。それでいい。封印具は、記録に残る。にごった水晶が、いつ、どこを通ったか。それを書きとめておけば、たどれます。──娘を、追うのではない。記録を、追う」


     *


 リディアは、胸の石を、手で押さえた。


 橋の番人は、見つけられなくて、目を滑らせた。この人は、ちがう。はじめから、娘を探していない。にごりの、しみの動きを、帳面のうえで追っている。だから、目が滑っても、たどれる。薄さは、人の目から隠してくれる。けれど、この人は、人の目で追っていない。薄いことが、たすけにならない相手だった。


 「わたしは、記録じゃない」リディアは言った。声が、少し、震えた。


 「保持者の主観は」アデルバートは、帳面のほうを見ながら言った。「控えに、残せません。──封印具は、あるべき場所に。鐘が、狂っています。二つの封印具が近づけば、どうなるか。わたしは、それを書きとめてある。近づけては、なりません」


 二つ、とリディアは思った。石と、鐘。この人は、石を封印具と呼ぶ。石が鐘に呼ばれていると思っている。だから、石を遠ざければ鐘は静まると思っている。


 ちがう、と、胸のどこかが言った。呼び合っているのは、石ではない。石の、下のもの。けれど、それを、リディアは言えなかった。言葉に、ならなかった。自分でも、まだ、わかっていなかった。


 「通しません」アデルバートは言った。「線の内へは。あなたは、鐘に、近づけない」


     *


 そのとき、うしろで、テオが鋭く言った。


 「来た。──うしろ。飢えてるほう」


 リディアは、ふりむいた。


 越えてきたほうから、いくつもの影が寄ってきていた。ぼろの外套。落ちくぼんだ目。冥族だった。ゆうべの一人ではない。十、あるいはもっと。飢えた民の、群れだった。


 群れの少し前を、一人が歩いていた。ほかより背が高く、外套も、まだぼろではなかった。落ちくぼんでいない、乾いた目で、まっすぐにリディアの胸を見ていた。集める側の手だった。飢えた民を鐘のほうへ連れていく者。集まれ、そろえば戻れる、と教える誰かの、末のひとり。


 「そこか」その一人が言った。「散ったものの、最後の一つ。──脈が、教えてくれた。ずっと、たどってきた」


 リディアは、はさまれた、と思った。前に、白い封印の線。うしろに、飢えた群れ。石の脈が、その両方に、ここにいる、と教えていた。人間の帳面にも、冥族の飢えにも。おなじ、一つの脈が。


 「渡してもらおう」集める手が、群れに目でうながした。「そろえれば、みんな、迷わずに済む。飢えずに済む。あんた一人、閉じておくより、ずっといい」


 群れが、じり、と寄った。いくつもの手が、伸びかけた。リディアの、腕へ。袖へ。胸の石へ。


     *


 「下がって」ユアンが言った。


 剣を抜いた。リディアの、前ではなかった。リディアの、うしろ。飢えた群れと、リディアのあいだに、腫れた肩で、立った。


 「お前が、鐘に着くまでを、稼ぐ」ユアンは言った。前を見たまま。「それが、おれの役だ。──行け」


 けれど、前には、アデルバートの、通さないと言った線があった。剣で割れる線では、なかった。人間の管理は、剣では割れない。割れないなら、すり抜けるしか、ない。


 「ネリ」リディアは言った。「わたし、薄くなる。──見えなく、なる」


 「うん」ネリは言った。こわい、という顔だった。けれど、手を、リディアのほうへ出した。「呼ぶ。見えなくなっても、呼ぶ。手も、出しとく。──だから、戻ってきて」


 リディアは、薄くなった。


 体の輪郭が、うすれる。長衣の目からも、アデルバートの目からも、滑って落ちる。けれど、にごりは、消せなかった。薄くなっても、胸の石は脈を打っていた。にごりの、しみだけは、帳面のうえに残った。


 リディアは、薄いまま、切れ目の口へ寄った。長衣の、脇を。


 「にごりが」アデルバートの声がした。うしろで。「口を、通りました。──記録しなさい。第三封印具、封印線を、内へ、通過。刻を」


 通してしまった、のではなかった。通れるのを、止められなかった。アデルバートは、リディアの体を、つかめなかった。見えないものは、つかめない。けれど、通ったことは、帳面に、書かれた。娘は、逃げた。記録は、逃がさなかった。


     *


 線の内へ、一歩、入った。


 薄くなったまま、リディアは、ふりむいた。線の外に、ユアンと、ネリと、テオが、残っていた。飢えた群れと、白い杭のあいだに。


 群れの手が、ユアンの剣を避けて、線のほうへ伸びた。リディアの、うしろの一人へ。群れから、はぐれて、逃げ遅れた、いちばん細い民が、白い杭の、すぐそばにいた。


 「冥族が、線に触れた」長衣が叫んだ。


 「閉じなさい」アデルバートが言った。声に、急ぎは、なかった。「触れた者は、その場で、封じる」


 白い粉の線が、光った。その細い民の、まわりだけ。粉が円を描いて、飢えて杭に触れただけの一人を、内に閉じた。橋のたもとの、名なしの女と、おなじだった。危ないもの、として。触れた、というだけで。


 助けたい、と思った。線の粉を、消せるかもしれない。けれど、消せば光があふれ、居場所を、いよいよ大きく教える。消しても、消さなくても、誰かが閉じられる。半分は、間に合わない。


 リディアには、閉じた円を割る力も、飢えを消す力も、なかった。薄いまま、円のそばを通るとき、弱い明かりを一つ、置いていくのが、精一杯だった。人を焼く火でも、線を割る光でもない、ただ、そこにいた、と告げるだけの火。それでも、置いた。


     *


 「リディア」ネリの声がした。線の外から。細い、けれど、まっすぐな声。「そっち、行った? ──戻ってきて。手、出してる。ここ」


 その声で、リディアは、自分の輪郭を思い出した。薄くなりすぎると、どこまでが自分か、わからなくなる。ネリの声が、線を引きなおしてくれた。


 リディアは、薄いまま、切れ目まで戻り、ネリの出した手を、内側からつかんだ。


 「ユアン」リディアは言った。「テオも。──線の、内へ。切れ目から。いまなら、長衣が、あの民のほうを、見てる」


 ユアンが、群れへ剣の腹を振って、半歩、下がらせた。その隙に、切れ目へ走る。けれど、最後に、群れの手が、ユアンの腫れた肩を、うしろからつかんだ。ユアンが体をひねって振りほどいた拍子に、肩が、鈍い音を立てた。ユアンの口から、押し殺した、短い息が漏れた。


 「ユアン!」ネリが叫んだ。


 「動く」ユアンは、歯を食いしばって言った。「動く。行くぞ」


 四人は、切れ目を抜けて、白い線の内へ入った。うしろで、飢えた群れが、線の際で止まった。触れれば、あの民のように閉じられる。それを、こわがった。集める手だけが、乾いた目で、線の内のリディアを見ていた。


 「逃げても」集める手は言った。「脈が、教える。あんたも、鐘へ。おれたちも、鐘へ。──同じところで、また会う」


 リディアは、答えなかった。ほんとうだったからだ。


     *


 線の内は、静かだった。


 白い杭の列を、うしろにして、四人は、王都の塔のほうへ歩いた。ユアンは、腫れた肩を、さっきよりも深く、押さえていた。ネリが、その肩に、手をあてた。光をかけても、骨の痛みは、すぐには引かなかった。


 「ごめん」リディアは言った。「あなたの肩を、また」


 「稼ぐって、言った」ユアンは言った。「稼いだ。お前は、通った。──なら、いい」


 いくない、とリディアは思った。学校の迷宮の日と、おなじだった。助けようとして、誰かが痛む。けれど、ユアンは、痛いのに、いい、と言った。ゆうべ引きうけた危険が、いま、手で触れば熱を持つ腫れに、なっていた。


 「テオ」リディアは言った。「脈は」


 テオが、指を折った。


 「八」テオは言った。「──さっきは、十二だった。線を、一つ越えたら、八になった。鐘に、それだけ、近い」


 リディアは、胸の石を押さえた。脈は、さっきより速かった。指を、鎖にかけて──止めた。外せば、脈は止まる。けれど、外せば、居場所を、もっと大きく教える。それに、いる、と告げられなくなる。外さない。指を、離した。


 「向こうも、来る」テオが、線の外を、ふりむいて言った。「線の、際で止まってるけど。──脈が、教えてる。あいつら、別の口を、探す。線を、越える道を」


 「うん」リディアは言った。「先に、鐘に着く」


     *


 丘を、もう一つ越えた。


 王都の、外壁が、見えた。灰色の雲が、その上に、低くたまっていた。壁の内に、塔がいくつも立って、そのいちばん高い、細い塔のそばに、鐘楼があった。


 鐘楼から、音が、こぼれていた。


 誰も鳴らしていないのに、鳴っていた。ひとつ鳴るたびに、ひびの入った、濁った尾を引いた。その音が届くほどに、壁の内の名前が、いくつも薄れていくのが、ここからでも感じられた。名前の抜けた、しずけさ。


 その鐘楼の下に、白い光が、一つ、灯っていた。


 リディアは、足を止めた。あの光を、知っていた。嵐ではない。静かな、深い、底の見えない光。いつか、迷宮の天井を割って降りてきた、あの光。


 母だった。


 母が、鐘楼の下に、ひとりで立っていた。狂った鐘を、いちばん強い封じの手で押さえていた。集める手と、飢えた民と、狂った鐘。そのぜんぶのあいだに、母だけが、立っていた。


 「お母さん」リディアは、小さく言った。声は、届かなかった。まだ、遠すぎた。


 脈が打った。いままででいちばん、強く。母のいる鐘へ、石が応えていた。あと、いくつか丘を越えれば、壁の門に着く。


 けれど、壁の外には、黒い鳥の流れと、飢えた民の群れが、リディアたちより先を行っていた。集める手が探すと言った、別の口から。壁のどこかの綻びを、母のいる鐘のほうへ。


 「間に合うか」ユアンが言った。


 リディアは、答えなかった。わからなかった。


 わかっていたのは、一つだけだった。あの鐘のところで、じきに、ぜんぶが、ひとつの場所でぶつかる。散ったものを集めたい者と、封じて閉じたい者と、そのあいだに立つ母と、そのどちらにも渡さない、と決めた自分が。


 「行こう」リディアは言った。腫れた肩のユアンと、ネリと、指を折るテオと、四人で。壁の門のほうへ、母の光のほうへ、丘を下りはじめた。


 胸の石が、鳴っていた。ここに、最後の一つが、あります、と。誰にでも、聞こえる大きさで。


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