石が、居場所を教える
北へ向かう道で、荷車が一台、止まっていた。
御者の男が、手綱を握ったまま、道の先をじっと見ていた。馬は、道ばたの草を食んでいた。誰も、急いでいなかった。
リディアたちが横を通ると、男がふりむいた。
「すまない」男は言った。「おれは、どこへ、行くところだったかな」
リディアは、足を止めた。
荷台には、麦の袋が積んであった。北から南へ運ぶのか、南から北へ運ぶのか、荷を見てもわからない。男自身も、それを思い出せずにいた。
「北へ、行くところだったんじゃない?」ネリが、おずおずと言った。
「北」男は、その言葉を口のなかで転がした。「そうか。北か。……北に、なにが、あったかな」
テオが、荷車のそばで、指を一つ折った。
「名前じゃない」テオは、小さく言った。「この人の名前は、まだある。──行き先だけが、抜けてる」
「行き先?」
「どこへ行くか。なにをしに来たか。それが、薄い」テオは、道の北のほうを見た。「奪われるのとは、ちがう。もっと、ぼんやりしてる。──波みたいに、寄せてる」
リディアは、道の北へ目をやった。
空の低いところに、灰色の雲がたまっていた。その下に、中央がある。王都がある。誰も鳴らしていないのに、ひとりでに鳴る鐘がある。
鐘が鳴るたびに、王都じゅうの名前が、一度に薄れる。あの伝令は、そう言った。いま、それが、王都を越えて、この街道まで届きはじめている。王都のほうから、順に。名前より先に、まず行き先から。人が、どこへ向かっていたのかを、忘れる。
「進もう」リディアは言った。「わたしたちが、ここで一緒に思い出そうとしても、また波が来る。それより、行き先が薄れないうちに、行かないと」
御者に、北の町の名を一つ言い置いて、離れた。男は、うなずいたが、その名も、いつまで持っていられるか、わからなかった。
ユアンが、腫れた肩を押さえて、荷車を見送った。
「先に、忘れる病か」ユアンは言った。「剣で、どうにかできねえやつだ」
「うん」リディアは言った。「でも、鳴らしてるやつは、いる。剣の届くところに」
*
半日歩くと、川のそばに、宿場町があった。
橋のたもとに、天幕が張ってあった。魔術院の紋。灰色の布に、白い環の刺繍。橋を渡る者は、みな、そこで足を止められていた。
検めだった。橋の前に、番人が二人。台の上に、水晶が一つ置いてある。旅人が近づくと、番人が水晶に手をかざさせ、にごりを見る。前に王都の門で、リディアが受けたのと、おなじものだった。
「増えてる」テオが、低く言った。「王都の門だけじゃない。こんな街道の橋にも、検めを置いてる」
「鐘が、狂ったからだ」リディアは言った。「みんな、こわがってる。だから、閉める」
守るために、閉める。橋を、門を、名前を。リディアは、それを知っていた。王都で、自分がそうされた。保護という名で、鍵は外側だけについていた。
番人が、前の旅人の水晶を見て、うなずいた。旅人が橋を渡っていく。次は、リディアたちだった。
「石」ユアンが、小声で言った。リディアの胸のあたりを、目でさした。「にごるんじゃ、ねえのか」
リディアは、答えなかった。わからなかった。
番人が、リディアに水晶をさし出した。リディアは、手をかざした。
水晶は、灰色に、少しだけ、くもった。
番人は、それを見た。
けれど、番人の目は、リディアの顔の上を、するりと滑った。次の旅人を探すように。まるで、いま手をかざした者が、そこにいなかったみたいに。
「……次」番人は言った。リディアにではなく、リディアの後ろの誰もいない空間に向かって。
リディアは、橋を渡った。心臓が、鳴っていた。
いつもは、いやだった。見つけてもらえないこと。目が滑ること。いまは、それが、橋を渡らせた。にごった水晶を見ても、番人は、にごらせた者を、覚えていられなかった。
どうして自分にだけ検めが効かないのか、リディアには、やはりわからなかった。ただ、助かった、とだけ思った。
橋の向こうで、ユアンとネリとテオが追いついた。ユアンの顔が、こわばっていた。
「あんなの、初めて見た」ユアンは言った。「番人が、お前を、見なかった」
「うん」
「便利だな」ユアンは言った。それから、言い直した。「──いや。便利じゃ、ねえな」
リディアは、うなずいた。便利ではなかった。
*
橋を渡ったところで、声が上がった。
女が一人、番人に、腕をつかまれていた。橋の、川下の側。三十くらいの、荷売りらしい女だった。
「放して」女は言った。「わたしは、この町の者だよ。毎日、橋を渡ってる。放しておくれ」
「名を言え」番人が言った。
女は、口を開いた。そして、止まった。
止まったまま、動かなくなった。
リディアには、その一瞬が、見えた。女が名を言おうとして、その名が、口にのらなかった。さっきまで、言えていた名が。
鐘の波が、来たのだ。ちょうど、いま。この女の上を、通った。
「名を、言え」番人は、もう一度言った。
「わたしは……」女の声が、震えた。「わたしは、──思い、出せない。さっきまで、あったのに」
番人の顔が、変わった。おそれの色だった。番人は、女の腕を、強くつかんだ。
「名なし」番人は、もう一人の番人に言った。「連れていけ。にごりの、疑いだ」
「ちがう」女は言った。「わたしは、この町の。魚を、売って。子どもが、いて──」
「名を言えないやつは、通せない」番人は言った。声が、少し、うわずっていた。「決まりだ。総長の、じきじきの達しだ」
女は、川下の、もう一つの天幕へ、引かれていった。橋のたもとの、検めの天幕とは、ちがう天幕。入り口の垂れ布が、外から縄で結わえてあった。鍵の代わりの、縄。
女は、名前を奪われた。それだけで、危ないもの、あつかうべきもの、閉じておくものに、なった。
リディアは、その天幕を、見ていた。
あそこに入れられるのが、どういうことか、リディアは知っていた。名前では、呼ばれない。少女ではなく、保持者。人ではなく、名なし。そういう言葉で、呼ばれる。
「行こう」テオが、小さく言った。「見てると、番人が、こっちを見る」
わかっていた。ここで騒げば、四人が検めをやり直しになる。ユアンは名を言える。ネリも。テオも。けれど、リディアの水晶は、にごる。番人の目が、もう一度こちらへ向けば、こんどこそ、あの女の隣の天幕へ、リディアが入ることになる。
わかっていて、リディアは、天幕のほうへ、一歩、寄った。
「リディア」ユアンが、押し殺した声で言った。
「すぐ、戻る」
リディアは、しゃがんだ。天幕の、縄で結わえた垂れ布の、下の隙間。そこへ、手をやった。
指を向けて、願う。消して、と思うのとは、逆のことを。
小さな、弱い明かりが、指先に灯った。人を焼く火ではない。ものを壊す光でもない。だれかが、いた、とだけ告げる、弱い火。
リディアは、それを、垂れ布の下の隙間から、そっと天幕のなかへ置いた。
「聞こえる?」リディアは、隙間に口を寄せて、言った。声は、小さかった。「名前は、いま、言えなくても。──あなたは、ここにいた。魚を、売ってた。子どもが、いる。それは、消えてない」
天幕のなかで、女が、短く息を吸う音がした。それから、小さく、泣くような息が漏れた。
名前は、戻せなかった。リディアには、奪われた名を、取り返す力はない。閉じた天幕を、開ける力もない。できたのは、弱い明かりを一つ、置くことだけだった。
それでも、置いた。
リディアは、立ちあがった。番人が、川上のほうを向いている、その隙に、天幕から離れた。
*
町の外れの、荒れた畑のあいだで、四人は、火を焚かずに休んだ。橋の町では、火をたくと、番人の見回りに見つかる。
日が落ちると、川のほうから、におうものがあった。
乾いた、におい。土のような、灰のような。リディアは、それを、知っていた。地の底で、名前をほしがって寄ってきた、あの気配。
「来てる」リディアは言った。小声で。「一つ。──飢えてる」
ユアンが、剣に手をかけた。リディアは、その手を、押さえた。
「待って」
畑の畝の向こうに、それが、いた。
人の形をしていた。けれど、ひどく細かった。ぼろの外套。落ちくぼんだ目。冥族だった。地の底の、いちばん下から昇ってきた、飢えた民の、一人。
その冥族は、リディアたちを見て、けれど、襲ってこなかった。川下の、あの天幕のほうへ、顔を向けていた。名前を奪われた者の、閉じられた天幕のほう。そこに、食べるものが、あるとでも言うように。
「あんたたちは」冥族は、しわがれた声で言った。「南から、来たのか」
「うん」リディアは言った。
「なら、知らないだろう」冥族は言った。目が、遠くを見ていた。「王が、帰ってくる」
その言葉に、聞き覚えが、あった。ガルドが掘り場で読んだ、あの一行。帰る王。
「散ったものを、集めるんだ」冥族は、そらんじるように言った。誰かに、そう教わったみたいに。「割られて、あちこちに隠されたもの。それを、ぜんぶ、集めて、そろえる。そろえば、もとに戻る。王が戻れば、おれたちは、もう、迷わなくて済む。飢えなくて、済む」
「だれが」リディアは言った。「だれが、そう言ってるの」
冥族は、答えなかった。ただ、うっとりと、川下の、灰色の雲の下の、中央のほうを見ていた。
「行くんだ」冥族は言った。「みんな、行く。鐘のところへ。──あそこに、いちばん大きい、散ったものがある。あれを、そろえれば、王が、いちばん、早く帰る」
リディアは、その冥族の、飢えた目を見た。憎めなかった。前に、境の向こうで見た、飢えた子どもたちと、おなじ目だった。この冥族は、悪い者ではない。ただ飢えていて、だれかに、集まれば救われる、と言われて、信じている。
「そろえなくても、いい」リディアは、言った。
冥族が、リディアを見た。
「ばらばらの、ままで」リディアは、言葉を探しながら言った。うまく、言えなかった。「一つに、しなくても。──いる。それだけで、いいんじゃないの。あなたは、ここにいる。集めなくても、あなたは、消えてない」
冥族は、しばらく、リディアを見ていた。それから、ゆっくりと、首を横に振った。
「あんたの言うことは」冥族は言った。「あたたかくない。おれたちを、あたためない」
その言葉は、前に、聞いたことがあった。境の向こうの、ミラの言葉と、似ていた。こちらとそちらは、ちがう火で燃えている、と。
冥族は、立ちあがった。川下へ、中央のほうへ、ふらふらと歩きだした。集める声に引かれるように。リディアの弱い明かりは、その背には届かなかった。
リディアは、追わなかった。追っても、止められないと、わかっていた。
*
その夜、リディアの胸の石が、脈を打った。
地の底では、ずっと、冷たいだけだった。鐘から遠かったから。けれど、いま、北へ近づいて、その石が、ひさしぶりに、脈を打った。
とくん、と、一つ。
鐘の音は、聞こえない。ここからでは、遠すぎる。それでも、石は応えた。誰も鳴らしていないのに狂う、あの鐘に。核どうしが、呼び合っている。リディアの胸のなかの、まだ名の知れないものと、遠い鐘のなかのものが。石は、その呼び合いを、ただ中継していた。
リディアは、胸の石を手で押さえた。
こわかった。この脈は、近づくほど強くなる。呼び合いが強くなれば、集める手に、こちらの居場所を、教えてしまう。ここに、最後の一つが、あります、と。石が、鳴って、教える。
外せば、脈は止まる。石を外せば、呼び合いは切れる。
リディアは、指を鎖にかけた。かけて、止めた。
外さない、と、灰のそばで決めた。消しもしない。消えもしない。いる、と告げる。それだけは、もう、ぶれなかった。
外せば、この脈は消える。けれど、外せば、あふれる光が、もっと大きく、居場所を教える。それに、外したら、いる、と告げられなくなる。また、消える側に、戻ってしまう。
リディアは、鎖から、指を離した。
「脈、してるだろ」テオが、暗がりで言った。眠っていなかった。「顔に、出てる」
「うん」
「近づくほど、強くなる」テオは言った。「数えとく。どれくらいで、来るか。──石が、鐘に、どれくらい近いか」
「ありがとう」リディアは言った。
テオは、指を一つ折った。数え始めた合図だった。
*
朝、川に沿って北へ歩くと、灰色の雲の下に、王都の外壁のいちばん高い塔が、遠く見えた。
その空を、黒い鳥が飛んでいた。一羽ではなかった。いくつも、おなじほうへ、まっすぐ王都のほうへ流れていく。地の底から昇った飢えた民が、道を、川べりを埋めて、おなじほうへ歩いていた。集める声に引かれて。
リディアたちより、ずっと先を。
「越された」ユアンが言った。「あいつら、おれたちより、鐘に早い」
リディアは、鳥の流れを見ていた。あの下に、母がいる。白暁の魔女が、狂った鐘のそばへ呼び戻された。いちばん強い封じの手が要るから、と。ひとりで。集めに来る手と、狂った鐘のあいだに、母だけが立っている。そこへ、あの飢えた民が、先に着こうとしている。
街道は、川に沿って、大きく西へ曲がっていた。橋を渡り、町を抜け、遠回りに王都の門へ向かう、人の歩く安全な道。その道を行けば、あの黒い鳥の流れには追いつけない。母より先には、着けない。
リディアは、街道を外れた。
畑と荒れ地の向こう、王都の塔へまっすぐ向かう、道のないほう。そこへ、足を踏み入れた。
「そっちは」ネリが言った。「道が、ないよ」
「うん」リディアは言った。「でも、近い」
胸の石が、また脈を打った。さっきより、強く。北へ、鐘へ、近づいた分だけ。
わかっていた。この脈が、集める手に、ここにいると教えてしまう。近づくほど、石は強く鳴る。近づくほど、見つかる。──それでも、止まらなかった。
「たぶん、鐘に着く前に、来る」リディアは、ふりむかずに言った。「集める手が。母さんに、間に合う前に。──わたしたちに、先に」
うしろで、剣の鞘が鳴った。
「なら、稼ぐ」ユアンが言った。腫れた肩を、片手で押さえて。「お前が鐘に着くまでを。──それが、おれの役だ」




