散ったものを、集める
朝の霧が、掘り場の底に、たまっていた。
ガルドは、ゆうべのまま、土に耳を当てていた。火は、白い灰になっていた。誰も、くべ足さなかった。
ユアンは、掘った土の山にもたれて、眠っていた。腫れた肩を、右手で押さえたまま。ネリが、その隣で膝を抱えて座っていた。眠っていなかった。ときどき、ユアンの肩に、そっと光を当てていた。骨の痛みは、光では引かない。それでも、当てていた。
リディアは、灰のそばで、自分の手を見ていた。
ゆうべ、この手で、グレイヴの腹のいちばん奥に、明かりを一つ置いた。消す火ではなかった。だれかが、いた、と告げるだけの、弱い火。
勝った、はずだった。外さずに。石の力でなく。稽古でおぼえた技と、四人の手で。
それなのに、勝った気が、しなかった。
グレイヴは、坑道の奥へ退いただけだった。倒していない。倒さなかった。あの子の走っていた村を、消さなかったから。村は、残った。怒りも、残った。グレイヴは、また来る。
リディアは、胸の石に手を当てた。冷たかった。ただ、冷たかった。
「起きてるのか」
ガルドが、土から顔を上げた。
「うん」リディアは言った。「ねむれなかった」
「そうか」ガルドは、灰に枝を一本さして、また土に耳を戻した。「おれもだ」
リディアは、枝で、灰をひっかいた。ゆうべ描いた円が、まだ、うっすら残っていた。グレイヴのかたち。真ん中の点。あそこへ、自分から入って、明かりを一つ、置いてきた。
消していたら、と、また思った。消していたら、村ごとなくなって、グレイヴは二度と来ない。ユアンの肩も、腫れずにすんだ。ネリも、こんなにこわい顔を、しずにすんだ。
消さなかった。だから、終わらなかった。
それが正しかったのか、まだ、わからなかった。ただ、あの子が走っていたから。消したら、走っていたことも、なかったことになる。それだけは、いやだった。
*
「ガルド」リディアは言った。「ゆうべから、なにを、聞いてるの」
ガルドは、しばらく答えなかった。
「足音だ」やがて言った。「地の底の、いちばん下を踏んでる。重いのが、いくつも。ばらばらじゃねえ。──そろって、こっちに足を向けてる」
「グレイヴみたいな?」
「グレイヴは、ひとりだ」ガルドは言った。「こいつは、ちがう。ひとりじゃねえ。たくさんが、おなじほうを、向いてる」
リディアは、ゆうべ坑道の口から吹いてきた風を、思い出した。土のにおい。地の底の、いちばん下の土のにおい。冷たいのに、怒りではなかった。もっと遠い、もっと大きなところから来る風。
「わたしの石は」リディアは言った。「冷たいだけ。鐘と呼び合うときの、あの脈は、ない。──だから、鐘じゃない。もっと、下」
ガルドは、リディアを見た。
「よく、わかるな」
「わからない」リディアは言った。「でも、鐘のときとは、ちがうって、それだけは、わかる」
テオが、いつのまにか起きて、高い岩の上に座っていた。膝を抱えて、坑道の口のほうを、じっと見ていた。
「ゆうべ」テオが言った。「グレイヴが下がったとき、あいつ、坑道の奥を、一回、振り返った」
「振り返った?」
「うん」テオは、指で一つ数えた。「まるで、自分の後ろにも、なにか来てるのを、知ってるみたいに。──グレイヴが、下がる側になってた」
リディアは、灰を見た。
グレイヴは、退いた。押し返されて。でも、それだけじゃなかったのかもしれない。あの大きな体が、自分より大きいものに、道を、あけたのかもしれない。
*
昼をすぎて、外縁の道のほうから、足音が来た。
乾いていない足音だった。息を切らして、土を蹴って、走ってくる。生きている足音。ガルドが、真っ先に立った。
若い男だった。探索者ギルドの、灰色の外套。片方の脛から血が出ていた。ガルドの顔を見て、その場に膝をついた。
「ギルド長」男は言った。声が、震えていた。「中央から、報せです。三つの、封じられた、うちの──」
「落ちつけ」ガルドは、男の肩を押さえた。「水を飲め。それから、頭から言え」
男は、水袋の水を、半分こぼしながら飲んだ。それから、言った。
中央の教会で、祈りの鐘の音が、狂いはじめた。誰も鳴らしていないのに、勝手に鳴る。鳴るたびに、王都の人の名前が、一度にいくつも、あやふやになる。以前、聖域で起きたときの比ではない、と男は言った。
人が、店の前で立ちどまる。なにを買いに来たのか、思い出せずに。母親が、子どもの名を呼びかけて、口をつぐむ。市場が、しんとする。名前の抜けた、しずけさ。──それが、鐘の鳴るたびに、波のように王都じゅうへ広がるのだと、男は言った。
教会は、鐘のまわりを閉ざした。大司教セラフィナが、五柱すべてに報せを出した。
「それから」男は言った。「白暁の魔女が、呼び戻されました。鐘のそばへ。──いちばん強い封じの手が、要るからと」
白暁の魔女。
その名で呼ばれる人を、リディアは、ひとりしか知らなかった。母だった。
母が、鐘のそばへ。誰も鳴らしていないのに鳴る、狂った鐘の、いちばん近くへ。ひとりで。
ネリが、リディアの顔を見た。ユアンも、土の山から、体を起こしていた。誰も、なにも言わなかった。リディアが母のことをどう思っているか、三人とも、知っていた。
「なぜ、いま」ガルドが言った。「なぜ、鐘なんだ」
男は、外套の内から、蝋で封じた紙を出した。ガルドが、蝋を割った。読むあいだ、掘り場の霧が、しんとしていた。
ガルドの、顔が、動かなくなった。
「読んで」リディアは言った。
ガルドは、しばらく黙っていた。それから、低く言った。
「境の、いちばん下から、声が昇ってきてる、と書いてある」ガルドは言った。「冥族の、たくさんが、おなじ言葉を、口にしてるそうだ」
「なんて」
ガルドは、紙の一行を、読んだ。
「──散ったものを、集める」
*
散ったものを、集める。
その言葉が、掘り場の霧のなかに、落ちた。
リディアには、意味が、半分だけわかった。散ったもの。割られて、あちこちに封じられたもの。怒りと、記憶と、もう一つ。三つに分けられて、器に入れられたもの。
それを、集める。ひとりの、なにかが。地の底の、いちばん下から。
集める。リディアは、ゆうべ、その反対のことをした。グレイヴの腹の、散らばりそうな最後の日に、明かりを一つ置いた。ばらばらのまま、いていい、と告げる火。集めて、そろえて、一つにするのとは、逆だった。
地の底のいちばん下から昇ってくる声は、集めろ、と言う。そろえば、もとに戻れる、と。──ガルドの声に混じった苦いものが、リディアにも、うつった。
「王が、帰る、とも」ガルドは、紙を畳みながら言った。「そう昇ってきてる、と。──帰る王、だとよ」
「王が、帰る」リディアは、くりかえした。
「散ったものを、集めて、みんなを、救う」ガルドは言った。声に、苦いものが混じっていた。「そう言って、まわってるらしい。飢えた冥族のあいだを。──おれは、その手の救いを、知ってる」
ガルドは、灰を、じっと見た。
「昔、外縁で、飢えた冥族の群れを見た」ガルドは言った。「名前をなくした連中だ。そいつらに、ひとつの声が、道を示してた。集まれ、そろえば、もとに戻れる、と。──集まった先にあったのは、救いじゃ、なかった」
ガルドは、それ以上、言わなかった。言わなくても、リディアには、その先が重いことだけは、伝わった。
リディアは、胸の石に手を当てた。
鐘が、狂いはじめた。母が、その鐘のそばへ呼ばれた。地の底のいちばん下から、なにかが、散ったものを集めながら、こちらへ足を向けている。
鐘は、記憶の核。リディアの胸の石と、呼び合うもの。
その鐘を、集めに来る。
「テオ」リディアは言った。「鐘が、次?」
テオは、坑道の口を見たまま、指を、一つ、また一つと、折った。
「グレイヴは、ここにいた」テオは言った。「地の底のもっと下から、大きいのが動いた。中央では、鐘が狂って、母さんが呼ばれた。──三つのうち、一つは、きみの胸。一つは、鐘」テオは、三本目の指を、宙で止めた。「集めるなら、まず、そろえやすいところから」
「鐘から」ネリが、小さく言った。眠っていたと思ったユアンが、土の山から、目を開けていた。
*
「行くのか」
ユアンが、腫れた肩を押さえて、体を起こした。
リディアは、すぐには答えなかった。
ずっと、逃げてきた。三日の杭が立った朝も、なにも言わずに町を出た。地の底では、いちばん下まで埋められて、隠れて、凌いだ。見つからないことが、得意だった。消えることが、いちばん、うまかった。
でも、いま、なにかが、鐘のほうへ歩いている。鐘のそばには、母がいる。鐘は、リディアの石と呼び合う、もう一つの器。
隠れていたら、鐘が集められる。集められたら、次は、たぶん、この胸の石だ。逃げても、消えても、集める手は、追ってくる。地の底の底まで埋められても、届いた乾いた気配のように。
それに、と、リディアは思った。母が、鐘のそばにいる。ひとりで、狂った鐘を抑えている。あの朝みたいに。三日の杭が立った朝も、暴発した地下でも、母は、リディアを守るために、いちばん危ないところに立った。
守られるほうでいるのは、もう、いやだった。
リディアは、灰から、立ちあがった。
「行く」リディアは言った。「鐘の、ほうへ」
自分の口から出た言葉に、自分で、少し驚いた。逃げるほうじゃなく、危ないほうへ。隠れるほうじゃなく、集める手が向かうほうへ。自分から。
連れていくことになる、とも思った。ユアンの肩は、まだ腫れている。ネリは、こわがりだ。テオは、戦えない。危ないほうへ、三人を、連れていく。坑道で、ユアンの肩を腫らせたときの、あの重さを、また抱えることになる。
でも、置いていくのは、もっとまちがっていた。守るために消えるのは、ひとりになることだと、もう、知っていた。
「わたしは、もう、外さない」リディアは言った。「消しもしない。消えもしない。──いる、って、告げる。グレイヴの腹の、あの子に、告げたみたいに」
ガルドが、灰の前で、リディアを見上げていた。
「そいつが」ガルドは言った。「お前の、戦い方か」
「まだ、へた」リディアは言った。「でも、これしか、できない」
「上等だ」ガルドは言った。ぶっきらぼうに。「へたでも、自分ので、立ってる。──ここで教えることは、もう、ねえ」
ガルドは、折った枝を、リディアのほうへ、放った。リディアは、両手で受けた。
「一つだけ、覚えとけ」ガルドは言った。「稽古で、何度も言った。落ちる場所に、さきに火を置け。──これから行くところは、どこに落ちるか、おれにも、わからねえ。だから、お前が決めろ。どこに、火を置くか」
「うん」リディアは言った。枝を、握った。
*
ユアンが、剣を拾って、腰に差した。腫れた肩を、無理にまわして、顔をしかめた。
「肩、まだ、腫れてる」ネリが言った。
「連れてく」ユアンは言った。「治るのを待ってたら、鐘が、なくなる」
「無理、しないで」リディアは言った。
「無理はするさ」ユアンは、笑った。「お前の十秒、稼ぐって、言ったろ。まだ、稼ぎ足りない」
ネリが、両手で、ローブの裾を握った。震えていた。それでも、立った。
「わたしも、行く」ネリは言った。「リディアちゃんが、見えなくなったら、呼ぶ。ここだよって。──何回でも」
テオが、岩から降りた。坑道の口を、最後にもう一度、振り返って、それから、リディアのほうを向いた。
「グレイヴが、どこまで来たか」テオは言った。「鐘が、いつ、狂いはじめたか。母さんが、いつ、呼ばれたか。──ぜんぶ、覚えとく。数えながら、行く」
リディアは、うなずいた。
ガルドが、掘り場の縁で、灰を、土でふさいだ。それから、外縁の道の、北のほうを、あごでしゃくった。中央へ、王都へ、鐘のほうへ、続く道だった。
「気をつけろ」ガルドは言った。「集める手は、お前を、いちばんほしがる。──胸のそれは、まだそろってねえ、最後の一つだ」
リディアは、胸の石に、手を当てた。
冷たかった。鐘と呼び合う、あの脈は、まだ、なかった。でも、近づけば、いつか、脈が来る。狂った鐘と、この石が、呼び合いはじめる。そのときが、いちばん、あぶない。
わかっていて、そのほうへ、歩く。
リディアは、北へ、一歩、踏み出した。
うしろで、ユアンが、剣の鞘を鳴らした。ネリが、走って追いついた。テオが、指を一つ折って、数えはじめた。
四人ぶんの足音が、外縁の土を踏んだ。リディアの足音は、あいかわらず、薄かった。でも、ゆうべまでとは、ちがった。消えるための薄さでは、なかった。行くための、薄さだった。
外縁の道の、ずっと先で、灰色の空の低いところを、黒い鳥が一羽、王都のほうへ、まっすぐ飛んでいった。誰かに、リディアが動きだしたことを、知らせにいくように。
リディアは、それを追わなかった。ただ、鳥とおなじほうへ、自分の足で、歩いた。




