だれかが、いた
朝になっても、ユアンの肩は腫れていた。
ネリが夜のあいだ、何度も光を当てた。切れた傷はふさがったが、骨の奥の痛みは、光では引かなかった。ユアンは左の腕を、肩の高さまでしか上げられなかった。
「剣は、振れる」ユアンは言った。「上からは無理だ。けど、横からなら」
「無理、しないで」リディアは言った。
「無理はするさ」ユアンは、腫れた肩をゆっくりまわした。顔をしかめて、それでも笑った。「十秒、稼ぐって言ったろ」
ガルドが、掘り場の縁に腰を下ろしていた。ゆうべ折った枝の残りを、火にくべていた。
「稼ぐ場所は、足もとじゃねえ」ガルドは言った。「ゆうべ言ったな」
「あいつの、腹」リディアは言った。
リディアは、地面にしゃがんだ。土に指で、大きな円を描いた。グレイヴのかたち。その真ん中に、点を一つ打った。
「ここに、行く」リディアは言った。「いちばん奥。最後の日が、いっぱいある、あそこ」
テオが、しゃがんで円をのぞきこんだ。
「行ったら」テオは言った。「戻れる?」
リディアは、すぐには答えられなかった。
ゆうべは、広がっただけで、ばらばらになりかけた。人の最後の日が何枚も体を通り抜けて、自分のかたちがどこからどこまでか、わからなくなった。あそこへ、もっと奥へ、自分から入っていく。戻れる、とは言えなかった。
「わからない」リディアは言った。「でも、行かないと、届かない」
テオは、それ以上聞かなかった。かわりに、高い石を見上げた。
「役を、決めなおす」テオは言った。淡々と。「ユアンは、リディアが奥に届いて、戻ってくるまでを稼ぐ。足もとの的じゃない。長い」
「長くていい」ユアンは言った。「そのために来た」
「ネリは、ユアンを見る。前しか見ないやつだから。傷を、本人が気づく前に」
「うん」ネリの手は、もう握られていた。「見てる。ちゃんと」
「僕は、上から数える。リディアがどこまで行ったか。──姿が消えても。声が届かなくても」テオは、いつもの調子で言った。「どこまで行ったかは、忘れない」
「わたしは」ネリが言った。声が、細かった。「リディアちゃんが、見えなくなるんだよね。薄くなって。どこにいるか、わからなくなって」
「うん」リディアは言った。
「そのとき」ネリは、握った手を、もっと握った。「わたしが、呼ぶ。ここだよって。手を、こっちに出して、待ってる。……それで、合ってる?」
「合ってる」テオが言った。「戻る道は、声だ。きみの声が、いちばん近い」
ネリは、こわい顔のまま、うなずいた。「じゃあ、離さない。手も、声も」
リディアは、円の真ん中の点を、指で押さえた。
「わたしは、あそこに、火を置く」リディアは言った。「消す火じゃない」
ガルドが、火から目を上げた。
「消す火じゃ、ねえのか」
「消したら」リディアは言った。「あの村が、ぜんぶ、なくなる。グレイヴの抱えてる村が」
言いながら、少しずつ、わかってきた。
「消すんじゃなくて。……いる、ってわかる、火。くらいところに、一つ」
ガルドは、しばらく枝を折る手を止めていた。それから、火に一本くべた。
「わかった」ガルドは言った。「行ってこい。糸の端は、そいつが持ってる」
テオが、うなずいた。
*
坑道の口の奥で、重いものが、動いた。
四人が近づくと、それは、ゆうべとおなじように出てきた。背を丸め、黒い槍を引きずって。近づくだけで、空気が重くなる。リディアの薄さが、奥へ引かれた。
グレイヴの、底のない目が、四人を見た。それから、リディアの胸の石で止まった。
「また来たか」グレイヴは言った。「懲りねえな。閉じる側は」
「来た」リディアは言った。
「きょうも、外さねえのか」
「外さない」
グレイヴの腹のあたりが、ぐらりと揺れた。ゆうべとおなじ、においが来る。焼けた木。崩れた土。途中で途切れた煙。
けれど、きょうは、逃げなかった。
「ユアン」リディアは言った。
「おう」
ユアンが、前に出た。腫れた肩をかばって、剣を横に構えた。グレイヴの一歩めを、刃の腹で受け流す。受けきれずに、後ろへ滑る。それでも、足は止めた。
「行け」ユアンは、振り返らずに言った。「十でも、二十でも、稼ぐ」
リディアは、広がった。
*
薄くなって、空気にまじる。ゆうべは、ここで戻ろうとした。きょうは、戻らなかった。
流れこんでくる最後の日に、逆らわなかった。
焼けた村。崩れた砦。倒れた者の、いちばん終わりの声。それが、いっぺんに来る。ゆうべは、これに押されてばらばらになった。きょうは、押されるまま、その流れの上流へ、自分から昇っていった。
においが濃くなる。人の声が近くなる。子どもを呼ぶ声。返事のない声。
一枚、また一枚と、通り抜けていく。逃げ遅れた足。閉じていく門。土をかく指。どれも、よその誰かの、生きていた最後の日だった。上へ昇るほど、日は古くなり、重くなった。
ばらばらになりそうだった。指の先が、煙にとけていく。
外せば、と、いつかの声がした。外せば、こんな奥まで来なくていい。指を向けて、消して、と思うだけで。
けれど、リディアは、もう鎖に手をやらなかった。
外したら、この村が消える。いま昇ってきた、この最後の日が、まるごと消える。それは、間に合うことでも、勝つことでもなかった。ただ、なかったことにするだけだった。
昇りつづけた。
「まだ行ける」テオの声が、遠くから降ってきた。「もっと奥。いちばん、上まで」
声をたぐった。ゆうべ、稽古でおぼえたやり方だった。どこまでが土で、どこからが自分か、わからなくなったら、テオの声を糸にして戻る。きょうは、戻るのでなく、その糸をたどって、もっと奥へ昇った。
いちばん上に、一枚の最後の日があった。
いちばん古くて、いちばん重い日だった。線を引かれて、中に人がいたまま閉じられた、はじめの村。焼ける前の、まだ人のいた村のにおいがした。煮炊きの煙。干した草。だれかの笑い声。
その村に、ひとりだけ、逃げた子どもがいた。
小さな背中が、燃える村を振り返らずに、走っていた。振り返ったら、動けなくなるのを、知っているみたいに。
その子が、まだ、そこにいた。ずっと、走っていた。たったひとりで、ずいぶん長いあいだ。
*
リディアは、その小さな背中の、すぐそばに、火を置いた。
消す火ではなかった。蝋燭ひとつぶんの、弱い明かりだった。燃やしもしない。焼きもしない。ただ、くらいところに、一つ、ともった。
だれかが、いた。
その明かりは、そう言っているだけの火だった。焼けた村に、崩れた砦に、返事のない声に。あなたは、なかったことじゃない。ここに、いた。
流れが、止まった。
いっぺんに来ていた最後の日が、明かりのまわりで、ふっと、しずまった。ちぎれそうになっていた記憶が、一枚ずつ、置き場所に戻るように、静かになった。
グレイヴの、大きな体が、止まった。
*
「テオ」リディアの声が、薄いまま、外へ届いた。「いま」
グレイヴの腹の流れが止まったあいだ、グレイヴは、ひとつのことしか、できなかった。
十のあいだに、十のことをしていた相手が、いまは、一つ。
「右」テオが、上から数えた。「グレイヴ、右手だけ。槍を上げる。ユアン、左があく」
ユアンが、左へ踏みこんだ。腫れた肩では、上からは打てない。だから、下から、すくいあげるように、剣をグレイヴの膝の裏へ入れた。
大きな体が、片膝をついた。
「ネリ」テオが言った。
ネリが、走った。けれど、きょうは、ユアンの傷にではなかった。リディアのいた場所へ。薄くなって、どこにいるかわからなくなったリディアの、その空気のあたりへ、両手を差し出した。
「こっち」ネリが、ふるえる声で言った。「もう、戻ってきて。ここにいるよ。手、ここ」
リディアは、明かりをいちばん上の最後の日に残したまま、その声のほうへ、体を集めはじめた。
流れが止まっているのは、長くはもたない。明かりは、蝋燭ひとつぶん。じきに、また、最後の日が動きだす。
でも、それだけあれば、足りた。
*
グレイヴは、片膝をついたまま、動かなかった。
腹のなかの明かりを、見ているようだった。底のない目が、はじめて、四人でも、リディアの石でもない、どこか遠いところを見ていた。
「──だれが」グレイヴは言った。低い声だった。「だれが、ともした」
リディアは、ネリの手のなかで、半分だけ体を集めながら、答えた。
「わたし」
「消さなかった」
「消せなかった」リディアは言った。「あの子が、まだ、いたから」
グレイヴは、長いあいだ、黙っていた。腹の明かりは、まだ、ともっていた。
やがて、片膝を立てて、体を起こした。槍を引きずって、坑道の口へ、一歩、下がった。
「奪われた者に」グレイヴは言った。「行儀よく待て、と言うな」
「言わない」リディアは言った。
「お前は、閉じる側だ。胸に、蓋をつけている」
「うん」
「なのに、腹に、火を置いた」グレイヴは、また一歩下がった。「閉じる側の火じゃ、なかった」
リディアは、なにも言わなかった。自分でも、どちら側の火なのか、わからなかった。閉じる側にも、あの村の側にも、立てなかった。ただ、あの子が、まだそこにいたから、明かりを置いた。それだけだった。
「お前は、いつか、扉の前に立つ」グレイヴは、暗がりへ、退きながら言った。「閉じるのでも、破るのでもない立ち方を、探すつもりか。──そんなものは、ない」
「まだ、ない」リディアは言った。「けど、探す」
「探して、見つからなかったら」グレイヴは言った。
「それでも」リディアは、ネリの手のなかで言った。「あの子が、走ってたこと、忘れない」
グレイヴの、退く足が、ほんの少し、止まった。
「──あの子は」グレイヴは、低く言った。「もう、走らなくていい村を、探してただけだ」
「うん」リディアは言った。
グレイヴの底のない目が、リディアを、もう一度だけ見た。
それから、坑道の暗がりに、体を沈めていった。倒れたのではなかった。逃げたのでもなかった。押し返されて、退いた。きょうは、四人の四つが、グレイヴの一つに、届いた。
*
夜になった。
四人は、ちいさな火を囲んで座っていた。勝った、はずだった。グレイヴを、坑道の奥へ退けた。外さずに。石の力でなく、稽古でおぼえた技と、四人の手で。
なのに、胸の奥は、重かった。
ユアンの肩は、まだ腫れていた。勝っても、腫れは引かなかった。ネリが何度光を当てても、骨の痛みは、時間しか治せなかった。
「腹の火は」リディアは、ガルドに聞いた。「もう、消えた?」
「消えたろうな」ガルドは、火を見たまま言った。「蝋燭一本だ。あいつの腹には、村がいくつもある。ひとつに明かりが点いても、ほかは、まだ暗ぇ」
「じゃあ、グレイヴの怒りは」
「消えねえ」ガルドは言った。「村は、戻らねえからな。お前が消さなかったってことは、村が、まだそこにあるってことだ。──怒りも、いっしょに」
リディアは、うなずいた。
消していたら、村ごとなくなって、グレイヴは、たぶん、二度と来ない。消さなかったから、村は残った。怒りも残った。グレイヴは、また来る。
倒しきらないほうを、選んだ。だから、終わらなかった。リディアは、それでよかったのか、まだ、わからなかった。
「でも」テオが、火の向こうで言った。「グレイヴ、最後、こっちを見て、下がった。ゆうべは、『見せに来ただけだ』って、自分から帰った。きょうは、ちがう」テオは、指で、ひとつ数えた。「押されて、下がった。それは、覚えとく」
ユアンが、腫れた肩を押さえて、笑った。
「十秒」ユアンは言った。「きょうは、稼げた」
リディアも、少しだけ、笑った。
そのとき、坑道の口の、ずっと奥のほうから、風が来た。
ゆうべの、怒りのような冷たい風ではなかった。もっと遠い、もっと大きなところから来る風だった。土のにおいがした。地の底の、いちばん下の土のにおい。リディアが、地の底の最深房で嗅いだ、あのにおい。
ガルドが、火から顔を上げた。掘り場の土に、耳を当てた。しばらく、動かなかった。
「──踏んでる」ガルドは、低く言った。「地の底を。重いのが、いくつも。グレイヴどころじゃねえ。もっと大きいのが、動きはじめた」
リディアは、胸の石に、手を当てた。
石は、冷たかった。ただ、冷たかった。鐘と呼び合うときの、あの脈は、なかった。これは、鐘とはちがうものだった。名前も知らない、もっと下の、もっと大きなものが、地の底の底で、こちらへ足を向けていた。
グレイヴを、退けたばかりだった。
なのに、その足音は、グレイヴよりも、ずっと重かった。




