外せば、勝てる
坑道の口から、それは出てきた。
ゆうべ、リディアが奥までのぞきに行ったときは、暗がりにただ立っていた。いまは、ちがった。向こうから、こちらへ、ゆっくりと体をかしげて出てくる。
大きかった。背を丸めなければ、坑道の天井につかえる。肩から、夜を削ったような黒い槍が伸びていた。
近づくだけで、空気が重くなった。
リディアの薄さが、奥へ引かれそうになる。ゆうべと、おなじだった。立っているだけで、まわりのものを自分のほうへたぐり寄せる。
「テオ」リディアは言った。
「数える」テオは、もう高い石の上にいた。「上から見てる。きみがどこにいるか、ぜんぶ言う」
ユアンが、剣を抜いた。リディアのすぐ後ろに立った。ネリは、ユアンの斜め後ろで、ローブの裾を両手で握っていた。
ゆうべ稽古した、あの並びだった。
「来るぞ」ユアンが言った。「俺が、十、数える。お前は、ととのえろ」
リディアは、息を吸った。
はじめて、自分で決めた場所に、立っていた。ユアンの前。火を置く場所。広がって、消える場所。
グレイヴが、坑道の口を、完全にくぐった。
赤くも青くもない、底のない目が、四人を見た。それから、リディアの胸の、石のあたりで止まった。
「また来たか」グレイヴは言った。「閉じる側の、におい」
*
はじめは、噛み合った。
ユアンが前に出た。グレイヴの一歩めを、剣で受けた。受けきれずに後ろへ滑ったが、足は止めた。
「いま」ユアンが言った。
リディアは、広がった。
体が薄くなって、空気にまじっていく。グレイヴの足もとに、さきに火を置いた。来る前に、置いておく。ゆうべ、ガルドに何十回もやらされた。落ちる場所に、さきに。
火は、置けた。
「右」テオの声が、上から降ってきた。「グレイヴ、右の足を出す。リディア、右に火がある」
リディアは、見えなかった。広がると、自分の置いた火も、ぼんやりとしか感じられない。けれど、テオの数があった。右、と言われれば、右がわかる。
グレイヴの右足が、火を踏んだ。
大きな体が、ほんの少し、つんのめった。
「ネリ」テオが言った。
ネリが、ユアンの腕に手を当てた。受けたときに切れた、二の腕の傷に。ユアンが気づく前に、もう手を当てていた。あたたかい光が、傷の縁をふさいだ。
「うん」ネリが、ふるえる声で言った。「見てる。ちゃんと、見てる」
四つが、ひとつになっていた。
ゆうべ、案山子を相手にやったときと、おなじだった。リディアが置く。テオが数える。ユアンが稼ぐ。ネリが見る。
いける、とリディアは思った。
思ってしまった。
グレイヴが、前へ傾いた体を、止めた。
止めて、こちらを見た。底のない目が、リディアの広がったかたちを、まっすぐにとらえた。薄くなっても、見られていた。
「数えているな」グレイヴは言った。「十、数えて、ひとつのことをする。──おれは」
グレイヴの腹のあたりが、ぐらりと揺れた。
*
それは、火でも、風でもなかった。
においだった。焼けた木のにおい。崩れた土のにおい。煮炊きの煙が、途中で途切れたにおい。
リディアの広がった体に、それが流れこんできた。ゆうべも、感じた。グレイヴが腹に抱えている、いくつもの最後の日。一枚も薄れさせずに、たたんで持っている。
ゆうべは、一枚だった。
いまは、いっぺんに、何枚も来た。
焼けた村。崩れた砦。倒れた者の最後の声。子どもを呼ぶ声。呼ばれて返事のない声。──それが十も二十も、いちどにリディアの薄い体を通り抜けた。
ひとつひとつが、よその誰かの、いちばん終わりの日だった。煙の味も、土の冷たさも、抱えた腕のあたたかさも、本物のように体に残った。グレイヴは、それを一枚も薄れさせずに腹に抱えて、いまも歩いている。リディアの名が薄れて消えていくのと、ちょうど反対に。
リディアは、広がっていられなくなった。
ばらばらになりそうだった。薄い体に人の最後の日がいくつも流れこんで、自分のかたちがどこからどこまでか、わからなくなる。指の先が、煙にとけていくようだった。
「リディア」テオの声が、遠かった。「戻って。早く」
戻ろうとした。けれど、十の最後の日が、まだ通り抜けていく途中だった。
その隙に、グレイヴが動いた。
ひとつではなかった。
右の手で槍を薙ぎ、左の手で地を打ち、肩で空気を押した。それが、いっぺんに来た。十のあいだに、ひとつのことをするのではない。十のあいだに、十のことを、いっぺんにする。
ユアンが、前に出た。
「下がってろ、じゃ──」ユアンが言いかけた。
言いかけて、やめた。下がらせない、と決めたのだった。リディアの場所を、背中で守る。前だけを見る。
だから、ユアンは、振り返らなかった。
振り返らなかったから、横から来た槍の石突きが、見えなかった。
鈍い音がした。
ユアンの体が、横に飛んだ。掘った土の山に、背中から落ちた。剣が、手から離れて、地面で跳ねた。
「ユアン」リディアは、戻りかけた体で、叫んだ。
ユアンは、すぐには起き上がらなかった。
*
ネリが、走った。
怖がりのネリが、グレイヴのいるほうへ、走った。倒れたユアンのところへ。両手が、ふるえていた。それでも、止まらなかった。
「ネリ、だめ」リディアは言った。
グレイヴの目が、走るネリを追った。
リディアの胸の奥で、なにかが、ひやりとした。グレイヴが、槍を持ちかえた。倒れたユアンと、駆け寄るネリの、ちょうどあいだへ。
間に合わない、と思った。
テオが、高い石の上から、なにか叫んだ。けれど、その声は、グレイヴの腕の振りには、間に合わない。
リディアは、手を、胸に当てた。
石が、あった。冷たくて、重い。
外せば、と思った。
外せば、いま間に合う。広がるのも十秒も要らない。あの日、迷宮で影の騎士を消したように。指を向けて、消えて、と思うだけ。グレイヴの腹の、十も二十もの最後の日ごと、ぜんぶ。
外せば、勝てる。
はっきりと、そう思った。ゆうべは、ぼんやりした誘惑だった。いまはちがう。目の前でユアンが倒れている。ネリが走っている。外せば、いま、この二人を守れる。
リディアの指が、鎖にかかった。
*
けれど、外したら、と、もうひとりのリディアが言った。
外したら、光があふれる。あふれた光は遠くの冥族に、ここを教える。グレイヴの後ろにいるもっと大きなものを、呼んでしまう。
外したら、胸のなかの石でないものが、目覚めに近づく。
それに──
外して、ひとりでぜんぶ消したら。
ユアンの十秒は要らなくなる。ネリの手も、テオの数も要らなくなる。ゆうべ四つがひとつになりかけた、あれがぜんぶ要らなくなる。
外す、というのは二人を守ることのようでいて。ほんとうは、二人を置いていくことだった。
あの朝と、おなじだった。三日の杭が立った朝、なにも言わずに町を出た、あの朝と。守るために消える。守るために、ひとりになる。それを、もう一度くりかえすところだった。
リディアは、鎖から指を離した。
外さなかった。
かわりに、薄くなった。中途半端に戻りかけていた体を、もう一度、無理やり広げた。最後の日が、まだ通り抜けていて、ばらばらになりそうだった。それでも、広がった。
広がって、ネリとユアンのあいだに、火を置いた。
大きな火ではなかった。蝋燭ひとつぶんの、弱い火だった。グレイヴを消す火ではない。ただ、まぶしいだけの火だった。
グレイヴの槍が、その火で、一瞬、止まった。
まぶしさに、底のない目が、ほんの半呼吸、よそを向いた。
そのあいだに、ネリが、ユアンの襟をつかんだ。小さな体で、ユアンを、土の山の陰へ引きずった。
半分だけ、間に合った。
*
グレイヴが、火を踏み消した。
まぶしさが消えると、底のない目が、また四人を見た。
「外さなかったな」グレイヴは言った。
リディアは、胸に当てた手を、動かせなくなった。
見られていた。指が鎖にかかったのも、離したのも、ぜんぶ。
「外せば、おれを消せた」グレイヴは言った。「腹の村も、ぜんぶ。それでも、外さなかった。──閉じる側らしい。最後まで、蓋を、しめておく」
ちがう、と言いたかった。
外さなかったのは、蓋をしめておきたいからじゃない。二人を、置いていきたくなかったからだ。
けれど、言葉が、出なかった。
グレイヴの言うことは、半分、当たっていた。リディアは、石を外せなかった。外せない子だった。胸についた石を、人のために外すことが、できない子だった。
「奪われた者に」グレイヴは、一歩、踏み出した。「行儀よく待て、と言うな」
空気が、また重くなった。リディアの薄さが、奥へ引かれた。
「お前は」グレイヴは言った。「いつか、扉の前に立つ。閉じる側か、破る側か。──きょうは、まだ、決めなくていい」
グレイヴが、槍を、肩に戻した。
「きょうは」グレイヴは言った。「お前の十秒が、足りないのを、見せに来ただけだ」
*
四人は、坑道の口から、じりじりと下がった。
追ってはこなかった。グレイヴは、坑道の口で、こちらを見ていた。出てきたぶんだけ、また、暗がりへ戻っていった。倒さなかった。倒せなかった。ただ、押されて、退いた。
ガルドの掘り場まで、戻った。
ユアンは、立てた。けれど、左の腕が、まっすぐ上がらなかった。石突きを受けた肩が、腫れていた。ネリが、何度も光を当てたが、ふさがる傷とちがって、骨の痛みは、すぐには引かなかった。
「悪い」ユアンが言った。「振り返らなかった。お前の場所、守るのに、必死で」
「ユアンのせいじゃ、ない」リディアは言った。
「俺の十秒が」ユアンは、腫れた肩を押さえた。「短かった」
リディアは、なにも言えなかった。
ユアンの傷は、リディアが連れてきた傷だった。ゆうべ、いてほしいと言った。いれば危ない、それでもいいか、と聞いた。ユアンは、いいと言った。──その「いい」の代金が、いま、ユアンの肩で、腫れていた。
ゆうべは、言葉だった。危険を分かち合わせる、と頭で思っただけだった。
いまは、ちがった。手で触れば熱を持つ、本物の腫れだった。連れてきてしまった、とリディアは思った。
*
夜になった。
四人は、ちいさな火を囲んで座っていた。誰も、あまりしゃべらなかった。
リディアは、自分の胸の石に、手を当てた。
外さなかった。それは、よかったのだと思う。外していたら、もっと大きなものが、ここへ来ていた。けれど、外さなかったから、ユアンの肩は、腫れたままだった。
外しても外さなくても、誰かが痛い。どちらを選んでも、まるごとは守れない。半分だけ間に合って、半分は間に合わない。ガルドの修行で、何度もそうだった。落ちる場所にさきに火を置いても、ロウの足首は折れた。きょうも、おなじだった。火は置けて、ネリは引きずれて、それでもユアンの肩は腫れた。
いつか、ミラの言ったことを思い出した。こぼれるものが、まだあるのね。それは、わるいことではない。──いまは、こぼれなかった。涙も出なかった。ただ、胸の奥が重かった。
「テオ」リディアは言った。「グレイヴは、なんで、止まらなかったの」
テオは、火を見ていた。
「十のあいだに、十のことをするから」テオは言った。「ユアンが、一つ受ける。きみが、一つ置く。僕が、一つ数える。ネリが、一つ手を当てる。──四人で、四つ。グレイヴは、ひとりで、十」
「足りないってこと」
「足りない」テオは言った。「いまのやり方じゃ」
火が、ぱちりと鳴った。
ガルドが、火の向こうで、枝を折っていた。ずっと、黙って見ていた。
「十秒を、長くしようとするな」ガルドが、言った。
リディアは、顔を上げた。
「十のあいだに、十のことをする相手に」ガルドは言った。「十秒、稼いでどうする。二十秒あっても、足りねえ。──稼ぐ場所が、ちがう」
「じゃあ」リディアは言った。「どこを」
ガルドは、折った枝を、火にくべた。
「あいつの十のうち、九は」ガルドは言った。「腹の、死んだ村だ。村が、あいつを動かしてる。──火を一つ置くなら、あいつの足もとじゃねえ。あいつの、腹に置け」
リディアは、息を止めた。
腹に。グレイヴの、抱えている、十も二十もの最後の日に。
外すんじゃない。消すんじゃない。あの、ばらばらになりそうな最後の日のなかに、火を、一つ。
どうやって腹に火を置くのかは、まだわからなかった。けれど、稼ぐ場所が、はじめて見えた気がした。足もとじゃない。あの腹の、死んだ村のなかに。
ユアンが、腫れた肩のまま、火の向こうでこちらを見ていた。
「次は」ユアンが言った。「十秒、ちゃんと、稼ぐ」
リディアは、うなずいた。
坑道の口の奥で、重いものがひとつ、寝返りを打つように動いた。グレイヴは、まだそこにいた。逃げも急ぎもせず、次に四人が来るのを待っているようだった。
まだ、勝っていなかった。次に向き合うときも、外さない。外さずに、あの腹のなかへ、火を一つ。
リディアは、坑道の口の暗がりを、まっすぐに見た。




