お前の十秒、俺が稼ぐ
足音は、二つだった。
ひとつは重くてまっすぐ、もうひとつは軽くて、すこし震えていた。
リディアは、その音を知っている気がした。けれど、知っていると思いたくなかった。会いたいと願ったすぐあとだから、聞きたい音を勝手に拾っているのかもしれない。
テオが先に立った。
「乾いてない」テオは言った。「生きてる。二人。──こっちへ来る」
暗い道のはしから、影が二つ、近づいてきた。背の高いほうが、足を止めた。月のない夜だった。顔は、まだ見えなかった。
「リディア・アークライト」と、その影が言った。
短くて、すこし乱暴な声だった。
リディアの息が止まった。
名前を、まちがえずに呼ばれた。久しぶりだった。地の底では、誰もそう呼ばなかった。器。保持者。第三のもの。──名前ではないもので、ずっと呼ばれてきた。
「ユアン」リディアは言った。
影が、一歩、近づいた。銀色の短い髪が、夜にすこし光った。剣を提げていた。町で見たときより、肩のあたりが大きくなった気がした。
「やっと、見つけた」ユアンは言った。
その後ろから、小さな影が、ローブの裾を握って出てきた。
「リディア、ちゃん」ネリだった。声が、ふるえていた。「ほんとに、いた。よかった……ほんとに、よかった」
ネリは、それ以上、言えなかった。両手で口を押さえて、泣きそうな顔をしていた。
「どれくらい」リディアは聞いた。「歩いて、きたの」
「ずっとだ」ユアンは言った。「町を出てから、外縁づたいに、ひと月くらい」
「ひと月……」
「途中で、ネリが熱を出した」ユアンは言った。「引き返そうって、何度も言った。──こいつが、いやだって、きかなかった」
ネリがちいさく首を振った。
「だって」ネリは言った。「リディアちゃんも、ひとりで、こわかったと思うから」
リディアは、二人を見ていた。
うれしい、と思うより先に、別のものが胸に来た。
あいさつもせずに、置いてきた。三日の杭が立った朝、母と夜の馬車に乗って、町を出た。ユアンにも、ネリにも、なにも言わなかった。言えば、ついてくると思った。ついてくれば、危ないと思った。だから、黙って消えた。
消えるのは、得意だった。
「ごめん」リディアは言った。最初に出たのは、その言葉だった。「なにも言わないで、いなくなって」
ユアンは、すぐには答えなかった。
「ああ」やがて言った。「腹は、立った」
「うん」
「すげえ、立った」
「うん」
「でも」ユアンは、言葉を探すように目をそらした。「忘れなかった」
リディアは、顔を上げた。
「あの日」ユアンは言った。「もう忘れない、って言った。お前の名前を。──だから、忘れなかった。お前がいなくなっても、名前だけは、ずっと持ってた」
リディアは、なにも言えなかった。
会わないあいだ、リディアの名前は、ユアンのなかにあった。薄れもせずに。
「どうやって」やっと、聞いた。「ここが、わかったの」
ユアンは、ふところから、折りたたんだ紙を出した。皺だらけの、手配書だった。
「これが、町まで回ってきた」ユアンは言った。「絵は、ない。字だけだ。第三封印具。保持者。女。──どこにも、お前の名前は、なかった」
ユアンは、紙を握りつぶした。
「でも、わかった」ユアンは言った。「これ、お前のことだ。あの日、迷宮で、お前が影の騎士を消した。あの光のことを、書いてるんだ、これ。──だから、字をたどって、ここまで来た」
名前のない紙だった。それでも、ユアンは、見つけた。
リディアは、自分の胸の石に、手を当てた。
*
ガルドの掘り場に、ちいさな火があった。
ガルドは、二人をひとめ見た。手配書を、ひとめ見た。それから、火に枝をくべて、なにも言わなかった。匿うことの危うさは、前にも口にしていた。──刷った紙は、ほかにもある。置けば、おれの場所も危うくなる。
ユアンとネリは、火のそばに座った。長い道を歩いてきた足だった。ネリのローブの裾は、泥で重くなっていた。
リディアは、火の向こうに座った。
言わなければならないことが、あった。
「あのね」リディアは言った。「わたしは、いま、追われてる」
「知ってる」ユアンは言った。「だから、来た」
「ちがう」リディアは首を振った。「字のことじゃ、ないの。──ここには、もっと、こわいものがいる」
リディアは、ゆうべ会ったものの話をした。村をひとつ、なくした者。戦場の死んだ場所を腹に抱えて、大きくなる者。話す相手を、とうに無くした者。グレイヴ。
ネリの肩が、ふるえた。
「その人と」ネリは言った。「リディアちゃんは、戦うの」
「……たぶん」リディアは言った。「逃げても、いつか、向き合うことになる」
火がぱちりと鳴った。
リディアは、両手を膝の上で握った。言うなら、いまだった。
「帰って」と、言いかけた。
けれど、その言葉は、出なかった。
帰って、と言うのは、簡単だった。危ないから。巻き込みたくないから。──それは、母がリディアにしてきたことと、おなじ形をしていた。守るために、隠す。危ないから、遠ざける。本人に、選ばせないまま。
リディアは、それがどんなに息苦しいか、知っていた。
だから、言いかえた。
「ほんとうは」リディアは言った。「いて、ほしい。会いたいって、ゆうべ、はじめて思った。──でも、いれば、危ない。グレイヴは、あなたたちも、まきこむ。それでも、いい?」
ユアンは、リディアを見た。それから、ネリを見た。ネリが、小さくうなずいた。
「お前さ」ユアンは言った。「いま、初めて、自分から、いてほしいって言ったな」
「……うん」
「あの日は、言わなかった」
「うん」
「だったら」ユアンは、火に枝を足した。「もう、いい。それだけで、来た甲斐があった」
ネリが、ローブの裾を握ったまま、言った。
「わたし、こわい」ネリは言った。「ずっと、こわい。その、グレイヴって人も、こわい。──でも」
ネリは、リディアを見た。
「手は、離さない」ネリは言った。「もう、置いていかれるの、いやだから」
リディアは、二人を見た。
ユアンも、ネリも、薄くなかった。リディアのように、世界から目を滑らせてはもらえない。隠れられない。──いっしょにいれば、二人のほうが、さきに見つかる。それを、ひきうけることだった。守る、というのは。
*
あくる日、ガルドが、掘り場のはずれの、ひらけた場所へ四人を連れていった。
「グレイヴとは戦うな、とは言わねえ」ガルドは言った。「止めても、行くんだろう。だったら、死なねえ組み方を、いまのうちに作っとけ」
ガルドは、地面に、棒で線を引いた。
「お前」リディアを指した。「火を、さきに置く。広がって、どこから来るか読む。薄くなって、敵の気をそらす。──ぜんぶ、ひとりでやってきた技だ。だがな。ひとりでやるには、間がかかりすぎる」
「十、数えるくらい」テオが言った。「リディアが、火を置いて、ととのえるまで」
「その十を」ガルドは言った。「だれが、稼ぐ」
はじめは、うまくいかなかった。
リディアが薄く広がると、ユアンから見えなくなった。ガルドが、前に言っていた。薄さを使うほど、お前は向こう側へ寄る。便利な力には、裏がある。──広がったリディアは、敵に見立てた古い案山子の気を、たしかにそらせた。けれど、おなじだけ、味方の目からも消えた。
「リディア」ユアンが、剣を構えたまま振り返った。「どこだ。お前、どこにいる」
「ここ」リディアは言った。声は出した。けれど、薄く広がった声は、遠くて細かった。
ユアンは、声のしたほうへ体を向けた。リディアを、背中にかばおうとした。
「下がってろ」ユアンは言った。「俺が、前に出る」
その瞬間、リディアの置いた火が、消えた。
ユアンが、リディアをかばおうとして、その前に立った。リディアがさきに火を置いた場所に、ユアンの背中が入った。火は、味方を焼かないように、ひとりでに消えた。──さきに置いた火が、無駄になった。
「ああ、くそ」ユアンが言った。
ネリも、動けずにいた。リディアが消えると、どこへ手を伸ばせばいいのか、わからなくなる。守る相手が見えない。ネリの手が、宙で止まったままだった。
「ごめんなさい」ネリが言った。「わたし、リディアちゃんが、どこにいるか」
「あなたのせいじゃ、ない」リディアは、広がったまま言った。声は、また遠かった。
テオが、すこし離れた石の上から見ていた。
「ユアンが」テオは言った。「リディアを後ろに下げるたびに、火が消える。──リディアの火は、ユアンの前に置いてある。ユアンが下がらせると、ユアンが、その火の上に立つ」
ガルドが鼻を鳴らした。
「庇うな、ってことだ」ガルドは言った。「お前が、いままで、やってきたやり方だな。弱いやつを、後ろに下げる。──だが、こいつのやり方は、ちがう」
*
ユアンは、剣を、地面に下ろした。
しばらく、なにも言わなかった。
「俺は」やがて言った。「剣術科にいた。前に立って、後ろのやつを守る。それが、強いってことだと思ってた。──ずっと」
ユアンは、リディアを見た。広がるのをやめた、もとの、小さなリディアを。
「でも、お前は」ユアンは言った。「後ろに下げると、力が出せねえ。お前の場所は、後ろじゃ、ない」
「うん」リディアは言った。
「だったら」ユアンは、剣を拾った。「お前が、決めろ。どこに立つか。──俺は、そこに、立たせる」
リディアは、息を吸った。
いままで、だれかが決めてくれる場所に、立ってきた。余った者同士の班。一番うしろ。地の底の、いちばん深いところ。──立つ場所は、いつも、人に決められた。
はじめて、自分で決めた。
「ここ」リディアは、ユアンのすぐ前を指した。「あなたの、前。わたしが、火を置く。広がって、気をそらす。──そのあいだ、わたしは、見えなくなる」
「見えなくて、いい」ユアンは言った。「お前が、どこにいるか、わからなくても。──十、数える。そのあいだ、なにが来ても、俺が止める」
ユアンは、剣を構えた。リディアの、すぐ後ろに。
「お前の十秒、俺が稼ぐ」ユアンは言った。「だから、ちゃんと、ととのえろ」
もう一度、やった。
リディアが、薄く広がった。ユアンの目から消えた。けれど、ユアンは、もう振り返らなかった。リディアのいた場所を、背中で守った。前だけを、見ていた。
「ネリ」テオが言った。「ユアンの傷は、ユアンが気づく前に。──ユアンは、前しか見ない。痛みも、あとまわしにする。だから、きみが見てて」
「うん」ネリが、ローブの裾をぎゅっと握った。「見てる。ちゃんと、見てる」
テオは、高い石の上に登った。
「僕は」テオは言った。「上から、数える。リディアが、どこにいるか。──姿が消えても、僕は忘れない。声が届かなくても、数で知らせる」
十、数えた。
リディアの火が、置かれた場所で燃えた。今度は、消えなかった。ユアンが、その上に立たなかったから。
はじめて、四つの動きが、ひとつになった気がした。
けれど、ガルドは笑わなかった。
「いまのは」ガルドは言った。「敵が、いなかった。案山子だ。──的がひとつなら、これでいい。だが、あれは」
ガルドは、坑道の口の、奥のほうを見た。
「あれは、ひとつじゃ、ない」ガルドは言った。「腹に、いくつもの死んだ村を、抱えてる。十のあいだに、十のことを、いっぺんにしてくる。──お前らの十秒は、まだ、短い」
*
夜になった。
四人は、ちいさな火を囲んで座っていた。ゆうべまで、リディアはテオと二人だった。火が、すこし大きくなった気がした。
リディアは、自分の胸の石に手を当てた。冷たくて、重い。
外せば、と、ふと思った。
外せば、十秒は要らない。広がるのも、火を置くのも、要らない。あの日、迷宮で、影の騎士を消したように。指を向けて、消えて、と思うだけ。グレイヴの、腹の中の死んだ村ごと、消せるかもしれない。
リディアは、石を握った。
だめだ、と思った。外せば、見つかる。外せば、なにかが目覚めに近づく。それに──
それに、外して、ひとりで消したら。
ユアンの十秒も、ネリの手も、テオの数も、要らなくなる。
せっかく、四つが、ひとつになりかけているのに。
リディアは、握った手を、ひらいた。石は、まだ、胸についていた。
ユアンが、火に枝をくべた。
「いつ、来る」ユアンは聞いた。「そのグレイヴってのは」
リディアは、坑道の口を見た。暗い裂け目が、夜よりも黒く、口を開けていた。
「近いうち」リディアは言った。「たぶん、もう──こっちが、行かなくても」
テオが顔を上げた。坑道の口のほうを。
「リディア」テオは言った。「あの重さが、動いた」
ゆうべとは、ちがった。ゆうべは、奥の暗がりに、ただ立っていた。こちらが、のぞきに行った。
いまは、ちがった。
奥の暗がりが、ひとつ、ゆっくりと、ふくらんだ。坑道の口へ。こちらへ。リディアが行くより先に、向こうが、出てこようとしていた。
ユアンが立ち上がった。ネリが裾を握った。テオが石を降りた。
四人とも、おなじほうを向いていた。
まだ、十秒は、足りなかった。




