村ごと、焼かれた
ゆうべの風を、リディアは朝になっても覚えていた。
子どもらの匂いではなかった。火の匂いでもなかった。ただ冷たく、まっすぐで、怒りに似ていた。坑道の口から、夜どおし、それは流れてきた。
眠れなかった。
目を閉じると、薄く広がったいちばん奥で触れたものが、戻ってきた。火を囲む子どもらの、もっと向こう。あかりも届かない暗がりで動いた、大きくて硬いもの。
槍のような、気配だった。
あれは、こちらを向いた。
戻りなさい、とミラは言った。あれに見つかる前に、と。
*
朝の飯のあと、リディアはガルドのそばに座った。掘りには、まだ出ていなかった。
「奥に、もうひとり、いました」リディアは言った。「子どもたちの、もっと向こうに。話さない人が」
ガルドの手が止まった。椀を持ったままだった。
しばらく、なにも言わなかった。それから、椀を地面に置いた。
「黒い槍を、見たか」
「……槍?」
「気配が、そうだったろう。冷たくて、まっすぐで」ガルドはリディアを見なかった。坑道の口のほうを見ていた。「あれには、名前がある。グレイヴ。冥族の、いちばん古い将のひとりだ」
リディアは、その名を胸のなかで言ってみた。グレイヴ。乾いた飢えとも、ミラのあいまいな輪郭とも、ちがう音がした。
「探索者なら、みんな知ってる」ガルドは続けた。「外縁で、いちばん近づいちゃいけねえもんだ。あれは、戦場の記憶を食う」
「記憶を……食べる?」
「死んだ場所の記憶だ。焼けた村。崩れた砦。倒れた者の、最後の声。そういうものを食って、でかくなる。戦があるほど、あれは強くなる。だから、戦をやめねえ」
リディアは、ゆうべ触れた重さを思った。大きくて、硬くて、まっすぐだったもの。あれは、たくさんの死んだ場所を、腹に抱えていたのだ。
「なんで」リディアは聞いた。「そんなものに、なったんですか」
ガルドは、はじめてリディアを見た。
「村を、ひとつ、なくしたからだ」
ガルドの声は、低くなった。
「外縁に、村があった。何年もまえだ。境の線の、ちょうど上にな。こっちでもない、向こうでもない、半端な場所に。人が、暮らしてた」
「どう、なったんですか」
「人間が、境を引きなおすことにした。内と外を、はっきり分けて、閉じる。そのほうが、守りやすいからな。──だが、その線の上に、村があった」
ガルドは、欠けた前歯のあいだから、息を吐いた。
「閉じた。村ごと。中に、人がいたまま」
リディアは、息を止めた。
「焼いたわけじゃねえ、と言うやつもいる。ただ、境の向こうに置いただけだ、と。無いことに、しただけだ、と」ガルドは坑道の口を見たままだった。「だが、中の者にとっちゃ、おなじことだ。村ごと、焼かれた。そう言うほうが、ほんとうに近い」
「あなたは」リディアは聞いた。「見ていたんですか」
ガルドは、すぐには答えなかった。
「おれは、地図を描く側だ」やがて言った。「境の線を、引く手伝いをしたことも、ある。──どの線の下に、なにが暮らしてるかまでは、考えなかった」
平和に見える場所と、苦しみを押し込める場所。
その言葉が、また、リディアのなかで鳴った。
「グレイヴは」ガルドは言った。「その村の、生き残りだ。たったひとりの。だから、あれの飢えは、名前じゃねえ。怒りだ。食っても、食っても、薄くならねえ」
ガルドは、椀を拾った。
「近づくな。あれは、話さねえ。話す相手を、とうに無くしてる」
リディアは、しばらく黙っていた。
「でも」やがて言った。「わたしは、行きます」
ガルドは、また鼻を鳴らした。ゆうべと、おなじ音だった。
「止めても、行くんだろう」
「……はい」
「なんでだ」
リディアは、自分の胸の石に手を当てた。冷たくて、重い。ずっと、邪魔だと思ってきたもの。
「あの村を閉じたのが」リディアは言った。「たぶん、わたしの、こっち側だから」
ガルドは、なにも言わなかった。否定も、しなかった。
「テオを連れてけ」しばらくして言った。「糸の端は、しっかり持たせとけ。──だがな。きょうのは、ちがう。子どもの飢えとは、ちがう。あれに気配を食わせたら、名前どころじゃ、すまねえ」
*
薄明。
リディアは、また穴のそばに立った。テオが、すこし離れた石に腰を下ろした。布を巻いた手を、膝に置いて。
「帰る場所」テオが言った。「きのうと、おなじ?」
「うん」リディアは言った。「テオの、声」
「足音が聞こえなくなったら、呼ぶ」テオはうなずいた。「でも、きょうは、早めに呼ぶ。ガルドに、そう言われた」
リディアは、目を閉じた。きょうは、帰る場所を、きのうより強く決めた。胸の石の重み。テオの声。ふたつ、結んでおいた。それから、広がった。薄く。けれど、いつもより、ゆっくりと。
火を囲む子どもらのくぼみは、すぐにわかった。きのうとおなじ、ちいさなあかり。寄り添う、痩せた肩。リディアは、そこを通りすぎた。もっと奥へ。あかりの、届かないほうへ。
こわかった。あたたかいちいさなあかりのほうへ、引き返したかった。
けれど、進んだ。あの村のことを、聞いてしまったあとで、知らないふりは、もうできなかった。
暗かった。
そして、重かった。
空気が、ではなかった。そこにあるものが、重かった。広がったリディアの肌に、それが触れた。
ふれたとたん、知らない記憶が、流れこんできた。
火だった。家が、燃えていた。鐘が、鳴りやまなかった。子を抱えて走る、女の足。倒れた男の、最後の息。井戸のふちに置かれたままの、欠けた椀。──リディアの記憶では、なかった。見たこともない、どこかの村の、最後の日だった。
ひとつでは、なかった。
その村のうしろに、べつの焼けた場所があった。そのうしろに、また。崩れた砦。凍った街道。名も知らない、いくつもの、最後の日。みんな、ひとつの暗がりに、たたまれていた。古い布を、何枚も重ねるように。
人は、つらい記憶を薄くして生きる。リディアの名前が薄れていくように。けれど、ここでは、逆だった。死んだ場所を、一枚も薄れさせずに、ぜんぶ抱えていた。だから、こんなに重かった。
それを、抱えているものがいた。
暗がりのまんなかに、それは、立っていた。
大きかった。子どもらとも、ミラとも、オルガとも、くらべものにならなかった。背に、長いものを負っていた。槍だ、とわかった。鉄ではなかった。夜を削ってまっすぐにしたような、黒いものだった。
ゆうべの気配が、形になっていた。
その影が、こちらを向いた。
「におう」と、それは言った。低い声だった。石を擦るような。
リディアは、動けなかった。広がったまま、退くこともできなかった。
「子どもの飢えとは、ちがうな」その影は言った。「お前は──閉じる側の、においがする」
*
「閉じる、側」リディアは、やっと言った。「わたしは」
「胸に、提げているだろう」グレイヴは言った。リディアの広がったはしの、もっと奥を見ていた。胸の、石を。「封印の、においだ。境を引く者の、においだ。──まちがえようがない」
リディアの胸の石が、冷たくなった。
「わたしは、村を焼いてなんか」
「焼いた者だけが、村を焼くわけじゃない」グレイヴは言った。「線を引いた者がいる。閉じろと命じた者がいる。見て見ぬふりをした者がいる。火をつけた手より、その手のほうが、ずっと多い」
リディアは、なにも言えなかった。
「奪われた者に」グレイヴの声が、低くなった。「行儀よく待て、と言うな」
「グレイヴ」
声がした。薄明の、あいまいな輪郭が、火のほうから歩いてきた。ミラだった。
「その子は、ちがう」ミラは言った。「閉じる側に、置かれた子よ。あなたと、おなじように」
「閉じる側に置かれた者が」グレイヴは、ミラを見もしなかった。「閉じる道具を、提げて歩く。笑わせる」
「話せば」ミラは言った。「わかる」
「話し合おうと言う者は」グレイヴは言った。「たいてい、扉の内側にいる。外で凍えた夜の数だけ、おれは、その言葉を聞いた。そのたびに、扉は、閉まったままだった」
ミラは、黙った。
「でも」リディアは、声を押し出した。「いま火を囲んでる、あの子たちは。扉を閉めた人たちと、おなじじゃ、ない」
「おなじだ」グレイヴは言った。「扉の内側にいる、という一点で。──お前も、そうだ」
言葉が、続かなかった。
リディアは、ミラとグレイヴを、かわるがわる見た。おなじ、押し込められた側にいて、ひとりは話そうとし、ひとりは、もう話さなかった。冥族のなかにも、線があった。
反論したかった。それはちがう、と。けれど、グレイヴの言葉のどこにも、嘘がなかった。村は、閉じられた。中に、人がいたまま。それを命じたのは、リディアの提げている石と、おなじ側の手だった。
化け物だとは、もう言えない。きのう、リディアはそう思った。
けれど、いまは、それより重いことが、わかった。
化け物でないと知っても、リディアは、この石を、外せない。閉じる側のにおいを、消せない。守る側に立つというのは、こういうことだった。誰かを守るための線が、その向こうの誰かを、閉じこめている。
「お前を」グレイヴは、一歩、踏み出した。
たった一歩で、空気の重さが、変わった。広がったリディアの肌が、その重さに、押された。輪郭が、たわんだ。胸の石へ引く糸が、細くなった。
「食えば」グレイヴは言った。「お前の側の記憶が、手に入る。境の、引き方が。閉じた扉の、開け方が」
食べられたら、とリディアは思った。あの暗がりの、何枚も重なった最後の日の、いちばん上に、自分も、たたまれる。薄れることも、戻ることも、できないまま。
それは、消えるよりも、こわかった。
リディアは、戻ろうとした。けれど、広がりすぎていた。グレイヴの重さが、リディアの薄さを、奥へ奥へと引いた。指が、石に届かない。声が、出ない。
また、消える。
「リディア!」
声がした。
遠い。けれど、まっすぐ。
「だめだ! 君の足音が、止まった! 糸を、引いて! こっちへ! 早く!」
リディアは、その声に、自分をたぐり寄せた。グレイヴの重さから、薄くのびたはしを、すこしずつ。テオの声。胸の石。地面の、土のつめたさ。──こちら側のしるしを、ひとつずつ、拾うように。
最後に、グレイヴの声が、追ってきた。
「逃げるな。お前は、いつか、選ぶことになる。──どちらの側で、扉の前に立つかを」
*
目を開けた。
地面に、両手をついていた。日は、沈んでいた。穴の口は、ただの暗い裂け目に戻っていた。重さも、声も、もうなかった。
テオが、走ってきた。布を巻いた手で、リディアの肩をつかんだ。
「いま」テオは言った。「すごく、重かった。君のいるあたりの空気が。──遠くからでも、わかった」
リディアは、すぐには声が出なかった。
「あの人は」やがて言った。「村を、なくしてた。人間に。わたしの、こっち側に」
テオは、なにも言わなかった。ただ、聞いていた。
「化け物じゃ、なかった」リディアは言った。「ミラのときと、おなじ。──でも、もっと、こわい」
「こわい?」
「あの人の言うことに」リディアは言った。「なにひとつ、言いかえせなかった」
でも、と思った。
あの人の怒りが正しいのなら、火を囲んでいた子どもらは、どうなるのだろう。グレイヴの戦が広がれば、まっさきに焼かれるのは、あの痩せた肩のほうだ。
閉じる側には、立てなかった。あの村を、思えば。
けれど、グレイヴの側にも、立てなかった。あの子らを、思えば。
どこにも、立てなかった。
手のなかに、ゆうべの弱い火は、もう無かった。広がるうちに、消えていた。
リディアは、自分の胸の石を握った。これが、こちら側のしるしなのだ。グレイヴには、ひと嗅ぎで、わかった。隠しようも、なかった。
いつか、あれと向き合うことになる。きっと、近いうちに。
そのとき、いまのリディアに、なにができるだろう。
火を、置く。気配を、そらす。薄く広がって、感じ取る。ガルドに習ったことを、ぜんぶ並べてみた。どれも、あの重さの前では、足りなかった。ひとりでは。テオと、ふたりでも。
もっと、要る。前に立って、十秒を稼いでくれる、だれかが。背中で、こわくても手を離さない、だれかが。
リディアは、ふと、町に置いてきた二人を思った。剣を提げた、不器用な前衛。裾を握る、怖がりの回復役。
いたのか、と最初に言った声。もう忘れない、と目をそらしながら言った声。怖い、でも手は離さない、と震える手で言った声。あいさつもせずに、置いてきた声だった。もう、ずいぶん、会っていなかった。
会いたい、と思った。はじめて、はっきりと。
そのときだった。
テオが、顔を上げた。坑道の口のほうではなく、外縁の、道のほうを。
「足音」テオは言った。
「乾いたもの?」
「ちがう」テオは、耳をすませていた。「ふたつ。乾いてない。──生きてる」
リディアは、立ち上がった。
暗い道の向こうから、土を踏む音が、近づいてきた。ひとつは、重くて、まっすぐ。もうひとつは、軽くて、すこし、震えていた。
その二つの足音を、リディアは、知っている気がした。




