火を、囲んでいた
その気配のことを、リディアは一日じゅう忘れられなかった。
朝、掘りに出ても、土を運んでも、頭のすみに残っていた。ゆうべ薄く広がったいちばん遠くで触れた、いくつもの気配。乾いて飢えて、けれど寄り添っていたもの。火を囲むようにかたまっていたもの。
化け物の巣なら、こわいだけでよかった。逃げればよかった。
けれど、あれはちがった。
昼の飯どき、リディアはガルドに聞いた。
「あの穴の向こうに、なにがいるんですか」
ガルドは椀から顔を上げなかった。
「なにもいねえことにしとけ」
「いました」リディアは言った。「ゆうべ感じました。ひとつじゃなくて」
ガルドはしばらく黙って飯を食った。それから椀を置いた。
「外縁の穴ってのはな」ガルドは言った。「ただの穴じゃねえ。境が薄い。こっちと向こうの。とくに、夜と朝のあいだ。日の暮れぎわ。あのへんは、いちばん薄くなる」
薄明、とリディアは胸のなかで言った。ずっと下から聞いた声が、そう呼んでいた言葉だった。
「薄くなると、向こうが見える」ガルドは続けた。「見えるってこたあ、向こうからもこっちが見えるってことだ。だから、のぞくな。のぞいたら、向こうもお前をのぞく」
「でも」リディアは言った。「知りたいんです。なにがいるのか」
ガルドははじめてリディアを見た。
「知って、どうする」
リディアは答えられなかった。どうする、までは考えていなかった。ただ、知らないままであれを「化け物」と呼びつづけることが、できなくなっていた。
「……わかりません」リディアは言った。「でも、知らないままだと、たぶんまちがえます」
ガルドはふん、と鼻を鳴らした。怒ったのでも笑ったのでもなかった。
「テオを連れてけ」とだけ言った。「ひとりで広がるな。糸の端は、だれかに持たせとけ」
*
日が、坑道の口の上で赤くなった。
リディアは穴のそばに立った。テオがすこし離れた石に腰を下ろした。布を巻いた手を膝に置いて。
「帰る場所」テオが言った。「きのうとおなじ?」
「うん」リディアは言った。「テオの、声」
テオはうなずいた。「足音が聞こえなくなったら、呼ぶ。すぐ」
乾いた風が穴の口から流れてきた。きのうよりつめたかった。日が沈むと、向こうの匂いが濃くなった。
リディアは目を閉じた。胸の石の重みを、一点、決めた。ここに帰る。それから広がった。薄く。広く。土の裂け目をくぐって。火に映らないものの通る道を。
きのうよりこわくなかった。帰る場所があった。
穴の奥は暗かった。けれど薄くなった自分の肌に、いろいろなものが触れた。土の湿り。冷えた石。そして、いちばん奥。土の壁のもっと向こう。日の暮れぎわの、境のいちばん薄いところ。
そこに、あかりがあった。
ちいさなあかりだった。火というには弱かった。けれど、たしかに燃えていた。
リディアはもっと広がった。帰る糸を、たぐれるだけ残して。あかりのほうへ。
見えた。読んだのではなかった。広がった自分のはしが、それに触れていた。
くぼみだった。土を掘って雨をしのげるようにした、ちいさな窪み。そのまんなかに火があった。火のまわりに、いくつもの影が寄り添っていた。
子どもだった。
ちいさな痩せた影が、火に手をかざしていた。ひとつ、ふたつ、もっと。数えられないほど。みんな乾いていた。古い紙のように。けれど、たがいの肩をくっつけあっていた。
そのなかを、背の高い影がひとつ歩いた。子どものひとりに、なにかをわけていた。手のなかのちいさな光のかけらを。火をわけていた。あかりを絶やさないように。
化け物の巣ではなかった。
暮らしだった。火を囲んで寒さをしのぐ、暮らしだった。
リディアの胸の奥がふるえた。こわさではなかった。なんと呼べばいいのかわからない、ふるえだった。
*
「――まだ、外していないのね」
声がした。
穴のずっと向こうから。土と雨と、嗅いだことのある匂いに乗って。
リディアはその声を知っていた。地の底のいちばん下で、一度だけ聞いた声だった。なにも奪わずに帰っていった声だった。
「あなた」リディアは言った。広がったまま、声のするほうへ。「あのときの」
「ええ」声は言った。「また話すことがあれば、と言った」
火のそばの背の高い影が、こちらを向いた。薄明の、薄いあかりのなかで、その形がすこしずつ見えた。
人の形をしていた。けれど、人ではなかった。ほっそりとして、輪郭が夜明けのようにあいまいだった。とがってはいなかった。あの赤い目のものとも、乾いた飢えともちがった。
「名前を」リディアは言った。「あのとき聞いた。いつか、って」
声はすこし笑ったようだった。楽しそうではなかった。
「ミラ」と声は言った。「薄明のミラ。それが、わたしの名前」
ミラ。
リディアはその名を、胸のなかで繰り返した。やっと、名前のある相手になった。話した、というしるしだけをつけた、あの相手が。
「見てしまったのね」ミラは言った。子どもらのほうを見やった。「ここを」
「……うん」リディアは言った。「ごめんなさい。のぞくつもりじゃ」
「謝らなくていい」ミラは言った。「あなたたちは、ここをなんと呼んでいる?」
リディアは答えに詰まった。
「化け物」ミラはかわりに言った。「魔物。魔王軍。──そう呼ぶほうが楽だものね。火を囲む者をただ斬るのは、むずかしい。だから火を消して、化け物にする」
リディアは、火のまわりの痩せた子どもらを見た。寄り添う肩を。わけられるちいさなあかりを。
「あの子たちは」リディアは聞いた。「なにを食べているの」
ミラはすぐには答えなかった。
「あなたが、いちばん聞きたくないことを聞くのね」やがて言った。
*
火のそばで、ひとりの影が立ち上がった。
ミラより低い影だった。けれど重かった。子どもらのあいだをゆっくり歩いて、いちばん弱った子の前に膝をついた。痩せて、火に手をかざす力もない、ちいさな子の前に。
その影が、こちらを見た。
リディアは、見られた、と思った。薄く広がった自分のいちばん遠いはしを、まっすぐに。
「におう」とその影は言った。低い、女の声だった。「名前のにおい。記憶のにおい。──こんなに濃いのは、ひさしぶり」
リディアの、薄く広がった肌がぞわりとした。乾いたものが、こちらをかいでいた。
「やめて、オルガ」ミラが言った。
オルガ、とその影は呼ばれた。立ち上がって、リディアのいるほうへ一歩踏み出した。
「ミラ」オルガは言った。「あんたは、いつもそうだ。話す。わかり合う。──そのあいだに、この子は、また眠れずに朝を迎える」
オルガは、膝をついていた子を指した。
「正しさでは、子どもは眠らない」オルガは言った。「食べるものがいる。名前がいる。記憶がいる。──そこに、ぜんぶある。手を伸ばせば届くところに。なのに、あんたは話せと言う」
リディアは動けなかった。広がったまま、退くこともできなかった。乾いた飢えが、すぐそこにあった。名前をほしがって。
火のそばの、いちばん弱った子が顔を上げた。
リディアのいるほうを見た。見えてはいないはずだった。けれど、その子の痩せた手が、こちらへ伸びた。
ほしい、とその手が言っていた。
その手は憎んでいなかった。怒ってもいなかった。ただ飢えていた。あたたかいものを、火を、名前を、ほしがって伸びていた。
リディアのいちばん遠いはしに、その指が触れそうになった。
「リ」と、リディアの名前のはじめの音が遠くなりかけた。
「オルガ」ミラの声が鋭くなった。
オルガが、痩せた子の肩に手を置いた。子の手が止まった。リディアの名前は奪われなかった。
けれど、リディアは見てしまった。その子が手を引いたあとの、目を。ほしかったものがもらえなかった、子どもの目を。
*
「これが」オルガが言った。火のそばに戻りながら。「あんたたちの言う、化け物だよ」
リディアはなにも言えなかった。
「人間は」オルガは続けた。「扉を閉めた。向こうになにを閉じこめたか、見もせずに。──飢えた子を化け物と呼んで、見えない場所に押し込めた。そうすれば、あんたたちはよく眠れる」
平和に見える場所と、苦しみを押し込める場所。
その言葉を、リディアは知っていた。あの赤い目のものが、母に言った言葉だった。母の背中がほんの少し揺れた言葉だった。
いま、その押し込められた側に、リディアはいた。火を囲む飢えた子らの、すぐそばに。
そして、気づいた。
追われているのは、自分もおなじだった。聖域はリディアを「器」と呼んだ。少女ではなく、入れものとして。いちばん深いところへしまおうとした。──押し込められる側の匂いを、リディアはよく知っていた。
「わたしも」リディアは言った。声が震えた。「閉じこめられかけた。いちばん下に。誰にも見つからない場所に」
火のそばが静かになった。
「だから」リディアは言った。「ぜんぶはわからないけど。あなたたちのことを、化け物だとは、もう言えない」
ミラがこちらを見た。
「言えない、ね」ミラは言った。「それは──いちばんこわい言葉よ。あなたにとって」
「どうして」
「化け物なら」ミラは言った。「斬れる。化け物でないと知ったら──斬るたびに、あなたは痛む。知ってしまったものは、もう知らなかったことにはできないから」
*
リディアは、自分の手のなかにちいさな火をつくった。
広がったいちばん遠いはしで。ガルドに習った、弱い火だった。狙うための火ではない。来る場所を教える、目の火だった。それを、火のそばのいちばん弱った子のほうへ、そっと置こうとした。
わけたい、と思った。あの灯持ちが子にあかりをわけたように。ひとつくらい、火を。
けれど、置けなかった。
火は、薄く広がったリディアのはしでゆれて、消えた。境の向こうまでは届かなかった。リディアの火は、こちら側のものだった。向こうの飢えを満たすものではなかった。
「届かないのよ」ミラが静かに言った。「こちらとそちらは、ちがう火で燃えている。あなたの火は、わたしたちをあたためない。──いまは、まだ」
いまは、まだ。
その言葉に、リディアは火を消すのをやめた。消えそうな弱い火を、手のなかに残したまま。
「また来ても、いい?」リディアは聞いた。
ミラは答えなかった。かわりに、火のそばの子どもらを見た。それから、低い声で言った。
「ここには、わたしのような者ばかりではない」ミラは言った。「話す者ばかりではない。火を分けるより、火で焼きたい者もいる」
風がすこし変わった。
「奥に」ミラは言った。「ひとり、いる。村を焼かれた者が。あなたたちの封印術で、暮らしをまるごと。──あれは話さない。あれの飢えは、名前ではない。怒りよ」
リディアの、薄く広がったはしのもっと奥。火のあかりも届かない暗いところで、なにかが動いた。
大きかった。子どもらとも、ミラとも、オルガともちがった。冷たくて、硬くて、まっすぐだった。槍のように。
その気配が、こちらを向いた気がした。
「戻りなさい」ミラの声が、急に近くなった。「あれに見つかる前に。きょうは、ここまで」
*
「リディア!」
テオの声がした。
遠い。けれど、まっすぐ。
「だめだ、足音が、ない! こっち! 僕の声を、たどって!」
リディアは、広がった自分を声のほうへたぐった。火のあかりから。飢えた子の手から。奥の、硬い気配から。一本の糸を引くように。指。足のうら。胸の石の重み。
目を開けた。
地面に膝をついていた。日は、すっかり沈んでいた。穴の口は、ただの暗い裂け目に戻っていた。あかりも、声も、もうなかった。
テオが走ってきた。布を巻いた手で、リディアの肩をつかんだ。
「だいぶ長かった」テオが言った。「でも、きのうみたいに消えはしなかった。糸は、ずっとあった」
「うん」リディアは言った。
手のなかに、まだちいさな火があった。消えそうで、消えていなかった。届かなかった火だった。
リディアは、それをしばらく見ていた。
「テオ」リディアは言った。「向こうに、子どもがいた。火を囲んでた。寒くて、痩せてて、でも、肩をくっつけあって」
テオはなにも言わなかった。ただ、聞いていた。
「化け物の巣じゃ、なかった」リディアは言った。「暮らしてた。わたしたちとおなじように。火を囲んで」
言ってから、口のなかが乾いた。
目を閉じると、火に手をかざす痩せたいくつもの手が見えた。あの子たちを、ただの敵だとは、もう思えなかった。
けれど、あの子の手は、リディアの名前をほしがった。飢えは消えていなかった。わかり合えたわけでもなかった。火は届かなかった。そして奥には、話さない者がいた。怒りで飢えた者が。
リディアは、手のなかの弱い火を、そっと握った。
まだ、なにもできなかった。けれど、もう目をつぶれなかった。
「あの、奥の人に」リディアは暗い穴を見たまま言った。「会いにいくことに、なる気がする。近いうちに」
テオが、リディアの隣に座った。
ふたりはしばらく、暗い坑道の口をいっしょに見ていた。風がまた、向こうから流れてきた。今度は子どもらの匂いも火の匂いもしない、ただ冷たい、怒りのような風だった。




