広がって、戻る
朝、リディアは穴のそばにしゃがんでいた。
ゆうべ詰めた土が、また沈んでいた。手のひらほど。けれど、たしかに沈んでいた。向こうが、こちらの土を、夜のあいだに少しずつ飲んでいた。
乾いた風が、その口から流れてくる。昼は、ただの裂け目に見えた。けれど、においでわかった。地の底ですぐ耳もとまで来た、あの乾いた気配のにおいだった。
籠を背負って、リディアは坑道の口まで土を運んだ。きょうも二つ。自分のぶんと、ロウのぶん。肩がすぐに痛くなった。それでも運んだ。
ロウは、坑道の口に座っていた。添え木をした足を、まっすぐ前に投げ出して。掘りには出られない。それでも、毎朝、見にだけは来ていた。
「すまんな」ロウは、リディアが土をあけるたびに言った。「おれのぶんまで」
「いいんです」リディアは言った。ほんとうに、いやではなかった。ロウは、すまん、と言う。リディアを、運ぶ手の一人として数えていた。検め師の帳面に書かれる数とは、ちがう数えられ方だった。
「あんた、ゆうべも外で何かやってたな」ロウが言った。「小屋の裏で。火、ちらちらさせて」
「稽古です」
「ほどほどにしとけ」ロウは、前歯の欠けた口で笑った。「飯も食わずに倒れられちゃ、運ぶ手が減る」
リディアは、すこし笑った。腹は、たしかに鳴っていた。きのうの夜も、まともに食べていなかった。
「見てても、埋まらんぞ」
ガルドが、背の籠を下ろしながら言った。
「埋まらないなら」リディアは立ち上がった。「せめて、いつ来るか、わかれば」
ガルドは穴をのぞきこんだ。それから、火を出せ、と言った。
リディアは手のひらに火をつくった。きのうより、すこしだけ速くなっていた。ガルドはその火を、穴の口にかざした。
火は、裂け目のふちを赤く照らした。けれど、奥は照らさなかった。光が途中で吸われて、消えた。
「見えるか」
「……いいえ」
「だろうな」ガルドは火を払うように手を引いた。「あすこから来るものは、火に映らねえ。きのう、お前も気づいたろ。石は火をよける。だが、あの乾いたのは、火に触れずに通る。火のないところを選んで歩く」
リディアはうなずいた。きのうの夜、自分でたどりついたことだった。火で見えないなら、火ではないもので。
「なら」ガルドはリディアを見た。「火じゃねえ。お前自身で、感じ取れ」
ガルドは、リディアの胸もとから足のさきまでを、ひとなでするように見た。
「お前は、薄い。だれにも見つけてもらえねえ、って顔をしてる。だが、薄いってのは、広がれるってことだ。火は、置いたところしか照らさねえ。お前の薄さは、置かなくていい。伸ばせる。広く、薄く。火の届かねえところまで」
リディアは、自分の手を見た。きのうの夜、ほんの一瞬、空き地のいちめんに自分が広がった。火の置けないところまで。風の通るところまで。あのとき、輪郭が、どこまでが自分かわからなくなった。
戻ってこられなく、なりそうだった。
「こわい顔だな」ガルドが言った。
「広がると」リディアは言った。「戻れなく、なりそうで」
ガルドは、しばらく黙っていた。それから、籠を背負い直した。
「だろうな」とだけ言った。「だが、それも稽古だ。掘れ。昼に話す」
*
昼の飯のあと、ガルドはリディアを坑道の奥へやらなかった。空き地でいい、と言った。
「奥は狭い。広がる稽古にゃ向かねえ。外で、広く伸ばせ」
ガルドはそれだけ言って、自分はつるはしを担いで坑道へ戻った。教えて、放っておく。それが、この人のやり方だった。
リディアは空き地の真ん中に立った。テオが、すこし離れて座った。布を巻いた手を、膝に置いていた。きのう、リディアの火が焼いた手だった。
「離れてて、って、言わないんだ」テオが言った。
「呼んでほしいから」リディアは言った。「戻れなかったら」
テオは、うなずいた。
リディアは目を閉じた。
火を散らすのと、おなじように。けれど火ではなく、自分を。薄く。広く。空き地のいちめんに。さらに、その先へ。土の上を。風の通るところを。
すこしずつ、広がった。
自分の輪郭が、薄くのびていく。足のうらの感じが遠くなる。手のひらの境が、あいまいになる。空き地の隅。崩れた石壁。その向こう。
そこに、乾いたものは、なかった。昼だからだ。けれど、いろいろなものがあった。掘る音の振動。誰かの足。土の湿り。火の熱。広がるほど、それらが、肌で触れるみたいにわかった。
もっと、と思った。もっと広く。穴の奥まで。
そのとき、自分がどこにいるのか、わからなくなった。
どこまでが土で、どこからが自分か。広がった先が、戻る道を見失った。薄くなりすぎて、もとのひとつの形に、集まれない。こわさが、遅れてやってきた。声を出そうにも、口がどこにあるのか――
「リディア」
声がした。
遠くから。けれど、まっすぐ。
「足音が、聞こえない」テオの声だった。「戻って。こっち」
その声を、たぐった。広がった自分を、声のするほうへ、たぐり寄せた。すこしずつ。指が戻る。足のうらが戻る。胸の石の重みが戻る。
リディアは目を開けた。膝が、地面についていた。息が上がっていた。
「いま」テオが言った。「だいぶ長く、いなくなってた。きのうより」
*
ガルドが、つるはしを担いで戻ってきた。リディアの様子を、ひとめ見た。
「広がったか」
「広がりました。でも、戻れなく――」
「あたりまえだ」ガルドは腰を下ろした。「お前、ただ広がってるだけだろ。出ていったきり、帰る道に印をつけてねえ。だから迷う」
「印?」
ガルドは地面に、指で一本の線を引いた。
「薄さを使うってのは、戻る場所をさきに決めとくことだ。広がる前に、ここに帰る、って一点を決める。胸の重みでもいい。だれかの声でもいい。広がったさきで迷ったら、それをたぐって戻る。決めずに広がるな。それは、ただ消えるのと、おなじだ」
ただ消える。
リディアは、胸の石に手を当てた。重い。冷たい。ずっと、邪魔だと思ってきた重みだった。けれどいまは、それが、帰る場所の目印になっていた。
広がって、戻る。ガルドの言っているのは、それだけのことだった。それだけのことが、いちばん、むずかしかった。
「感じ取るだけじゃ、足りねえ」ガルドは続けた。「ゆうべ、お前は来た場所を読んだ。だが止められなかった。読むだけじゃ、間に合わねえときがある」
「じゃあ」
「そらすんだ」ガルドは言った。「薄さで感じ取れるなら、薄さでまどわせる。お前の気配を、わざと、ちがうほうに伸ばす。向こうは名前をほしがってる。なら、名前のにおいを、ちがう場所に置いてやる。そっちへ行かせる。本物のだれかから、引きはがす」
リディアは、息を止めた。
「でも」言った。「それ、わたしが、おとりに」
「そうだ」ガルドはごまかさなかった。「いちばんあぶない。感じ取るのは、触らずに見るだけだ。そらすのは、向こうに、お前の気配を食わせにいくことだ。よく見られる。近づかれる。下手すりゃ、お前の名前を持っていかれる」
ガルドは立ち上がった。
「もうひとつ、覚えとけ」背を向けたまま言った。「薄さを使うほど、こっち側からは見えなくなる。さっき、その坊主が、お前を見失ったろ。あれは、お前がすこし、向こう側へ寄ったってことだ。便利な力にゃ、裏がある」
向こう側。
リディアは、ずっと下から聞いた声を思い出した。いちばん下は、いちばん向こうに近い。地の底で、土と雨のにおいのする声が、そう言った。薄くなるほど、その声の側へ、近づいていく気がした。
その日の夕方、リディアは一度だけ、そらすのをためした。
テオに、空き地のはしに立ってもらった。そこへ乾いたものが来た、と決めて。自分の気配を、テオから逆のほうへ、わざと伸ばす。けれど、伸ばしたとたん、どっちが本物の自分か、わからなくなった。おとりのほうへ、自分まで、ついていきそうになった。
「いま、君」テオが言った。「二人いるみたいだった。どっちも、薄くて」
感じ取るのは、触らずに見るだけだ。けれどそらすのは、自分をふたつに割って、片方を遠くへ置きにいくことだった。置いたほうへ、引きずられる。戻ってくる糸が、まだ細すぎた。
*
その夜も、月はなかった。
リディアは空き地に出た。テオが、ついてきた。すこし離れた石の上に座った。
「決めた」リディアは言った。「帰る場所。テオの、声」
テオは、うなずいた。「足音が聞こえなくなったら、呼ぶ。きのうみたいに」
乾いた風が、坑道の口から流れてきた。
来た。
リディアは目を閉じた。胸の石の重みを、一点、決めた。ここに帰る。それから広がった。薄く。広く。きのうより、こわくなかった。帰る場所が、あった。
乾いたものが、わかった。火に映らないものが、薄くなった自分の肌に触れた。坑道の口の、すぐ奥。土の裂け目をくぐって、こちらへにじり出てくる。古い紙が水をほしがるような、乾いた飢え。
見えた。読んだのではなかった。広がった自分のはしが、それに触れていた。
そして、わかってしまった。気配の、向かう先が。
小屋だった。眠っている者たちの小屋。そのいちばん端。添え木の足で、逃げられない男。ロウの寝ているところへ、乾いたものは、まっすぐ向かっていた。
間に合わない。読むだけでは。きのうと、おなじだ。
そらすんだ。
ガルドの声が、頭のなかでした。
リディアは、薄く広げた自分の気配を、わざと、ちがうほうへ伸ばした。小屋とは逆の、空き地の真ん中へ。ここにいる、と。名前のにおいを、こちらに。わたしを、見て。
乾いたものが、止まった。
迷うように、揺れた。それから、向きを変えた。ロウの小屋から離れた。リディアの伸ばした気配のほうへ。
来る。
近づくほど、はっきりした。それは、ただ飢えていた。名前を、火を、ほしがって、ほしがって、乾いていた。憎しみではなかった。もっと古い、かわいた飢えだった。
乾いたものが、リディアの気配に触れた。
舐めるように。さがすように。薄くのびたはしから、奥へ。名前を、たどって。
リ、と。
自分の名前のはじめのひと文字が、遠くなった。乾いたものが、それをつかもうとした。リディアは、自分の名前を、自分で追いかけた。リ、ディ――
つかめなかった。向こうの手が、すべった。
なぜか、わからなかった。乾いたものは、リディアの名前に触れたのに、握れなかった。にぎろうとした手が、なにかにはじかれて、すべった。とまどうように、気配がゆらいだ。
その、ゆらいだ一拍に。
リディアは、ぜんぶの気配を引いた。胸の石へ。一点へ。帰る場所へ。
けれど、戻れなかった。
広がりすぎていた。おとりに、遠くまで伸ばしすぎていた。乾いたものに端をつかまれかけて、自分の形が、指のさきからほどけた。声が出ない。口がどこにあるのか。指が、石に届かない。
消える。
ほんとうに、今度は。
「リディア!」
声。
遠い。けれど、まっすぐ。
「足音が、ぜんぜん聞こえない! 戻って! ここ! 僕の、声!」
リディアは、その声をたぐった。乾いたものの飢えから、自分の端を引きはがした。声のするほうへ。一本の線をたぐるように。指。足のうら。胸の石の、重み。
目を開けた。
地面に、両手をついていた。乾いたものは、退いていた。小屋のほうへは行かなかった。坑道の口の暗がりへ、にじり戻っていった。まだ、そこにいた。けれど、ロウは無事だった。
しばらく、息ができなかった。
テオが、走ってきた。布を巻いた手で、リディアの肩をつかんだ。
「いま」テオの声が、震えていた。はじめて聞く震えだった。「すごく、長かった。きのうの、倍。……もう、戻ってこないかと思った」
*
ロウは、何も知らずに眠っていた。
リディアは、空き地に座りこんだまま、しばらく動けなかった。
ロウの名前は、奪われなかった。ヤンのときと、ちがった。きのうは、来た場所を読めたのに、止められなかった。今夜は、そらせた。読むだけでなく、向きを変えさせた。
半分は、できた。
けれど、もう半分の代わりに、危うかったのは、自分の名前だった。だれかを守るために、自分をおとりにした。乾いたものに、自分の名前を舐めさせた。つかまれなかったのが、運だったのか、別の何かだったのか、わからない。
「あぶない、力だね」テオが、隣に座った。
「うん」リディアは言った。「使うほど、こっちから見えなくなる」
使うほど、向こう側へ寄る。ガルドの言ったとおりだった。薄くなるほど、人の側から見えなくなる。けれど、その薄さでしか、火に映らないものはつかめない。欠点だと言われつづけた薄さが、いま、たったひとつの目になっていた。
目を閉じる前に、リディアは、もう一度、穴のほうを見た。
さっき薄く広がったとき、いちばん遠くで、触れたものがあった。あの乾いたもの一つでは、なかった。穴の、ずっと向こう。土の壁の、もっと奥。そこに、ちいさな気配がいくつも、あった気がした。乾いて、飢えて、けれど、かたまって。寄り添うように。火を囲むように。
化け物の巣、とは、ちがう感じがした。
もっと、なにか。だれかの、暮らしのにおいに、似ていた。
わからなかった。広がりすぎて触れたのか、こわさが見せた幻か。
けれど、その、いくつもの気配のことを、リディアは忘れられなかった。
「テオ」リディアは言った。「あの穴の向こうに。なにが、いるんだろう」
テオは、答えなかった。ただ、暗い坑道の口を、リディアといっしょに見ていた。




