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わたしは、ここにいる

女の人が、こちらを見た。


 見て、そのまま止まった。体は逃げる形のままだった。呼ばれた、と思った顔だった。


 届いた。


 リディアは息を吸った。何を言うかは、決めていなかった。


「うしろ、来ます」


 自分の声が敬語になったのに、言ってから気づいた。


「走らないでください。走ると、どっちへ行ったか、見えなくなるので」


 女の人はうなずかなかった。落ちたパンを見て、それから自分の足元を見た。


「柱のうしろに、子どもがいます」リディアは言った。「こっちへ、引いてもらえますか」


 口が動いた。声にはならなかった。


 それでも、手が動いた。日よけの柱のかげに二歩入って、しゃがんでいた小さいのの腕をつかんで、引いた。


 ひとり動いた。


 地の底では、呼ばれた人が立った。線の上では、呼ばれた人が膝をついた。ここでは、逃げかけていた人が止まって、それから手を出した。おなじ呼び方なのに、返ってくる形が毎回ちがう。


 ほかは、動かなかった。


 動かないというより、広場じゅうが同じ向きへ下がっていた。籠が引かれる。戸板が立つ。子どもが腕ごと持ち上げられて、店の奥へ消えていく。


 リディアは井戸のほうを向いた。


「そこの」


 言いかけて、やめた。


 この人がなにをしたのか、見ていない。水を汲んでいたのか、並んでいただけなのかも見ていない。したことを言えなければ、呼べない。


 何百人いた。


 名前を知っているのは、ひとりもいなかった。


 うしろで、石畳の目地がひとつ消えた。


 音はしない。焦げも粉も出ない。ついさっきまでそこにあったという感じだけが残って、それもすぐに薄れる。


 井戸まで、十二歩あった。


 いま、十一歩になった。


「冥族だ」


 さっきの声が、また上がった。今度はひとつではなかった。


 石が飛んだ。


 ミラは避けなかった。避けられなかった。肩のあたりに当たって、乾いた音がした。薄い体が半分ほど傾いて、それから戻った。


 投げた男の芯の火が見えた。


 列の三番目に立っている、日に焼けた腕の人だった。火は小さくて、まんなかのあたりで揺れていた。手を向けて、消えて、と思えばそれで済む。


 わかったとたん、リディアは目を下げた。


「ユアン」


「おう」


「どかせた?」


「だめだ」ユアンは肩で息をしていた。「どかねえ。どかねえどころか、こっち見て集まってきやがる」


「わたしのうしろに立たないで」


「じゃあ、どこだ」


「ミラのとなり」


 ユアンが口を開けて、閉じた。


「……そっちか」


「そっち」


「わかった」


 ユアンは人ごみに背を向けなかった。向き直って、薄い輪郭の横に立った。人間のほうを向いて立った。すぐに罵声が飛んできた。


 ネリは、まだ袖を引いていた。名前で呼んでいない。呼び方も知らない。ただ、つかんで離さないでいた。怖がりの子のやり方だった。


     *


 坂の口に、母が立っていた。


 髪はほどけたままで、袖は肘まで裂けていた。手は下がっていた。ひと晩じゅう上げつづけていた手だった。


 だれかが気づいた。


「白暁の……」


「先生」


「先生、もういちど閉じてください」


 声が集まった。集まるにつれて、大きくなった。閉じてくれ。もどしてくれ。あれを下へやってくれ。


「引けないの」母は言った。「手が、残っていないから」


「じゃあ、どうすれば」


 母は答えなかった。


 答えないまま、群衆のほうへ二歩出た。


「マルタ」


 母は言った。


「戸板を立てないで。そこは通り道になるわ」


 日よけの緑の店で、手が止まった。


「イシ。井戸の水を、こっちへ運べる」


「……はい」


「並んでいた人。右のほうへかたむいて歩く、あなた。動かないで。そのままそこにいて。走ると、だれかが必ずぶつかるから」


 動きが止まった。


 二十人ほどが、その場に立ったままになった。


 名前で呼ばれた人と、体の癖で呼ばれた人だった。


 リディアは母を見た。


 この人は、線を引く前に上を見た。数えて、覚えて、それから引いた。ゆうべ言い返せなかった言葉が、いま目の前で働いていた。


 下を見た者と、上を見た者。片方だけでは、届かない。


「お母さん」


「なに」


「そっちの列、もっと言える?」


「言えるわ」母は言った。「十九人まで」


「十九人でいい」


 母は言った。ひとりずつ、名前と体の癖を。言い終わるたびに、少し息を継いだ。


 リディアは母の芯を見ないようにした。見ないようにしても、見えてしまう。ゆうべより細くなっていた。線をほどいたぶんが戻らなかったばかりか、まだ減っている。


 二十人目のところで、母の声が止まった。


「知らない人だわ」母は言った。「その人は、見ていない」


「うん」


「ごめんなさい」


「じゃあ、そこから先は、わたしが見る」


 鐘楼のほうで、だれかが上を指した。


「鐘が鳴らない」


「鳴らす人がいないの」母は言った。「わたしは、もう戻らない」


     *


 坂の口から、もうひとり出てきた。


 テオだった。


「テオ」


 ネリが呼んだ。呼んでから、両手でローブの裾を握った。


「生きてるじゃん」


「うん」


 リディアはそこまで歩いた。歩きながら、坂で三度呼んだときのことを思い出していた。


「呼んだよ」


「返事、したよ」テオは言った。「三回とも」


「聞こえなかった」


「うん。あいだに、無いところがあった」


 膝から下が白い粉で汚れていた。ずっと下にいた人の汚れ方だった。


「三十五人、見てきた」


「見てきたって」


「ひとりずつ。なにをしたか」テオは言った。「呼ぶには、見てないと言えないんだろ。だから、見た」


「ぜんぶ?」


「ぜんぶ」テオは言った。「書けないから、頭に入れた。あんまり得意じゃないやり方だけど、いまのところ落ちてない」


 テオは坂の口のほうへ顔を戻して、低く言った。


「みっつめの人は、隣のやつの膝の砂をはらった」


 だれのことでもない声だった。声に出して、順番を確かめている。


 リディアは坂の口を見た。まだ暗かった。


「戻る」


「いつ」


「わからない」リディアは言った。「でも、戻る」


「じゃあ、忘れないでおく」テオは言った。「僕が忘れたら、あの人たちは、だれにも呼ばれない」


     *


 石畳の終わりが、また広がった。


 悲鳴が上がった。今度は近かった。日よけの支柱が一本、途中から続かなくなって、布がゆっくり落ちた。


「もとに戻せ!」


 だれかが叫んだ。


「そいつが連れてきたんだ」


「下へ帰れ」


「あんたが、いなくなればいい」


 その言葉を、リディアはよく知っていた。


 十四年、自分でそう思っていた。邪魔にならないほうがいい。うまく消えていられれば、だれも困らない。母はもっとやさしい言い方で、おなじことを言った。守るために、隠す。


 リディアは前を向いた。


 広場じゅうの目が、顔の上をすべらずにこちらへ来ている。逃げ場のない見られ方だった。ずっとほしかったもののはずだった。


「わたしは、ここにいる」


 声は震えなかった。震えるほどの息が、残っていなかっただけかもしれない。


「じゃあ、どうしろってんだ!」


 言ったのは、前のほうにいた年配の男だった。腕に籠を三つ抱えたままだった。


「うちは、あそこだ」男は日よけの列を顎で指した。「二十二年、あそこで売ってる。畳めってのか。どこへ持ってけばいい」


 リディアは答えられなかった。


 持っていく先は、無い。この人の店の先も、いつか続かなくなる。うそをつけばいまは静かになる。静かになったぶんが、あとで来る。


「わかりません」リディアは言った。「畳めとも、言えません」


「役に立たねえな」


「はい」


「じゃあ、なんのために出てきた」


「見ててください」リディアは言った。「それだけ」


「見てどうなる」


「止まる」


 言ってから、自分の言葉を疑った。


 でも、止まっていた。


「止まってる」


 テオが言った。石畳の終わりのふちを指していた。


 ふちのうち、人が顔を向けているところだけが動いていない。だれも見ていない左のはしは、まだ静かに終わりつづけていた。


 パンを落とした人が、目をそらした。


 その足元が、音もなく無くなった。


 悲鳴。女の人がはねるように振り返って、また見た。


 止まった。


「……見てるあいだ、止まるんだ」テオは言った。


 リディアは、坂を上る前に自分ののどから出た二つの言葉を思い出した。


 みつけて。いれて。


 見られているあいだは、探さなくていいのかもしれない。そう思っただけで、たしかめようはなかった。


「消えないのか」井戸のほうから声がした。


「消えない」リディアは言った。「見ても、消えない。見てるあいだ、止まるだけ」


「いつまでだ」


「たぶん、毎日」


 ポケットのなかで、父の手帳の角が指に当たった。


 探さなくても見つかる子ではない。だから、毎日ちゃんと探すこと。


 父はあれを、娘ひとりのつもりで書いたのだと思う。


「わたしのことは、あとで決めていい」リディアは言った。「殺すのでも、閉じこめるのでも。……見てからにして」


     *


「そこの、子どもを引っぱった人」


 声がした。


 水汲みの列にいた男だった。パンを落とした人が振り向いた。


「そっち、はしが動いてる」男は言った。「見ててくれ。おれは、こっちを見る」


 名前ではなかった。


 リディアは、その男の顔を覚えようとした。


「聞こえた」テオが小さく言った。


「うん」


「見てたんだ、あの人」


 押しこめるほうへ動いていた背中が、一箇所だけ向きを変えた。


 一箇所だけだった。ほかは、まだ下がっていた。日よけの奥から出てこない者のほうが、ずっと多い。石を握ったままの手も、まだあった。


 籠を三つ抱えた男が、水汲みの列のほうを見ていた。


 それから籠を地面に置いて、日よけの列へ戻っていった。戸板を立てるのだと思った。ちがった。男は柱に手をかけて、布を巻き上げた。店の奥まで朝の光が入って、樽も秤も棚も、通りから見えるようになった。


「一箇所か」ミラが言った。肩を押さえたままだった。


「うん」


「……あたしのときは、一箇所も、なかったよ」


 ユアンがミラの前へ半歩出た。出てから、下がった。


「わりい」ユアンは言った。「前に出るのは、やめるんだった」


「となりでいいよ」ミラは言った。「そこなら、こっちも見える」


 ネリが囲いのふちを指でなぞった。


「ここ、はしっこが見えない」


「そっちは井戸のかげになる」テオが言った。「だれか、あっち側にも要る」


「じゃあ、わたし」ネリが言った。「こわいけど」


「ひとりだと目が痛くなるぞ」ユアンが言った。「おれも行く」


「東は」


「東はミラが見てる」


「あたしが見ても、だれも信じないよ」


「おれが信じる」ユアンは言った。「二人ならいいだろ」


 テオが指を折って数えた。


「四つ。ふち、四つある。人が足りない」


「呼ぶよ」リディアは言った。「したことを見た人から、順番に」


     *


 二十日たった。


 広場のまんなかに、石が積んである。


 低い囲いで、またぐ気になればまたげる高さだった。内側は石畳が終わっている。ふちは焦げても割れてもいない。そこから先が続いていないだけだ。


 囲いのそばに、木の椅子がひとつ置いてある。


 朝はいつも、母が座っている。


 薬屋の格好に戻っていた。世界を割ったことのある手で、膝の上の布を畳んでいる。ときどき顔を上げてふちを見て、それから通る人をひとりずつ見る。


「ひとりずつ見る、と言ったから」


 母はそれしか言わない。


 昼からは水汲みの当番とおなじ順番でまわる。見る番、と呼ばれている。半日ひとりで立つと目が痛くなるとわかって、二人ずつになった。


 鐘は毎朝鳴る。


 押さえている人はいない。鳴らす人が、たくさんいる。順番に鐘楼へ上がって、綱を引く。何百年、ここは一日も黙らなかったのだと、だれかが言っていた。黙らせないでおくことに、いまは当番の名前がついている。


 テオの手帳は三冊に増えた。二冊は他人の字だ。


 昼のあいだ、テオは囲いのそばに座って、通りかかった人に書き方を教えている。名前を書く欄はない。かわりに、その人がなにをしたかを書く欄がある。


「日付は要る」テオは言う。「あとで、だれが見てたかわかるから」


「ぜんぶは書けないよ」


 だれかが泣きそうな顔でそう言ったのを、リディアは横で聞いた。


「知ってる」テオは言った。「だから、手が要るんだ」


 地の底から上がってきた人は、十一人になった。


 残りは、二十四人。


 いちばんうしろを歩いていた人は、いまも二歩ごとに振り返る。振り返って、坂の口を見る。上がってきた人には、みんなその癖がついていた。


 ネリはその横にいることが多い。まだ名前を聞けずにいる。袖をつかんで、離さないでいる。


 ユアンは広場の東の端に立っている。ミラのとなりだった。石は、まだときどき飛んでくる。


 リディアの目のうしろは、ひらいたままだった。もう閉じない。歩けば通りの家の芯の火が見えるし、見つかりつづけてもいる。知らない人が広場のはしに立ってこちらを見ていることが、月に何度かある。冥族のこともあるし、魔術院の長衣のこともある。


 だれもまだ、なにも決めていない。


 リディアは父の手帳をひらいた。


 薬草の名前。天気の読み方。眠れない子に飲ませる蜂蜜湯。母が疲れている日のスープの分量。そして、娘のこと。


 空いている行に、書き足した。


 いちばんはじめに振りかえった人は、二歩ごとにうしろを見る。

 名前は、まだ聞けていない。だから、毎日ちゃんと見ること。


 字は、父のより下手だった。


「線を、ほどかせた子」


 うしろから声がした。


 ミラだった。名前は、もう呼べない。


「なに」


「次の番、あんたじゃないのかい」


 リディアは手帳を閉じて、立ち上がった。


「わたし」


 手を上げた。教室で上げても、数に入らなかった手だった。


 パン屋のマルタが、焼けたのをひとつ投げてよこした。


「落とさないでよ」


「はい」


 リディアは受け取って、囲いのそばに立った。


 うしろで朝が続いている。犬。井戸。走る子どもの足。


 リディアは、そこに立って、見ていた。


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