落ちる場所で待つ
外縁の朝は、鐘で始まらなかった。
誰かが鍋を木の匙で叩いた。それだけだった。
聖域では、刻はぜんぶ鐘が決めた。起きる刻、祈る刻、検めの刻。ここでは腹のへった者が先に起きて、火を熾し、鍋を叩いた。それが朝のしるしだった。
リディアは藁の上で目を覚ました。
隣でテオはもう起きていた。膝をかかえて、板の隙間から外を見ている。眠ったのかどうか、顔ではわからなかった。地の底にいたあいだ、テオはずっと半分の穴のそばにいた。眠るより、見ているほうが、この子には休みなのかもしれなかった。
朝の椀は、出てこなかった。
「食う前に、働け」
ガルドが戸口に立っていた。昨日の夜と同じ、低い声だった。
「掘って、運ぶ。昼に食える。掘らなきゃ食えん。ここの決まりだ」
リディアは立ち上がった。腹が鳴っていた。二日、まともに食べていなかった。それでも、はい、と言った。地の底を出るとき自分で決めたことだった。誰かに食べさせてもらう側を、もう、おりたのだった。
*
坑道は、砦のあとの裏手にあった。
古い石組みの奥が崩れて、土と岩がむき出しになっている。探索者たちはそこを掘っていた。古い時代のものが埋まっている、とテオが小声で教えた。武具。封印の道具。冥族の骨。掘り当てれば、銭になる。
「境が、すぐそこだ」
若い探索者がリディアに言った。ロウ、と名乗った。日に焼けた、笑うと前歯の欠けた男だった。リディアを二度見してから話しかけてきた。一度では、とらえられなかったらしい。
「壁のこっち側だけどな。夜は出る。名なし、ってやつが。掘りすぎると、向こうとこっちの土がつながっちまう。そうなったら、その穴はもう埋まらん。だから、奥は決まった線までしか掘らねえ。あんたも、覚えとけ」
リディアは、土を入れた籠を運んだ。
重かった。何度もよろけた。ほかの者の半分も運べなかった。それでも運んだ。坑道の口まで土をあけて、また戻る。手のひらがすぐに赤くむけた。爪のあいだに、黒い土が入った。
誰も手伝わなかった。けれど、誰も笑いもしなかった。ここでは、運べる量だけがその人だった。薄いも、濃いもなかった。籠は、リディアが持てばちゃんと重かった。世界が手をすべらせても、土はすべらなかった。
昼に、鍋の前へ並んだ。
順番が来た。けれど、椀を配る男の手が、リディアの前で止まらなかった。目が、すっとうしろの男へ動いた。学校で配られる紙が一枚足りないときと、同じ手つきだった。
リディアは、半歩、前に出た。
「わたしの分も」声を出した。「掘りました。運びました」
男の手が止まった。リディアを見た。それから、椀によそった。あたたかい麦の粥だった。
受け取って、両手で持った。湯気が、顔に当たった。
誰かに置いてもらう椀ではなかった。並んで、前に出て、自分で言って、もらった椀だった。聖域では、まずいと思っていた粥だった。ここのは、しょっぱくて、薄かった。けれど、聖域のより、ずっと、味がした。
*
昼の飯のあと、ガルドはリディアを坑道のいちばん奥へ連れていった。
ロウが、つるはしを止めて見ていた。
「火を出せ」ガルドは言った。「いちばん得意なやつだ」
リディアは火をつくった。魔力を集める。形にする。
遅い。
手のひらに小さな火の玉が生まれたころには、ガルドはもう横を向いていた。あくびをしていた。
「やっぱり、遅いな」
「……はい」
ずっと言われてきたことだった。遅い。間に合わない。足りない。学校でも、聖域でも。言われるたびに、胸の奥が、すこしずつ削れた。けれど今日のガルドの言い方には、けなす色がなかった。ただ、そうだな、と事実をたしかめる言い方だった。
ガルドは足もとの石を拾った。
「昨日の続きだ」
暗がりの奥へ石をほうった。かちん、と音がして、どこかに落ちた。
「追うな。追えば遅い。石がどこに落ちるか、さきに読め。読んで、落ちる場所にさきに火を置いとけ。来てから出すんじゃ間に合わん。来るより、さきにだ」
落ちる場所で、待つ。
ガルドの、昨日の言葉だった。
ガルドがまた石を投げた。
リディアは暗がりを見た。石がどこへ行くか、見えなかった。音が鳴ってから、あわてて火をそちらへ向けた。とうに、落ちたあとだった。
「遅い」
もう一度。今度は石の飛ぶさきを目で追おうとした。けれど火を置くころには、石はちがう場所に落ちていた。読みが外れた。
「外れだ」
何度もやった。十回。二十回。火を置くと、石は来ない。石の来る場所には、火が間に合わない。リディアの火はいつも、何もない暗がりを照らした。
手のひらの火が消えた。汗がこめかみを流れた。腕が、籠で重くなっていた。
やめたい、とは思わなかった。けれど、できる気も、しなかった。一生遅い、とガルドは昨日言った。一生かけても、これは置けるようにならないのかもしれなかった。
「もういっぺん」ガルドは言った。やさしくはなかった。「百回外せ。百一回めにいっぺん当たりゃ、それでいい。当てに来るな。外しに来い」
そのとき、テオが坑道の口から入ってきた。
ガルドが投げるのを、しばらく見ていた。それから、リディアの隣に来て、小さく言った。
「石の風を、聞いてみて」
「風?」
「投げる前に、あの人の腕がどっちに向くか。石が空気を切る音。落ちる前に、すこしだけ、わかる」テオは淡々と続けた。「君は足音が薄いねって、僕、前に言ったろ。あれと逆だよ。薄いものの居場所も、僕は音でわかる。石も、おなじだ」
リディアは、はじめて会った日のことを思い出した。誰も気づかないリディアの足音を、テオだけが聞きとった。あのとき、薄さは見つけられる怖さだった。いまは、それが、来るものを読む耳になっていた。
テオがガルドの手もとを指で示した。
「いま、右」
ガルドの腕が右へ振れた。石が右の暗がりへ飛んだ。
リディアはそっちへ火を置いた。来るより、さきに。
石は、火のすこし手前に落ちた。
当たらなかった。けれど暗がりのなかで、はじめて、石と火が近かった。
ガルドは何も言わなかった。ただ、もうあくびはしなかった。
また投げた。今度はテオが何も言わないうちに、リディアは自分でガルドの肩を見た。腕の向き。息のため。投げる、と体が決める、その一拍まえ。左へ来る、と読んだ。左に火を置いた。
石は、火の右に落ちた。
外れた。けれど、さっきより近かった。読みが、すこしずつ、石に追いついていた。
「わかってきたな」ガルドははじめてそう言った。ほめ言葉ではなく、ただの観察だった。「速さで来るやつは、いくらでもいる。速さは、いつか、もっと速いやつに負ける。さきに読む力は、負けねえ。歳をとっても、腕が落ちても、残る。遅いやつだけが、それを覚える。速いやつは、覚えなくていいからな」
ガルドは台の下から水の革袋を出して、リディアのほうへ放った。
「飲め。明日も、外す」
*
夕方ちかく、坑道の奥で声が上がった。
ロウたちが何か掘り当てていた。土のなかから、黒く錆びた金具のようなものが半分だけ出ていた。古い封印の道具だ、と誰かが言った。銭になる、と。
みんなが、そこに集まった。
決まった線より、すこし奥だった。けれど、銭の匂いがすると、線は動いた。
リディアはすこし離れて、籠を置いた。そのとき――見えた。
壁の奥の、土のずっと向こう。そこにひとつ、流れがあった。聖域の暗がりで見たのと同じ、乾いた流れ。石づきの薄い目には、半分しか見えなかった。けれど、わかった。土が、向こうとつながりかけていた。ロウの言ったとおりに。掘りすぎた奥に、奪う手が、口を開けかけていた。
そして、金具の上の岩が、ゆっくり沈みかけていた。
言わなきゃ。
リディアは口を開いた。けれど声がすぐには出なかった。学校の、あの坑道と同じだった。気づく。言えない。間に合わない。
「危ない」やっと言った。「上が、落ちる」
誰も振り向かなかった。リディアの声は薄かった。掘り当てた銭の話のほうが、大きかった。
石を、外せば。
一瞬、思った。外せば、ぜんぶ見える。岩の落ちるさきも、土の裂け目も。指を向けて、止まって、と思うだけで、あの岩は止められる。ロウも、誰も、けがをしない。
その思いつきが、いちばんこわかった。
外さない。リディアは胸の石を手で押さえた。外せば、ぜんぶ終わる。きのうまでなら、迷わなかった。けれどいまは、外したい理由が、誰かを守るためという顔をしていた。誰かのために外す――それがいちばん、あぶない外し方のような気がした。なぜかは、わからなかった。地の底で母が見せた、あの目の奥の怖れだけが、胸をかすめて通った。
かわりに、リディアは火を置いた。
落ちる場所に。さきに。岩の沈むさきの、ロウの足もとの暗がりに。来るより、さきに。火がそこを赤く照らした。
「ロウ! そこ、どいて!」
明かりがあったから、ロウは下を見た。岩が頭の上で沈んできているのが、見えた。
ロウは跳んだ。
岩が落ちた。土と石のにぶい音。砂ぼこりが坑道を白くした。
砂ぼこりが引いたとき、ロウは生きていた。けれど岩の端が、足を打っていた。足首がありえないほうに曲がっていた。脂汗を流して、歯を食いしばっていた。
「間に合わなかった」リディアは言った。声が震えた。
「間に合った」ロウが、痛みのなかで言った。「明かりがなきゃ、おれは下を見てない。頭から、いってた」
間に合って、いなかった。リディアの火は、岩を止められなかった。ロウの足を、守れなかった。半分だけ間に合って、半分は間に合わなかった。それが、いまのリディアのぜんぶだった。
崩れた壁の奥から、乾いた風が吹いた。土が、向こうとつながっていた。掘りすぎた穴の奥で、何かがこちらをのぞいていた。ロウの言った、もう埋まらない穴が、ひとつ開いていた。あの乾いた手が、いつでも通れる口が。
ガルドが来た。崩れをひとめ見た。ロウをひとめ見た。それから、リディアの消えかけの火を見た。
「火を、さきに置いたな」ガルドは言った。ほめてはいなかった。「落ちる場所に。来るより、さきに」
「でも、止められなかった」
「止めるのは、まだ先だ」ガルドは崩れた岩に手をかけた。「きょうは、置けた。それだけだ。置けてなきゃ、明かりもなかった。ロウは、頭から、いってた。半分でも、置けたやつは、半分は守れる。なんにもできんやつは、ゼロだ」
ガルドは、ロウを背負った。崩れた奥の穴へ、一度だけ目をやった。
「ここは、もう掘らん。埋めるぞ」と、誰にともなく言った。
*
その夜、ロウの足は添え木で固められた。しばらく掘りには出られない。リディアが運ぶはずだった籠が、ひとつ増えた。文句を言う者はいなかった。明日は明日で、誰かが、誰かの分を運ぶのだった。
リディアは小屋の裏の空き地に、ひとりで出た。
月が出ていた。境に近い土地の月は、王都のより大きく見えた。
足もとの石を拾った。暗がりの一点へほうった。かちん、と鳴った。それから、その音のした場所に火を置いた。来るより、さきに。
今度は、石はもう投げたあとだった。落ちる場所はわかっていた。火はちゃんと、そこを照らした。
できた。
半分だけ、できた。
わかっていた。自分で投げて、自分で読んだ。落ちる場所がはじめからわかっていたから、置けた。けれど、ほんとうの夜はちがう。名なしは、どこから来るか言わない。岩は、どこに落ちると教えない。石は、いくつも、いっぺんに飛んでくる。一点で待っていては、ほかのぜんぶを見のがす。ロウの足を打った岩も、待っていた場所のとなりに落ちた。
ひとつの火では、足りなかった。
テオが小屋から出てきた。隣に、しゃがんだ。
「ロウ、君のこと覚えてた」テオは言った。「足、折れてんのに。あの薄いの、って。明かりの子、って」
リディアは手のなかの石を見た。
誰かが、痛みのなかで、リディアを覚えていた。薄い、明かりの子、として。名前は、まだ誰も呼ばない。けれど、消えはしなかった。火を置いた場所が、ロウのなかに残っていた。顔でも、名前でもなく、置いた明かりのかたちで。
「もし」リディアは言った。「いっぺんに、いくつも来たら」
テオは、しばらく考えた。
「ひとつの火を、こまかく散らせばいい」と、ひとりごとのように言った。「強い一発じゃなくて、弱いのを、ばらまく。君の魔法は、もともと、まとまらないんだろ。広がるほうが、君には向いてるのかも」
まとまらない。乱れる。それも、ずっと欠点だと言われてきたことだった。
リディアは、もう一度、石を投げた。今度は二つ。右と左へ、いっぺんに。
火は、ひとつしか置けなかった。右の石は、暗がりにひとりで落ちた。
まだ、ぜんぶは守れない。
でも、明日もここにいる。隠れて、やり過ごすのではない明日が。
リディアは、左右の暗がりを両方いっぺんに見ようとした。
どちらの石が来ても、いいように。




