逃げてきたんじゃない
王都の壁が見えなくなって、二日が過ぎた。
道はだんだん細くなった。石畳が砂利になり、砂利が土になり、最後はただ、人が歩いたから道に見えるだけの線になった。
地図の、いちばん端だった。
リディアはその線の上を歩いていた。隣にテオがいた。父の手帳は襟もとに入れてある。薄くなった二文字と、その隣に引いた線を、歩きながら指で確かめた。あの子はまだそこにいた。名前のかわりの、線として。
外には、守ってくれるものが何もなかった。
聖域には壁があった。検めがあった。日に二度たしかめに来る足音があった。息がつまるほど見られて、けれど、見られているあいだは誰も手を出せなかった。
ここには、それがない。
壁もない。検めもない。リディアを器と呼ぶ声も、保持者と書く帳面もない。かわりに誰ひとり、リディアがそこにいることを知らなかった。
知られないということは、こんなに寒いのだと思った。
二日めの夜から、食べるものが尽きた。テオが持たせてくれた乾いた麦の塊を、半分ずつかじって、それも朝にはなくなった。水は沢で足りたが、腹はずっと鳴っていた。聖域では、まずいと思っていた麦の粥が、毎朝、決まった刻に運ばれてきた。誰も顔を見なくても、椀だけは、置かれた。ここには、その椀すらなかった。
道ばたに、焼けた家があった。屋根が落ちて、黒い柱だけが立っていた。新しい焼けあとだった。誰が焼いたのかも、住んでいた人がどこへ行ったのかも、わからなかった。境に近い土地では、こういうものを、誰も片づけないのだと、テオが言った。
*
昼すぎ、道の先に人がいた。
四人か、五人。腰に剣を提げ、荷を負った旅人を道の真ん中で止めていた。通行の銭をとっているのか、ただ奪っているのか、遠目にはわからなかった。境に近い土地には、王の兵も来ない。ここでは、強い者が関所だった。
テオが足を止めた。
「……戻る?」
リディアは戻らなかった。道の端による。木の影による。そして、いつもの薄い足音で歩いた。
消そうとはしなかった。消そうとしなくても、リディアの気配はいつも薄かった。
男たちの前を、通り抜けた。
ひとりがふと顔を上げた。リディアのいたあたりを見た。何かが通った、という顔だった。けれど、すぐにそらした。荷のある旅人のほうが、銭になる。
誰も、リディアを止めなかった。
ずっと、いちばんつらかったことだった。誰の数にも入らないこと。それが、いま、剣の前を通らせた。
追いついてきたテオが、低い声で言った。
「君は、ああいうとき、ほんとうに消える」
「消えてない」リディアは言った。「ここにいる。ただ、見えないだけ」
「同じだよ」
「ちがう」
強く言ってから、自分でおどろいた。三日まえなら、同じだと思っていた。見えないのと、いないのは、おなじことだと。
*
その夜も、火は焚かなかった。煙は遠くから見える。
眠るまえ、乾いた気配がまた来た。
鐘から遠いここでは、それは細かった。地の底ですぐ耳もとまで来たあの気配ほど、つよくはなかった。けれど、消えてはいなかった。リディアが黙ると、すこし伸びる。手帳の、いちばん薄い名前のほうへ。
壁の外まで来ても、あれからは逃げきれていなかった。
リディアは手帳をにぎった。それから目を閉じた。地の底でためしたことを、もう一度ためした。薄くなって、もっと薄くなって、奪われていくもののあとを追えないか。あるいは、その薄さを楯のように、あいだに置けないか。
何も起きなかった。
薄さは、ただ薄いだけだった。楯にもならず、道にもならなかった。
わかっていた。ひとりでは、何も起きない。地の底で、もうわかっていた。だから出てきたのだった。
教わらなければならなかった。誰かに。隠れることでも、呼ぶことでもない、別のやり方を。
*
四日目の昼に、その場所に着いた。
外縁の、古い砦のあとだった。崩れた石壁に、木で継ぎ足した小屋がいくつも貼りついている。境がいちばん薄くなる土地で、人がそれでも住んでいた。
探索者の場所だ、と道で聞いていた。地図の外へ入って、古いものを掘り、冥族と隣り合って、それで飯を食う者たちの。王都の理屈は、ここまで届かない。
門のところで、ひとりの男が、帳面をつけていた。出ていく者の名と、戻ってきた者の名を、線で消したり、足したりしていた。
その男が、手を止めた。
「……おかしいな」
帳面のひとつの行を、指でなぞっていた。
「ここに、名前があったはずなんだ。きのう、いっしょに掘りに出た男の。なのに、思い出せん。顔は、わかる。声も覚えてる。名前だけが、ない」
テオが、その帳面を、横から見た。
「忘れたんじゃない」テオは小さく言った。リディアにだけ聞こえる声で。「あれだ」
奪われたのだ、とわかった。地の底の、あの乾いた気配が、ここでも、誰かの名をひとつ、もぎ取っていた。聖域の鐘の下だけの話ではなかった。外でも、人は、名前を奪われていた。
リディアは、男の帳面の、罫線だけになった一行を見た。中庭の女の名簿と、おなじだった。
奪う手は、聖域の壁を出ても、追いついていた。むしろ、誰も呼ばない外のほうが、あれには都合がいいのかもしれなかった。守ってもらえない場所は、奪われやすい場所でもあった。リディアは、襟もとの手帳を、上から手で押さえた。
*
奥の、いちばん大きな小屋に、その人はいた。
大きな男だった。背が高いのではなく、横に厚い。古い革の上衣。腕に、白くなった傷がいくつも走っていた。地図を広げた台の前で、若い探索者たちに、低い声で何か指していた。
ガルド。それが名前だった。探索者ギルドの、いちばん上の人。聖域の五柱のひとり、と道で聞いて、リディアは半分しか信じなかった。五柱なら、聖域の奥にいるはずだった。こんな、土と汗の匂いのする場所では、なく。
テオが前に出た。
「ガルドさん」
男が顔を上げた。テオを見た。それから、テオのとなりを見た。誰もいない、という見方をした。
「ひとりか」ガルドは言った。「探索の口なら、表で受けてる。子どもは、とらん」
「ふたりです」テオが言った。
ガルドが、もう一度、テオのとなりを見た。
リディアは、そこにいた。
見られても、すぐにそらされた。聖域の外で、地図の外で、冥族の隣で生きてきた目でも、リディアを一度ではとらえられなかった。
ずっと、それがつらかった。けれどいまは、すこしちがった。この人にも見えないなら、わたしの薄さは本物なのだと思った。
リディアは一歩、前に出た。
「リディア・アークライトです」自分から名乗った。地の底で、どの帳面にも書かれなかった名前を。
ガルドの目が、はじめてリディアでとまった。とまってから、動かなくなった。
しばらく、ガルドは何も言わなかった。それから台の下から、一枚の紙を出した。荒い字で刷られたものだった。
「三日まえに、北から来た」ガルドは言った。「魔術院の手配だ。地の底から、封印具がひとつ消えた。見つけたら報せろと」
紙には絵はなかった。リディアの顔は、誰にも描けない。かわりに字だけがあった。第三封印具。保持者。それから、女、年のころ。
「あんたのことだ」ガルドは言った。
リディアは紙を見た。そこに書かれていたのは、リディアではなかった。封印具と、それを入れているいれもの。
「ちがいます」リディアは言った。
「ここは、隠れ場所じゃない」ガルドは紙を台に置いた。「魔術院に追われてる子を、かくまう趣味はない。掘るのも戦うのも、ここじゃ自分の食いぶちは自分で出す。お行儀のいい嬢ちゃんの、来るとこじゃない」
「隠れに来たんじゃありません」
ガルドがリディアを見た。
「じゃあ、何しに来た」
リディアは、ひとつ息を吸った。地の底を出てから、いちばん長い言葉を言おうとしていた。
「逃げてきたんじゃない」リディアは言った。「教わりに来ました」
ガルドは黙っていた。
「わたしは、隠れることならできます。生まれてからずっと、それだけはできた。さっきも、剣の前を見つからずに通りました。でも、それだけなんです。隠れて、やり過ごすことしか知らない。呼んでも、覚えても、間に合わなかった。隠れても、見つけられた。……だから」
言葉が、つかえた。
「この薄さを、隠れる以外に使うやり方を、教えてほしい」
ガルドは、長いことリディアを見ていた。今度は目をそらさなかった。見ようとして、見つづけていた。
「薄さを、使う」ガルドは低く言い直した。はじめて聞く言葉のように。「だれに、吹き込まれた」
「……ある人に」ミラの名は言えなかった。敵だったから。「消すものじゃなくて、使えるかもしれない、って」
ガルドは鼻を鳴らした。台の紙を、もう一度見た。封印具、と書いてある紙を。
「魔術院は、あんたをいれものだと書く」ガルドは言った。「冥族は器と呼ぶんだろう。どっちも、中身の話だ。あんたが何を入れてるか、それしか見てない」
ガルドは、紙をくしゃりと握った。
「おれは、いれものは掘らん。掘るのは、まだ動いてるやつだ」
それから、テオを見た。
「ここまで、こいつとふたりで来たか」
「足音なら、僕がいちばん聞きとれる」テオは淡々と言った。
ガルドは、すこし口を動かした。笑ったのか、ただそう見えただけなのか、わからなかった。
「いいか」ガルドは言った。「タダじゃない。ここでは、誰もタダじゃ何ももらわん。教わるなら、働け。掘って、運んで、自分の食いぶちを出す。それから――」
握った紙を、土間の火のほうへ放った。紙はすぐに燃えた。
「この手配は、見なかったことにする。だが、おれが見なかったことにしても、刷った紙はほかにもある。あんたを置けば、おれの場所も危うくなる。それでも置く。だから、働け。腑抜けはいらん」
リディアは、燃えていく紙を見た。
封印具、という字が、いちばん最後に火へ消えた。
「はい」リディアは言った。
*
その夜、ガルドはリディアを、小屋の裏の空き地へ連れていった。
月が出ていた。境に近い土地の月は、王都のより大きく見えた。
「魔法を出してみろ」ガルドは言った。「いちばん得意なやつを」
リディアは、火をつくろうとした。
魔力を集める。形にする。
遅い。
ほかの子なら、まばたきのあいだにできる。リディアには時間がかかる。火の玉がようやく手のひらに生まれたとき、ガルドはもう、それを見ていなかった。あくびをしていた。
「遅いな」ガルドは言った。
「……はい」
「致命的だ。ここでは、その遅さで死ぬ」
リディアはうつむいた。聖域でも、学校でも、ずっと言われてきたことだった。遅い。間に合わない。足りない。
「だが」
ガルドは足もとの石を、ひとつ拾った。そして、暗がりの一点へほうった。石は見えない地面に落ちて、かちん、と鳴った。
「いま、おれはあそこへ石を投げた。あんたは石を見てから追ったんじゃ、間に合わん。遅いからな」ガルドは言った。「だが、落ちる場所がさきにわかってたら、どうだ。追わなくていい。さきにそこで、待ってりゃいい」
リディアは、暗がりの、石の落ちたあたりを見た。
「遅いのを、速くするんじゃない」ガルドは言った。「それは、できん。あんたは一生、遅い。――遅いまま、間に合わせる。やり方は、ひとつしかない」
ガルドは、それ以上は言わなかった。
「明日から、だ」とだけ言って、小屋へ戻っていった。
リディアは、ひとり、空き地に残った。
足もとの石を、ひとつ拾った。さっきガルドが投げたほうへ、目をやった。暗くて、何も見えなかった。
でも、石が落ちた場所は、まだ音で覚えていた。かちん、と鳴った、あのあたり。
遅いまま、間に合わせる。
ガルドは、最後まで、リディアの顔から目をそらさなかった。手配の紙を握りつぶしたときも、薄さを使うやり方を教えてくれと言ったときも。学校の先生も、検め師も、アデルバートも、リディアを見ようとして、いつのまにか別のところを見ていた。目が滑った。ガルドの目は、滑らなかった。
いれものではなく、まだ動いているやつ。そう言われたのは、はじめてだった。器でも、保持者でも、守るべき娘でもなく。
うまく言えないけれど、それは、見つけてもらえた、というのと、すこし似ていた。
胸もとの石は冷たかった。鐘から遠いここでは静かで、外れる気配もなかった。腹はまだ鳴っていた。けれど、聖域にいたときより、寒くはなかった。
明日から、何かが始まる。隠れて、やり過ごすのではない、何かが。
リディアは、手のなかの石を、暗がりの一点へ投げてみた。
石は見えない地面に落ちて、かちん、と鳴った。
ガルドの石より、ずっと手前で。




