自分の足で、昇る
名前を読むのを、やめた。
乾いた気配がその一拍のすき間に伸びかけて、リディアが黙ったまま動かないので、行き場をなくしたように暗がりのへりへ退いた。
リディアは半分になった風の穴から落ちる細い明かりのなかに座っていた。膝の上に、父の手帳。薄くなった二文字と、その隣に引いた線。ここに、いた、というしるしだけがその場所に残っていた。
ずっとこうしていた。読んでは退かせ、やめては近づかせ、また読む。そのあいだにひとつ奪われた。次の静けさで、また何か奪われる。朝の検めまでに、この一拍は何度来るだろう。
数えて、やめた。
数えても、ひとつも減りはしなかった。
石を握った。冷たかった。鐘から遠いここでは石は静かで、外れる気配もない。外せば消える。外したまま動けば、壁の外の冥族に居場所を教えてしまう。だから外せない。けれど、つけたまま、この乾いた手から名前を守るやり方もわからない。きのうも、おとといも、ためして何も起きなかった。
隠れることなら、できた。生まれてからずっと、それだけはできた。けれど、いまいる場所より深く隠れられるところはもうない。地の底のいちばん下まで来て、それでも見つけられた。隠れるのは、もうおしまいだった。
呼ぶことも、覚えることも、間に合わなかった。手帳に書いて、毎日呼んで、握っていても、いちばん細い火から抜き取られた。
母は上にいる。降りてこられない。テオの声は半分。
ぜんぶ、行き止まりだった。
リディアは手帳を閉じた。
ここにいては、ひとつずつ奪われる。いつか、自分のも。──そう思ったとき、こわい、とは思わなかった。もっと静かな何かが胸の奥に置かれた。もう、ここにはいられない。ただそれだけのものだった。
出る。
いつ出るかは決まっていた。扉は外からしか開かない。鍵はぜんぶ向こうにある。けれど、一日に二度、開く。アデルバートがたしかめに来るたびに。封印が効いているか、水晶がにごっているか。日に二度、ここをたしかめに。
そのとき、扉は開く。
リディアは半分の穴の下に立った。
「テオ」
間。とん、と石が鳴った。そこにいる、という音だった。
「聞こえる? 半分でも、いい」
「……こえる」糸のような声が石のすき間を抜けて落ちてきた。
リディアはできるだけ短い言葉で伝えた。次に扉が開いたら、出る。昇る。上まで。
長い間があった。それから、とびとびの声。
「……あぶない。鐘の、下を、通る」
通る。わかっていた。地の底から昇る道は、いったん鐘楼の根もとを抜ける。鐘のいちばん近くを。石が、また呼ばれる場所を。
「わかってる」リディアは言った。「テオ、お願いがある。わたしが出るあいだ、名前を読んで。あれがわたしのほうに来ないように」
とん、と石が鳴った。
読む、という意味だと思った。テオの声が来るあいだ、乾いた気配は退く。テオが上から呼びつづければ、昇るあいだ、あれは手を伸ばせない。声は半分しか届かない。それでも、半分は届く。
「足音も、数えて」リディアは言った。「下りてくる人の」
とん、とん。二度鳴った。
*
朝が来たのかどうかは、わからなかった。地の底に朝はない。けれど、足音が降りてきた。
数えたとおりの数だった。検め師の軽い足。衛兵の重い足。そして、いちばん後ろにひとつ。肩に埃ひとつなく、ゆっくり降りてくる足。
アデルバート。
鍵が外から回った。リディアは下がらなかった。扉のほうを向いたまま、薄い明かりのなかに立っていた。
扉が開く。アデルバートは封印陣の内側へは入らず、枠の外に立った。目が部屋を数えはじめる。陣のにじみ。継ぎ目。半分にふさいだ穴。隅。それから、リディアの胸もと。顔ではなく、石を。
「たしかめます」
検め師が前に出て、透きとおった石の杖をリディアの胸もとへ翳した。水晶の奥が灰色ににごっていく。ゆっくり、濃く。検め師はにごりを目で測り、帳面に書いた。日付。刻。濃さ。
リディアはその手もとを見ていた。
帳面には封印具のことが書かれていた。にごりのことが。陣のことが。リディアという名前は、どこにも書かれなかった。
観測されていないものは、記録に書けない。──いつか、この人がそう言った。気持ちは線にならない、と。帳面にない娘を、この人は、たしかめようがない。
だったら。
検め師が杖をおろした。衛兵が帳面を閉じる。アデルバートがひとつうなずいて、背を向けた。封印具は定位置にある。にごりは記録した。陣は無事だった。たしかめるものは、ぜんぶたしかめた。
扉は、まだ開いていた。
リディアは足を踏み出した。
いつもの、薄い足音で。気配を消して、ではない。消そうとしなくても、リディアの気配はいつも薄かった。先生が名前を飛ばす。友だちが忘れる。検め師が顔を見ない。誰も、リディアを数に入れない。ずっと、それがいちばんつらいことだった。
その薄さで、扉のほうへ歩いた。
衛兵の肩のあいだを抜けた。誰も振り返らなかった。たしかめたものは、ぜんぶたしかめたあとだった。誰も数えなおさなかった。アデルバートの背中が石段を昇っていく。その目はもう、この部屋を確かめ終えている。
数えられていないものは、止められない。
リディアは扉の外へ出た。
いちばんつらかったことが、いま、扉を抜けさせた。
*
石段は暗かった。
手燭の明かりは、アデルバートたちの背中といっしょに、ずっと先を昇っていく。その光に追いつかないように、けれど離れすぎないように、リディアは昇った。一段ずつ。自分の足で。
上で、テオの声が聞こえはじめた。
ユアン。ネリ。……オ。お母さん。リディア。半分だけ石のすき間を抜けて降りてくる。名前を読んでいた。リディアが昇るあいだ、ずっと。
乾いた気配は、その声を追って退いていた。
昇るほど、石が変わった。
冷たかった胸もとが、すこしずつ熱を持ちはじめた。肌より温かい。きのうまで静かだったのに。
鐘が近づいていた。
石が内側から出口をたたいた。鐘に呼ばれて。鐘の真下が近い。あそこを通れば、また石のほうが鎖から抜けて、外れる。外れれば暴発する。世界の底が抜けて、力があふれて、壁の外の冥族に、ここだと教えてしまう。
リディアは石を両手で押さえた。
「いて」小さく言った。「ここに、いて」
石は震えた。けれど、抜けはしなかった。鎖は切れなかった。
石の奥で、何かが目を覚ましかけていた。眠っていたはずの力が、鐘に呼ばれて、内側からふくらんでくる。あの暴発の夜と、同じだった。指を一本ゆるめれば、あふれる。あふれれば、見える。見えれば、消せる。乾いた気配も、にごった鐘も、ぜんぶ。指を向けて、消えて、と思うだけで。
その思いつきが、いちばんこわかった。
リディアはその熱を胸に押しつけたまま昇った。外さない。外せば、ぜんぶ終わる。外さずに、ただ押さえて、昇る。それしかできなかった。それで足りるかどうかは、わからなかった。
鐘楼の根もとが見えた。
高い闇の上に、にごった鐘がぶら下がっている。誰も鳴らしていないのに、尾の割れた低い音が空気を伝ってきた。石がそれに応えて、強く震えた。
ここだ。
リディアは立ち止まらなかった。立ち止まれば、石はもっと呼ばれる。歩きつづけた。鐘の真下を、いちばん速く。石を押さえ、テオの読む名前を半分だけ聞きながら。
そのとき、声と声のあいだに、また、あの一拍が来た。
テオが次の名前を読むために黙る。その沈黙に、乾いた気配がするりと伸びた。リディアの名前のほうへ。
リ、と。奥へさがった。
けれど、つかめないようだった。鐘の真下で、いちばん名前が燃える場所で、それでも手がすべった。何度伸ばしても行き場をなくした。なぜ、とはリディアにもわからなかった。わからないまま、リディアは自分で自分の名前を呼んだ。
「リディア・アークライト」
半分の声が上から落ちてきた。テオも、同じ名前を読んでいた。
気配が退いた。
リディアは鐘の真下を抜けた。
石の熱が、すこしずつ引いていく。鐘が遠ざかっていく。胸もとが、また冷たくなりはじめた。
*
石段の上に、母がいた。
降りてこられないはずの場所のぎりぎりまで来て、立っていた。手燭も持たず、暗がりのなかに。リディアが昇ってくるのを待っていたように。
誰もが、リディアを見失う。検め師も、衛兵も、アデルバートも。けれど母だけは、ちがった。薄い明かりのなかの薄い娘を、母はまっすぐ見た。最初からそこにいると知っていたみたいに。
「リディア」
母の声は低かった。叫びもせず、衛兵を呼びもしなかった。
リディアは止まった。胸の石を握ったまま。
いまなら、母は止められる。世界を割る人だから。手を伸ばせば娘をもとの部屋へ戻せる。それがいちばん安全だと、この人なら知っている。
母は、手を伸ばさなかった。
「下にいては」リディアは言った。声がかすれた。「ひとつずつ奪われる。呼んでも、覚えても、間に合わない。だから――」
「行くのね」
母が先に言った。
リディアはうなずいた。「教えてくれる人のところへ。隠れるのでも、呼ぶのでもない、別のやり方を。ここにはいない。降りてこられる人も、もういない」
母はしばらく黙っていた。それから、娘の薄い輪郭を目でなぞった。
「あなたを薄くしたのは、わたし」母は言った。「見つからないように。奪われないように。そうすれば守れると思っていた」
リディアは母を見た。
「でも、その薄さでどう生きるかは、わたしには教えられない」母の声がほどけた。「隠すことしか知らないから。隠して、守って、それであなたをこんなところまで連れてきた」
「お母さん」
「行きなさい」母は言った。「わたしは行けない。わたしの名前は知られすぎている。わたしが壁の外へ出れば、あれはわたしを追って、あなたを見つける。だからわたしは、ここに残る。あなたが出たことを、できるだけ長く、たしかめさせない」
それが母にできる、ただひとつのことだった。前に立つことでも、隣に立つことでもなく。娘を送り出して、その背中を、見えなくなるまで見ていること。
世界じゅうがリディアを見失っても、母だけは見失わなかった。その人に背を向けて、誰にも見つけてもらえない外へ出ていく。守られる側を、自分からおりるのだった。首飾りは、外れても母が戻してくれた。けれど、これは、戻せなかった。
リディアには、聞きたいことがまだあった。なぜ、わたしなのか。この石の下に、何が隠してあるのか。母がずっと言わずにきたこと。
けれど、いまは聞かなかった。
「帰ってきたら」リディアは言った。「ぜんぶ聞く。何度でも」
母の唇が震えた。それから笑った。泣くのに近い笑い方だった。
「ええ」母は言った。「そのときは、ちゃんと負ける」
半分の穴のほうから、テオが降りてきた。狭い通気の道を、肩をすぼめて。母を見て、小さく頭を下げた。
「連れていく」テオはリディアに言った。「君の足音、僕がいちばん聞きとれる」
母はテオを見て、一度だけうなずいた。それから、リディアの頬に手を当てた。きのうまで鉄の扉に隔てられて、できなかったことだった。手は温かかった。
「外してはだめ」母は言った。いつかの夜と、同じ言葉で。「どんなことがあっても」
「うん」
「でも、もし外したくなったら」母は、はじめてその先を言った。「そのときは、自分のために外しなさい。世界のためでなく」
リディアには、その意味がよくわからなかった。母の目の奥に、見たことのない怖れが沈んでいた。
けれど、聞き返す時間はなかった。上のほうで、足音が止まった。アデルバートの足が、何かに気づいたように。
「行って」母が言った。
*
地の底の上には、聖域の裏手があった。
古い祈りの匂いのする廊下を抜けると、夜だった。何日ぶりかの、本当の夜だった。冷たい空気がリディアの薄い体をまっすぐ通り抜けていった。地の底の、湿った石の匂いが、すこしずつ抜けていく。
白い壁のいちばん低いところに、裏門があった。閉まっている。けれど、門は人を止めるためのものだ。リディアはずっと前から知っていた。壁は、薄いものを止められない。
テオが隣を歩いた。
石は冷たかった。鐘から遠ざかって、また静かになっていた。外れる気配はない。けれど、つけたまま、奪う手から名前を守るやり方は、まだわからない。それを教わりに行くのだった。誰かに。どこか、外に。
壁の外には、遠い闇があった。地平のいちばん低いところに、山の影が、夜より濃く横たわっていた。あのどこかに、隠れるのでも呼ぶのでもない、別のやり方を知っている誰かがいる。母が、行きなさいと言った、外。
乾いた気配は、もう追ってこなかった。退いたわけではないと、リディアにはわかっていた。あれから逃げられはしない。逃げに行くのではなかった。
戦い方を、覚えに行くのだった。
リディアは裏門の影に、薄く身を寄せた。
そして、自分の足で、最初の一歩を壁の外へ踏み出した。




