呼んでも、奪われる
乾いた気配は、退いて、まだそこにいた。
部屋の隅のどこか。半分になった風の穴の、向こうのどこか。場所はわからなかった。ただ、消えてはいなかった。古い紙が水をほしがるように、何かをほしがったまま、暗がりのへりで待っていた。
リディアは父の手帳を握っていた。半分の穴から落ちる細い明かりに、ページをかざしていた。さっきから、名前を読んでいた。声に出して、ひとつずつ。ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。いちばん下に、自分の名前。リディア。
読むのをやめると、気配がすこし近づいた。
読むと、また退いた。
だから読みつづけた。
地の底のいちばん下に、リディアを呼ぶ声は、ひとつもなかった。母は上にいて、もう降りてこられない。テオの声は、半分の穴の向こうにあるのかどうか、たしかめられない。ここには、リディアの名前を呼ぶ口が、ひとつもなかった。
誰も呼ばないということが、こんなに静かなのだと、はじめて知った。
その静けさのなかで、乾いた気配だけが、リディアの名前のほうへ手を伸ばしていた。
リ、と読んだ。
その先が、すこし遠くなった。
ディ、と追いかけた。音が、奥へさがった。手を伸ばせば届くはずのところに置いてきた音が、一歩ずつ、暗いほうへ引いていく。自分の名前を、自分で追いかけた。きのうと、おなじだった。きのうより、近かった。
けれど、つかめないようだった。
乾いた気配は、リディアの名前のあたりまで来て、何度か行き場をなくした。つかもうとして、手がすべる。そういうためらい方だった。なぜ、とはリディアにもわからなかった。わからないまま、そのすべったすき間に、声を入れた。
「リディア」
いちばん下から、もう一度読んだ。
気配が、また退いた。名前ひとつ分だけ離れて、暗がりのへりで、次の静けさを待っていた。
*
石の壁を、何かが叩いた。
とん、と。間をおいて、もう一度。
リディアは顔を上げた。半分の穴のほうだった。風の音にまぎれて、小さな音が落ちてくる。指の関節で石を叩くような音。とん、と置いて、また、とん。
テオだ。
来てくれた。半分になった穴に、それでも来てくれた。
「テオ」リディアは穴の下に立った。「聞こえる?」
しばらく、間があった。それから、糸のように細い声が、半分の石のすき間を抜けて落ちてきた。
「……えてる。半分は」
声が、半分しか来なかった。穴の半分を石でふさがれて、言葉も半分になって落ちてくる。けれど、テオの声だった。リディアは穴を見上げたまま、息を吐いた。
「叩いて」リディアは言った。「言葉が届かなくても、叩いて。そこにいるって、わかるように」
とん、と石が鳴った。
わかった、という意味だと思った。
「数えた?」リディアは聞いた。「覚えてる人」
間。それから、とびとびの声。
「ユアン。……リ。メル。……オ。お母さん」
名前を読んでくれていた。テオが、上で。リディアを覚えている人の名前を、半分の穴ごしに、数えて。届く半分だけでも、聞かせようとして。
テオが叩く。名前がひとつ、穴を抜けて落ちる。叩く。また落ちる。その音と音のあいだに、短い沈黙があった。声がやんで、次の名前が来るまでの、ほんの一拍。
その一拍のあいだに、乾いた気配が動いた。
リディアは気づいた。テオの声が来ているあいだ、気配は退いている。声がやんで、次の名前を数えるために黙る、その一拍。沈黙のあいだだけ、気配がするりと近づく。声と気配が、入れ替わるように。
呼ばれているあいだは、退く。
誰も呼ばない一拍に、伸びてくる。
リディアは、自分の手帳の名前を、声に出した。テオの声とぶつけるように。上から半分、下から全部。名前で、沈黙を埋めようとした。
ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。リディア。
メル、と読んだとき。
その名前が、すこし軽くなった。
*
メル。
街道の茶屋にいた、小さな女の子だった。五つか、六つ。リディアの名前を、自分から聞いた。へんな名前、でもいい名前、と言った。そう言った口で、すぐに忘れた。リディアの椀を、母親が数えそこなった。メルも、椀の前で、リディアの名前を落とした。
忘れられる側だったリディアが、その子の名前を、白い紙に書いた。覚えておこうと思って。忘れられた分を、誰かが覚えていようと思って。メル、と。炭で。
その名前が、いま、ページのなかで軽くなっていた。
リディアは、もう一度読んだ。
「メル」
声に出した。けれど、声に重さが乗らなかった。さっきまで、ちゃんとそこにいた音だった。メル、と読めば、茶屋の土間と、椀の縁と、へんな名前と言った口が、いっしょに立ち上がった。それが、薄くなっていた。
乾いた気配は、リディアの名前のほうではなかった。手帳のほうへ、伸びていた。
リディアは手帳を胸に押しつけた。
「だめ」
はじめて、声が大きくなった。
「その子は、関係ない。連れていくなら、わたしのを──」
言いかけて、わかった。気配は、リディアの名前を、つかめなかった。何度伸ばしても、手がすべった。だから、すべらない名前のほうへ、行ったのだった。手帳のなかで、いちばん細い火のほうへ。誰も──この地の底では、リディアのほかに誰も、メルの名前を握っていない。茶屋のメルは、もうリディアを忘れている。リディアだけが、メルを覚えていた。だから、ここでいちばん、奪りやすかった。
「メル」リディアは読んだ。「メル。メル」
読むたびに、音が遠くなった。茶屋の土間が遠くなった。椀の縁が遠くなった。へんな名前、と言った口が、いちばん最後に遠くなった。
半分の穴の明かりで、ページを見た。
メル、と書いた炭の字が、薄くなっていた。隣のテオの字や、お母さんの字は、さっきと同じ濃さだった。メルの二文字だけが、紙にしみこんだ水が乾くように、うすれていく。指でこすったわけでもないのに。中庭の女の名前を、古い名簿で見たときと、おなじだった。あのときも、その一行だけが薄かった。奪う手は、紙にも届いた。
「忘れたんじゃない」
リディアは、自分に言った。テオが教えてくれた言い方で。
忘れたのなら、戻る。反動で名前が遠くなっても、しばらくすれば戻ってくる。けれど、これは戻らない。奪われたのだった。喰われて、もう、ない。
最後に、メル、と読もうとした。
音が、出てこなかった。
口は動いた。けれど、その二文字が、もうどこにもなかった。さっきまで握っていたのに。手のなかから、こぼれて、落ちて、床のどこかへ転がって、暗がりに紛れた。リディアは膝をついて、暗い床を手で探した。何もなかった。冷たい石があるだけだった。
上で、とん、と石が鳴った。
テオが、叩いていた。そこにいる、と。
リディアは、答えられなかった。
いま、ひとつ、奪われた。それを、テオに伝える言葉が、出てこなかった。
*
しばらく、動けなかった。
乾いた気配は、すこし退いていた。ひとつ満たして、急いではいないようだった。暗がりのへりで、次の静けさを待っていた。
リディアは手帳を開いたまま、薄くなった二文字を見ていた。
覚えていよう、と思って書いた名前だった。忘れられる分を、自分が覚えていようと思った。それが、いちばん最初に奪われた。書いても、毎日呼んでも、握っていても足りなかった。握りしめた指のあいだから、いちばん細い火が、抜き取られた。
大司教さまの言葉を思い出した。名前は火と同じ。毎日呼ばなければ消える。あれは、消える話だった。けれど、これは、ちがった。呼んでも、消されることがあった。呼んでいる手から、もぎ取られることがあった。
呼ぶだけでは、追いつかない。
はじめて、そう思った。
ずっと、呼ぶことが、リディアの手のなかの、たったひとつの武器だった。名前を読みあげて、テオの名前を取り戻した。広間の人たちに、いる、と言った。母とテオの声に、自分の名前を握ってもらった。呼ぶこと。覚えること。数えること。それだけを、握ってきた。
その手から、いま、ひとつ抜き取られた。
リディアは、半分の穴を見上げた。
あの声は言った。薄いものは、厚いものが通れないところを通れる、と。リディアは目を閉じた。きのうのように、穴の向こうへ届こうとするのではなかった。床のどこかへ転がっていった二文字の、その遠くへ。自分のいちばん薄いところを、もっと薄くして、奪われていく音のあとを追えないかと、ためした。薄く、もっと薄く。届け、あの子のところへ。
何も起きなかった。
体は、ただの薄い体のままだった。床は冷たいままだった。あの子の名前は、戻ってこなかった。薄くなっても、薄さは、ただ薄いだけだった。なんの通り道にも、ならなかった。
目を開けた。
できなかった。けれど、ためすところまでは来ていた。三日まえなら、奪われたものを取り返そうなんて、思いもしなかった。隠れて、薄くなって、やり過ごすことしか、知らなかった。いまは、追いかけようとした。届かなかったけれど、追いかけようとした。
リディアは、炭を取り出した。
薄くなった二文字の、その隣に、線を引いた。名前は、書けなかった。もう、その音を持っていなかったから。けれど、空けておきたくなかった。中庭の女の名簿のように、罫線だけの、誰もいない空白には、したくなかった。
線を引いて、その横に、小さく書いた。
ここに、いた。
名前のかわりに。へんな名前、と言った口が、たしかにここにいた、というしるしに。
*
とん、と上で石が鳴った。
テオが、まだそこにいた。半分の穴の向こうで、叩いていた。リディアがずっと黙っているから、たしかめるように、間をおいて、とん、と。
リディアは穴の下に立った。
「テオ」声が、かすれた。「いま、ひとつ、奪われた」
間があった。半分の穴を、言葉が抜けてくるのを待った。
「……だれ」
半分だけ、届いた。
「茶屋にいた、ちいさい女の子」リディアは言った。名前を言おうとして、言えなかった。さっき手のなかからこぼれたものは、もう口にのらなかった。「あなたが、さっき数えてくれた名前の、ひとつ。──でも、もう、呼べない」
長い間があった。テオが、上で数えなおしているのだと思った。覚えている人を、もう一度、ひとりずつ。
とん、と石が鳴った。一度だけ。
いない、という意味だと、わかった。
テオの数のなかからも、もう、あの子の名前は消えていた。忘れない人が、それでも数えられないものが、ひとつ増えた。リディアは穴を見上げたまま、それを聞いた。
「テオ」リディアは言った。「半分の穴じゃ、たぶん、もう足りない」
石は、鳴らなかった。
テオも、わかっているのだと思った。叩く音と、半分の言葉。それで、ふたりは繋がっていた。けれど、その繋がりの一拍の沈黙を、乾いた気配が舐めていく。呼んでいるあいだは退き、黙ったすきに伸びる。テオが上から呼び、リディアが下から呼んで、ふたりで沈黙を埋めても、埋めきれない一拍が、いつも残った。その一拍が、ひとつずつ、名前を持っていく。
ふたりで、足りないのだった。
呼びつづければいい、と思っていた。覚えていればいい、と。けれど、呼びつづけるだけでは、奪う手のほうが速かった。半分の穴ごしに数えあう、このやり方では、もう、追いつかない。
別の何かが、いる。
それが何かは、わからなかった。隠れることでも、呼ぶことでもない、別の何か。薄さを、消すものでなく、使う何か。けれど、やり方は、どこにも書いていなかった。ためしても、何も起きなかった。ここには、教えてくれる人がいなかった。ここには、もう、降りてこられる人さえ、いなかった。
リディアは、胸もとの石を握った。
冷たかった。きのうと同じ。鐘から遠いここでは、石は静かで、外れる気配もなかった。外しても、何も解けない。それは、もうわかっていた。けれど、つけたまま、この乾いた手から名前を守るやり方も、わからなかった。外せない。外せば、消えるだけ。呼んでも、追いつかない。隠れても、見つけられる。
どの戸も、開かなかった。鍵は、ぜんぶ外側にあった。
地の底のいちばん下で、リディアは、半分の穴を見上げた。
あそこを、もっと広げて。あの石段を、自分の足で昇って。教えてくれる誰かのところまで、行かなければ。ここで名前を読みつづけても、ひとつずつ奪われて、いつか、自分のも──。
とん、と上で石が鳴った。
テオが、まだ叩いていた。
リディアは、手帳を握りなおした。薄くなった二文字と、その隣の、ここにいた、というしるし。それを、半分の明かりにかざした。そして、上のテオに届くように、いちばん下から、声に出して読みはじめた。
ユアン。ネリ。──あの子のいたところで、一拍、息を入れた。テオ。お母さん。リディア。
奪われた一拍を、空けたまま、それでも、読んだ。
乾いた気配が、その一拍のすき間に、また伸びてきた。




