たしかめる
足音は、扉の前で止まった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。さっき頭の上で数えたとおりの数が、鉄の扉のすぐ向こうにそろった。鍵束が鳴った。鍵が外から回った。
重い扉が開いた。
手燭の光がいちどに流れこんできた。地の底の暗さに慣れた目には、それだけで痛かった。リディアは目を細めた。けれど下がらなかった。さっき扉のほうを向くと決めた。向いたまま立っていた。
先頭に、灰青の上衣の男が立っていた。
アデルバートだった。襟も袖口もきっちり留めてある。地の底まで降りてきたのに、肩には石段の埃ひとつ積もっていない。割れた天井の下に立っていたあの日とはちがった。あの日は上衣に石の粉をかぶっていた。今日は来るために身支度をして降りてきていた。
その後ろに衛兵がふたり。さらに後ろに、小柄な老人がいた。
検め師だった。王都の門で、透きとおった石の杖をリディアの胸もとに翳した人。あのとき水晶は灰色に曇った。長衣たちがざわめいた。
アデルバートは部屋に入らなかった。扉の枠の、ちょうど外に立った。封印陣の内側へは足を踏み入れない。なかのものの外に立つ。そういう線の引き方だった。
「たしかめに来ました」アデルバートは言った。低く平らな声だった。
なにを、と聞くより先に、その目が動いた。リディアの顔ではない。胸もとだった。それから床の封印陣。壁の継ぎ目。高いところの通気の穴。部屋の隅。──置いてあるものをひとつずつ数えていく目だった。あるべきものが、あるべき場所にあるか。
リディアは、その目の通り道に自分の顔が入っていないことに気づいた。
*
「封印は」アデルバートが言った。検め師に。リディアにではなく。「効いていますか」
検め師が前に出た。杖の先の透きとおった石が、リディアの胸もとへ近づいた。
母はいなかった。
王都の門では、母がいた。検め師の杖を押さえて、娘の体に触れていいとは書いていない、と言ってくれた人がいた。ここには、それを言ってくれる人がいなかった。リディアは半歩、下がりそうになった。背中はもう石の壁だった。下がる場所はなかった。
石の杖が胸もとで止まった。触れはしない。翳すだけ。けれど門のときより、ずっと近かった。
水晶のなかで、灰色がゆっくり濃くなった。
検め師は何も言わなかった。にごり方を目で測っていた。それから懐から小さな帳面を出して、何かを書きつけた。日付。刻。にごりの濃さ。リディアは、自分が線で書き留められていくのを感じた。量られて、書かれて、たしかめられる。──王都の門ではじめて感じたのと、同じだった。あれから何ひとつ変わっていない。むしろ地の底まで、ついてきた。
検め師も、リディアの顔を見なかった。見るのは、胸もとの石と、水晶のにごりだけ。アデルバートとおなじものを見ていた。石を。中に何が入っているか、ちゃんとあるか。──ここには、リディアという娘を見る目が、ひとつもなかった。それを、おかしいとも思っていないようだった。
笑おうとした。いつもの癖で。大丈夫、と言って、相手を安心させて、自分も平気なふりをする。けれど、口の端は動かなかった。きのう、いちど外れた蓋は、もう、うまく閉まらなかった。笑ってやり過ごすことが、できなくなっていた。
「これからは日に二度、たしかめます」アデルバートが言った。「にごりの濃さを毎日書きとめる。封印が弱まれば線に出る。早く知れば、早く手を打てる」
検めが、ここでも定例になる。北翼でそうだったように。地の底のいちばん下まで。リディアは、その言葉の重さをすこし遅れて飲みこんだ。逃げ場としてしまわれたのではなかった。たしかめつづけるために、いちばん近くに置かれたのだった。
「ここは安全じゃ、ありません」リディアは言った。声が思ったよりはっきり出た。
アデルバートの手が、帳面のほうへ伸びかけて止まった。はじめて、ほんのすこし、リディアのいるあたりへ視線が動いた。それでも顔までは来なかった。
「鐘からいちばん遠いから、ここなら安全だって、あなたは言いました」リディアは言った。「でも、ちがう。ここはいちばん下で、いちばん奥で──いちばん向こう側に近い場所です。押し込めた場所は、押し込めた側からは見えなくなるだけ。向こうからは、よく見えてる」
アデルバートはしばらく黙っていた。リディアの言葉を聞いてはいた。聞いて、それをどこに分類するかを考えている沈黙だった。
「だれかが、そう言いましたか」アデルバートは言った。
リディアは答えなかった。テオのことも、穴のずっと下のあの声のことも、言ってはいけない気がした。言えば、あの細い道がもっと早く塞がれる気がした。
「観測されていないものを、記録には書けません」アデルバートは言った。帳面に目を戻しながら。「封印は効いている。水晶がそう言っている。それがたしかなものです。──こわい、という気持ちはわかります。けれど気持ちは、線になりません」
気持ちの話をしているのではなかった。リディアは、たしかなことを言ったつもりだった。地の底のいちばん下に、向こう側の何かが手を伸ばしてきた。それは起きたことだった。けれど起きたことでも、誰にも見られていなければ、無かったことになる。書かれなければ、無い。
呼ばれなければ、消える。穴の下の声とは別の、もっと古い理屈が、頭のどこかでそれと並んだ。書かれなければ無い。呼ばれなければ消える。──気味が悪いくらい、よく似ていた。
「わたしは、たしかめるものじゃ、ありません」リディアは言った。
言ってから、自分ですこし驚いた。こんなふうにまっすぐ言うつもりはなかった。
「封印具の効きをたしかめるみたいに。中のものがちゃんとあるか、数えるみたいに。──わたしは、そういうものじゃない。いる、っていうのは、たしかめられることとちがう」
アデルバートの手は止まらなかった。帳面に最後の一行を書き終えた。
「保持者の状態は、良好と記録します」
保持者。リディアの名前はまた、その下の括弧にしまわれた。いいえ、ともう一度言いたかった。けれど、いいえ、を書く欄は、にごりの濃さのどこにもなかった。
*
アデルバートが帰りかけた。それから足を止めた。
その目が、壁の高いところの通気の穴で止まっていた。手のひらほどの小さな穴。そこから細い風が、糸のように落ちている。アデルバートは、置いてあるものの数をまた数えていた。そして数に入れていなかったものを、ひとつ見つけた目をした。
「あの穴は、どこへつながっている」アデルバートは衛兵に言った。
「通風の道かと。上の小部屋のほうへ」
「声は、通りますか」
衛兵は答えられなかった。
リディアは、思わず穴を見上げた。テオ。きのうもあの穴の向こうから降りてきてくれた。覚えている人が何人いるか、数えてくれた。あの穴が、ふたりのたったひとつの道だった。
「半分、ふさいでください」アデルバートは言った。「外と声がやりとりできるのは、よくない。なかのものが外とつながっては、こまる」
なかのもの。リディアは両手を握った。
「あれは、息をする穴です。ふさいだら」
「手のひら半分です。死にはしません」アデルバートは検め師のほうを見た。「記録に。通気、半減。今日から」
また一行、書かれた。
衛兵のひとりが平たい石を持ってきて、穴の半分にはめこんだ。漆喰でふちを留めた。風の落ちる音が細くなった。糸が、半分の糸になった。
半分。声はまだ通るだろうか。リディアにはわからなかった。テオが今夜も来て、半分になった穴に口を寄せて、数えた数を聞かせてくれるのか。それとも、もう届かないのか。──たしかめるすべが、なかった。たしかめるのは、いつも向こうの役目だった。
*
扉がまた閉まった。鍵が外から回った。足音が石段を昇っていった。来たときより、ひとつ軽い足音がいちばん後ろに混じっていた。検め師の足音だった。
母は、来なかった。
きのうは鉄の扉のところまで来てくれた。声が、扉ごしに届いた。今日は扉の外に、母の気配はなかった。たしかめに来た人たちは、母を連れて来なかった。
あとでわかった。衛兵の、帰りぎわのひとことで。──付き添いは、これより上まで。母はもう、この石段を降りてくることを許されていなかった。
見ているしかないのかもしれない。母はそう言った。きのう、扉ごしに。その「見ている」さえ、今日から母にはできなくなった。母は上で待つしかない。降りていった人たちの帰りを。たしかめた、という報せだけを。
リディアは、半分になった通気の穴を見上げた。
ためしてみよう、と思った。
あの声は言った。薄いものは、厚いものが通れないところを通れる、と。濃いものが入れない隙間に入れる、と。──いま、いちばん狭い隙間は、あの半分になった穴だった。
リディアは穴の下に立った。目を閉じた。きのうのように、ただ薄く溶けるのではなかった。きのうは闇に自分を溶かそうとした。今日はちがう。この狭くなった穴の向こうへ。テオのいる、上のほうへ。自分のいちばん薄いところを糸のように細くして、その隙間を通していこうとした。
「テオ」
声を出してみた。
声は、半分の穴のはめこまれた石に当たって落ちた。半分の穴は、半分しか通さなかった。リディアの体は、石の壁の前のただの薄い体のままだった。狭い隙間を通る糸には、ならなかった。やり方は、やっぱりどこにも書いていなかった。
それでも、と思った。きのうは、薄さを消したいだけのものだと思っていた。今日は、通り道にできないかとためした。できなかった。けれど、ためすところまでは来ていた。外すか、外さないか、のほかに。隠れるか、見つかるか、のほかに。──薄いまま通り抜ける。そういう道があるのかもしれないと、二日つづけて考えていた。
*
ひとりになった。
地の底のいちばん下。半分になった風の穴。日に二度の検め。もう降りてこられない母。──たしかめに来た人たちが置いていったのは、それだった。たしかめるたびに、リディアの周りはひとつずつ狭くなった。
リディアは襟もとから父の手帳を出した。半分の穴から落ちる、わずかな明かりにページをかざした。
覚えている人の名前。テオ。お母さん。その下に、きのうしるしをひとつつけた。名前のない相手と話した、というしるし。
声に出して読んだ。ユアン。ネリ。メル。テオ。お母さん。──いちばん下に、自分の名前もあった。リディア。ひとつずつ口に出した。呼ばなければ消える。穴の下の声とは別の、もっと古い理屈。だから呼んだ。テオが数えられなくなるかもしれないなら、自分で数えるしかなかった。
そのときだった。
風の音に、別のものが混じった。
穴の下のあの声の、土と雨のにおいではなかった。赤い目の、とがった気配でもなかった。乾いていた。ひどく乾いていた。古い紙が水をほしがるように、何かをほしがっていた。
名前を。
その気配は、名前をほしがっていた。地の底のいちばん下まで。鐘からいちばん遠い、ここまで。安全だとたしかめられて、書きとめられた、ここまで。──乾いた気配は、降りてきていた。手のひら半分の風の穴からか。石の壁の継ぎ目からか。どこから、とはわからなかった。ただ近かった。
リディアは手帳を握った。読んでいた名前が、口の途中で止まった。
気配が、リディアの名前に触れようとした。口のなかで、いちばん下の名前がほどけかけた。リ、と言いかけて、その先がすこし遠くなった。自分の名前が、自分のものでなくなっていく。手を伸ばせば届くところにあったはずの音が、一歩、また一歩と、奥へさがる。地の底のいちばん下で、リディアは、自分の名前を、自分で追いかけた。
けれど、つかめないようだった。
乾いた気配は、リディアの名前のあたりで何度か行き場をなくした。つかもうとして、手がすべる。そういうためらい方だった。なぜ、とはリディアにもわからなかった。わからないまま、それでも、そのすき間に声を入れた。
「リディア」
いちばん下の名前から、もう一度読んだ。声に出して。ひとつずつ。
乾いた気配が、すこし退いた。退いて、まだそこにいた。
たしかめられた、はずの場所だった。安全だと書かれた、はずの場所だった。鐘からいちばん遠いと。けれど、いちばん深くしまわれたいちばん奥に、いちばん乾いたものが、もう手を伸ばしていた。隠した場所は、隠した側から見えなくなるだけ。──穴の下の声が置いていった言葉が、こんなに早くたしかめられるとは、思っていなかった。
リディアは半分の穴を見上げ、それから、暗い部屋の見えない隅を見た。手帳を握りなおして、また名前を読みはじめた。ひとつずつ。消えないように。声が届くかどうか、たしかめられないまま。




