薄明
「――まだ、外していないのね」
声は、穴のずっと下から、風に乗って落ちてきた。
リディアは、暗い穴に口を寄せたまま、動けなくなった。かけるつもりだった言葉が、のどの奥で行き場をなくした。
返事をしなければ、と思った。けれど、何を言えばいいのか、わからなかった。
地の底の、いちばん下だった。母は、鉄の扉の外までしか来られない。テオは、さっき上の小部屋へ戻っていった。覚えている人を数えるために。──ここには、もう誰もいないはずだった。
なのに、声は、たしかにそこにいた。穴の、ずっと下の闇に。
逃げよう、と、体の古いところが言った。答えなければいい。息を殺して、壁に溶けて、声が通りすぎるのを待てばいい。ずっと、そうやってきた。見つかりそうになったら、薄くなる。いないふりをする。
けれど、ここでは、それができなかった。地の底の、いちばん下まで来て、もう隠れる場所が、どこにもなかった。隠れたところで、この声は、すでにリディアを見つけていた。
隠れるのは、やめる。そう決めたのは、自分だった。
リディアは、冷たい石の壁に手を当てた。壁は、手のひらの熱を吸って、それきり返さなかった。
「……だれ」
やっと、それだけ言えた。
下の闇は、しばらく黙っていた。風だけが穴を通った。土と、雨と、嗅いだことのないにおい。
「こわがらなくていい」やがて、声が言った。「とは、言わない。こわいでしょう。こわいまま、聞いてくれていい」
古い声だった。歌のような、ひとりごとのような。人間の声では、なかった。乾いていた。けれど、あの赤い目のもののようには、とがっていなかった。名前をほしがる、あの乾いた気配とも、ちがった。
リディアは、握ったままの石を、胸に押し当てた。冷たかった。鐘から遠ざかって、ただの石に戻った石は、震えも、応えもしなかった。
「あなたは、わたしから、なにも奪おうとしない」リディアは言った。気づいたことを、そのまま口にした。「鐘とちがう。鐘は、石を引っぱる。外させようとする。あの赤い目とも、ちがう。あれは、外せ、外せって言った。あなたは、なにも言わない」
「外させて、どうするの」声は、すこし笑ったようだった。笑うのに、楽しそうではなかった。「外させたものを、わたしは、ほしくない」
「……名前は」
「名前も」声は言った。「いらない」
じゃあ、なに。そう聞きたかった。聞くのが、こわかった。何もほしがらない相手のほうが、何かをほしがる相手より、ずっと底が見えなかった。
*
リディアは、穴の下の闇を見つめた。何も見えなかった。ただ、そこに誰かがいる気配だけが、あった。
「なぜ、ここにいるの」リディアは聞いた。「ここは、地の底の、いちばん下なのに。誰にも、来られない場所なのに」
「いちばん下、ね」声は、その言葉を転がすように繰り返した。「あなたたちは、そう呼ぶ。下。奥。外。──押し込めた場所のことを、いつも、そう呼ぶ」
リディアは、黙った。
「ここは、境が薄い」声は言った。「あなたたちの世界の、いちばん端だから。端は、どこも薄くなる。夜と朝のあいだのように。──薄明、と、わたしたちは呼ぶ。境が、いちばん薄くなるところ。そこだけを、わたしは歩ける」
薄明。
リディアは、その言葉を口のなかで繰り返した。夜でも朝でもない、うすあかり。どちらにも属さない時間。
「押し込められたものは」声は続けた。「押し込めた側からは、見えなくなる。けれど、押し込められた側からは──よく見える。同じところに、いるから」
地の底へ、深く、深く。鐘から、いちばん遠くへ。アデルバートは、ここなら安全だと言った。鐘も届かない、誰にも見つからない、と。
けれど、いま、見つかっていた。人間の誰にでもなく。境界の、向こう側に。
守るために隠した場所は、隠した側から見えなくなるだけだった。隠されたものの近くへ、向こうはいつでも手を伸ばせた。深くしまうほど、人間からは遠ざかり、そのぶんこちら側へ近づいていた。
安全な場所なんて、どこにもなかった。
「あなたは」リディアは、聞いてみた。ためらいながら、それでも、聞かずにいられなかった。「あなたも、わたしを、器だと思ってるの。みんなみたいに。中に、なにか入ってる、入れものだって」
声は、すこし間をおいた。
「みんな、そう見る」声は言った。「人間も、わたしのなかまも。あれを開ければ、ほしいものが手に入る、と。──わたしには、入れものには見えない。閉じこめられて、それでも、まだ外していない子に見える。それだけ」
入れものには、見えない。
その一言が、胸の、ふだん触られないところに落ちた。アデルバートは、ここに娘はいないと言った。保持者がいる、と。検め師は、石だけを見た。母でさえ、守るために、リディアをいちばん深いところへしまった。──いちばん最初に、入れものではなく、ひとりの子として見たのが、敵だった。
「あなたは、敵だよね」リディアは言った。震えそうになる声をこらえた。「冥族の、えらい人。わたしを、さらいに来た、なかまのひとり」
「敵」声は言った。「ええ。たぶん、そう」
ごまかさなかった。それが、かえってこわかった。
「でも、さらいには来ていない」声は言った。「話しに来た」
「話?」
「話さないと」声は言った。「嫌いな相手の、形まで忘れてしまう。憎んでいたはずなのに、何を憎んでいたのかも、わからなくなる。そうなれば、あとは、喰うか、喰われるか、だけ。──わたしは、それがいやなの」
「わかり合いたい、ってこと?」
「いいえ」声は、はっきりと言った。「わかり合うことは、許すことではない。わたしは、人間を許していない。あなたたちが閉めた扉の向こうで、何が枯れたか。何が、飢えたか。──忘れていない。許してもいない。それでも、話す。忘れないために、話す」
枯れた。飢えた。
その言葉に、リディアは何も言えなかった。学校で習ったことがあった。勇者一行が魔王を倒して、世界に平和が来た、と。その平和の外側のことは、誰も教えてくれなかった。
扉の向こう。リディアは、その向こうを見たことがなかった。けれど、いま、すこしだけ想像した。誰もパンを持たせてくれない朝。名前を呼ぶ声の、しない場所。──それは、リディアがずっと知っていたものに、すこし似ている気がした。
*
リディアは、握っていた石を見た。暗くて、見えなかった。手のなかで、ただ冷たかった。
なぜ、この相手に。そう思った。けれど、母にも、セラフィナにも言えなかったことが、いちど口をついて出ると、もう止まらなかった。
「わたし、どうすればいいか、わからない」
声が、ふるえた。
「外したら、力があふれて、みんなが、わたしを忘れる。つけたまま、鐘のそばにいたら、石が勝手に外れる。鐘から離れたら──こうして、いちばん下に、埋められる」
言葉が、つかえた。
「外しても、外さなくても、だめなの。どこにも、出口が、ない」
言い終わらないうちに、目の奥が熱くなった。
あ、と思ったときには、もう遅かった。大粒の涙が、ぼろぼろと頬を伝って、膝に落ちた。ひとつ、ふたつでは、すまなかった。あふれて、止まらなかった。ずっと、こわくても笑ってきた。大丈夫、と言ってきた。その蓋が、地の底の、いちばん暗いところで、敵の前で、外れた。
石は、外れないのに。
リディアは、声を殺して泣いた。膝を抱えて、肩をふるわせた。涙が、手の甲に、あごの先から、つぎつぎ落ちた。
声は、しばらく何も言わなかった。せかしも、笑いもしなかった。リディアが泣きやむまで、ただ待っていた。
「……ごめん」リディアは、しゃくりあげながら言った。「敵の前で、こんな」
「謝らなくて、いい」声は言った。「こぼれるものが、まだ、あるのね。──それは、わるいことでは、ない」
弱いところを、ぜんぶ見せてしまった。敵に。けれど、声は、それを喰わなかった。涙も、言葉も、ひとつも奪わなかった。
「外す。外さない」声は言った。「あなたは、その二つしか見ていない」
「だって、それしか──」
「石のことばかり、考えている」声は言った。「外すか、つけたままか。石を、どうするか。──そのあいだ、だれも、あなたのことを考えていない。あなた自身も」
リディアは、顔を上げた。穴の、向こうの闇へ。
「あなたは、薄い」声は言った。やさしくはなかった。事実を床に置くように、言った。「生まれてから、ずっと薄い。石のせいだと思っているでしょう。早く消したい。ふつうになりたい、と。──でもね。薄いものは、消えるために薄いのではない」
「……どういう、こと」
「薄いものは」声は言った。「厚いものが通れないところを、通れる。濃いものが入れない隙間に、入れる。あなたが、いちばん消したかったものが──いちばん、あなたを自由にする。まだ、あなたがそれを知らないだけ」
リディアは、石を握りなおした。
外すのでも、なかった。つけたまま、力を出すのでも、なかった。薄いまま。薄いことを、弱いことを、そのまま使う。
そんなこと、考えたこともなかった。母も、テオも、誰も。みんな、外すか外させないか、力を出すか抑えるか、その二つの組しか見ていなかった。薄いことそのものを、使うなんて。
ためしてみたい、と思った。
きのうも、目を閉じた。あの暴発のとき見えたものを──壁を流れる魔力を、人の芯で燃える小さな火を、もう一度見ようとして、何も見えなかった。あれは、力を外す側へ、引き寄せる試みだった。石をつけたまま、外したときのものを、取り戻そうとしていた。
今度は、ちがった。見ようとするのでも、出そうとするのでもなかった。リディアは、もう一度、目を閉じた。薄い体のまま、息をひそめ、石の壁に、闇に、細い風に、自分をもっと薄く溶かそうとした。薄さの側へ、深くなろうとした。
何も、起きなかった。
部屋は、暗いままだった。石は、冷たいままだった。やり方なんて、どこにも書いていなかった。薄いことが、どう使えるのか、その入口さえ見えなかった。指の先まで、ただ薄いだけだった。
「いま、できなくていい」声は、見ていたかのように言った。「できる、と知るだけでいい。道があると知らない者は、はじめから探さない。あなたは、いま、探しはじめた。それで、きょうはじゅうぶん」
できなかった。けれど、きのうまでは、ためそうとさえしなかった。外すか、外さないか。その外に道があるかもしれないと、はじめて思った。
*
風の音が、また変わりはじめた。横に流れていた風が、すこしずつ、下へ引いていった。声の主が、去ろうとしていた。
「待って」リディアは、思わず言った。言ってから、自分で驚いた。敵を、引き止めようとしていた。
「なぜ、わたしに教えるの」リディアは聞いた。「あなたは、敵なのに。わたしが外さない道を見つけたら、あなたたちが困るかもしれないのに」
間があった。
「あなたが、どちらのものにもならないように」声は言った。
「どちら」
「外せ、と言う者のものにも」声は言った。「つけておけ、と言う者のものにも。──あなたを、石としてほしがる者は、たくさんいる。こちら側にも。そちら側にも。みんな、あなたを、開けるか閉じるかの、入れものだと思っている。わたしは、ただ、あなたがあなたのままいられるかを、見ていたい。それだけ。それが、わたしの、危ない役目」
危ない役目。
その声は、すこしかすれていた。味方のなかにも、それをよく思わない者がいる。そういうかすれ方だった。
信じていいのか、わからなかった。やさしいことを言って、近づいて、いつか外させるための、遠回りなのかもしれなかった。敵だ、と、向こうも言った。
それでも、と思った。嘘でも、本当でも、外すか外さないかの外に、道があるかもしれない。それだけは、自分でたしかめられる。誰に言われたからでもなく。
「名前は」リディアは聞いた。「あなたの、名前は、なんていうの」
「いつか」声は言った。「また、話すことがあれば」
風が、すっかり下へ引いた。声は、もうなかった。土と雨のにおいだけが、しばらく穴のふちに残った。
リディアは、ひとり、暗い部屋に座っていた。
さらわれも、しなかった。名前も、石も、取られなかった。敵が、地の底のいちばん下まで降りてきて、何も奪わずに帰っていった。
なのに、何かが変わっていた。もう、知らなかったことにはできなかった。隠された場所が、いちばん安全ではないことも。外すか外さないかの、外に、まだ見ぬ道があることも。平和の外側で、何かが枯れて、飢えていることも。──敵が、母も、誰も教えてくれなかったことを、ひとつ置いていった。
リディアは、襟もとから父の手帳を出した。通気の穴から落ちる、わずかな明かりに、ページをかざした。覚えている人の名前の下に、薄く書き足そうとして──やめた。まだ、名前のない相手だった。かわりに、すみに、小さなしるしをつけた。話した、というしるしを。
そのとき、頭の上で音がした。
風の道では、なかった。石段のほうだった。鉄の扉の、向こう。
足音だった。ひとつ、ふたつ、みっつ──ゆうべ、ここへ運んできたときより、多かった。手燭の光が、扉の下の隙間でゆれた。鍵束の鳴る音がした。
しまうために降りてくる足音では、なかった。
もっと、何かをたしかめに来る足音だった。封印が効いているか。中のものが、ちゃんとここにあるか。
リディアは、石を握ったまま立ち上がった。冷たい床の封印陣が、足の下で、低く、青くにじんだ。
扉のほうを、向いた。




