つけたまま
石は、降りるほど静かになった。
さっきまで、出口をたたくように内から震えていた石が、一段降りるごとに、ひとつ脈をやめた。鐘から、遠ざかっている。鐘の声が、石に届かなくなっていく。
はじめは、ほっとした。これなら、もう勝手には外れない。鐘に引かれて昇っていくことも、ない。
けれど、何段か降りたところで、別のことに気づいた。
石が静かになるほど、世界も静かになっていった。
手燭の火が遠い。前を歩く衛兵の背中が遠い。自分の足音さえ、よその誰かのもののように聞こえた。石が鐘にこたえなくなるのと同じだけ、リディアも、世界にこたえなくなっていった。薄く。もっと薄く。
鐘から遠ざかるとは、こういうことだった。勝手に外れる危なさが消えるかわりに、リディアという者の輪郭が、一段ごとに、闇へ溶けていく。
石段は、いつまでも続いた。
壁の石が、だんだん古くなった。継ぎ目の漆喰が黒ずみ、手燭を当てても光を返さない。何百年も、誰も降りてこなかった場所のにおいがした。冷えていた。吐く息が、白くなりそうなほど。
いちばん下に、低い鉄の扉があった。
衛兵が鍵を回した。なかは、せまい石の部屋だった。窓はない。北翼の部屋には、格子のはまった窓があった。ここには、それもなかった。壁の高いところに、手のひらほどの通気の穴がひとつだけある。そこから、細い、冷たい風が、糸のように落ちていた。
床には、見たことのない陣が、何重にも彫ってあった。
陣は、リディアが踏むと、足の下で、低く、青くにじんだ。封印の光だった。どこを選んで立っても、同じように光った。部屋ぜんぶが、ひとつの錠前だった。
リディアを入れるための部屋ではなかった。何かを、出さないための部屋だった。その部屋に、リディアは、出さないために、入れられた。
*
アデルバートは、扉の外まで降りてきていた。
灰青の上衣に積もった石の粉を、まだ払っていなかった。割れた天井の下に立っていたときのまま。けれど、その目は落ち着いていた。あるべきものが、あるべき場所へ納まろうとしている。そういう目だった。
「ここなら、鐘は届きません」アデルバートは、部屋のなかを一度も見ずに言った。「呼び合いも、起きない。封印具は、二度と勝手に外れない。これでようやく、危険ではなくなる」
「あの子は」母が言った。石段の途中から。衛兵に止められて、それより下りられずにいた。「あの子は、危険なものじゃない」
「わたしは、危険な娘の話はしていません」アデルバートは言った。「危険な封印具の話をしています。娘の話は、控えにありません」
母が、何か言いかけた。アデルバートはもう、背を向けていた。
リディアは、その背中に向かって、口を開いた。
「わたしの名前は、リディアです」
声は、石の部屋にこもって、落ちた。
アデルバートは止まらなかった。ほしがられない名前は、しまわれもしない。聞かれなかったものとして、足音だけが、ひとつずつ、石段を昇って遠くなった。
衛兵が、扉を閉めにかかった。
「待って」母が言った。「せめて、いっしょに――」
「付き添いは、格子の外までです」衛兵は言った。「決まりですので」
扉が閉まる前に、リディアは母を見た。母は、石段の下の、鉄の格子のところにいた。そこから先へは、来られない。手を伸ばしても、格子の冷たい鉄が、あいだにあった。
ひとり分の闇では、なかった。今度は、鉄だった。
扉が、重く閉まった。鍵が回った。外から。
*
しばらく、何も聞こえなかった。
石の部屋は、音を返さない。自分の息だけが、近くにあった。
やがて、通気の穴のあたりから、こつ、と硬い音がした。リディアは見上げた。穴の向こうに、人の気配があった。
「テオ?」
「うん」声がした。穴ごしに。くぐもっていた。「上の小部屋から、ずっと降りてきた。この穴、せまい通風の道につながってる。声だけは、届く」
「危ないよ。見つかったら」
「数えるのが、僕の役だから」テオは言った。「下まで来ないと、数えられない。遠くのことは、わからないって、言っただろ」
リディアは、穴の下に座りこんだ。冷たい風が、頬に落ちてきた。
「数えて、わかったことがある」テオの声は、平らだった。「君を、ここまで連れて下りた衛兵。八人いた。昇っていくあいだに、もう三人、誰を運んだのか、思い出せなくなってる。奪われたんじゃない。忘れて、それきりだ」
「反動?」
「たぶん。深いところへ降ろすほど、増える」テオは、それだけ言った。よけいなことは、今日は言わなかった。
リディアは、膝を抱えた。
深くしまわれるほど、自分を覚えている人が減る。守るために、いちばん深くへ。鐘からいちばん遠い、地の底のもうひとつ底。ここなら、もう外れない。誰にも、見つからない。
誰にも、見つからない。
それは、ずっと、こわいことだったはずだ。今も、こわかった。けれど、こわさの形が、変わっていた。前は、見つけてもらえないのが、こわかった。いまは、もう誰にも見つけられない場所へ、ていねいにしまわれていくのが、こわかった。
守るために、隠す。深く、深く。やさしい手で、いちばん遠いところへ。
その手つきに、覚えがあった。小さいころ、首に石をかけてくれた、母の手。あれも、守るための手だった。かたや愛で、かたや規則で。けれど、娘を見えない場所へしまっていく指は、こわいくらい、よく似ていた。
*
どれくらい、そうしていたか。
扉の外で、衣ずれの音がした。
「リディア」母の声だった。鉄の扉ごしに、遠かった。すぐ外にいるのに、北翼で隣に寝ていたときより、ずっと遠い。「聞こえる?」
「聞こえる」リディアは、扉に手を当てた。鉄は、握っても、手の熱を吸って、それきり返さなかった。胸の石と、おなじだった。
「ここまでは、来させてもらえた」母は言った。「これより下は、だめだって。扉のところまで」
扉のところまで。母は、迷宮の天井を割って降りてきた人だった。赤い目の追っ手を、光の壁で押し返した人だった。その母が、鉄の扉ひとつ、開けられずにいる。開けないことを、選んでいた。ここで暴れれば、リディアの場所が、もっと悪くなる。母は、それをわかっていた。
「お母さん」リディアは言った。「ひとつ、聞いていい?」
間があった。
「……なに」
「お母さんは、知ってるんだよね。わたしが、なんなのか。どうして、こんな石をつけることになったのか。ぜんぶ」
扉の向こうで、母が息を吸う音がした。
「いまは、言わない」母は言った。「ここでは、言わない」
「いつも、そう」
「いつか、言う。きっと」母の声が、低くなった。「でも、いま、ここで言ったら、あなたは、この石を、自分から引きちぎろうとする。そういう子だから。それだけは、この場所では、させられない」
リディアは、扉に額をつけた。冷たさが、おでこから抜けていった。
「ねえ、お母さん」リディアは言った。「きのう――きのう、五歩のところで、わたしを見失ったって、言ったよね。だから、って。そのあとを、言わなかった。なんて、言うつもりだったの」
長い、間があった。
「だから」母は言った。声が、すこし震えた。「だから、声だけじゃ、足りないのかもしれない。わたしは、それを、認めたくなかった。ずっと。あなたを、声で見つけられるあいだは、まだ、守れてるって、思えたから」
「うん」
「足りないなら」母は言った。「足りないところを、あなたが、自分で埋めていくのを――わたしは、見ているしか、ないのかもしれない」
それは、母が、いちばん言いたくなかった言葉のはずだった。前に立つのでも、隣に立つのでもなく、ただ見ている。母にとって、それは負けに近かった。
衛兵の声がした。母を呼んでいた。時間だ、と。
母の衣ずれが、扉から離れていく。リディアは、その足音が消えるまで、扉に手を当てていた。鉄は、最後まで、温かくならなかった。
*
ひとりに、なった。
リディアは、せまい石の部屋の、まんなかに座った。手のなかに、石があった。冷たい。鐘から遠ざかって、ただの石に戻っていた。震えない。応えない。
外せば、と思った。
外せば、力があふれて、壁の外の何かに、位置を知られる。見つかりすぎる。それに――きのう、わかった。外したあと、戻すと、母でさえ、長いあいだ、わたしを見失う。外すたびに、わたしは、もっと消える。
戻していれば、と思った。
戻していても、鐘がそばにあれば、石は、勝手に外れた。両手で押さえても、止められなかった。鐘から離れた、ここでなら、外れない。けれど、外れないかわりに、いちばん深い闇に埋められて、誰からも消えていく。
外すことにも、戻すことにも、頼れなかった。
外せば、消える。つけて、鐘のそばにいれば、勝手に外れる。つけて、鐘から離れれば――こうして、消える。
どこにも、出口がなかった。
リディアは、石を握った。爪が、手のひらに食いこんだ。引きちぎりたい、と一瞬思った。母が止めたとおりの子だった。けれど、引きちぎったところで、その先も、知っていた。だから、握る手に、力を込めるだけにした。外さない。今日は、外さない。それは、母に言われたからではなく、外しても何も解けないと、自分で知ったからだった。
なら、と思った。
外すんじゃなくて。戻すんでもなくて。つけたまま。外さないまま。それで、なんとかする道は、ないんだろうか。
石を、敵にするのでも、味方にするのでもなく。つけたまま、この薄い体のままで、できることが、何か。
わからなかった。誰も、教えてくれなかった。母も。セラフィナも。父の手帳にも、書いていない。外さずにどうするかなんて、誰も、考えたことがないみたいだった。みんな、外すか、外させないか、その二つしか、見ていなかった。
それでも、リディアは、はじめて、外すことを当てにしない側から、考えていた。
ためしに、目を閉じた。あの暴発のとき、見えたものを、思い出そうとした。壁を流れる魔力。人の芯で燃える、小さな火。あれが、石をつけたままでも、すこしでも、見えないか。
何も、見えなかった。
暗い部屋が、暗いままだった。石は、リディアの力に、ぴったりと蓋をしていた。指の先まで、薄いままだった。つけたままでは、何ひとつ、できない。それが、いまのリディアの、ぜんぶだった。
それでも、と思った。見えないことを、知れた。外さずに見ようとして、できないと知った。きのうまでは、それさえ、ためしたことがなかった。
リディアは、襟もとから、父の手帳を出した。暗かった。通気の穴から落ちてくる、わずかな明かりに、ページをかざした。
半分しか読めなかった、中庭の女の名前。手帳に書きとめた、六つの名前。そのいちばん下に、リディアは、炭で、書き足した。
テオ。お母さん。
わたしを、覚えている人。
それから、穴の上に向かって、言った。
「テオ。お願いがある」
「うん」
「毎日、数えて」リディアは言った。「わたしを覚えてる人が、何人いるか。減ったら、教えて。増えても、教えて。わたしは、ここにいる。消えないために、数えてほしい」
「いいよ」テオは言った。「もともと、そのつもりだった」少し間があって、「君、声、夜営のときより、聞きやすくなった」
リディアは、暗いなかで、すこし笑った。笑うのは、便利だった。けれど今日は、ふりではなかった。
*
夜が来たのか、朝が来たのか、地の底ではわからなかった。
手燭は、扉の外に置かれて、隙間から細い光だけが届いた。リディアは、通気の穴の下で、膝を抱えて、うとうとした。
ふと、目が覚めた。
風の音が、変わっていた。
通気の穴から落ちてくる風は、ずっと、まっすぐ下に落ちる、冷たいだけの風だった。それが、いまは、横に流れていた。どこか、もっと下のほうから、別の風が、混じっていた。土と、雨と、嗅いだことのないにおい。
穴の向こう、ずっと下の闇で、何かが、いた。
追っ手の、あの赤い目では、なかった。石を外させたがる、あの圧でも、なかった。名前をほしがる、乾いた気配でも、なかった。
もっと静かな、何か。
リディアの石を、引かない。リディアの名前を、ほしがらない。こちらを見ているのでも、聞いているのでもなく――待っている、ような。
声が、した。風に乗って。ひどく細く。歌のような、ひとりごとのような。言葉は、聞き取れなかった。けれど、人間の声では、なかった。古い、冥族の声だった。
リディアは、立ち上がった。
冷たい石の壁に、手を当てた。穴のほうへ。声のほうへ。
逃げなかった。隠れもしなかった。隠れたところで、ここではもう、隠れようがなかった。地の底のいちばん底まで来て、はじめて、追ってこない何かが、すぐそこにいた。
リディアは、暗い穴に口を寄せた。声をかけるつもりだった。
その前に、向こうの声が、ひとつだけ、はっきりと、こちらへ落ちてきた。
「――まだ、外していないのね」




