外れる
石は、夜どおし温かかった。
肌の温度ではない。鐘がにごってから冷たかった石が、教会から帰った夜から、内側に小さな熱を持っていた。ときどき震えた。リディアが眠ろうとするたび、思い出したように、ひとつ脈を打った。
眠れなかった。
母は隣にいた。寝台のふちに腰かけ、壁に背をあずけて、目を閉じていた。眠ってはいない。リディアが寝返りを打つと、母の指がすぐに動いた。線を引かれても手の届くところを、と母は言った。そのとおりに。
明け方、テオが扉の下から炭の紙きれを滑り込ませてきた。隣の小部屋から。
リディアはそれを拾った。印が増えていた。ゆうべよりずっと。そして印の並びが、片側に寄っていた。
「数が、傾いてる」扉ごしにテオの声がした。低い。「石がこたえはじめてから。名前の奪われる先が、鐘の真下のほうへ寄ってる」
リディアは襟もとに手を当てた。石が応えた。手のひらの下で、ひとつ。
石が呼ばれるほど、鐘の近くで名前が奪われていく。ふたつのことが、別々に起きているのではない気がした。けれど、どうつながっているのかは、言葉にできなかった。
「お母さん」リディアは言った。「これ、だんだん、止まらなくなってる」
母は目を開けた。何か言いかけて、やめた。やめたことが答えだった。
そのとき、廊下の足音が、いつもの刻限より早く来た。
ひとつではない。いくつも。そろっていた。検めの長衣の、ためらいがちな足ではなかった。
掛け金が外れた。扉が外から開いた。
*
先頭にアデルバートが立っていた。
灰青の上衣を、襟も袖口もきっちり留めて。白髪。痩せた長身。前に会ったときと同じ服に見えた。同じ服を毎日、同じように留めているのかもしれなかった。
その目が部屋を見た。人を見る目ではない。置いてあるものの数を確かめる目。寝台。窓。母。そして、リディアの襟もと。
「刻限が決まりました」アデルバートは言った。低く平らな声で。「第三封印具を、本日、最深部封印房へ移送します。保持者は、封印具とともに」
「今から?」母が立ち上がった。「話がちがう。猶予が――」
「鐘が、夜のうちに二度鳴りました」アデルバートは母のほうを見なかった。「誰も鳴らしていないのに。にごった鐘が、ひとりでに。控えに、そう記されています。封印具が呼んでいる。これ以上、ひとつ屋根の下には置けません」
リディアは襟もとの石を握った。鐘が、夜のうちに二度。リディアは聞いていない。けれど石は、夜どおし震えていた。鐘の声が聞こえなくても、石は聞いていたのだ。
石だけ置いていくことは、できないのか。一瞬そう思って、できないと、すぐにわかった。石が、力を持っているのではない。力は、リディアのなかにある。石は、その力にかぶせた蓋だった。胸についているあいだだけ、蓋になる。外せば、あふれるのは、リディア自身だった。あの迷宮の日のように。あふれた光は、遠くの冥族に、リディアの居場所を教える。だから、石だけ仕舞うことはできない。遠ざけたいなら、リディアごと運ぶしかない。
「歩きます」リディアは言った。
アデルバートの目が、はじめてリディアのほうへ動いた。襟もとから、すこし上。顔のあたりまで。
「運ばれるのは、いやです」リディアは言った。声は震えていた。それでも続けた。「自分の足で歩きます。わたしは、荷物じゃない」
しばらく、アデルバートは何も言わなかった。やがて衛兵のほうへ、わずかに顎を引いた。
「歩かせなさい」と言った。「速さは、変わらない」
それだけだった。荷物が自分で歩くと言うなら、歩かせる。手間が、ひとつ減るだけ。
*
封印房は、地の底にあった。
北翼を出て、渡り廊下を越え、教会の床のさらに下へ。降りていく石段はせまく暗く、灯りは衛兵の手燭だけ。前に四人、後ろに四人。母はリディアの後ろに回された。衛兵がひとり、あいだに入った。
「隣を歩かせて」母が言った。
「決まりです」衛兵は母を見なかった。「保持者と付き添いのあいだには、ひとり立てます」
ひとり、あいだに立つ。それだけで母の手は、もう届かなかった。線を引かれても手の届くところを、と母は言った。けれど、その線を引いたのは、今度は赤い目ではなかった。決まりだった。規則という見えない手が、母娘のあいだに、ひとり分の闇を立てていた。
降りるほど、石が熱くなった。冷たかったはずの石が、いまは肌を焼きそうだった。上着の上から押さえても、震えは止まらない。手のひらの下で、何かが上へ、上へと向かっていた。出口を探すように。
石段が終わった。
広い、丸い部屋に出た。天井が高かった。見上げると、はるか上に、石の継ぎ目が円を描いていた。リディアは、それが何の真下か、わかった。
鐘楼の根もと。鐘の真下。
封印房は、鐘から遠ざけるための場所のはずだった。なのに、そこへ降りる道は、いったん鐘のいちばん近くを通る。遠ざけるために、まず近づく。リディアは足を止めた。
「進みなさい」衛兵が言った。
進めなかった。
石が、襟もとで跳ねた。
肌から浮いた。鎖は切れていない。石のほうが、鎖から抜けようとしていた。留め金が、ひとりでにゆるんでいく。リディアは両手で、石を胸に押しつけた。
「だめ」リディアは言った。「お願い。いて。ここに、いて」
石に頼んだ。母にでも、誰にでもなく。手のなかの、熱い石に。
石はこたえなかった。リディアの指の隙間から、上へ引かれていった。鐘へ。兄弟の器へ。リディアの意思も両手も、その引く力の前では、紙きれより薄かった。
「リディア!」母の声が、後ろで。
留め金が外れた。
*
石が宙に浮いた。
あの日の迷宮と、おなじだった。けれど、おなじではなかった。あのときは鎖が切れて、石が落ちた。今度は、石が昇っていく。胸から離れて、鐘のほうへ。
そして、世界の底が抜けた。
音が遠くなった。衛兵の声も、母の叫びも、手燭の燃える音も、ぜんぶ、水の底から聞いているように、遠かった。
かわりに、見えた。
石の壁を流れる古い魔力。封印房の床に刻まれた、何重もの陣。衛兵ひとりひとりの、芯のところで燃えている小さな火。そして――頭上のはるか上。鐘のなか。
大きな、何かがあった。
火と呼ぶには暗すぎた。眠っている、巨きな塊。それが、リディアの解き放たれた力に応えて、寝返りを打つようにうごめいた。力が、そちらへ流れていく。鐘へ。塊へ。ふたつが近づく。
だめだ。
リディアは知っていた。あの夜、鐘楼で知った。ふたつがいっしょに目を覚ましたら。
リディアは、上へ向かおうとする力を、両手でつかんだ。見えない手で、見えない力を。下へ引き戻す。鐘から引きはがす。
消せる、とわかった。
火の玉を投げるのでも、雷を落とすのでもない。指を向けて、消えて、と思うだけでよかった。さっき見えた、衛兵の芯の小さな火。それを、蝋燭を吹き消すように、ひとつ、無くせる。ふたつ。三つ。この部屋にいる、ぜんぶ。あの日、迷宮で、影の騎士が最初からいなかったみたいに消えたのと、おなじだった。
消さなかった。
消せるとわかるから、消さなかった。鐘から引きはがした力が、行き場をなくして暴れる。リディアはそれを、人のいない、高いほうへ――けれど鐘ではない方へ――石の壁に、たたきつけた。
壁が割れた。天井の継ぎ目に、亀裂が走った。粉が降ってきた。轟音が、丸い部屋にこだました。
「リディア!」
声が聞こえた。母ではない。母の声は、暴発の光のなかで迷子になっていた。
テオだった。石段の途中にテオがいた。衛兵に押しのけられても、食い下がって降りてきたらしかった。みんながリディアを見失っているなかで、テオだけが、まっすぐリディアを見ていた。
「鐘じゃない方!」テオが叫んだ。「そっちは、いい。そのまま。人のいる方には向けるな。お母さんは左の壁ぎわ。衛兵は右。まんなかは空いてる。まんなかに逃がせ!」
数えていた。この光のなかで。誰がどこにいるか。テオは見失わない。だから、リディアの目になれた。
リディアはテオの声のとおりに、力を、部屋のまんなかの、空いた高さへ押し上げた。誰もいない空へ。そこで力はほどけた。白い光が丸い部屋に満ちて、それからゆっくり引いていった。潮のように。
石が、床に落ちた。
かつん、と小さな音がした。あの日とおなじ音だった。
*
音が戻ってきた。
衛兵の咳。崩れた石の転がる音。母の荒い息。リディアは膝をついていた。いつついたのか、覚えていなかった。
目の前に、石が落ちていた。黒い、母のお守り。鎖はつながったまま。石だけが抜けていた。
外れている、いま。
リディアの体は軽かった。世界が近かった。鐘の真下にいるのに、隠れていない。薄くもない。衛兵のひとりが、崩れた天井から目を下ろして、リディアを見た。見られている、と肌でわかった。隠れることに慣れた体には、その近さが、痛いほどだった。
壁のずっと外で、何かがこちらを向くのがわかった。夜営で、関所で感じた、あの追われる気配。石が外れて、位置の火が燃え上がって、遠くの何かがそれを見つけた。
外したままなら。リディアは思った。隠れなくてすむ。けれど、見つかりすぎる。
戻せば。
リディアは石を見た。戻せば、消える。前より深く。
わかっていた。それでも手を伸ばした。
石を拾った。熱はひいて、ただの冷たい石に戻っていた。胸のいつもの場所に当て、鎖を首にかけ直した。
肌に触れた。
世界が遠のいた。音が鈍る。体が重くなる。そして――輪郭が削れた。前より深く。
「お母さん」リディアは言った。
母がこちらを見た。
見て、いなかった。
母の目が、リディアの上をすべった。膝をついた誰かを見て、それが誰だかわからない目をした。世界を割ってきた白暁の魔女が、自分の娘を、見つけられずにいた。
「あなた……」母の声が揺れた。「ごめんなさい、あなた、どこの……」
ひと呼吸では戻らなかった。ふた呼吸でも。あの夜営のときは、すぐだった。「ここ!」と叫べば、母は思い出した。今度はちがった。リディアが声を出しても、母の目は、すぐ目の前の娘を、もっと遠くに探していた。
「お母さん」リディアはもう一度言った。「ここ。膝、ついてる。あなたの、すぐ前に」
母の指が、宙で止まった。それからゆっくり、リディアの頬に触れた。触れて、たしかめて、ようやく母の目に、リディアが戻ってきた。
「リディア」母は言った。声が濡れていた。「リディア。ごめんなさい。見えなく……一瞬、あなたが、どこにも」
一瞬では、なかった。リディアは知っていた。けれど、言わなかった。
衛兵たちは立ち上がっていた。崩れた天井を見上げ、それからリディアを見た。
誰も、リディアを見なかった。
膝をついた少女がそこにいるのに、衛兵の目は、その上をすべっていった。暴発があった。それは覚えている。けれど、誰が起こしたのか。その「誰が」のところだけ、ぽっかりと抜けていた。
テオだけが、リディアのすぐそばに来ていた。
「印、足した」テオは紙きれを握っていた。平らな声に、いつもの平らさがなかった。「いま、何人か。お母さんも。衛兵も。みんな一瞬、君を忘れた。奪われたんじゃない。忘れて、戻ったやつだ。――でも、お母さんのなかでだけ、いちばん長く、戻らなかった」
「テオは」リディアは聞いた。「忘れなかった?」
「忘れないよ」テオは言った。「だから、わかるんだ。君の名前は、いまも僕のなかにある。なのに、まわりは急に君を探しはじめた。お母さんも、衛兵も。そのずれを、数えてる。遠くのことは、わからない。そこにいて見てるから、数えられるんだ」
*
アデルバートは、崩れた天井の下に立っていた。
灰青の上衣に、石の粉が白く積もっていた。払いもしなかった。アデルバートは割れた継ぎ目を見上げ、それから、床に落ちていない、リディアの襟もとの石を見た。数えなおす目だった。
「保持者は」アデルバートは言った。誰に言うのでもなく。控えに書きつけるように。「保持、できていない」
「事故です」母が言った。リディアの前に出て。「この子がしたことじゃ――」
「退いたものの話はしません」アデルバートは母を見なかった。「残ったものの話をします。残ったのは、割れた天井と、鐘の二度の自鳴と、制御を失った封印具。三つ。記録に残るのは、それだけです」
アデルバートは、衛兵のほうを向いた。
「移送を早めます」と言った。「本日中。最深部へ。封印房を、さらにひとつ下へ。鐘から、いちばん遠い地の底へ」
「あの子を」母の声が低くなった。「地の底へ閉じこめるのね」
「感情の話は」アデルバートは言った。「控えに、残りません」
それから、はじめて母のほうを、まっすぐ見た。
「あなたは十六年前、これを地の底から持ち出した」アデルバートは言った。「わたしは、地の底へ戻すだけです。あなたが動かしたものを。元の、あるべき場所へ」
母は、答えなかった。答えられる言葉がなかったのだと、リディアにはわかった。
*
衛兵が、隊列を組み直していた。降りてきた石段ではなく、さらに下へ降りる、別の口へ。地の底の、もうひとつ底へ。
リディアは襟もとの石を握っていた。冷たい、戻したばかりの石を。
戻した。だから、いまは外れていない。けれど鐘は、まだ頭の上にあった。兄弟の器を呼ぶのを、やめない鐘。
戻しても、また外れる。鐘がそこにあるかぎり。さっき両手で押さえても、止められなかった。次は、もっと早いかもしれない。テオが、間に合わないかもしれない。
外せば、見つかる。壁の外の、あの気配に。戻せば、消える。母にすら、もっと長く。
外すことにも、戻すことにも、頼れなかった。
なら――と、リディアは思いかけた。外さずに、戻さずに、つけたまま、なんとかできないのか。
けれど、その先は、まだ思いつかなかった。誰も教えてくれなかった。母も。セラフィナも。父の手帳にも書いていない。
「リディア」母が隣に来た。衛兵がまだ隊を組んでいる、その隙に。ひとり分の闇は、いまはなかった。
母は、リディアの手を握った。石ごと。
「次に外れたときも、呼びなさい」母は言った。前にも言った言葉だった。けれど今日の母の声は、前の母の声とちがっていた。「呼んで。何度でも。――でも、今日、わたしは、五歩のところであなたを見失った。だから」
母は、そこで言葉を切った。続きを、言えなかった。
言えなかった続きを、リディアはわかった気がした。声だけでは、足りないかもしれない。母の声でも。リディアの声でも。
下へ降りる口から、冷たい風が上ってきた。地の底の風だった。
衛兵が、隊列の先頭で手燭をかざした。
「保持者」衛兵が言った。「歩いて」
リディアは立ち上がった。膝が震えていた。それでも、自分の足で立った。
胸の石が、また震えた。戻したばかりなのに。鳴らない鐘の真下で、内から、こつ、と。出口をたたくように。
リディアは、地の底へ降りる、最初の一段に、足をおろした。




