夢か彼か
「これがキーホルダーか」
美奈の日記を静かに閉じて、キーホルダーを持ち上げる。
ピアノの形で金属でできていて、少しサビかかっている。
「お母さんもこんな普通の恋愛をしていたんだね」
ふと窓際の母の写真に声をかけた。
母がこんな恋愛をしていたなんて想像が出来ない。
何時も家事に仕事にと忙しそうにしていて、母が若い女の子だった頃なんてイメージが出来ない。
何よりピアノが上手かったなんて知らなかった。
美奈が子供の頃ピアノを習った時、少し弾いてもらったような記憶はあるが、美奈の興味がピアノからダンスに変わったあたりから、母のピアノを聞いた記憶はない。
ずっと一緒に生活して、自分の人生の大半を一緒に過ごしてきたのに、知らないことばかりだ。
普通の恋をしていたことも、ピアニストになりたかったことも知らなかった。
「お母さんのこと、私全然知らなかったんだね」
思い返せば、私は自分の話ばかりしていた。
学校のこと、友達のこと、どんなにくだらないことも母は笑顔で頷いて聞いてくれた。
きっと母からすれば忙しい中で聞くのは大変だったはずだ。
でも母が嫌な顔をしたことは一度もなかった。
窓際に置いた写真立てを手に取った。
母があの頃と変わらない笑顔でこちらを見ている。
「もっとお母さんと色々話せば良かったな」
後悔しても母はもういない。
母の日記にそっと手を添えてみた。
この日記を読めばきっと母のことがよくわかる。
母があの時ダンサーの夢を反対した理由もこの日記に答えがある気がする。
「もう少しだけ、もう少しだけ、日記読んでもいい?」
母の写真に声をかける。
母は笑顔でこっちを見ているだけだ。
すると、美奈のスマホが震えた。
婚約者の大翔からメッセージだ。
こっちに来てからバタバタして、大翔に連絡できてなかった。
“大丈夫?何か手伝うこととかない?結婚の挨拶もしたいし、俺も顔出そうかな”
思わずため息が出た。
大翔とは付き合って1年になる。
付き合い始めた時は、年上だがしっかり者というよりマイペースで、そんなところも可愛いなんて思っていたのに、今ではそこに腹が立つことも多い。
なんでこんな時に結婚の挨拶の話になるのかー
大翔に悪気はないのはわかる。
ずっと早く結婚したいと言っていたし、前々から両親に挨拶したいとは言っていた。でも母を亡くしたこの状況で結婚の挨拶とか普通は考えられない。
大翔はいつも自分の気持ちに素直に行動する。
こちらが注意すれば謝ってもくれるし、態度も改めてくれるが、あまりにも考えが幼い気がする。
それに結婚、結婚と付き合って半年が過ぎたあたりからうるさくなった。
大翔は27歳なので、周りで結婚している人もちらほら出始め、そのことをきっかけに結婚に憧れをもったようだった。
その上に幼馴染まで結婚したと聞いて、焦ったように一ヶ月前にプロポーズしてきたのだ。
正直迷いはあった。
周りがしているからという理由でプロポーズしているのは明らかだったし、自分自身も23歳の社会人一年目で結婚は早すぎると感じていた。
いや、それだけではない。
どうしても結婚に前向きになれない理由があった。
それでも好きな人からホテルの高級レストランで片膝立てて、指輪の箱を開けられると、雰囲気に飲み込まれて「はい」と返事をしてしまった。
あの時の周りのスタッフや他のお客さんの温かな拍手と笑顔で我に返ったが、もう遅かった。
美奈は、スマホを開いてタップする。
高校の時のダンス大会の映像が流れ始める。
楽しそうに仲間と踊る自分がそこにいる。
(ダンスをもう一度やらない?)
親友の真剣な眼差しを思い出した。
「ダンスか・・・結婚か・・・」
母の写真を見た。
「どうしてあの時反対したの?そしたら私、今こんなに悩んでなかったのにさ」
文句をぶつけてみても母から返事が返ってくることはなかった。
◇◆◇
1992年7月20日―
夏の日差しが眩しくて、今日もかなり暑い。
「おはようございます」
喫茶店に入るとスーッと心地よいエアコンの冷たい風が、美由紀を包んだ。
最高と思いながら、店に入るとマスターがせかせかと動き回っている。
「マスター、木下さんは?」
キッチンにもホールにも伸之の姿は見えない。
マスターに聞くと、今日はお客が少なそうということで珍しく早めに上がったとのことだった。
「早く上がっていいって言った時に限って、後からお客さん来ちゃうんだよなぁ」
(なんだ・・・)
少しつまらないと思っている自分に少し驚いてしまう。
(別にいいじゃない。あくまでも仕事仲間なんだから)
自分に言い聞かせると、いつものように制服に着替えて、ホールに入った。
その日はその後はお客さんが少なくて、マスターも夜遅いと心配だからと美由紀のこともいつもより早めに上がらせてくれた。
いつもは伸之が駅まで送ってくれるが、今日はそれがない。
1人で歩く道は妙に長く感じた。
見上げてみると、真ん丸な月がこちらを見ている。今日は妙に月が綺麗に見える。
(伸之にも見せたいな)
そんなことを考えているせいか、なんだか遠くから伸之の声が聞こえる気がしてきた。
そんなわけないと思いながら、声のする方に近づいていくと、そこには10人ほどの人だかりができている。
こっそり後ろから覗くと、ギター片手に伸之が立っていた。




