彼の笑顔
(今日もやりますか)
美由紀は静かに鍵盤に手を置いた。
翌日から放課後、毎日練習することになった。
美由紀は自分のこだわりをなるべく抑えつつ、バンドメンバーとの調和を優先した。
そして数日もすると、その演奏に対する態度が伝わったのか他のメンバーも真剣に取り組むようになり、音にまとまりが出てきた。
音の重なりが綺麗になり、確実に良い演奏になっていることに美由紀はやりがいを感じるようになっていった。
「いいじゃん!」
リハーサルの演奏が終わると、小百合が立ち上がって拍手をした。
「明日が本番、絶対上手くいくよ」
明日の準備で今日は早めに練習を終わらせて、会場である体育館に楽器を運ぶことになった。
「あ!」
楽器を運ぼうと階段を上がろうとした時、坂本の肩からベースが入ったケースがずり落ちていくのが目に入った。
このままだと楽器が傷つくと思った瞬間、必死に手を伸ばしていた。
寸前のところでベースを胸で受け止めた。
良かったと思った瞬間、後ろに踏み出した足のつくところがない。
ふわっとした感覚がしたかと思うと、すぐに痛みが走った。
「美由紀!」
慌ててみんな駆け寄って来る。
「大丈夫、大丈夫」
結構な段数を落ちたように感じたが、3段ほど階段を落ちた程度のようだ。
「私のことより楽器、楽器大丈夫?」
「バカ!楽器より、お前の身体の方が大事だろ?」
伸之に支えられて起き上がると、足首が痛い。
少しひねってしまったようだ。
「ただの捻挫だよ。手は大丈夫だから明日の演奏は問題ないよ」
「俺のベースも無事だ。本当にありがとう」
「ありがとうじゃねーよ!お前、ケースを首に通してかけろっていつも言ってるだろ!美由紀が大けがしてたらどうするつもりだ!」
伸之の剣幕に坂本は「ごめんなさい」と深く頭を下げた。
「伸之、落ち着いて。私は大丈夫だから」
あとの楽器の移動は男子に任せて、小百合に連れられて美由紀は保健室で湿布を貼ることにした。
「ありがとうございました」
保健室を出ると、もうすっかり窓の外は暗くなっていた。
「大したことなさそうで良かったね」
「うん。明日演奏できなくなるとこだったよ」
「いやいや、文化祭のイベントなんて大したことないよ。大けがして指が動かなくなったりした方が大変でしょ。美由紀は未来の有名ピアニストなんだから」
「何それ」
「音大進むんでしょ?美由紀、めちゃくちゃピアノ上手いもんね」
音大という言葉に胸が反応して、ズキズキと痛みが増してくる。
“ピアニストなんてあなたには無理よ”
思い出すと暗い沼に引き込まれるような気持ちになる。
何も答えずにいると、それを察してか小百合は話題を変えた。
「ねぇ、それにしても木下くんめちゃくちゃ怒ってたね」
「伸之があんなに怒るところ初めて見たかも」
「愛されてるねぇ」
「いや、そんなこと・・」
「耳まで真っ赤だよ?」
小百合が、ニヤニヤと笑ってからかってくる。
明日はいよいよ文化祭での演奏だ。
(でも―)
そんな会話をしながら、美由紀はほんの少し小指に違和感を感じていた。
文化祭当日、ライブ会場である体育館はかなりの人で集まっていた。
「結構人いるね」
小百合は袖から観客席を見て嬉しそうに笑った。
「俺らのライブを聞きにこんなに来てくれるなんて」
坂本が感極まったような顔をすると、小百合は鼻で笑った。
「ばーか、私らの後に演劇部の劇があるでしょうが」
「そういや、演劇部が全国大会で賞をもらったんだっけ?」
「そうよ、それをこの人達は見に来てるの。…美由紀、どうした?顔色悪いけど」
「え?そんなことないよ」
美由紀はとっさに指を隠した。
少し感じた違和感は、やはり正しくて、今朝見ると青黒く腫れていた。
動かすと痛いし、腫れているので上手く動かない。
(・・・言えない)
本番が近づいて、袖でバンドメンバーはこれまでの成果を出すぞ、頑張ろうなと互いに鼓舞しあっている。
こんな状態で上手く弾けないかもとは言える雰囲気ではないし、もしバレれば伸之が坂本に殴り掛かりにいくかもしれない。
(やるしかない)
小指の分も他の指でカバーしながら弾くしかない。
これまで15年、ピアノと共に生きてきたのだ。
やってやれないことはない。
小指の分も他の指でカバーしながら弾くしかない。
これまで15年、ピアノと共に生きてきたのだ。
やってやれないことはない。
軽音部が紹介され、ステージにメンバーが上がっていく。
美由紀は、腹をくくった。
一曲目はなんなく演奏することが出来た。
観客も思ったより盛り上がっていて、会場の雰囲気は最高だ。
(問題は次の曲なんだよね)
次の曲はオクターブ上がることが多く、指の動きが激しい。
さっきの曲でさらに痛みが増していることを考えると、耐えられるか微妙なところだが、やるしかない。
「じゃあ、次の曲行きます」
伸之の声で演奏が始まる。
とにかく無心で音楽のことだけを考えて指を動かす。
だんだん増していく痛みに苦痛で顔がゆがみそうになる。
(あと少し・・・あと・・少し)
「あ・・・」
終わるタイミングで最後の一音がずれた上にタイミングが悪く、最後に不協和音が響いた。
一瞬でシーンとなる会場に、じわりと汗が背中を流れる。
伸之がギターを弾いて再度サビの演奏を入れて歌うと、皆も察して弾き始め、不協和音も演出のようにかき消されていく。
なんとか3曲目も弾き終わり、ステージを降りた。
(最悪だ・・・)
伸之のおかげでライブは成功となったが、自分のせいで台無しにするところだった。
ミスをしたこと以上にピアノずっとやっていたから大丈夫だと過信していた自分が嫌になる。
メンバーから離れて体育館の裏に出て、その場にしゃがみ込んだ。
自分の手が震えている。
悔しさと申し訳なさでなんだか視界も滲んでぼやけてくる。
「大丈夫か?」
顔を上げると、伸之が心配そうにこっちを見ている。
「ごめん、演奏間違えちゃった」
「なんだ、そんなこと気にしてるのか」
伸之はみゆきの顔を覗き込むと、美由紀のおでこにデコピンをして、「なんて顔してんだ」と笑った。
「だって・・・」
「自分のせいで台無しにするとこだった、とか考えてんだろ?」
「実際そうだし・・」
「バーカ。バンドってのは仲間でチームなんだよ。誰かがミスれば誰かがカバーする。当り前だろ?」
そういうと、美由紀の頭を撫でた。
撫でられた頭はなんだか温かくて、気づいたら手の震えは止まっていた。
「ほら、口開けろ」
伸之に言われて口を開くと、ポケットから何かを取り出して放り込んでくる。
「これでも食べて元気出せよ」
口の中に甘みが広がる。
「チョコ?」
「正解。まぁ元気出せ」
伸之はそう言って笑うと、もう一度美由紀の頭を撫でた。
「その手でよく演奏頑張ったな」
そう言って笑った時の顔は今でも心に残っている。
あの頃伸之はよく笑っていた。
高校を卒業してから、何があったのだろう。
前を歩く伸之の背中に問いかけようとして、言葉を飲み込んだ。




