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彼のノート


「おはようございます」

今日も鼻歌交じりに土曜日に朝から出勤すると、店長が開店準備を始めていた。

美由紀は大学終わりにシフトに入ることが多かったので、朝からは初めてだ。

最近は、常連さんに「美由紀ちゃんの笑顔に癒されるよ」なんて言われたりして、アルバイトが楽しい。

キッチンの方を見ると、もうすでに伸之も出勤していて、コップを磨いている。

握手をしたあの日から、伸之と気まずい雰囲気はゼロにはならないものの、少しずつ会話も増えるようになった。


「平野ちゃん、着替え終わったら机の上のセットしておいてくれる?」

「了解です」


マスターに言われて、急いで着替えると、机にカラトリーやメニューを置いていく。


「あれ?」


すると、床に一冊の小さなノートが落ちていることに気づいた。

表紙の周りはボロボロで、使い込まれている。

お客さんの落とし物かもしれない。

落とした人が分かればと、そっとノートを開いてみた。

そこには乱雑書かれた文字と音符とコードが書かれている。

どうやら譜面のようだ。

この力が入ってなさそうな、滑るような文字のクセは、間違いなく伸之の字だ。


「~♪~♪」

自室のベッドに寝転んで、ノートを開いて譜面通りに口ずさんでみる。


「結構いい曲なんだよなぁ」


伸之にこんな才能があるとは思わなかった。

伸之が音楽の道へと進むと言った時、美由紀は伸之がどんな音楽を作るのか、どんな演奏をするのか、歌声さえも聞くことなく、否定してしまった。

美由紀は、ふと押し入れの方へ視線をやった。


(私も音楽を好きな気持ちは・・・わかる。でも―)


すぐに視線を逸らすと、楽譜の書かれたノートをゆっくり閉じた。


「なんで返さなかったんだろ。持って帰ったりしちゃって・・・どうするつもりなのよ、私」


ノートを本来なら持ち主に返すべきなのはわかっている。

それなのに楽譜を見た途端、どんな曲か詳しく知りたくなった。

明日返せば良いやと美由紀は部屋の電気を消した。


「また雨か・・・」

6月は梅雨が続いて憂鬱な気持ちになる。

せっかく前髪をいい感じにセットできたのに、湿気で猫っ毛が出てきてしまっている。

講義が終わって他の学生はどんどん教室を出ていく。

なんだか憂鬱で窓の外を見ながら、ぼんやり前髪を触っていると、誰かが手を振っているのが目に入った。

よく見ると、坂東先輩がこっちに来てと手を振っているようだ。


先輩に誘われてそのまま大学構内の食堂へ向かった。

食堂は相変わらず混雑している。

妙に視線を感じるのは坂東先輩のせいだろう。


坂東先輩は3年生で、テニスサークルで出会った。

大学でアルバイトをすると決めていた美由紀は、サークルにあまり入る気はなかった。

でも友人がどうしても行きたいと言われてしまい、仕方なく見学をしてそのまま断り切れずサークルに入ったのだった。

そんなテニス未経験の美由紀に丁寧に指導してくれたのが、坂東先輩だった。

運動が得意ではない美由紀にいつも「上手」「上手くなった」と褒めてくれる。

その上、坂東先輩は、顔も綺麗で、女の子からの人気が高い。

なのに、なぜかパッとしない美由紀によく声をかけてくれる。

二人は付き合っているのかと周りのサークル仲間に聞かれるほどだ。

なぜなのか理由は気になるが、イヤな気はしない。


「今度一緒に遊びに行きたいなと思ってるんだけど、予定どうかな?今週も土日とか」

「今週の土日ですね・・・」


手帳を開いて予定を確認すると、しっかりとアルバイトと書いてある。


「すいません。アルバイトが入ってて」

「アルバイトか、シフト変えたりとかは出来ないかな?」

「うーん、ちょっと・・・お願いはしてみます」


土日は忙しくなるので、シフトが決まった後に休む場合は他の人にアルバイトをお願いしないといけない。

頭の片隅に伸之の不機嫌そうな顔が浮かぶ。

まだ入ったばかりの美由紀には頼める相手はそういない。


「ただのアルバイトなんだし、もし休みとれなかったら、サボっちゃえば?」

「いや、それはちょっと」

「ただのバイトでしょ?そんな融通効かないバイト辞めちゃえば?」

「すごく楽しく働いてるので、辞めるのは・・・」

「ごめん、冗談、冗談。そんな顔しないで」


坂東先輩はそういうと、話題を変えて話し始めた。

透明な水に黒いインクがポタッと一滴落ちたような、モヤモヤした気持ちが胸に広がっていく。

笑顔で話す先輩に、相槌をうちながら何も考えないようにコーヒーを一口飲んだ。


◇◆◇


「平野さーん!早くこっち運んで!」

伸之に言われて慌てて、料理を取りに行く。

土日はやはり平日と比べると忙しい。

その上、今日はパートさんが急遽お子さんが熱を出したとかで休みになってしまった。

今日も昼時は満席になり、てんてこ舞だ。

土曜日でこんなにいっぱいとは、明日はもっと忙しくなるではないかとため息が出そうになる。

結局、急に休むとは言えるわけもなく、坂東先輩との約束は後日となった。

でもこの忙しさとなると、サボりたかったという気持ちもほんの少し湧いてくる。


「平野さん、次も出来てるよー」

「はーい!」

なんで伸之の指示に従わないといけないのかと思うが、伸之の言う通りに動くと忙しい日もなぜか上手くいく。

席の案内する場所、注文を聞きに行くタイミングなど言われた通りにすると、上手くハマるのだ。

悔しいが、従うしかない。


「疲れたぁ・・・」

17時を回ると、やっと落ち着いてきた。

キッチンの椅子に座ると、ため息をついた。

「お疲れ」

伸之はそう言いながら、イチゴパフェを作っている。


「今日忙しすぎるよぉ」

「土日はこんなもんだ。俺の作る飯が上手いからな」

そう言い残して、イチゴパフェを席まで運んでいった。

美由紀はズボンの後ろのポケットに触れた。

あの時拾ったノートが入っている。

返す時に見てしまったことを伝えるのも、その書いてある曲が良かったのも、なんだか認めたくない。

でも今更知らぬ顔して返すのも難しい。


「平野さん、サボらずに急いで5番テーブルの紙ナプキン補充して」

「・・・はい」


しんどそうにゆっくりと立ち上がるが、伸之は見向きもせず次の注文をチェックしている。


(絶対返さない・・・)


私は後ろのポケットをポンポンと叩いた。

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