母の笑顔と涙
「お母さんが相手を振ったんだ」
母の写真に向かって美奈は笑いかけた。
「やるじゃん」
美奈は日記を閉じて横に置くと、ごろんと和室で横になった。
この部屋で母は寝ていた。
昔は父と同じ部屋で寝ていたらしいが、父のいびきに母が耐えられなくなり、私が物心つく頃には、この部屋で母は1人寝ていた。
子供の頃、1人で寝るのが寂しくて夜中にこっそりこの部屋に来た。
私が来たことに気づくと、母は笑顔で布団に入れてくれた。
温かくて、母の匂いに安心してよく眠れたことを覚えている。
この天井を見ながら母は何を考えていたのだろう。
目を閉じてみると、いい匂いが漂ってきた。
この匂いは―
「カレーかな?」
美奈が呟くと同時に襖の向こうから父の声がした。
「美奈―!昼飯できたぞ」
居間に向かうと、食卓にはカレーとサラダが並んでいる。
「美味しそう」
サラダまで準備するとは、父も健康に気を遣う歳になったようだ。
昔は野菜が嫌いで、母が娘よりも食べさせるのに苦労すると文句をよく言っていたっけ。
「美奈、カレー好きだったよな」
「子供の頃はね」
子供の時は、母の作るカレーが大好きだった。
このカレーなら毎日でも構わない、そう言って母に宣言したこともある。
あの時も母は嬉しそうに笑っていた。
大人になると、カレーより美味しい物をたくさん知ってしまって、好きな食べ物を聞かれてもカレーとは言わなくなった。
いつまでもカレー好きではいられない。
それはきっと仕方ないことなのに、なぜだかほんの少し罪悪感を感じる。
それでもカレーを一口食べると、母とは違う味だけど美味しくてどこか懐かしさが広がる。
「やっぱり今でもカレーは好きだよ」
父にそう伝えると、父は嬉しそうににっこりと笑った。
「母さんも父さんの作るカレーが好きだったんだぞ」
「え?作ってあげたことあるの?」
「あぁ。美奈が中学に上がった頃だったかな。部活やらなんやらで夜ご飯が遅くなることもあったろ?そんな時にたまに作ったことがある。カレーぐらいしかあの頃は作れなかったんだよな」
父は懐かしそうにカレーを見ながら、一口頬張った。
「俺の作ったカレーの日には美奈はいつも今日のカレーおいしくなーいと言ってたけどな」
そう言って父は苦笑いを浮かべた。
このカレーに懐かしさを覚えたのは、私もかつて父のカレーを食べたことがあったのだ。
「母さんはそれを聞きながら、クスクス笑ってなぁ。本当に楽しそうだったな」
「お母さんは幸せだったんだね」
「さぁ・・・どうだろうな。そればかりは本人じゃないとわからないからな。でも、母さんはよく笑う人だったし、父さんの目にはいつも楽しそうに見えていたよ」
確かに母はよく笑う人だった。
今思えば全く面白くないことでふざけても母は笑ってくれたし、何か失敗しても、やり直せば大丈夫と笑ってくれた。
そんな母の笑顔に何度も励まされてきた。
カレーを食べてお腹が膨れると、少し眠たくなってくる。
こたつに移ると、足元が温まってより瞼は重くなっていく。
「美奈、そんなところで寝たら風邪を引くぞ」
「うん…ん…」
父の声は聞こえるが、私の瞼は言うことを聞かず静かに閉じた。
「美奈」
優しい声がする。
この声は母だ。
ということはきっとこれは夢だ。
目を開けたいが、開けたら夢が覚めてしまいそうでグッと目を閉じた。
「ごめんね。母さんはね、美奈を失いたくなかったのよ。あの人と同じ目をしているから…」
(あの人…?)
何か温かい水が頬に触れた。
「泣いてるの?」
母からの返事はない。
「お母さん…お母さん…」
返事がなくて、目を開けようとした時、体を強く揺さぶられた。
「美奈、美奈、美奈…」
何度か名前を呼ばれて、母の声から父の声に変わっていく。
目を開くと、父が「昼寝したら夜寝れなくなるぞ」と言って、呆れた顔で笑っている。
「やっぱり夢か」
あの人とは誰だろう。
伸之さんのことだろうか。
夢を見たのは私なのだから私の想像に違いないけど、なんだか夢の中の母の声はひどく悲しげで、夢とは思えなかった。
起き上がると、片付けをしていた和室へ向かった。
日記が日の光を浴びて、光っているように見える。
続きを読んでと言っているようだ。
美奈は机の前に座ると、日記をゆっくり開いた。




