元カレとの再会
1992年5月1日―
講義室から出ると、美由紀はグーっと背伸びをした。
興味本位でとった経済史の授業がなかなかにハードだった。
ノートに書く量があまりにも多く、ほとんど黒板を写すだけになってしまった。
理解出来そうにもない文字の羅列を見ながら、ため息をついた。
来年の就活の為にも2年生で経済関係の授業を一つくらいは受けろと親に勧められたとったが、文学部の自分には全くあってはいなかった。
「よし!」
教材やノートを鞄にしまうと、ピシッと背を伸ばした。
今日はこんなことで疲れている場合ではない。
何しろ、今日はアルバイトの初出勤日なのだ。
正確には、1日だけの派遣アルバイトみたいなことをしたことはある。
同じところで働くというような普通のアルバイトは初めてなのだ。
ずっと1年生の時から憧れはあったのだが、親が学生の本分は勉強だと言って、アルバイトをすることをなかなか許してもらえなかった。
それでもアルバイト先での恋愛模様を描いたドラマなどをみていたせいで、アルバイトすれば楽しいことが待っている、そんな気がして諦めきれなかった。
がむしゃらに勉強し1年生で良い成績を納め、社会経験で働きたいと目を輝かせてお願いした結果、めでたくアルバイトが出来ることになった。
これだけ苦労したのだから、どこでアルバイトするかはかなり吟味した。
給料は良いにこしたことはないが、出来れば居酒屋とかスーパーのレジとかじゃなく、少しオシャレなところがいい。
居酒屋やスーパーじゃドラマのようなトキメク出会いはないと思ったからだ。
そんな中で、一軒の純喫茶が目に入った。
ちょうど先月までやっていたドラマは喫茶店が舞台で、そこでアルバイトしている男女が恋愛をしていくストーリーだった。
張り紙にアルバイト急募と書いてある。
これは応募するしかない。
美由紀は、そのまま勢いで喫茶店の中に入った。
美由紀が両親にアルバイトのことを話すと、水を扱う仕事はダメだと言われたが、すでに採用されてしまったと説得した。
アルバイトをすれば社会勉強にもなるし、将来のためにやっておきたいと熱弁し、やっとのことで美由紀は憧れのアルバイトを始めることが出来たのだ。
ここまでの道のりを考えると、美由紀にとっては今日は記念日と言っても過言ではない。
でもやっぱり親の言うことというのは聞いておくべきなのかも知れない。
美由紀は視線の先の男を見て、ため息をついた。
背が高くてひょろんとした男がエプロンをつけて、ホットケーキを焼いている。
「平野さん、運んで」
ひょろりとした男に言われて、「はい」と不服そうに美由紀はお皿を受け取ると、お客さんのところまで運んだ。
(どうして伸之の言うことを聞かないといけないのよ)
そのひょろりとした男は、美由紀の知り合いだった。
ただの知り合いではない。
いわゆる元カレだった。
木下伸之とは、高校2年時に付き合い始めた。
たまたま隣の席になったのがきっかけだった。
隣の席になってから、なんとなく挨拶をしたり、ちょっとした話をするようになった。
そこで好きなアーティストが一緒だということがわかった。
そこからはTVに出てただの、雑誌に載ってただのと会話する機会はかなり増えていった。
その上に帰り道も一緒になることが多く、仲良くなるのは自然の流れだった。
美由紀は今まで誰とも付き合ったことがなく、周りがどんどん彼氏を作って焦りを感じていた。
そんな中、仲良くなった伸之は彼氏として適任だった。
愛想はないが、顔はそこまで悪くない。
その上に趣味も合うのだから、ぴったりだ。
なんとなく付き合えないかなと考え始めた時、夏祭りに伸之から誘われた。
嬉しくて浴衣を着て、髪の毛を綺麗に結ってもらった。
いつも使わないリップもつけたりして、何かあるのではないかと期待に胸躍らさせて会場へ向かった。
2人で楽しく屋台のご飯を食べ、ヨーヨーを掬い、大きな花火を見た。
花火が上がる度に見える伸之の横顔がいつもと違うように見えて、わずかに身体を伸之の方に寄せた。
そして想像通り、夏祭りからの帰り道に伸之に告白され付き合うことになった。
(あの頃は我ながら可愛かった)
伸之はナポリタンを焼いている。
マスターに説明されたのだが、コーヒーはマスターがプライドを持って淹れ、それ以外の調理やホールは伸之が担当しているとのことだった。
負担の割合が全く違うように感じたが、伸之はもう半年ほどこのバイトをしているらしく、手慣れたものだ。
伸之は運動も勉強も得意な方で、努力しなくても割となんでもある程度は出来てしまう器用さがあった。
きっとマルチタスクも問題なくこなしているのだろう。
美由紀は得意分野と不得意分野がハッキリ分かれているタイプなので、付き合っている時は器用な伸之が羨ましかった。
それに対して、マスターは個性的で、自由でマイペースだ。
仕事に熱心ではない。
仕事中は、レジ横に置いてある1万円札を模したメモ帳をパラパラめくって、これが全部本物だったらなぁとぼやいているか、コーヒーを淹れているかどちらかだ。
30歳の時に親の遺産でこの喫茶店を始め、12年もこの感じで続いているのだからすごい。
「ちょっと、平野さん。早く運んで」
伸之が愛想悪く顎で指示を出してくる。
イラッとしてくるが、ここでは先輩だと心を落ち着けて「はーい」と可愛い声を出し、お皿を受け取った。
(まったく!意地悪なところはまるで変わってないじゃない)
心の中で頬を膨らませながら、ちらっと伸之を見た。
伸之は素知らぬ顔で、また次の調理に取り掛かっている。
その真剣な横顔は、花火を見ていた横顔よりも大人びた顔をしていた。




