彼の一歩
「美由紀、どうした?」
伸之が放課後の教室に戻ると、ポツンと美由紀がひとり座っている。
「あ」
美由紀の手から一枚の紙がひらりと落ちた。
「進路希望調査用紙…?」
美由紀は深くため息をついて頷いた。
そういえば、もうすぐ高3になるからとホームルームで配られた。
進路希望のところには何も書かれていない。
「大学進学じゃないの?」
伸之が尋ねると「まぁ」と美由紀は曖昧に返事をした。
美由紀は成績が抜群に良いわけではないが、大学には進学出来るレベルだ。
それに美由紀にはピアノがあるので。音大だって目指せる。
才能があって、本当に羨ましいと思うが、最近はピアノの話もしないし、そう簡単なものではないのかもしれない。
「なんか悩んでるのか?」
美由紀は、用紙を机に放り出すと、窓の外に目をやった。
夕暮れで空が全体にオレンジがかっている。
「これでいいのかなって思ってさ。親に言われた通り生きてきたけど、このまま将来の親の言う通りに生きていくのかなって思ったら、ちょっと将来が怖くなってさ」
「何かやりたいこととかあるの?」
「それも正直わからない。子供の頃はたくさんやりたいことがあって、本当に頭の中に溢れ出てたのに、いよいよ大人が近づいてきて、叶える道を選べるってなった途端に何も思い浮かばないの」
道に迷った子供のような顔で、こちらを見て美由紀はまたため息をついた。
「大学行って探すのもありなんじゃないか?」
「そうだよね。そうしようと思ってたんだけど…このまま親の言う通りにしてたら、やりたいこともわかんなくなって、自分の人生を自分で生きられなくなる気がして、ここに書くのが怖くなっちゃった」
不安げな顔をしている美由紀の頭をそっと撫でた。
「大丈夫。まだ時間はあるし、もう少し考えればいい」
「うん」
美由紀は顔を上げると、まっすぐに伸之を見た。
「ねぇ、伸之くんは自分の信じた道を進んでね」
◇◆◇
子供たちが「わー」とドリンクバーへ走っていく。
どの子も嬉しそうに注いでほしいジュースを親に頼んでいる。
美由紀は目の前の残り少ないアイスコーヒーをストローでかき混ぜた。
「あの日から俺は信じた道を進むって決めたんだ」
伸之は高校生の時のように屈託なく笑って、少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
「信じた道か…」
なんだかなんとなく人生を生きてる自分が恥ずかしい。
「本気でギター弾いて、曲作って…ずっと満足いく曲なんて作れなかったけど、やっと今の自分の中で最高の曲が作れて、美由紀に音楽で生きていくって言った」
「最高の曲って?」
「夢の音だよ」
美由紀の驚いて、心が揺さぶられる思いがした。
自分に向けた歌だったから、いつも自分の心に響いていたのだ。
そしてずっと伸之は“君の夢はなんですか”と美由紀に問いかけてくれていたのだ。
「・・・かっこつけすぎ」
「うるせーよ」
そう言って伸之が笑うと、つられて美由紀も笑ってしまった。
あの頃と同じ、高校生の時と同じように笑って、久しぶりに心から笑えた気がした。
◇◆◇
夏の日差しがきつい。
夕暮れでもこの頃は暑くて困る。
美由紀がマイクを準備していると、なんだか視線を感じて振り返ると、じーっと伸之がこちらを見ている。
「何?」
「なんでライブの準備を当たり前のように美由紀がしてるのかと思ってさ」
「友達の夢を応援してあげてるんでしょ?ありがたく思いなさい」
「なんか押し付けがましいよなぁ」
そうぼやきつつ、伸之がギターを軽くかき鳴らす。
「なんか足りないんだよな」
伸之が小さくつぶやいた。
「何が足りないの?」
「それはわからないけど、何かが足りないから俺は売れないんだろうな」
「いい歌だと私は思うけど…あとはどうやって見つけもらえるかじゃない?」
「美由紀だけが良い曲って思っても仕方ないだろ」
美由紀は、仕方ないと言われてムッとした。
「そんな暗い顔してるからじゃない?今日一緒に作った曲歌うんだから、もっと明るい顔しなよ」
伸之は美由紀に言い返されて、不満そうにしながらも演奏の準備を始めた。
今日は以前伸之が落としたノートに書かれていた曲を歌う予定だ。
美由紀も少しアレンジを手伝ったので、今日はお客さんがどんなリアクションをするのか美由紀自身も少し緊張していた。
いつもの時間になると、固定のお客さん達が演奏を聞きに集まって来る。
美由紀は少し離れた場所に立った。
なんだか間近で見るのが恥ずかしくて、遠慮してしまう。
特に一緒に作った曲を聞くのは、なんだかこそばいような気持ちになる。
「今日は新曲を作ったので、今日はそれをお披露目したいと思います」
お客さん達から拍手が湧く。
美由紀も曲のタイトルや歌詞は聞いていなかったので、ドキドキと胸が高鳴って来る。
「それでは聞いてください。clear」
clearと名付けられた曲はバラードで、失恋の曲だった。
ゲームをクリアするのクリアと透明のクリアをかけてある。
歌詞は大好きな彼女と出会い、そして未来のために別れていくストーリーが描かれている。
バラードで切ないメロディーだが未来を見つめて、最後は前向きな言葉で締めくくられていて、終わった後に胸が温かくような曲だ。
伸之の透明感のある声にぴったりという感じで、思わず聞き入ってしまった。
他のお客さんもそうだったのか少し間をおいて大きな拍手に包まれた。
その拍手につられてか今日はさらに5人が立ち止まって演奏を聞いてくれた。
大人数ではないが、確実に人数が増えている。
伸之の夢に向かって、小さな一歩が踏み出された気がした。
嬉しいことなのに、美由紀の心の中で小さな暗い靄がゆらゆらと揺れた。




