母の夢と選択
私は一体どうしたいのだろう。
伸之のように真っすぐに追いかけられる夢が今からでも見つけられるのだろうか。
答えは出ない。
でも親の為じゃなくて自分のために、将来のことを考えていきたい。
❝私の人生は、私だけのものだ。❞
美奈は日記の中の母の文字を指でなぞった。
紙が凸凹していて、濃く力強く書かれている。
「母さんも悩んだりしたんだ」
美奈は日記帳に書かれた母の決意の強さに少し驚いた。
母は結婚して専業主婦になったと言っていた。
主婦になるまでにやっていた仕事も、どこかの会社の事務だった。特別な仕事だったわけではなく、ありふれたよくある仕事だったと思う。
美奈は母はスタンダードな人間だと思っていた、母の時代は当たり前だった専業主婦に母は何の迷いもなくなったのだと。
そんな母を美奈は歳を重ね、自分が夢を追いかけたいと思うようにつれて、心のどこかで見下していた。
人に合わせて楽に人生を歩んできたのだろうと思っていた。
でも、本当は母なりに悩み、決意を持って生きていた。
それがどうして決意とは違った人生になってしまったのだろう。
途中で挫折でもしたのかもしれない。
美奈は、何より本当にこれが母の望んだ人生だったのかが気になった。
母は自分が夢を追いかけて上手くいかなかったから、夢を追いかけることを反対したのかもしれない。
もしそうなら、自分勝手な気もする。
その答えが知りたくて、もう一度日記を開いた。
日記をぱらっとめくると、写真が出てきた。
「お母さん・・?」
幼い女の子がピアノを弾いている。
可愛いワンピースを着ているのに、えらく真剣な顔で、鍵盤を見つめている。
「美奈、何見てるんだ?」
振り返ると、父が片付けの状況を見に来たようだ。
「その写真、母さんか」
父は近寄って隣にしゃがむと、写真を覗き込んだ。
「ピアノの発表会の写真かな?」
「コンクールとかじゃないか?母さんの子供の時の将来の夢は、ピアニストだったらしいからな」
「お母さんがピアノ弾いてるとこなんてほとんど見たことないけど」
「高校生までは頑張ってたらしいけどな。昔、酔っ払って話してくれたことがあるよ。ピアニストになりたかったのに親に反対されてピアノ捨てられたって」
「・・・そうなんだ」
親に反対されて夢をかなえることが出来なかった悔しさを知っているのに、どうして私の夢を応援してくれなかったんだろう。
ますます疑問に思う気持ちが強くなる。
「母さんは、どうして私の夢を応援してくれなかったんだろう?」
「ダンサーになるっていう夢のことか」
父の声は少し暗い声で呟いた。
「母さんは夢を持っていたんでしょう?自分は親に夢をつぶされて悔しかったわけじゃない。それなら、娘の私の夢を応援してもおかしくないなって思うんだけど」
父は幼い母の写真を眺めながら、にっこり微笑んだ。
「それはきっとお前が大事だからだな」
「大事だからって」
「母さんにも色々あったんだよ。この頃から父さんと結婚するまでにね」
日記に視線をやる父の顔は、少し切なげだった。
「普通の会社で事務員して、結婚して、母親になって・・・そんな人生にお母さんは満足していたのかな。・・・ピアニストの夢諦められたのかな」
「さぁ、それはわからないけど、美奈の成長を傍で見れて幸せそうだったよ」
父は母の写真を見ながら、昔のことを思い出したのかフッと笑った。
「それに夢というのは変わっていくものだと父さんは思うよ」
父はそう言うと、優しく微笑んだ。
「変わったりするのかな・・・」
美奈はダンサーの夢を一度はあきらめた。
海外に行く費用を自分一人でなんとか捻出しようとして、アルバイトを増やしたり、お弁当を作って節約したりして頑張っていたが、どうしてもお金が足りなかった。
何をするにも夢のために諦めなければならなかった。
大好きな服も、友人と遊ぶことも、我慢しているうちにだんだんと夢が重荷になっていき、挫折した。
それから何年も経つのに完全に諦められなくて、彼氏からプロポーズされてもちゃんと返事が出来ずにいる。
それくらい夢とは簡単に諦められないものだと美奈は思う。
だからこそ、母がどうして夢を諦め、そして娘にも夢を諦めるように言ったのかわからなかった。
「母さんの気持ちは母さんにしかわからないけど・・・あれだけ辛いことがあったからな」
それだけ言うと、父さんは立ち上がった。
美奈には、これ以上質問されたくない様に見えて、何も言わずにいると、そのまま父は「あまり思い出に浸りすぎると片付けが終わらないぞ」というと、部屋から出ていった。
「辛いこと・・・」
若い頃の母は今のところ悩みながらも人生を謳歌しているように見える。
ここから辛い出来事があるということなのだろうか。
「お母さん、どうして夢を諦めちゃったの?」
美奈は母の日記を再び開いた。
1992年8月5日―
伸之のライブは相変わらず10人程度のお客さんが見に来ている。
音楽は素晴らしいのに、どうも人が集まらない。
毎週聞いていてわかったことだが、演奏する曲もルーティン化していて、毎週来るとなると楽しみや新鮮味がない。
その来てくれているお客さんも基本は固定で、たまに足を止めて聞いてくれる人はいるが、そう多くはない。
もう少し曲のレパートリーがあればと思うが、音楽に携わったことがある者として簡単に作曲できないのもわかる。
(これじゃデビューは難しいよなぁ)
伸之にどう考えているか聞いたことはないが、音楽で生きていきたいのであればメジャーデビューを考えているのだろう。
でもこの程度ではきっとメジャーデビューは夢のまた夢だ。
このままではこの素晴らしい曲たちも日の目を見ないまま消えて行ってしまう。
それはもったいないし、絶対そうはさせたくない。
そんなことを考えながら、美由紀がライブを見ていると、伸之のバチっと目があった。
「では最後の曲、夢の音です」
また以前と同じように“夢の音”を演奏し始めた。
曲が終わると、「今日もありがとうございました」と伸之が頭を下げると、拍手が起こり、客たちは解散していく。
美由紀は立ち上がって、ノートをポケットから取り出した。
古びたノートを大事に手で持って、伸之のところへ向かった。




