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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第一章

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第007話 沈まない粉

 ハミルは列から目を離した。


「そろそろ帰りましょう。エミリオに荷を売られる前に」


「やっとか」


 アバドは立ち上がると、腰を伸ばした。


「それで、見て分かったのか」


「分からないことだけ増えました。荷台に積めないのが残念です」


「聞くんじゃなかった」


 二人が木箱の陰から出ると、天幕の入口でセラが職員へ指示を出していた。


「北門へ向かう人を二人。歩けない女性が一人残っているそうです。担架も持っていってください」


 倒れた男が話していた妻のことだろう。


 男性職員が二人、折り畳んだ担架を担いで走り出す。


 セラはそれを見送ってから、こちらに気づいた。


「もう帰られるんですか」


「荷がありますので」


 アバドが答えた。


「傷の包帯は、今夜もう一度替えてください。熱が上がるようなら、明日でも別の治療師に診せてください」


「分かりました」


「本人が分かった顔をしても信用しない方がいい」


「アバドさん」


「名前を教えた覚えはないんだが」


 セラがわずかに目を丸くする。


 すぐに、そばを通った職員が「あちらの箱を頼む、アバドさん」と声をかけた。


「なるほど」


「この町じゃ少し顔が広い」


 アバドは気まずそうに帽子のつばを直した。


 セラの口元がほんの少し緩む。


「では、アバドさん。今夜はこの方を休ませてください」


「任せてくれ」


「勝手に決めないでください」


「患者は都合の悪い話を聞かないそうだ」


 先ほど聞いたばかりの言葉を使い、アバドは歩き出した。


 ハミルもその後を追う。


 数歩進んだところで、背後からセラに呼び止められた。


「あの」


 振り返る。


「先ほどの方を支えていただいたこと、本当に助かりました」


「近くにいただけです」


「それでもです」


 ハミルは一度だけ頭を下げ、今度こそ天幕を離れた。


『随分と世話を焼かれたものだ』


『治療師だからだろ』


『貴様にしては同じことだ』


『どういう意味だ』


 イルは答えなかった。


 荷車へ戻ると、エミリオは荷台ではなく地面へ座り込んでいた。


 背を車輪へ預け、膝の上で銅貨を弾いている。


「遅い」


「立派な見張り番だな。荷物は逃げなかったか」


「全部ある。三回数えた」


「三回も? 俺たちよりよく働いたな」


「暇だったんだよ」


 エミリオは立ち上がり、ハミルの外套の裾を摘まんだ。


「包帯、替わってる」


「診てもらったよ」


「腕は?」


「昨日よりは動くよ」


 エミリオの目が、そのまま左腕へ移った。


「そっちは?」


「よく見てるな」


「ずっと袖に隠してる」


 十五歳にしてはよく見ている。感心している場合ではなかった。


「左手だけ、まだ冬らしい」


「今日は暖かいけど」


「季節に疎い手なんだ」


「お前、その言い方で治療師にも誤魔化したのか」


 アバドが深く息を吸った。


 親子で同時に問い詰められる前に、ハミルは荷台へ上がろうとした。


 縁へかけた右手に力が入らない。


 左手で身体を引き上げようとすると、小指と薬指が木板の感触を拾わず、掌が滑った。


 身体が後ろへ傾く。


 背中へ回ったエミリオの手が、外套ごとハミルを押し上げる。同時に、後ろからアバドにも腰を支えられた。


 二人に支えられるまま荷台へ膝をつき、奥へ進んで腰を下ろす。


 怪我人というより、大きな荷物のように積み込まれた。


「ほら」


 エミリオが得意げに言う。


「やっぱり左も悪い」


「今日は荷台の方が背伸びしてる」


「毎月乗ってるだろ。じゃあ、もう一回一人で乗ってみろよ」


 ハミルは、すでに座っている自分と荷台の外を見比べた。


「そのために一度降りるのは、さすがに面倒だな」


『無様だな』


『半分は誰のせいだ』


『残り半分は貴様のせいだ』


 言い返す隙がなかった。


「今日は町の家へ戻る」


 御者台へ座ったアバドが言った。


「森へ帰るんじゃないんですか」


「昼を過ぎてから往復する気か。お前はうちで休め」


「小屋の畑が、俺の帰りを待っているんですが」


「一日で逃げない」


「鶏が俺を恋しがってるんです」


「飼ってないだろ」


「では、罠が――」


「昨日から見てないんだから、今さら一晩増えても同じだ」


 冗談ごと、逃げ道を一つずつ塞がれる。ハミルは肩をすくめた。


 エミリオが荷台へ乗り込み、白い花を挟んだ紙の無事を確かめた。


「諦めろ。父さん、今日はずっとこんな感じだ」


「誰のせいでこうなったと思ってる」


 アバドが同じ言葉を繰り返し、馬を歩かせた。


 町の中へ進むにつれて、南門のざわめきが遠ざかる。


 石畳の両側に、低い屋根の店が並んでいた。野菜を積んだ籠。軒から吊るされた干し肉。桶の中で光る川魚。


 ハミルは頭巾の奥から、それらを眺めた。


 昼間の町は、覚えていたものより狭く、騒がしかった。


 十年前に通った町ではない。


 それでも、人が行き交う音はよく似ている。


 呼び込みの声と、値をまけろと笑う声。走る子どもを叱る声。


 失われていないものまで、失ったつもりでいたらしい。


 通りの角で、エミリオが荷台から身を乗り出した。


「父さん、ちょっと止めて。頼まれてた塩、ここで受け取る」


 アバドが馬を止める。


 軒先に塩袋を積んだ女主人が、エミリオを見るなり手を振った。


「遅いよ。昼前って言っただろ」


「南門が混んでたんだよ」


「また避難の人が増えたって?」


「うん」


 女主人は顔を曇らせたが、すぐに店の奥から小さな紙包みを持ってきた。


「じゃあ、これも持っていきな。昨日から腰が痛くてね。救済院でもらったらよく効いたから、アバドにも一つと思って」


 包みを受け取ろうとしたエミリオの手が止まる。


 ハミルも、頭巾の奥で目を細めた。


 女主人は何も知らず、ただ親切で差し出している。


「ありがたいが、今はいい」


 アバドが先に断った。


「何だい。歳を認めたくないのかい」


「そういうことにしてくれ」


「頑固だねえ」


 女主人は笑って、自分の前掛けのポケットへ薬を戻した。


 その胸元に、弧は見えなかった。


『見えぬな』


『ああ』


 薬を飲んでいる。それでも、何もない。


 南門の広場でも同じだった。薬だけで決まるわけではない――少なくとも、それだけは確からしい。


 少し安心していい事実のはずなのに、ハミルの視線は女主人の前掛けへ戻った。


 あの包みが、倒れた男のものと同じなのか。それすら外からでは分からない。


 荷車が動き出す。


 向かいの薬種店では、店主が「疲れに効くよ」と紙包みを客へ渡していた。受け取った老人は礼を言い、隣の菓子屋では子どもが焼き菓子をねだっている。


 ごく普通の町の景色の中を、今まで気にも留めなかった紙包みだけが妙に目についた。


『頭巾を取る気になったか』


『まさか』


『では、見つめすぎるな。田舎者に見えるぞ』


『田舎に住んでる』


『貴様は昔からそういうところがある』


『どこだ』


 答えを待つ間に、荷車は細い路地へ曲がった。


 アバドの家は、通りに面した倉庫の奥にあった。


 木箱と麻袋が積まれた土間を抜けると、小さな居間がある。壁際には三脚の椅子しかなく、エミリオが棚から折り畳みの腰掛けを引っ張り出した。


 商いの品に場所を譲った、飾り気のない家だった。それでも、柱にはエミリオの背丈を測ったらしい古い傷が幾本も残り、棚の端には二人分の欠けた椀が重ねてある。親子が長く暮らした時間が、狭い部屋のあちこちへ染み込んでいた。


 初めて入る他人の家なのに、ハミルはどこか落ち着かない懐かしさを覚えた。こういう場所へ迎え入れられることを、もう自分には縁のないものだと思っていたらしい。


「客なんて来ないから、埃は我慢して」


「商人の家とは思えない言葉だな」


「客は店の方に来るんだよ」


 ハミルは窓から一番遠い椅子へ座った。


 アバドが水差しと浅い皿を卓上へ置く。


「それで」


 腰の革袋を指した。


「見たいものは、それだろ」


「ここで開けても?」


「そのために連れてきた。外から見えないし、勝手口には鍵をかけた」


 ハミルは小袋を外し、紙包みを取り出した。


 紙の折り目へ左の親指を差し込む。


 うまく開けない。


 右手を添えても紙を摘まむ力が足りず、端だけが小さく潰れた。


 エミリオが向かいから覗き込み、片手を差し出した。


「昨日の薬?」


「ああ。開けてくれるか」


「自分で開けないのか」


「今の手だと、薬より先に床を調べることになりそうだ」


 エミリオが吹き出す。


「最初からそう言えばいいのに」


 ハミルは紙包みを渡した。


「こぼさないようにだけ頼むよ」


「はいはい」


 口では文句を言いながら、エミリオは粉をこぼさないよう丁寧に折り目を開いた。


 青灰色の粉が、皿の中央へ落ちる。


 右腕の紋様が、すぐに熱を持った。


 同時に、左手の鈍い指先が冷える。


 ハミルは両手を卓の下へ下ろした。


「どうした」


 アバドが聞く。


「少し反応しただけですよ」


「何が」


「傷が」


「薬に?」


 ハミルは答えず、皿へ目を凝らした。


 乾いたままでは、昨日と同じ粉にしか見えない。


 細かく砕かれた薬草と、鈍い灰色の細粒。よほど意識して探さなければ、その中に別のものが数粒混じっていても気づけそうになかった。


『水を一滴だけ落とせ』


 イルが言った。


 ハミルは水差しへ手を伸ばしかけ、止めた。


「エミリオ。水を一滴だけ、頼めるか」


「自分でやらないのか」


「一滴にする自信がないんだよ」


「それ、腕が悪いって認めてるよな」


「そういうことにしておいてくれ」


 エミリオは納得していない顔のまま、棚から小さな木匙を取った。


 匙の先へ水をつけ、皿の上へ雫を一つ落とす。


「助かるよ」


 青灰色の粉が濃くなった。


 薬草の粉は水を吸い、ゆっくり形を崩していく。


 その中で、ごく小さな灰色の粒だけが水を弾いた。


 一粒。


 二粒。


 濡れた粉の間から、針先ほどの二粒がゆっくり水の表面へ浮き上がる。見た目は周囲の灰色の細粒とほとんど変わらない。水に入れなければ、混じっていることさえ分からなかっただろう。


「石か?」


 アバドが顔を近づける。


「滋養石って言ってたやつじゃない?」


 エミリオが答えた。


 見た目だけなら、その説明で終わる。


 だがハミルには、粒の周りへ煤のような黒ずみが滲むのが見えた。


 一粒ずつを縁取る黒ずみは、髪よりも細い。


 隣り合う粒の間で寄っては離れ、皿の上を這うように震えている。


 石の粉には見えなかった。


 弱く、眠っている。それでも、何かの鼓動を探しているようだった。


『薬草ではない』


 イルの声から、いつもの軽さが消える。


『分かってる』


『石でもない』


『じゃあ、何だ』


 返事はなかった。


 ハミルは皿から目を離さないまま待った。


『……知らぬ』


 短い答えだった。


 思わず、息を止める。


 魔物の核も、穢れも、精霊の変質も知っているイルが、知らない。


『お前でも?』


『我が知らぬものなど、いくらでもある』


『そういう謙虚さ、今はいらないんだけどな』


『事実だ。少なくとも、我が魔王であった頃に見たものではない』


 水が揺れるたび、黒いものもわずかに寄っては離れる。


 何かに似ている気はする。


 けれど、何に似ているのかさえ掴めなかった。


「何が見えてる」


 アバドが尋ねた。


 ハミルは、皿から目を離さないまま答える。


「薬の中に、混ざっているものがあります」


「身体に悪いものか」


「まだ、何とも言えません」


 アバドは眉を寄せたが、今度はその言葉へ文句を言わなかった。


「俺たちにも見える?」


 エミリオが聞く。


「浮いてる灰色の粒は見えるだろ」


「それ以外は?」


 ハミルは少し迷ってから、エミリオの目と皿を見比べた。


「……少なくとも、今のお前には見えてないみたいだな」


「じゃあ、何があるんだよ」


「それが分からないんだ」


 エミリオが皿を覗き込もうと身を乗り出す。


 ハミルは反射的に左手を出しかけ、途中で止めた。


「待った。近づくのはいいけど、直接触るのはやめておこう」


「……触らないよ。見ようとしただけ」


「悪い。正体が分からないから、念のためな」


 さっきまで町で普通に配られていた薬だ。


 危険だと決まったわけではない。ただ、イルにも分からないものへ、わざわざ素手で触れる理由もなかった。


 アバドが皿を見下ろした。


「それ、まだ調べるんだろ」


「ええ。できれば残しておきたいです」


「なら棚の奥へ置いておけ。飯の皿と間違えて洗われたら面倒だ」


「誰が間違えるんだよ。三人しかいないのに」


「お前だ」


「何で俺なんだよ」


 エミリオが不満そうに皿を持ち上げる。


「端を持ってくれよ」


「分かってるって」


 水を加えた粉がこぼれないよう、棚の一番奥へ置いた。


 最後まで、灰色の粒を縁取る黒ずみは消えなかった。


 細く震えながら、粒の周りへまとわりついている。


 イルにも分からないものが、薬の中に混じっている。


 手掛かりを一つ拾ったはずなのに、ハミルにはむしろ、知らない場所へ一歩踏み込んだように思えた。

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