第006話 黒い輪
黒い輪が、ハミルの存在を知った。
そう感じた次の瞬間、左の掌へ細い冷気が刺さった。
『手を離せ』
イルの声が低くなる。
だが、腕の中には初老の男の重みがある。
軽い。
受け止めたときに感じたその軽さが、今は妙に生々しかった。男はハミルの腕へほとんど全身を預け、荒い呼吸の合間にも「ミラ」と妻の名を繰り返している。
『今離したら頭を打つ』
『だから早く下ろせ』
『分かってるよ』
ハミルは片膝をついた。
「ゆっくり下ろしますよ。力、抜いてください」
「妻が……俺が、行かないと……」
「そのためにも、まず倒れないようにしましょう」
返事はない。
男の背を左腕で支え、石畳へぶつけないようゆっくり地面へ下ろす。
「こちらへ寝かせてください」
若い治療師がすぐそばへ膝をついた。
男性職員が男の脚を持ち、二人で身体を仰向けにする。
ハミルは左手を胸元へ添えたまま、支える位置をずらした。
外から見れば、急に手を離して再び倒さないようにしているだけに見える。
実際には、掌へ絡んだ黒い線が離れなかった。
『まだ引かれているぞ』
『……ああ。思ったよりしつこいな』
『感想を言っている場合か』
指を浮かせようとする。
皮膚には触れていないはずなのに、骨の内側へ糸を結ばれたように動かなかった。
「もう大丈夫です。手を離して」
治療師が言った。
「すみません、もう少しだけ」
「……何か?」
「急に離すと、また身体が傾きそうなので」
嘘ではない。
男の全身から力が抜けている。
治療師は一瞬だけハミルの手元を見たが、それ以上は追及しなかった。
「分かりました。では、そのまま頭を支えてください」
ハミルはうなずいた。
男性職員が新しい布を水へ浸す。
「セラさん、熱が上がっています」
「ええ。首と脇も冷やしてください。残りの薬は使いません」
セラと呼ばれた治療師は、男の脈を取りながら眉を寄せた。
薬を飲ませた直後に、明らかに状態が悪くなった。
偶然かもしれない。それでも、治療師なら見過ごせる順序ではないのだろう。
「少し確認します。今日、この薬はほかにも飲みましたか」
男の目はまだ焦点が合わない。
「……朝、飲んだ」
「一包ですか?」
「一包……それと、昼前にも……たぶん、一包」
セラの表情がわずかに強張った。
「二包、すでに飲んでいたんですね」
返事はない。
セラは先ほど男へ飲ませた椀を見た。そこへさらに半量を重ねている。
「……量が多かった可能性がありますね」
誰に言うでもなく呟き、すぐに男性職員へ顔を向ける。
「この方には、今日はもう使いません。服用した場所と時間は、落ち着いてから改めて確認します」
「分かりました」
過剰摂取なら説明はつく。
だが、ハミルには別のものが見えていた。
薬が喉を通った直後、黒い輪が脈打った。
その順番だけは、見間違えていない。
『薬か?』
『分からぬ』
『……だよな』
男の喉が浅い音を立てる。
「ミラ……」
黒い輪の内側に、淡い濁りが生まれた。
煤を水へ落としたような濁りが、少しずつ広がっていく。
ハミルの目が見開かれた。
『……待て』
イルの声も、先ほどまでとは違っていた。
『これ……』
濁りから伝わってくるものがある。
焦り。
後悔。
自分だけが逃げたのではないかという恐れ。
それは、ハミルが何度も精霊の核で見てきたものとよく似ていた。
穢れ。
ただし、まったく同じではない。
精霊の核なら、穢れは核そのものへ染み込んでいく。目の前の黒い輪には中心がなく、空いた内側へ濁りが溜まり始めている。
『……穢れ、だよな』
『似ている』
『似てる、か』
断言しないイルの声が、かえって不気味だった。
核に似た気配だけではない。負の感情に呼応して、穢れまで蓄えている。
『……なら、試すしかないか』
『何をする気だ』
精霊の核なら、穢れを引けば一時的には落ち着く。
もちろん、目の前のものは核ではないかもしれない。何より人間の胸にある。壊すなど論外だ。
今、増え始めた濁りだけをほんの少し引いてみる。
『貴様の「少し」は信用ならん』
『奇遇だな。俺も信用してない』
『なら、やめろ』
『でも、これが本当に穢れなら、少し引くだけでも変わるかもしれない』
『変わらなければ?』
『すぐやめる』
『……必ずだ』
『分かってるよ』
男の呼吸がさらに浅くなる。
肩が小刻みに上下し、胸の奥で空気が引っかかるような音がする。
セラが肩へ触れた。
「聞こえますか。ゆっくり息をしてください。私を見て」
男の目は動かない。
「妻が……村に。俺が、置いて……」
「大丈夫です。迎えを出します。場所を教えてもらえますか」
「北門の、手前……脚を、痛めて……俺が、置いて……」
答えてはいる。けれど、セラの顔を見てはいない。
何度声をかけられても、同じ言葉へ戻ってしまう。
黒い濁りがさらに濃くなる。
その奥で、男の記憶が一瞬だけ開いた。
雨に濡れた細い道。
倒れた荷車。
脚を押さえる女。
戻ろうとする男の肩を、女が強く押した。
――先に行って。
――必ず人を連れてきて。
その声へ、別の言葉が重なる。
――置いていった。
――助けられなかった。
事実と恐れが混ざり、黒い輪の内側へ沈んでいく。
置いていったのではない。
託された。
ハミルはその違いだけを拾った。
『引くぞ』
『一度だけだ』
掌へ絡む線を辿り、黒い濁りのほんの一部へ触れる。
引ける。
その感触にも、ハミルは息を呑んだ。
精霊の核から穢れを引き受けるときと、よく似ている。
けれど、完全に同じではない。手応えが浅く、どこか不安定だった。
すべてではない。
男の心臓を締めつけようとしている分だけ、細く引く。
左手の指先が急に冷たくなった。
『寄越せ』
イルが言う。
『まだ大丈夫だ』
『貴様が大丈夫かどうかなど聞いていない。寄越せ』
『……はいはい』
引き抜いた濁りの一部が、胸の奥へ引かれた。
イルがほんの一部を引き受ける。
残りを左の掌へ押し戻し、ハミルは指を握った。
皮膚の下を冷気が走り、肘の手前で止まる。
男の胸に残った濁りも、完全には消えていない。
ただ、黒い輪が締まる動きは弱くなった。
その瞬間だった。
男の肩から、ふっと力が抜けた。
喉の奥で引っかかっていた息が、長く吐き出される。
「……ミラ」
今度の声は、先ほどまでのうわ言とは違った。
焦点の定まらなかった目がゆっくり動く。
何度呼ばれても宙を見ていた男が、初めてセラの顔を捉えた。
「聞こえますか?」
セラの問いに、男が小さく頷く。
「……はい」
セラの表情が変わった。
すぐに男の手首へ指を当てる。
「……脈が落ちています」
もう一度数え、今度は胸の上下を見る。
「呼吸も。さっきまでとは違う……」
男は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた。
強張っていた指も、いつの間にか開いている。
ハミルは左手から力を抜いた。
今度は黒い線が追ってこなかった。
掌を男の胸から離す。
――効いた。
安堵するより先に、背筋が冷えた。
核ではないはずのものから穢れを引いて、症状が変わった。
そんなものが、なぜ人間の中にある。
『イル』
『分かっている。今は考えるな』
『……無茶言うなよ』
「……良かったですね」
何でもないことのように言ったつもりだった。
けれど、セラは返事をしなかった。
男の顔を見ていた視線が、一度だけハミルの左手へ落ちる。
それからまた患者へ戻った。
「代わります」
男性職員が男の頭側へ回る。
「お願いします」
ハミルは支えていた背を渡し、静かに立ち上がった。
両脚に力は入る。
左手の感覚は鈍いが、外から分かるほどではない。
「そちらの天幕へ運びます。担架を」
セラの指示で、担架が用意された。
「妻を……」
運ばれる直前、男がセラの袖を掴んだ。
「北門の手前ですね。必ず確認します。あなたはここで休んでください」
男はしばらく袖を握っていたが、やがて小さく頷いた。
さっきまで何度呼びかけても届かなかった言葉が、今は届いている。
男を持ち上げる間、ハミルは一歩ずつ後ろへ下がった。
周囲の視線は患者と担架へ向いている。
頭巾の男が一人離れたことを気に留める者はいなかった。
『随分うまく隠したつもりらしいな』
『……あれは、ちょっと分かりやすかったかもな』
『今さら気づいたか』
『でも、放ってはおけなかっただろ』
『そういうところを言っている』
アバドがハミルの左腕を掴んだ。
反射的に振りほどきそうになる。
「何をした」
「え? 支えただけですよ」
「その割には顔色が悪い」
「元からこんなものですよ」
「頭巾で見えないと思って適当なことを言うな」
アバドの声も低い。
周囲へ聞かせるつもりはないらしい。
「ほら、左手を見せろ」
「あとでいいでしょう」
「右手のときもそう言ったな」
「倒れた人を運ぶ方が先ですよ」
「お前はもう運んでないだろ」
担架はすでに天幕へ入っている。
「……よく見てますね」
「お前が見てなさすぎるんだ」
言い返せずにいると、その入口からセラが出てきた。
ハミルとアバドの前で足を止める。
「先ほどは、ありがとうございました」
「いえ。手の届くところにいただけです」
「それでも、倒れるところを支えていただきましたから」
セラは一度ハミルの顔を見て、それから左手へ視線を落とした。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「先ほど、あの方を支えていたとき。何かしましたか?」
問い方は静かだった。
責めているわけではない。ただ、自分の目で見た変化を確かめようとしている。
「倒れないように支えただけですよ」
「そう、ですか」
セラはすぐには目を逸らさなかった。
「何度呼びかけても、ほとんどこちらを見なかったんです。それが、あなたが手を添えている途中で急に呼吸が落ち着いて、私の声にも反応した」
「身体を横にしたからじゃないですか?」
「そうかもしれません。薬の作用が落ち着いたのかもしれないし、ただ発作が治まっただけかもしれません」
そこで一度言葉を切る。
「でも、あなたの左手も急に冷たくなっている」
セラが手を差し出した。
「見せてもらえますか」
「背中の診察は終わったはずですけど」
「腕の痺れも診察の途中でした」
「あー……そうでしたね」
逃げ道を塞がれた。
ハミルは仕方なく、左手を差し出した。
セラが手首へ触れる。
指先を押し、皮膚の色と温度を確かめた。
「やっぱり冷たいですね」
「しばらく日陰にいたせいでしょう」
「右手よりも?」
「……よく見てますね」
「治療師ですから」
答えずにいると、セラは指を一本ずつ曲げた。
左手は動く。
ただ、小指と薬指の感覚が鈍い。
「痛みは?」
「ないです」
「感覚はありますか」
「まあ、一応」
完全な嘘ではない。
薄くは残っている。
セラは何かを考えるようにハミルを見たが、それ以上は聞かなかった。
セラは一瞬だけ何かを言いたそうにした。
けれど、結局それ以上は尋ねず、「お大事になさってください」と天幕へ戻っていく。
『見られたな』
『……まあ、あれだけ変わればな』
『だから離れろと言った』
『あのまま苦しませるよりはいいだろ』
『貴様はいつもそれだ』
返す言葉がなく、ハミルは左手を握った。
「で?」
アバドが言った。
「左手はどうなった」
「……少し痺れてるだけですよ」
「やっぱり何かしたんじゃないか」
「声、大きいですよ」
「誰のせいだと思ってる」
アバドは一度天幕を見てから、さらに声を落とした。
「もう帰るぞ」
「うーん……あと少しだけ、付き合ってもらえません?」
「そう言うと思った」
「薬を飲んだ人を、もう少し見たいんです」
「どうやって」
広場では、配給が続いている。
倒れた男のことを知った者たちが不安そうに話しているが、救済院側は服用回数を守るよう念を押しながら紙包みを渡していた。
今すぐ止められるだけの根拠はない。
むしろ、ここで根拠もなく止めろと騒げば、熱や痛みに苦しむ者から必要な薬まで奪いかねない。
ハミルにも、止めるつもりはなかった。
「ここから見るだけです。今度こそ」
「何を見る」
「それが分かれば、もう少し格好がつくんですけどね」
アバドが深く息を吐く。
「お前と話してると、曖昧な言葉が嫌いになりそうだ」
「すみません。俺も今、ちょっと嫌いになってきました」
二人は天幕の脇へ移った。
積まれた木箱の影なら、広場から目立ちにくい。
荷車の方を見ると、エミリオが荷台へ座り、退屈そうに脚を揺らしている。
こちらへ来る様子はない。
今度は父の言いつけを守っている。
昨日の沢へ迷わず飛び込んだ少年が、今日は来たい気持ちを抑えている。その違いがハミルには嬉しかった。こちらを気にして何度も顔を上げていることには、気づかないふりをしておく。
その向こうでは、さっき広場の端で見たパン屋の女主人が、避難してきた子どもへ小さなパンを一つ余分に渡していた。
子どもは笑って受け取り、その母親は何度も頭を下げる。
薬だけが、この場所にあるわけではない。
食事も、毛布も、手当ても、人の善意もある。
だからこそ、一つの違和感だけで全部を疑うわけにはいかなかった。
ハミルは配給の列へ目を向けた。
最初は、倒れた男にだけ意識を向けていた。
だから気づかなかった。
列へ並ぶ年老いた女性が、胸元を押さえている。
苦しそうではない。
隣にいる者へ、昨夜は昔の夢を見たと話している。
その心臓の脇に、黒い細線があった。
輪にはなっていない。
半月にも満たない、短い弧。
ハミルは視線だけを動かす。
女性の後ろにいる若い男には、何もない。
そのさらに後ろ。
子どもを抱いた母親の胸に、細い弧がある。
完全な輪ではない。
目を凝らさなければ、細い血管と見分けがつかないほど薄い。
『ハミル』
『……ああ、見えてる』
一人。
また一人。
薬を飲んだ全員ではない。
何もない者もいる。
それでも、倒れた男だけではなかった。
「何が見える?」
アバドが尋ねる。
声は小さい。
ハミルが何かを見ていることには気づいても、その先を無理に聞き出そうとはしなかった。
「まだ、うまく言えません」
「危ないものか」
「……それも分からないです」
アバドは眉間を押さえた。
「分からないものだらけだな」
「はい。困ったことに」
そのとき、配給台で紙包みを受け取った女性が、その場で水と一緒に薬を飲んだ。
女性の心臓の脇には、何もなかった。
薬が喉を通る。
ハミルは無意識に息を止めた。
しばらく待っても、黒い弧は現れない。
『出ないな』
『ああ』
『薬だけが条件ではないか』
『……かもしれない。でも、一包で出るとは限らない』
分かったのは、粉薬を飲めばその場で必ず弧ができるわけではない、ということだけだった。
別の男が紙包みを受け取る。
その胸には、すでに短い弧がある。
ハミルは腰の革袋へ触れた。
中には、まだ開いていない粉薬が一包ある。
確かめる方法はある。
だが、ここではできない。
広場の中央では、救済院の者が次の紙包みを差し出している。
人々の胸に浮かぶ未完成の弧は、どれもまだ空だった。
薬だけではないのか。
それとも、まだ足りないだけなのか。
何が、この弧を輪にする。
答えは、まだどこにも見えなかった。




