第005話 南門の天幕
翌朝、ハミルは自分の小屋から追い出された。
「戸締まりはしたか」
「しましたよ。火も消しましたし、薬も持ちました」
先回りして答えると、御者台のアバドが片眉を上げた。
「なら荷台へ乗れ」
「……そこまで一息で潰されるとは思いませんでした。歩けますよ」
「乗れ」
「あー、はいはい」
アバドは道端を指すような気軽さで荷台を示した。
その隣では、エミリオが笑いを噛み殺している。
「大人しく乗った方がいいぞ。父さん、今日は絶対折れないから」
「お前も乗れ。昨日の罰がまだ終わってない」
「え、俺も?」
「荷物の見張りだ」
「それ、罰じゃなくていつもの仕事じゃん」
朝から変わらない親子のやり取りを聞きながら、ハミルは右手を握った。
五本の指は、時間をかければ掌へ届くようになっていた。だが力は入らない。水桶を持ち上げようとすれば、おそらく指が先に開くだろう。
背中の腫れも引ききってはいない。
『怪我人らしく従っておけ』
イルまでアバド側についた。
『お前、いつからあの人の味方になったんだよ』
『少なくとも、今朝の貴様よりは話が通じる』
『ひどいな』
反論できないのが余計に腹立たしかった。
外套の頭巾を深くかぶり、仕方なく荷台へ上がる。食卓に置いていた救済院の薬の紙包みは、革の小袋へ入れ、腰の帯へ結んである。
荷台の隅には、二枚のきれいな紙に挟まれた白い花があった。上には小さな木箱が重しとして置かれている。
「ずいぶん丁寧だな」
ハミルが言うと、後から乗り込んだエミリオが花を覗き込んだ。
「乾かし方、これでいいんだろ」
「ああ。日に当てるなよ、色が抜けるから」
「分かってる」
「昨日は俺に聞くって言ってなかったか?」
「今聞いた」
「なるほど。賢いな」
「絶対そう思ってないだろ」
御者台から、アバドの呆れた声が飛んでくる。
「その調子で仕事も覚えてくれ」
馬が歩き出した。
荷車は軋みながら坂を下り、朝の森を抜けていく。
沢の近くを通ったとき、木々の奥から細い水音が聞こえた。姿は見えない。けれど、エミリオは白い花の上へ置いた木箱を一度確かめた。
それからは振り返らなかった。
森を出ると、道はなだらかな丘を下り始める。
昨夜の雨を残した畑の向こうに、麓の町を囲む低い石壁が見えた。
昼間の町へ向かうのは、戻ってきてから初めてだった。
必要な塩や油は、アバドから買っていた。どうしても足りないものがあれば、人通りが消えた夜を選び、壁外の商店が夜間の受け渡しに使う物置へ、注文を書いた紙と代金を置き、次の夜に用意された品を取りに行っていた。
人の目を避ける暮らしは、窮屈ではあったが難しくはない。
今日は、自分からその目の中へ入ろうとしている。
『今なら戻れるぞ』
イルが言った。
『戻れって言ってるのか?』
『確認しただけだ』
『じゃあ、確認だけ受け取っておくよ』
ハミルは外套の下で右腕を曲げた。
腰の小袋からは、何の気配も感じない。紙と革を隔てただけで、昨夜のように紋様が反応することはなかった。
すでに何人かが飲んだ。
アバドはそう言った。
その事実を思い出せば、戻るという選択肢はなかった。
町へ近づくにつれ、道を行く人の数が増えていった。
荷車とすれ違った農夫がアバドへ手を挙げる。籠を抱えた女がエミリオを見つけ、「昨日は大変だったらしいね」と声をかけた。エミリオが曖昧に笑って手を振り返す。
顔見知りがいる。仕事があり、朝の挨拶がある。
森の小屋から眺めていた町にも、当たり前に暮らしが続いている。
けれど、石壁が近づくほど、その当たり前から外れた人々が目につき始めた。
町へ入ろうとする者より、壁の外で足を止めている者の方が多い。
荷袋を抱えた老人。泥の乾いた外套を着た親子。手綱だけを握り、馬を失ったらしい男。皆、北の街道から来たのだろう。疲れきった顔で、南門の脇へ続く列に並んでいる。
列の先には、大きな白い天幕が三つ張られていた。
入口で揺れる旗に、四枚の葉が輪になる印がある。
荷を抱えたまま座り込む人々の姿に、十年前の街道が重なった。あのころは魔王軍から逃げる者で、どの町の門も同じように塞がれていた。もう見ずに済むと思っていた光景だった。
胸の内に浮かんだ苦さを、ハミルは飲み込んだ。今ここで過去を数えても、列に並ぶ人の足は軽くならない。
「昨日より増えてるな」
アバドが呟いた。
「……これ、全員北から?」
さっきまで花を気にしていたエミリオの声が低くなる。
「おそらくな」
荷車が門前へ着くと、アバドは商人用の脇道へ馬を寄せた。顔見知りらしい門番が手を挙げる。
「早かったな、アバド。森にしばらく滞在すると言ってなかったか」
「少し予定が変わった。荷はこのまま入れていいか」
「構わんが、北門側へは行くなよ。また人が運び込まれた」
「魔物か」
「見回りの連中はそう言ってる」
門番の目が荷台へ移った。
ハミルは頭巾の縁をさらに下げる。
「そっちは?」
「森の猟師だ。昨日、怪我をしてな。救済院で見てもらいに来た」
「悪いが、顔を見せてもらえるか」
アバドの手が手綱の上で止まった。
エミリオが何か言おうとするより先に、門番の後ろから咳き込む声がした。
列にいた幼い子どもが、母親の腕の中で苦しそうに身を折っている。
「おい、水を!」
門番がそちらへ駆けた。
天幕から白い上着の者たちが出てくる。荷車への注意は途切れた。
「今だ」
アバドが馬を進めようとする。
「……あ、ちょっと待ってください」
ハミルは荷台から降りた。
着地した衝撃が背へ響く。右腕を庇いながら、人垣の隙間へ近づいた。
「おい、ハミル」
「見るだけです」
「その言葉、もう信用してないぞ」
子どもの前には、救済院の治療師が膝をついている。
灰褐色の髪を一本の三つ編みにした若い女性だった。目の下には疲れが滲んでいるが、声は落ち着いている。
「大丈夫。ゆっくり息をして。昨日、何か食べられましたか」
「粥を少しだけ。この子、夜から熱が出て……」
母親が震える声で答える。
治療師は子どもの額と首へ触れ、瞼を持ち上げた。
「水と、冷やす布を。薬は……いえ、今はあとにしましょう」
周囲の者へ手早く指示を出す。
疲れを隠す余裕はなくても、手順には迷いがなかった。熱に浮かされた子どもではなく、怯える母親に聞こえる速さで話している。ハミルはその声を覚えた。少なくとも、目の前の一人を見て判断する治療師らしい。
子どもが運ばれていくと、門番はようやくこちらへ戻ってきた。
「悪い。顔だったな」
「化膿した傷を見せに来たんだ。熱を持ってる。こんなところで頭巾を取らせて、ほかの連中にうつしたらどうする」
アバドが先ほどより大きな声で言った。
門番は露骨に一歩下がった。
「それを先に言え。さっさと治療師に見せろ」
今度こそ通行を許される。
ハミルは荷台へ戻りながら、アバドを見た。
「化膿はしてませんよ」
「知ってる。だが、正直に言ってお前の頭巾を剥がされるよりいい」
「病人扱いがうまくなりましたね」
「誰のせいだと思ってる」
エミリオが荷台の奥で肩を震わせる。
「笑うな。次はお前を吐いてることにするぞ」
「それはやめろよ!」
門をくぐってすぐの広場は、人と荷物で埋まっていた。
町の住人より、北から逃れてきた者の方が目立つ。軒下にも壁際にも、敷物と荷袋が寄せられていた。宿へ入る金がない者は、ここで夜を越したらしい。
それでも、広場の端では町の日常も続いていた。
パン屋の女主人が売れ残りを救済院へ運び、向かいの店先では老人が「今日は水桶を二つ」といつもの注文をしている。走ってきた子どもが母親に捕まり、耳を引かれながら市場の方へ連れ戻されていった。
避難してきた者と、ここで暮らしている者。その境目を縫うように、四国救済院の者たちは絶えず行き来していた。
湯気の立つ椀を配る者。泥だらけの足へ布を巻く者。泣く子どもへ乾いた毛布を渡す者。
自分の黒い髪を見られまいと身を縮めているあいだにも、彼らは知らない相手のために手を動かしている。そのことへ、ハミルはわずかな後ろめたさを覚えた。同時に、疑っている薬が彼らの善意を借りて広がっているのだとすれば、なおさら見過ごせなかった。
少なくとも、目の前で働いている彼らに偽りは見えなかった。
疲れた者を休ませ、腹を空かせた者へ食べ物を渡している。
だからこそ、腰の小袋が重く感じられた。
「荷車はここへ置く。救済院へ行くなら俺も一緒だ」
アバドが手綱を柱へ結びながら言う。
「荷はいいんですか」
「エミリオがいる」
「え、俺も行くよ」
「駄目だ」
「何でだよ。昨日のことなら――」
「昨日、荷から目を離して何が起きた」
エミリオの口が閉じる。
「……それを言われると弱い」
アバドは息子の肩へ手を置いた。
「今度は頼む。何かあれば大声を出せ。勝手に追うな」
「分かったよ。今度はちゃんと待ってる」
エミリオは不満を残しながらもうなずいた。
白い花を挟んだ紙を、荷台の奥へ大切そうにしまい直す。
ハミルとアバドは、並んで天幕へ向かった。
近づくほど、薬草を煮る匂いが濃くなる。その下に、湿った石の匂いがあった。
『一包どころではないな』
イルの声が胸の奥へ響く。
『……ああ。思ってたより、ずっと多い』
天幕の脇には、同じ印を押した木箱が十以上積まれている。
中身がすべてあの粉薬なら、ここにいる者だけへ配る量ではない。
入口には、二つの列ができていた。怪我人を診る列と、食事を受け取る列。そのどちらにも、救済院の者が同じ紙包みを渡している。
「昨日、薬を渡したのは、あの治療師だ」
アバドが声を落とし、天幕の前を示した。
そこにいたのは、先ほど門前で子どもを診ていた若い女性だった。
彼女は老人の脚へ包帯を巻き終えると、こちらを見上げた。
「次の方、どうぞ」
アバドがハミルの背を押す。
「こいつだ。昨日、森で傷を負った」
「座れますか」
「ええ、大丈夫です」
「大丈夫な方ほど、そう言います。座ってください」
「あー……それ、反論しづらいやつですね」
反論を許さない口調だった。
どこかで聞いた言い方だと思いながら、ハミルは木箱へ腰を下ろした。
治療師は頭巾を取れとは言わなかった。背中の傷だと聞くと、天幕の布を一枚引き、人目を遮る。
上着を脱ぐのに手間取る様子に気づき、右腕を支えた。
「腕も怪我を?」
「少し痺れてるだけですよ」
「……『だけ』ではありませんね」
アバドが小さく鼻を鳴らした。
「同じことを昨日、俺も言った」
「患者は都合の悪い症状を軽く言うものですから」
「よく分かってる」
「二人で仲良くならないでください」
思わず漏らすと、治療師の口元がほんの少し緩んだ。
彼女の指が包帯の端へ触れる。
巻き方を確かめ、傷の周囲だけをそっと押した。手つきに迷いがない。
「打撲と、浅い裂傷。腫れは強いですが、きれいに洗えているので、今のところ悪くはありません」
「ほらな」
なぜかアバドが得意げに言う。
「……ただ、右腕の痺れはこの傷だけでは説明しにくいですね」
治療師はハミルの袖口へ視線を落とした。
紋様は隠れている。
それでも、ハミルは反射的に腕を引いた。
「いつからですか」
「昨日から」
「傷を負ったあと?」
「たぶん」
「たぶん?」
「昨日はいろいろありまして」
明らかなごまかしを、彼女は追及しなかった。
代わりに新しい布を取り、包帯を巻き直していく。
「薬をお持ちなら、今夜までは飲まずに休んでください。痺れの原因が分からない状態で、強い薬を重ねるべきではありません」
ハミルは彼女の横顔を見た。
「あの粉薬、やっぱり強い薬なんですか?」
「即効性がある分、身体が熱を持つことがあります。飲んだ夜に夢を多く見る方もいますが……普通は、一晩で治まります」
「夢?」
「はい」
「どんな夢を見るんです?」
治療師の手が、ほんの少し止まった。
「昔のことを思い出す方が多いようです」
「……悪い記憶も?」
「疲れていると、そういう夢を見やすいのでしょう」
答えながら、彼女は包帯の結び目を整えた。
目を逸らしたわけではない。隠そうとしているようにも見えない。ただ、教えられた説明を自分でも信じようとしている声だった。
「薬はどこで作られているんですか」
「各地の救済院へ、中央の調薬所から届きます。薬草と、地中から採れる滋養石を使っていると聞いています。詳しい配合は、私たちにも知らされていません」
「あなたも飲んだことが?」
「ええ、あります。三日眠れずに働いたとき、一包だけ」
治療師はためらわず答えた。
「身体が軽くなりました。だから、効き目そのものを疑ってはいません」
その目の下には、今も薄い隈がある。
この人は、人を害そうとして薬を配っているわけではない。
少なくとも、本人はそう信じている。
ーー天幕の外で、木の椀が落ちる音がした。
続いて、誰かの身体が地面へ倒れる重い音。
治療師が顔を上げた。
「……すみません。ここで待っていてください」
布を開き、外へ駆け出した。
ハミルも上着を羽織る。
「待てと言われただろ」
アバドが止める。
「聞いただけですよ」
「その返しを気に入るな」
「便利なので」
*
外では、初老の男が配給の列の脇へ倒れていた。
泥に汚れた外套。擦り切れた靴。頬は落ち、濡れた前髪が汗で額へ張りついている。傍らには空の椀が転がり、底に青灰色の粉が少しだけ残っていた。
「ミラ……」
男は地面へ片手をついたまま、誰かの名を呼んだ。
治療師がすぐに肩を支える。
「聞こえますか? 立たなくて大丈夫です。ここで横になりましょう」
「いや、行かないと……妻が、待ってる」
起きようとする腕は震え、身体を持ち上げることさえできていない。
それでも男は、北門の方角ばかり見ていた。
その胸元に、黒いものが見えた。
心臓の少し横。
薄い黒の線が、輪を描いている。
――何だ、あれ。
ハミルの足が止まった。
最初に浮かんだ言葉は、核だった。
けれど、すぐに否定する。
違う。
精霊の核とは形が違う。輪郭も曖昧で、まとっている気配もまるで違う。
それでも、ただの影や血管とは思えなかった。
長いあいだ精霊の核を見てきた感覚が、似ていると告げている。
似ているはずがない。
目の前にいるのは人間だ。
人間に核などない。
ない、はずだった。
『……イル』
呼びかけてから、返事がないことに気づいた。
胸の奥が静まり返っている。
『見えてるか?』
『見えている』
いつもの軽口も、呆れた声もなかった。
それだけで、見間違いではないことが分かった。
『あれ、核に見えるか』
『核ではない』
『……だよな』
『だが、似ている』
イルまで同じことを言った。
背中に、傷とは別の冷たさが走る。
人間の身体の中に、核に似た何かがある。
それだけでも、ハミルの知る世界の理屈から外れていた。
『見るな』
イルが低く言う。
『もう見たよ』
『なら近づくな』
今は何もするな、という意味だった。
今度はハミルもすぐに頷けなかった。
知りたい。
何なのか確かめたい。
だが、何も分からないものへ手を出す方が危険なのも分かっている。
『……分かった』
ようやくそう返した。
黒い輪が何なのかも、粉薬と関係があるのかも分かっていない。そんな状態で治療へ口を出せば、止められるものより先に、自分へ疑いが向く。
ハミルは人垣の外へ半歩下がった。
治療師は男を横たえ、濡らした布を額へ置く。男性職員が薬箱から取り出した紙包みを開いた。
「熱を下げます。半量だけ、水に溶かしてください」
指示を受けた男性職員が、木の椀へ粉と水を入れる。
青灰色が水へ沈み、すぐに見えなくなった。
男は支えられながら、少しずつ飲んだ。
一口。
二口。
ーー椀の半分ほどを飲んだところで、黒い輪が大きく脈打った。
ハミルの呼吸が止まった。
『動いた』
『ああ』
今度は見間違えようがない。
薬が喉を通った、その直後だった。
だが、それだけで原因だと決めるには早い。
そう考えるより先に、男の背が跳ねた。
「妻が――」
突然、男が治療師の手を振り払い、起き上がった。
「動かないでください!」
「迎えに、行かないと……ミラを、置いてきたんだ」
焦点の定まらない目が北門を探す。
治療師が腕を取ろうとするが、男はそれすら振り払った。
一歩。
男の膝が折れた。
身体が石畳へ傾く。
周囲から短い悲鳴が上がった。
考えるより先に、ハミルの身体が動いた。
右手は使えない。
背中へ痛みが走るのも構わず、人垣の間へ踏み込む。左腕を男の脇へ差し入れ、地面へ頭を打ちつける寸前で抱き止めた。
「……っ」
傷が引き攣った。
それより先に、腕の中の身体の軽さへ息を呑む。
大人の男を受け止めたはずなのに、驚くほど軽かった。
薄い外套越しにも肩の骨が分かる。何日まともに食べていないのだろう。荒い息がハミルの首元へかかり、男の額には冷たい汗が浮いていた。
「大丈夫ですか。聞こえます?」
「……大、丈夫だ。行かないと……」
「いや、それは大丈夫な人の顔じゃないですよ」
いつもの調子で返したつもりだったが、男の目はハミルを見ていなかった。
「ミラが……俺が、置いて……」
妻の名だけを、何度も繰り返している。
その声を聞いた瞬間、さっきまで距離を取るつもりだったことが、ひどく遠く感じた。
知らない人だ。
何が起きているのかも分からない。
それでも、腕の中で苦しんでいる人間を一度受け止めてしまえば、もう「見るだけ」には戻れなかった。
『ハミル』
イルの声が強くなる。
『分かってる。まず下ろす』
男を支え直そうとした、そのときだった。
胸へ触れていた左の掌に、冷たいものが這った。
黒い輪から伸びた細い線が、指の間へ絡みついている。
まるで、助けを求める手のように。
黒い輪が、ハミルの存在を知った。




