第004話 火のそばに残るもの
焦げた匂いで、ハミルは目を覚ました。
煙ではない。木が焼ける匂いでもない。
もっと身近で、もっと情けない匂いだった。
「……鍋か」
『ようやく起きたか』
胸の奥から返ったイルの声は、眠る前よりいくらかましになっていた。それでも、いつもの張りには遠い。
ハミルは左手を寝台につき、ゆっくりと身を起こした。
窓から差し込む光は、すでに橙色へ傾いている。思った以上に長く眠っていたらしい。身体を捻ると、背に巻かれた包帯の下で傷が鈍く疼いた。
右手を握ってみる。
人差し指に続き、中指もわずかに曲がった。肘まではどうにか動く。肩から先へ、冷たい水が詰まっているような重さは残っていた。
「お前は」
『不本意ながら、まだいる』
「具合を聞いたんだよ」
『なら最初からそう言え』
ハミルは寝台の縁へ腰かけたまま、返事を待った。
イルはしばらく黙り、やがて観念したように言った。
『沈んでいたものが、少しずつほどけている。すぐにどうこうはならぬ』
「本当だな」
『疑うなら聞くな』
「前にも同じようなことを言って、三日黙ってたからな」
『あれは貴様が余計な術式を重ねたせいだ』
「封印から出ようとした奴が言う台詞か」
『百歩譲って、双方に非があった』
「九十九歩はお前が譲れ」
言い返す声が聞こえる。
それだけで、身体に残る重さを少し忘れられた。
焦げた匂いは、窓の隙間からまだ流れ込んでいる。
ハミルは上着を羽織り、右腕の袖を引き下ろした。黒い紋様は手首の上まで薄れている。袖口をきちんと留めれば見えない。
扉を開けると、小屋の前には即席の野営地ができていた。
荷車を風除けにして、地面へ厚い布が敷かれている。その中央で火が燃え、吊るされた小鍋から灰色の煙が上がっていた。
八か月、一人で静かに暮らすために整えた場所が、半日で三人分の居場所へ作り替えられている。勝手なものだと思うのに、不思議と嫌ではなかった。煙の匂いさえなければ、もう少し素直に喜べたかもしれない。
エミリオが木杓子を握りしめ、鍋を睨んでいる。
「何を殺したんだよ」
声をかけると、少年が勢いよく振り返った。
「起きたのか」
「この匂いに起こされたんだよ」
「焦げてない」
「じゃあ、その鍋底に張りついている黒いものは何なんだ?」
「香ばしくなった玉ねぎ」
『見事なまでに炭だな』
イルの評へ、ハミルは胸中で同意した。
荷車の向こうから薪を抱えたアバドが現れた。起きているハミルを見るなり、眉間へ皺を寄せる。
「誰が起きていいと言った」
「俺の家ですよ」
「今は俺の患者の家だ。寝てろ」
「患者を煙で燻し出す治療法は初めてです」
「それは助手の失敗だ」
「父さんが火を見てろって言ったんだろ」
「見ろとは言った。薪を全部くべろとは言ってない」
エミリオが不満そうに杓子で鍋を掻く。底から、乾いた音がした。
ハミルは笑いそうになり、背の傷に響いて顔をしかめた。
それをアバドは見逃さなかった。
「ほら見ろ。座れ」
火のそばへ丸太が一本置かれている。そこへ座らされ、背中の包帯を確かめられた。
アバドの指が傷の周囲を慎重に押す。朝ほどの熱はないが、肩の腫れは残っていた。
「化膿はしてなさそうだな。腕は」
ハミルは右手を持ち上げた。
肘を曲げ、指を動かす。握り込むところまではいかない。
「昼よりは動きます」
「感覚は」
アバドが袖の上から前腕へ触れた。
布を押されたことは分かる。だが左腕に比べると、ずっと遠い。
「少し鈍いですね」
「少し、か」
「かなり」
「学習したな」
アバドは包帯を巻き直すと、薬箱へ手を伸ばした。
「軟膏は夜にもう一度塗るとして……そうだ」
箱の底から、小さな紙包みを取り出す。
黄ばんだ紙の表には、四枚の葉が輪になる印が押されていた。見覚えはない。
「町を出るときにもらった薬だ。水に溶かして飲むと、疲れにも傷にも効くらしい」
「そんな都合のいい薬があるんですか」
「四国救済院の連中が配ってた。北から逃げてきた者が増えたから、旅人にも予備を持たせてるそうだ。王都の治療師も認めた薬だと言ってたぞ」
エミリオが鍋から顔を上げる。
「父さん、それ俺が荷車で酔ったときにはくれなかっただろ」
「傷と疲れに効く薬だ。お前のは食いすぎだ」
アバドが紙包みを開いた。
中には、青灰色の細かな粉が入っていた。
見た目だけなら、珍しいものではない。
乾いた薬草を挽き、いくつか混ぜれば似た色になることもある。
それでも、薬草の匂いに混じって、湿った石のような匂いが鼻へ触れた。
胸の奥で、イルの気配が止まる。
ハミルがそう気づくのと、ほとんど同時だった。
右腕の内側で黒い紋様が脈打った。
どくん、と一度。
次の瞬間、指先から肩へ、細い針を一度に何本も通されたような痛みが走る。
反射的に右手が跳ねた。
動きにくかったはずの腕が、自分でも驚くほど強く身体の側へ引かれる。
ハミルは息を止めた。
『触るな』
イルの声が鋭く響く。
さっきまでの弱々しさが消えていた。
アバドの手が止まった。
「どうした」
「そのまま、包んでください」
自分でも分かるほど、返事が早かった。
ハミルは右手を膝の下へ隠した。袖の内側で、紋様の熱がまだ脈打っている。
紙が折り戻されるにつれ、少しずつ熱が遠のいた。
ただの薬を前にした反応ではない。
そう思ったが、何に反応したのかまでは分からなかった。
「薬が合わないのか」
「分かりません」
嘘ではない。
分からないからこそ、飲めなかった。
アバドは粉をこぼさないよう、紙を元の形へ折り戻した。
「傷を治す薬だと聞いたが」
「誰からです」
「救済院の若い治療師だ。町の南門に天幕を張ってた。北の街道から来た連中に、粥と一緒に配っていたよ」
「飲んだ人を見ましたか」
「その場では何人か。何だ、危ないものなのか」
アバドの声から軽さが消える。
ハミルは答える前に、胸の奥へ意識を向けた。
『今のは何だ』
『知らぬ』
イルの返事は短かった。
だが、と続く。
『あの沢から引き出したものに近い。近いが、同じではない』
『精霊の穢れか』
『違う』
今度の否定は、はっきりしていた。
『あれには、形がありすぎる』
意味を尋ねようとしたが、イル自身にも、それ以上の言葉はないようだった。
ハミルはアバドを見る。
「危険かどうかは、まだ分かりません。ただ、今の俺は普通の薬でも何が起きるか分からないので」
「それは、その腕と関係があるのか」
「あります」
アバドは目を細めた。
問いを重ねることもできたはずだ。だが、昼の言葉を違えず、紙包みを薬箱へ戻した。
「なら、飲ませるのはやめだ」
「その薬、俺に預けてもらえませんか」
「調べられるのか」
「少なくとも、飲むよりはましです」
「それは調べられる奴の答えじゃないな」
「商人は一度に全財産を賭けないんでしょう」
昼の言葉を返すと、アバドは渋い顔をした。
「都合のいいところだけ覚えてる」
それでも紙包みは、ハミルへ渡された。
左手で受け取り、火から離れた丸太の上へ置く。触れていなければ、右腕の紋様は反応しなかった。
エミリオが、丸太とハミルの顔を交互に見る。
「俺たちも飲まない方がいい?」
「今はな」
「町の人たちは、もう飲んでるんだろ」
ハミルは答えられなかった。
鍋の中で、煮込みがぼこりと音を立てる。
エミリオは杓子を握ったまま、火を弱めた。
誰も何も言わない時間が、少しだけ続いた。
やがてアバドが、わざとらしく鼻を鳴らした。
「まずは目の前の毒をどうにかするか」
「毒じゃない」
「なら食ってみろ」
「父さんが先に食えよ」
「作った奴の責任だ」
二人が同時にハミルを見た。
「怪我人に味見をさせる気ですか」
「料理人だろ」
「俺よりましにできるって、いつも言ってるじゃん」
逃げ道がない。
ハミルは木杓子を受け取り、鍋の底を避けて一口すくった。
玉ねぎは苦い。豆は硬い。塩は妙に多かった。
『さっきの薬の方が安全かもしれんな』
イルが呟いた。
『黙れ』とハミルは胸中で返し、二人へ向かって言った。
「水を足せば食べられます」
「本当か?」
「兎肉も入れましょう。香草も。鍋底は別の鍋に移すまで触らないでください」
「やっぱり焦げてるじゃないか」
アバドが呆れたように言う。
「香ばしくなっただけだって」
なおも言い張るエミリオを水汲みに追いやり、ハミルは左手だけで食材を切った。
不自由ではあったが、できないほどではない。アバドが鍋を移し、エミリオが水を汲む。三人で手を出せば、夕食らしいものはほどなく出来上がった。
空が紫色へ変わるころ、火を囲んで椀を持った。
今朝の煮込みより薄く、少し焦げ臭い。それでも空腹には十分だった。
「味、分かるか」
エミリオが聞いた。
「焦げてるよ」
「そうじゃなくて。腕がおかしいなら、舌も変になってないかって」
ぶっきらぼうな言い方の奥にあるものへ気づき、ハミルは椀を持ち直した。
「味は分かる。塩が多いこともな」
「父さんが入れた」
「お前だろうが」
アバドが即座に言い返す。
ハミルは少しだけ迷い、胸中でイルへ問いかけた。
味を見るか。
『いらぬ』
返事が早い。
『遠慮するな』
『なぜ今の鍋を共有せねばならぬ』
『元気になってきたな』
『貴様らが味覚を破壊している間に休んだからな』
ハミルは椀の縁へ口をつけたまま、わずかに笑った。
「何笑ってるんだよ」
「何でもないよ」
「今、絶対俺の料理を馬鹿にしただろ」
「そんなことはない。次は薪を半分にするといい」
「馬鹿にしてるじゃん」
エミリオがむくれる。
アバドの笑い声が火の向こうで上がった。
そのとき、森の端で枝が鳴った。
三人の動きが止まる。
アバドが椀を置き、エミリオの前へ腕を出した。
ハミルも立ち上がろうとする。
『待て』
イルの声に、腰を浮かせたまま木々の間を見た。
暗がりの中で、淡い青の光が揺れている。
一歩。
また一歩。
水で形作られた小さな蹄が、落ち葉の上へ触れる。額には、芽吹いた枝のような二本の角があった。
「あ……」
エミリオが息を漏らす。
沢の精霊は、火の明かりの手前で足を止めた。
昼に見たときより、身体の輪郭がはっきりしている。胸の奥で瞬く核は淡い水色へ戻り、青い目に黒い濁りはない。
アバドは息子を庇ったまま、目を見開いていた。
「これが……沢にいた?」
「うん」
エミリオは父親の腕の下から答えた。
精霊はその声を聞くと、小さく鼻を鳴らした。
それから、口にくわえていたものを地面へ置く。
白い花だった。
泥に埋もれる前の沢で、誰かが石の上へ供えていた花とよく似ている。
精霊は鼻先で花を押した。
まっすぐ、エミリオの方へ。
「俺に?」
エミリオが一歩踏み出す。
アバドの腕がわずかに強張った。止めようとして、けれど止めなかった。
エミリオは火を大きく回り込み、精霊の前へしゃがんだ。
すぐには手を伸ばさない。
昼の沢で、助けようと差し出した手へ黒い水草が絡んだことを思い出しているのだろう。
精霊の方から首を伸ばした。
透き通った鼻先が、エミリオの指へ触れる。
水へ手を浸したような音がした。
エミリオの肩から、ゆっくり力が抜ける。
「もう、苦しくないのか」
精霊は言葉を返さなかった。
代わりに、目を細める。
それだけで十分だった。
エミリオは白い花を拾った。
「精霊って、こんなふうに会いに来るものなのか」
アバドが声を抑えて尋ねる。
「精霊が姿を見せようと思えば」
ハミルは答えた。
「ただ、人の暮らしへ近づかないものも多いです。こいつには、来る理由があったんでしょう」
沢の精霊がこちらを見る。
青い目が、ハミルの右腕へ落ちた。
何かを感じ取ったのかもしれない。
精霊は一度だけ深く頭を下げた。
ハミルも左手を胸へ当て、わずかに頭を下げる。
次の瞬間、小さな身体は足元から崩れ、澄んだ水へ変わった。
水は落ち葉の下へ染み込み、月明かりを細く弾きながら、森の奥へ戻っていった。
あとには白い花と、濡れた四つの蹄跡だけが残った。
誰もしばらく口を開かなかった。
最初に息を吐いたのは、アバドだった。
「見ていない俺まで、口止めされる側になったな」
「嫌なら、見間違いだったことにしますか」
「十五の息子と同じ扱いは勘弁してくれ」
「俺だって見間違い扱いされてないだろ」
「話をややこしくするな」
アバドは息子の手にある花を見て、苦笑した。
「それ、荷車の中で潰すなよ」
「潰さない。乾かして持ってく」
「お前にできるのか」
「ハミルに聞く」
「本人の前で人任せにするな」
いつもの言い合いが戻る。
けれどエミリオは花を持つ手だけは大切そうにしていた。
沢へ飛び込んだ無謀さには、まだ言いたいことがある。それでも、あの精霊が最後にこの少年を選んで花を渡したことを、ハミルは嬉しく思った。助けようと伸ばした手は、ちゃんと相手へ届いていたのだ。
火が小さくなるまで、三人はそこにいた。
アバドとエミリオが荷車のそばへ寝床を作りに行ったあと、ハミルは丸太の上に残った紙包みを左手で拾った。
四枚の葉が輪になる印。
中身へ触れないよう気をつけながら、小屋へ運ぶ。
『どうするつもりだ』
イルが聞いた。
ほかに人はいない。ハミルは声に出して答えた。
「町へ行こうと思う」
『その腕でか』
「お前もいるだろ」
『今の我を数に入れるな』
「じゃあ、無茶をしないよう見張っててくれ」
『最も当てにならぬ役目を押しつけるな』
紙包みを食卓へ置く。
八か月のあいだ、ハミルは人の多い場所を避けてきた。麓の町へも、必要に迫られた夜にしか近づいていない。
黒い髪と瞳を見られれば、何を疑われるか分からない。
それでも、あの粉はすでに人へ配られている。
知らないふりをして、小屋に留まることはできなかった。
外へ戻り、アバドへ声をかける。
「明日、町まで一緒に行きます」
毛布を広げていた二人が、同時に振り返った。
「その怪我で?」
「残念ながら、この怪我も一緒です」
「寝てろって言ったよな」
「町まで寝台を運んでくれるなら、そうします」
「屁理屈だけは元気だな」
ハミルは答えず、エミリオの手にある白い花へ目を向けた。
一度見つけたものを、見なかったことにはできない。
それが痛みであれ、助けを求める声であれ。
森の奥では、沢の水が夜の静けさを縫うように流れていた。
その音を聞きながら、ハミルは右手をゆっくり握った。
今度は三本の指が、わずかに掌へ触れた。




