幕間 黒という色
地面へこぼれた小麦粉は、もう売り物にならない。
分かってはいたが、エミリオは箒を動かす手を止められなかった。
白い粉を一か所へ集める。
湿った土が混ざる。
掃くたびに白は濁り、最後には薄汚れた塊になった。
「それ以上やっても戻らんぞ」
荷車の脇では、アバドが裂けた袋の口を縫っている。
「分かってる」
「なら、少し休め」
「分かってるって」
返事をしながら、もう一度箒を動かした。
森へ続いていた白い足跡は、ハミルが自分を見つけるための道になった。
けれど、それをつけたのはエミリオだ。
袋を落としたのも。
父の声が聞こえないふりをして、森へ入ったのも。
助けに来たハミルの右腕が動かなくなったのも。
箒の先へ力が入る。
土に張りついた粉が、横へ広がった。
「余計に散らしてるぞ」
「今、集めてる」
「さっきより増えたように見えるがな」
エミリオは箒を止めた。
小屋の窓へ目を向ける。
中は静かだった。
ハミルは寝台で眠っているはずだ。
父が背中へ包帯を巻いているあいだも、痛くないような顔をしていた。薬を塗られて肩が強張ったのを、エミリオは見ている。
右腕のことだって、少し痺れているだけだと言った。
少しなわけがない。
取っ手に届く前に落ちた指を見た。
「父さん」
「何だ」
「ハミル、腕は戻るよな」
袋を縫う針が止まった。
「分からん」
「そういうのいいから」
「分からんものを、戻るとは言えん」
「治らないとも決まってないだろ」
「ああ」
アバドは糸を引き、縫い目を締めた。
「指が少し動いた。あいつも中で休んでる。今は、それでいい」
全然よくない。
そう言い返しかけて、やめた。
父も同じ顔をしていたからだ。
エミリオは箒を荷車へ立てかけた。
手についた粉を服で払う。
「何か食わせた方がいいんじゃない?」
「起きたらな」
「起きる前に作っておけばいいだろ」
「誰が作る」
「俺」
アバドが顔を上げた。
「何だよ、その顔」
「朝の煮込みはハミルが作ったんだったな」
「切るのは手伝った」
「干し肉を盗み食いしただけじゃなかったか」
「味を見たんだよ」
「鍋に入る前にな」
エミリオは小屋へ向かった。
扉を開ける直前に足を止め、音を立てないよう、そっと取っ手を回す。
室内には、薬草の匂いが残っていた。
寝台の上で、ハミルは壁の方を向いている。
黒い髪が、色白の頬へかかっていた。
初めて会ったとき、最初に思ったのは、綺麗な人だ、だった。
男を見てそんなことを思った自分に驚いて、その次に、髪の色へ気づいた。
変な色だ、と。
町にも、茶色をずっと濃くしたような髪の者はいる。夜道なら黒く見える髪も珍しくはない。
けれど、ハミルの髪は違う。
日を受けても茶にも青にも透けず、光だけが抜け落ちたような、本当の漆黒だった。
瞳も同じだ。
魔物を描いた刷り物では、空っぽの目や中心の濁りが決まって黒く塗られている。
昔話に出てくる魔王も、黒い影をまとい、夜より暗い目で人を見る。
だから町では、完全な黒は魔物の色だと言われていた。
人の髪や瞳に現れる色ではない。
呪いだ、魔物に触れた痕だ、人のふりをした何かだ。
実際に見たこともない大人たちが、酒場で勝手なことを言っているのを聞いたことがある。
ハミルが昼の町へ行かず、誰かが来れば頭から外套をかぶる理由も、それで分かった。
けれど、エミリオには、あの色と魔物がどうしても結びつかなかった。
顔が怖くないから、というのもある。
男の顔をきれいだと思うのは少し癪だったが、ハミルの顔立ちが整っていることくらい、十五歳のエミリオにも分かる。
すっと通った鼻筋も、長い睫毛も、眠っていれば十代後半くらいにしか見えない輪郭も、町の祭りで役者をしていれば人だかりができそうなほど目を引く。
髪と瞳が別の色なら、誰もその顔を怖がりはしなかっただろう。
むしろ、放っておいても人が寄ってくる顔だ。
半年前、最初に会ったのは、この小屋ではなかった。
森へ続く道で、荷車がぬかるみにはまった日だ。
父と二人で押しても引いても動かなかった車輪を、通りかかったハミルが一人で引き上げた。
泥から抜けた荷車より、エミリオは目の前の男を見ていた。
綺麗な人だと思った。髪も瞳も見たことがないほど黒いことにも、もちろん気づいていた。
けれど、口から出たのは別のことだった。
「どうしてそんなに力が強いんだ?」
ハミルは一度目を丸くして、それから笑った。
父は礼を言い、別れ際に、次は塩を持ってくると約束した。
黒い髪にも、黒い瞳にも、二人とも触れなかった。
その次が本当に来て、また次が続いた。
それから月に二度、父とこの小屋へ来るのが楽しみになった。
荷車を引くのも、荷を下ろすのも、町を出るまでは面倒だった。それでも森へ入るころには、今日は何を食わせてもらえるだろうとか、前に見つけた鳥の巣を話したらどんな顔をするだろうとか、そんなことばかり考えていた。
ハミルはエミリオを子ども扱いするくせに、役に立たないとは言わなかった。薪を割れば礼を言い、獲物の話をすれば真面目に聞き、干し肉をつまめば本気で取り返しにくる。
兄がいたら、こういうものかもしれないと思ったことは、誰にも言っていない。
それなのに目を開けると、ときどき年寄りよりもずっと遠くを見る。
かと思えば、干し肉一枚のことでエミリオと本気で言い争う。
変な奴だ。
ただ、魔物ではない。
少なくともエミリオの知っている魔物は、朝飯の肉を多めに切ってくれたり、泥の中まで助けに来たりしない。
けれど今日、エミリオの知らないハミルが、急に増えた。
どうして魔物が精霊だったと分かったのか。
なぜ、あの黒い濁りに触れられたのか。
どうして自分のことを、何ひとつ話そうとしないのか。
知りたいと思う。
その一方で、聞くのが怖かった。
ハミルが何者なのかが怖いのではない。
もう小屋へ来るなと言われることが、怖かった。
今までのように勝手に鍋を覗いたり、干し肉を取り合ったり、次に来る日を楽しみにしたりできなくなることが、怖かった。
しかも、ハミルの秘密を無理に表へ引きずり出したのは、自分だ。
父を待たずに森へ入った。
助けに来たハミルへ無茶をさせた。
その結果が、動かない右腕と、背中の傷だった。
もし腕が戻らなかったら。
もしハミルが、今までどおりにはいられないと言ったら。
どちらも、エミリオにはどうすればいいのか分からなかった。
寝台の上で、ハミルの眉がわずかに寄った。
起こしたかと思い、エミリオは息を止める。
だが、目は開かなかった。
掛け布が右肩から落ちかけている。
掛け直そうと手を伸ばし、途中で止めた。
触ったら起きるかもしれない。
結局、布の端だけを摘まみ、肩まで引き上げた。
「子ども扱いするなって言うくせに」
小さく呟く。
自分も似たようなことをしている気がして、エミリオは口を閉じた。
聞けないことは、今は聞けない。
謝っても、腕が動くようになるわけではない。
だからせめて、目を覚ましたときに腹が減っていないようにしたかった。
棚から玉ねぎと乾燥豆を取り、足音を忍ばせて外へ出る。
アバドは、すでに荷車の横へ厚い布を広げていた。
「勝手に借りた」
エミリオが玉ねぎを見せる。
「起きたら代金を払えと言われるぞ」
「ハミル、そういうこと言わないだろ」
「なら、起きる前に食わせるんだな」
アバドは石を組み、火床を作った。
エミリオは鍋へ油を落とし、切った玉ねぎを入れる。
じゅ、と音がした。
今朝、ハミルが作ったものを思い出しながら木杓子を動かす。
たしか最初は玉ねぎだった。
そのあと豆を入れて、水を入れる。
肉は――少しくらい多くてもいい。
「薪を取ってくる」
アバドが立ち上がった。
「火を見てろよ」
「分かってる」
「鍋じゃなく、火だぞ」
「分かってるって」
父が森の方へ歩いていく。
エミリオは火と鍋を交互に見た。
炎が少し弱い気がする。
脇へ積まれた細い薪を、二本足した。
まだ弱い。
もう三本入れる。
火が勢いよく鍋底を舐めた。
これなら、ハミルが起きる前にできる。
木杓子で玉ねぎを返す。
白かった欠片の端が、少し黒くなっていた。
香ばしくなっただけだ。
たぶん。




