第003話 見てしまったもの
小屋までの道が、これほど長く感じられたことはなかった。
森はすっかり音を取り戻している。枝から枝へ鳥が渡り、濡れた土の下では小さな虫が動いていた。少し前までの静けさが嘘のようだった。
けれど、三人の間に落ちた沈黙だけは戻らない。
アバドの腕を借りて歩くたび、ハミルの背中に鈍い痛みが走った。右腕は外套の下で垂れたまま、指一本動かない。
エミリオは父親の隣を歩きながら、何度もこちらを振り返った。
「前も見て歩けよ。今度こそ本当に転ぶぞ」
「転ばないって」
「さっき水草に捕まってた奴が言ってもな」
「あれは転んだんじゃないだろ」
すぐに言い返してきたものの、いつもの勢いはなかった。
聞きたいことがある。
その顔に、はっきり書いてある。
ハミルは気づかないふりをした。
胸の奥へ、そっと意識を向ける。
イル。
返事はない。
封印の内側には重い熱だけが沈んでいる。存在が消えたわけではない。分かっていても、声が聞こえない時間は、ひどく長く感じられた。
「ハミル」
今度はエミリオの声だった。
「ん? どうした」
「さっきの――」
「あー……話は小屋へ戻ってからにしよう。立ったまま叱られるのはつらい」
少年の眉が跳ね上がる。
「今度は誤魔化すなよ」
「善処するよ」
「それ、誤魔化す奴の言い方じゃん」
「元気そうで安心した」
「ほら、また話逸らした」
アバドが深く息を吐いた。
「お前は少し黙って歩け。ハミルに肩を貸してる俺まで転びそうだ」
「父さんが鈍いだけだろ」
「今朝まで自慢の息子だったんだがな」
「短かったな」
口を尖らせたエミリオを見て、ハミルはわずかに息をついた。
いつもの調子が戻りつつある。それだけで、背中の痛みが少し軽くなった気がした。助けられたという安堵より先に叱られたことへ腹を立てられるなら、たぶん大丈夫だ。
自分がそう確かめていることに気づき、ハミルは少しだけ可笑しくなった。いつからこの親子の無事を、こんなふうに数えるようになったのだろう。
小屋の屋根が木々の向こうに見えたころ、アバドの荷車も無事な姿を現した。
荷台の脇には、口の裂けた小麦粉の袋が倒れている。白い粉が地面へ広がり、その上には森へ続く靴跡が残っていた。
アバドが足を止める。
エミリオも止まった。
「……あとで拾うつもりだった」
「先に言うことはそれか」
「……ごめん」
今度ばかりはエミリオも素直に頭を下げた。
アバドはしばらく息子を見つめていたが、叱る代わりに、その泥だらけの頭を乱暴に撫でた。
「生きて帰ったから、叱れるんだ。忘れるな」
エミリオは顔を上げなかった。ただ、小さくうなずいた。
ハミルは二人から目を逸らし、扉へ手を伸ばした。
いつもの癖で右手を使おうとして、指が取っ手に届く前に外套の下へ落ちる。
代わりに左手を伸ばすより早く、アバドが扉を開けた。
「枝で打っただけ、だったか」
「……少し太い枝でした」
「寝台に座れ」
「え、命令ですか」
「息子を助けてもらった礼だ。大人しく受け取れ」
反論する間もなく、半ば押し込まれるように小屋へ入る。
朝の食器は、食卓の端へ寄せたままだった。冷めた鍋、切りかけの干し肉、三人分の椅子。ほんの少し前まで、今日は何も起こらない一日だと思っていた痕跡がそこかしこに残っている。
見慣れた狭い部屋へ戻れたことに、遅れて安堵が湧いた。帰る場所と呼ぶには粗末な小屋でも、三人が無事に戻れば、朝の続きができる。その当たり前を失わずに済んだ。
ハミルが寝台へ腰を下ろすと、アバドは荷物から薬箱を持ってきた。
「上を脱げ」
「自分でできますよ」
「右手が動くならな」
ハミルは黙った。
向かいでは、エミリオが黙っていなかった。
「なあ、右手どうしたんだよ。さっきから全然動かしてないだろ」
「少し痺れてるだけだよ」
「あいつにやられたのか?」
「まあ……似たようなものかな」
「じゃあ、見せろよ」
「エミリオ」
アバドの低い声が飛ぶ。
エミリオは口を閉じたが、視線までは逸らさなかった。
外套を外し、右腕の袖を下ろしたまま上着だけを脱ぐ。背中には、肩から脇腹近くまで赤黒い痣が広がっていた。爪が直接裂いた傷は浅いが、腫れはひどい。
「これが枝なら、森の木はずいぶん凶暴になったらしい」
アバドは冗談めかして言ったものの、目は笑っていなかった。
布を水で濡らし、傷の周りの泥を拭う。薬草の軟膏を塗られると、焼けるような痛みが走った。
「痛むか」
「いえ、別に」
「じゃあ、これは効かない薬なんだな」
「……あー、少し痛みます」
「最初からそう言え」
背へ布を巻く手つきは慣れていた。長く街道を歩く行商人なら、自分や馬の傷を手当てすることも多いのだろう。
包帯を結び終えるまで、エミリオは食卓の前に立っていた。
やがて、堪えきれなくなったように言った。
「あれ、精霊だったんだろ」
アバドの手が止まった。
「何の話だ?」
「沢にいた魔物だよ。最後に小さくなって、水みたいな鹿になった。角があって、それで沢に溶けた」
自分が見たものを確かめるように、一つずつ言葉を並べる。
「でも、そんなのおかしいだろ。精霊は魔物を退ける側だ。魔物は魔王が生むものだって、町でも教わった」
アバドは息子を見て、それからハミルを見た。
「本当なのか」
嘘をつくことはできた。
恐怖の中で見間違えたのだと言えばいい。沢の水が光を歪めた。魔物を倒したあとに、別の精霊が現れただけだ。十五歳の少年を迷わせる言葉なら、いくらでも思いつく。
だが、エミリオはあの精霊に呼びかけた。
戻ってこいと、自分の声でつなぎ止めた。
その事実まで奪う気にはなれなかった。
「……本当です」
アバドの顔から、わずかに色が失われた。
エミリオは恐れるより先に、身を乗り出した。
「じゃあ、魔物は精霊なのか」
「少なくとも、あれはそうだった」
「少なくともって、ほかにも――」
「エミリオ」
ハミルは静かに名を呼んだ。
「今、俺が答えられるのは、そこまでなんだ」
「……何でだよ」
「答えたくないわけじゃないよ。ただ、今ここで、俺の言葉だけを信じて決めていいことでもないんだ」
「でも、俺は見た。ハミルも見ただろ」
「ああ。見たよ」
「なら――」
「だから、見たことまで疑えとは言わない」
エミリオの言葉が止まった。
ハミルは黒い瞳で、まっすぐエミリオを見る。
「ただし、その話はしばらく俺たちだけの秘密にしてくれ。今の世の中でそんなことを言えば、嘘つきで済めばいい方だ。沢を調べるために人が押しかければ、戻ったばかりのあの精霊をまた追い詰めるかもしれない」
最後の言葉に、エミリオの肩から力が抜けた。
「……分かった」
「お前を叱って黙らせたいわけじゃないよ」
「それも分かってる。……でも、子ども扱いするなよ」
「森へ一人で入る子どもを、何と呼べばいい」
「十五だぞ」
「俺から見れば、まだ十分子どもだよ」
「見た目は大して変わらないだろ」
アバドが吹き出した。
張りつめていた空気が、ようやく少し緩む。
「それで」
笑いを収めたアバドが、ハミルの隣へ腰を下ろした。
「お前は何者なんだ」
声は穏やかだった。
責める響きも、怯える響きもない。ただ、見ないふりをしてきた扉の前へ、とうとう立った者の声だった。
「魔物を倒さず精霊へ戻して、代わりに右腕を動かなくするような奴を、ただの猟師とは呼べんだろう」
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
ハミルは左手を膝へ置いた。
右腕を覆う黒い紋様が、布の下で脈打っている。
「今は……答えられません」
アバドは長いあいだ黙っていた。
その沈黙の中で、ハミルは失うものを数えた。
月に二度の騒がしい食卓。塩と針と、町のくだらない噂。勝手に鍋を覗くエミリオと、値段を吹っかけては笑うアバド。
八か月かけて手に入れた、名前のない日常。
「そうか」
やがてアバドは、それだけ言った。
立ち上がり、薬箱の蓋を閉める。
「なら、答えられるようになるまで聞かん」
「……怖くないんですか」
「怖いさ。何も分からんからな」
アバドはあっさり認めた。
「だが、分かっていることもある。お前は俺の息子を助けた。怪物を斬り捨てるんじゃなく、あの沢ごと救った。少なくとも今日のところは、それで十分だ」
「今日のところは、ですか」
「商人は一度に全財産を賭けない」
「父さん、格好つけてるけど、さっき待ってろって言われたのに森へ入ったよな」
「お前の口も包帯で巻いてやろうか」
エミリオは笑って逃げた。
戸口まで行ったところで振り返る。
「でも、俺は信じるから」
「何を?」
「ハミルが、あいつを助けたってこと」
それだけ言うと、今度こそ外へ出ていった。散らばった小麦粉を片づけるつもりらしい。
アバドも薬箱を抱えて戸口へ向かう。
「今日はこの近くで野営する。夕方にもう一度、傷を見る」
「先を急いでいたんじゃ?」
「荷の半分を泥だらけにした助手へ言ってくれ」
「聞こえてるぞ!」
外から声が飛んできた。
アバドは肩をすくめ、小屋を出た。
扉が閉まる。
足音が十分に遠ざかるまで待ってから、ハミルは息を吐いた。
「イル」
今度は、声に出して呼んだ。
返事はない。
「おい。聞こえてるなら、返事くらいしてくれよ」
封印へ意識を沈める。熱い泥のようなものが、心臓の周りへまとわりついている。そのさらに奥に、見慣れた気配がうずくまっていた。
『……うるさい』
かすれた声が返った。
ハミルは目を閉じた。
胸の奥に詰まっていた息が、ようやく抜ける。
「……生きてるな」
『死んでいるように聞こえたか』
「長いこと一緒にいても、寝息までは聞き分けられない」
『我は寝息など立てぬ』
「なら、今度から返事くらいしてくれよ」
『命令するな』
声には力がない。それでも、いつもの棘が戻っていた。
ハミルは右腕の袖をまくった。
手の甲から肩へ這い上がった紋様は、先ほどより薄くなっている。だが完全には消えず、黒い枝のような線が皮膚の下へ残っていた。
「半分って言ったよな。……多く取っただろ」
『半分だ』
「本当に?」
『数える余裕があったなら、お前が数えればよかった』
「なかったから聞いてるんだよ」
『なら黙って感謝しろ』
ハミルはしばらく紋様を見つめた。
「……ありがとう」
内側が静かになる。
『……素直に言うな。気味が悪い』
「注文が多いな」
右の指先へ力を込める。
人差し指が、ほんのわずかに動いた。
その動きを確かめたところで、ハミルは寝台へ横になった。背中の傷が痛み、すぐに身を起こしかける。
『休め』
「痛くて眠れない」
『先ほど痛くないと言っていただろう』
「あれはアバドさんに言ったんだよ」
『相手によって真実を変えるな』
「お前がそれを言うのか」
返事の代わりに、封印の奥で重い息を吐く気配がした。
ハミルは天井を見上げる。
エミリオには、ほんの一欠片しか話せなかった。
魔物が精霊だったこと。その苦しみがどこから来たのか。なぜ自分だけがそれを知り、なぜ救えたのか。
真実を告げれば、二人を巻き込む。
黙っていれば、二人の信頼に甘えることになる。
どちらも、選びたくはなかった。
『あの小僧は、また聞くぞ』
「分かってる」
『商人もだ』
「そっちも分かってるよ」
『では、どうする』
窓の外から、エミリオとアバドの声が聞こえる。
破れた袋は縫えば使えるだの、地面へこぼれた粉は売り物にならないだの、どうでもいいことで言い争っていた。
ハミルは目を閉じた。
「……今は、眠る」
『逃げたな』
「休めと言ったのはお前だろ」
『口だけは元気らしい』
その声が聞こえていることに安堵しながら、ハミルは左腕で目元を覆った。
小屋の外には、白い粉を掃く音がする。
さらに遠く、森の奥からは、戻ったばかりの沢のせせらぎがかすかに届いていた。




