第002話 水底の声
小麦粉を踏んだ靴跡は、濡れた土の上で思ったより長く残っていた。
白い足跡は木の根を越え、羊歯の葉をくぐり、森の奥へ続いている。歩幅は途中から大きくなっていた。エミリオは何かを追い、自分の足で森へ入ったのだ。
ハミルは足を止めず、低く言った。
「気配からして、魔物だな」
『おそらくは』
二人きりなら、声に出す。誰もいない森でまで胸の内へ閉じこもると、イルは機嫌を悪くするのだ。
「お前の眷属か」
『我の軍勢に、粉屋の真似をする者はいなかった』
「そういう意味じゃない」
『分かっている』
返った声から、いつもの軽さが消えた。
『近い。だが、妙だ』
白い足跡は、沢へ向かう斜面の手前で薄れて消えた。
その先の泥には、五本の指で岸を掻いた跡があった。人の手よりはるかに大きく、爪の先だけが深く土へ食い込んでいる。その周囲では草が水を吸いすぎたように黒く透け、触れてもいないのに地面へ伏していた。
腐臭が濃くなる。
森のこの辺りには、小さな沢があったはずだ。雨が降った翌日でも、足首を濡らすほどの水しか流れない細い沢。それが見えてくるより先に、耳へ届いたものがある。
「――ハミル!」
かすれた少年の声だった。
ハミルは走った。
枝が頬を打つ。濡れた落ち葉を蹴り、斜面を滑るように下る。木々が途切れた先で、沢は見覚えのない沼に変わっていた。
黒い水が、窪地いっぱいに溜まっている。
その中央で、エミリオが倒木へしがみついていた。腰まで泥水に浸かり、片脚には水草のような黒いものが巻きついている。濡れた栗色の髪の下で、顔は血の気を失っていた。
生きている。
それを確かめた途端、胸を塞いでいたものがほどけ、その下から腹立たしさが顔を出した。どうして一人で来た、なぜ待てなかった。言いたいことはいくつもあったが、叱るのは連れ帰ってからでいい。
「動くな!」
「来るな! 水の中に――」
水面が盛り上がった。
最初に現れたのは、枝分かれした二本の角だった。続いて、泥と腐葉土をまとった獣の頭。鹿に似ているが、目のある場所には暗い穴が開き、そこから黒い水が絶えず流れている。
長い前脚が岸へかかった。指先は獣の蹄ではなく、先ほど土に残っていた五本の爪だった。
魔物が口を開く。
声ではなく、沢の石を一斉に擦り合わせたような音がした。
『来るぞ』
『分かっている』
ハミルは胸中で返し、横へ跳んだ。
爪が地面を抉る。跳ねた泥の一滴が袖へ触れ、布が音もなく黒ずんだ。ハミルは近くの若木へ手をかけ、しならせた反動で魔物の頭上へ躍る。
角を蹴った。
重い手応えとともに、魔物の巨体が水面へ沈む。だが、倒木に絡みついた黒い水草まで強く引かれ、エミリオの身体が水へ傾いた。
「うわっ――」
ハミルは着地と同時に泥へ腕を突っ込んだ。エミリオの襟を掴み、脚に巻きついた黒い水草ごと引き上げる。水草は黒い飛沫となって千切れた。
「息を止めろ」
「え」
考える間を与えず、エミリオを倒木の向こうへ投げた。
エミリオの身体が茂みへ落ちるのと、黒い爪がハミルの背を打つのはほぼ同時だった。
肺から空気が抜ける。身体が水面を跳ね、岸の岩へ叩きつけられた。
「ハミル!」
「そこにいろ」
片膝をつきながら命じる。背中が熱い。骨は折れていないが、次も同じように受ければ分からない。
黒い獣は、こちらを見ていなかった。
空洞の目は、茂みのエミリオへ向けられている。泥の身体を引きずって岸へ上がろうとする。だが、沼と一体化した後脚は、水底から離れなかった。
『ハミル。胸だ』
イルの声に、獣の胸元を見据える。
幾重にも絡む泥と根の隙間で、淡い光が明滅していた。
核。
魔物は魔王から生まれるのではない。もとは精霊だったものが、負の感情に呑まれ、姿と心を歪めた存在だ。
本来なら、四人の勇者と精霊で核を砕き、集め、浄化し、生命の流れへ還す。
だが今ここにいるのは、ハミル一人だけだ。
「あいつ、俺を襲ったんじゃない」
エミリオは逃げずに、茂みの中から獣を見ていた。
「荷を下ろしてたら、子鹿みたいな声が聞こえたんだ。来てみたら、水の中でもがいてて……引っ張ろうとしたら、急に大きくなって、足も動かなくなった」
獣が再び、石を擦る声を上げた。
けれど今度は、その奥にかすかな響きがあった。
鳴き声だった。
ハミルは息を呑む。
空洞の目から流れているものは、黒い水ではなかった。
涙だ。
『まだ、残っている』
イルも気づいた。
どうする。
『問うまでもないだろう』
胸の奥で、イルが静かに答えた。
ハミルは立ち上がった。
「エミリオ。そいつに声をかけ続けろ」
「声を?」
「何でもいい。お前がここへ来た理由を、忘れさせるな」
獣が爪を振り上げる。
ハミルは逃げなかった。
振り下ろされた腕を両手で受け止める。肩が軋み、足が泥へ沈む。腐った水の臭いが鼻を焼いた。
「助けようとしたんだ!」
エミリオの声が飛ぶ。
「お前が、苦しそうだったから!」
獣の胸で、淡い光が揺れた。
ハミルは爪を押し返し、その胸へ右手を突き入れた。
泥でも肉でもない。冷たい夜そのものに腕を沈めたようだった。指先が核へ触れた瞬間、黒い濁流が身体の中へ流れ込んでくる。
――水がない。
声がした。
――ここにいた。ずっと、ここにいた。
小さな沢。木漏れ日。水を飲みに来る鹿。手を浸して笑う子ども。石の上へ置かれた、名も知らない白い花。
やがて人が来なくなった。
上流が崩れ、流れが変わった。浅い水は泥に埋まり、精霊の声を聞く者もいなくなった。取り残された寂しさへ、森の外から流れてきた恐れと憎しみが、雨のたび少しずつ沈んでいった。
それは、イルの内側で気が遠くなるほど触れ続けたものと同じだった。
誰にも見つけてもらえない痛み。
誰かを傷つけてでも、ここにいると叫びたくなる痛み。
「見つけた」
ハミルは言った。
獣の爪が、彼の肩へ食い込む。
「お前は、ここにいる」
核を砕かず、包む。
かつてユーフォルスから借りた水の力は、もうない。あの日、自分で道を閉じた。
それでも、一つの魂を果てが見えないほど長く洗い続けた感覚だけは、ハミルの奥深くに染みついている。
そして今の身体には、イルと融合したことで、穢れを自分の内へ引き受ける性質がある。
ユーフォルスから借りる水とは違う。魔王と融合した今のハミルにだけ生まれた、歪な浄化だった。
核へ絡みつく黒いものを一本ずつ引き剥がし、自分の内へ移す。
引き剥がしたものは消えない。
指から腕へ。腕から肩へ。黒い熱となってハミルの中へ這い上がる。
「ぐ……っ」
皮膚の下に墨を流したような紋様が浮かんだ。右手の感覚が消える。耳鳴りの向こうで、エミリオが何か叫んでいるのに、もう言葉として聞き取れなかった。
『寄越せ』
イルの声だけが、痛みを割って届いた。
『駄目だ』
『半分だ。全部とは言っていない』
『これは、お前を浄化したものと同じだ』
『だから知っている。お前一人で抱えれば、そやつを救う前に腕が落ちる』
核の脈が弱くなる。
迷っている時間はなかった。
『半分だけだ』
『承知した』
封印が開いた。
黒い熱の一部が心臓の奥へ流れ、もう一つの鼓動に呑み込まれる。イルが息を詰める気配がした。それでも、核を包むハミルの手にわずかな余裕が戻った。
「戻ってこい」
遠くで、エミリオの声が重なる。
「戻ってきて!」
淡い光が、ひときわ強く瞬いた。
獣の巨体に亀裂が走る。
砕けたのではない。
乾いた泥の殻が剥がれ落ちるように、黒い肉体だけが崩れていく。沼を満たしていた水が渦を巻き、泥の底へ吸い込まれた。
最後に残った光を、ハミルは胸元へ抱きとめた。
抱きとめた光の中にいたのは、子鹿ほどの大きさの獣だった。
水で形作られた身体。額には、芽吹いたばかりの枝のような小さな角が二本ある。透き通った瞼が震え、青い目がゆっくりと開いた。
精霊はハミルを見た。
次に、泥だらけのエミリオを見る。
弱々しく鼻を鳴らすと、その身体は澄んだ水になって腕の隙間からこぼれた。
一筋の流れが窪地を走る。
水は埋もれていた沢筋をなぞり、泥と落ち葉の下から丸い石を洗い出した。やがて、長く眠っていたものが目を覚ましたように、ちろちろと小さなせせらぎが戻ってくる。
鳥が一羽、鳴いた。
それを合図にしたように、森の音が戻った。
ただ倒すのではなく、戻せた。
その事実が、黒い熱に削られた身体の奥へ静かに沁みた。長年かけてイルへしてきたことが、二人だけの水底で終わらなかったのだと思えた。
ハミルは、流れを取り戻した沢をしばらく見つめた。
以前なら、魔物を前にして迷うことはなかった。
火が核を砕き、風が集め、水が洗い、地へ還す。それが救うために必要なことで、それ以外の道があるなど考えたこともなかった。
けれど今、砕かなかった核から、一体の精霊が戻った。
細い沢の中を、澄んだ水が確かに流れている。
失ったものばかりだと思っていた年月が、初めて、何かを残してくれたような気がした。
『……ハミル』
『うん』
それ以上は、どちらも言わなかった。
「ハミル」
エミリオが駆け寄ってくる。
ハミルは右腕を背へ回した。紋様は手の甲まで浮き出ている。指先はまだ動かなかった。
「怪我は」
「俺は平気。それより、今の――」
「歩けるか」
「歩けるに決まってるだろ」
「なら帰ろう。お前の親父さんが、小屋を壊しかねない」
言い終える前に、斜面の上から枝を折る音がした。
「エミリオ!」
アバドだった。
待っていろと言ったはずの男が、外套を片手に転がるように駆け下りてくる。息子を見つけた途端、泥も水も構わず抱きしめた。
「馬鹿野郎! 何で勝手に森へ入った!」
「ごめん、父さん。あの、苦しそうな声がして」
「お前がいなくなったら、俺が――」
叱る声は途中で潰れた。
エミリオはしばらく目を丸くしていたが、やがて父の背へ両腕を回した。
「ごめん」
今度の言葉は、言い訳ではなかった。
ハミルは二人から視線を外した。
『右腕を隠せ』
声はひどく遠かった。
『分かっている』
胸中で答え、アバドが落としかけていた外套を左手で拾う。肩へ羽織ると、背の傷が痛んだ。
そのわずかな動きを、アバドは見逃さなかった。
「怪我をしたのか」
「枝で打っただけです」
「そんな顔で言っても説得力がない」
「生まれつきです」
「減らず口を叩けるなら、歩けるな」
アバドはエミリオの肩を抱いたまま、もう片方の腕をハミルへ差し出した。
ハミルが動かずにいると、苛立ったように顎をしゃくる。
「息子を連れ戻した奴まで、森に置いていけるか」
断る理由を探した。
だが、右腕は動かず、背中は呼吸のたびに軋んでいる。何より、胸の奥のイルは、右腕を隠せと告げたきり沈黙している。
ハミルは左手を伸ばし、アバドの腕を借りた。
「……すみません」
「礼なら小屋へ戻ってから聞く」
三人で斜面を上り始める。
背後では、戻ったばかりの沢が細い音を立てていた。
その澄んだ響きの下で、ハミルの心臓を囲む封印だけが、いつまでも熱を持って脈打っていた。




