第001話 森の家の同居人
十年後。
かつて世界の命運を分けた男は、鍋の豆が煮えているかどうかで、元魔王と言い争っていた。
『まだ芯がある』
「ない」
『ある。噛んだとき、ほんのわずかに抵抗した』
「それは豆の歯応えだよ」
『煮損ないを歯応えと言い張るな』
ハミルは木杓子を鍋の縁へ置き、深々と息を吐いた。
煮込みから立つ湯気が、目元を柔らかく撫でていく。豆と刻んだ根菜、それに昨夜仕留めた野兎の肉。香草は裏手の畑で育てたものだ。見た目は少々地味だが、味は悪くない。
少なくとも、長いあいだ食事らしい食事をしていなかった男に酷評されるほどではないはずだった。
「味覚を貸してやった恩を忘れるなよ」
『恩着せがましい。貴様一人で食えば、また塩を入れすぎるだろうが』
「昨日は薄いって言っただろ」
『昨日の反省がなぜ過剰投与に繋がる』
「繊細だな、魔王」
『雑だな、勇者』
ほとんど間を置かずに返され、ハミルは苦笑した。
森の外れに建てた小屋は、人ひとりで暮らすには十分な広さだった。粗末な寝台と古い卓、椅子が二脚。壁際には薪が積まれ、窓辺には乾燥させた薬草が束になって吊るされている。
椅子が二脚あるのは、客人のためだ。
間違っても、姿の見えない同居人のためではない。
『なら、なぜ私の側にだけ座面がへこんでいる』
「勝手に人の考えを読むなよ」
『読んでいない。貴様は分かりやすい』
「長い付き合いの相手へ言う台詞じゃないな」
『長い付き合いだからこそ言っている』
窓硝子に、ハミルの姿が薄く映った。
肩にかかる黒髪。光を映さない黒い瞳。
かつての水色は、どこにも残っていない。
窓の向こうは穏やかな朝だった。昨夜の雨を抱いた木々が雫を落とし、雲の切れ間から差した光が、湿った土を照らしている。
この森で暮らし始めてから、八度目の月が過ぎようとしていた。
初めてこの森へ迷い込んだとき、朽ちかけた小屋には屋根さえ半分しかなかった。それを直し、畑を耕し、獣道を覚えた。春先には雨漏りと戦い、夏には虫と戦い、つい先月は保存食を狙う狐と三日間の知恵比べをした。
魔王との戦いよりは、いずれも平和だった。
平和というものは案外、手がかかる。
ハミルはそれを気に入っていた。
『鍋』
「分かってる」
『吹いているぞ』
「分かって――熱っ」
慌てて蓋を持ち上げ、指先を火傷した。
胸の奥から、呆れ果てた沈黙が伝わってくる。
「笑いたければ笑え」
『笑う価値もない』
「優しいなあ」
『どこをどう聞けばそうなる』
指先を水桶へ浸したところで、戸が三度叩かれた。
軽く二度、少し間を置いてもう一度。
聞き慣れた合図だった。
「ハミル! いるか!」
少年の声が、薄い戸板を震わせる。
ハミルは外套を取り、頭から深くかぶった。
『必要ないだろう。あの親子は貴様の面を知っている』
「癖だよ」
『悪癖だ』
「君にだけは言われたくないな」
戸を開けると、少年が勢い余って転がり込んできた。
「うわっ」
その襟首を掴み、床へ顔を打つ寸前で止める。
「おはよう、エミリオ。今日も元気だな」
「お、おはよう。助かった」
「次からは、人の家へ体当たりする前に戸が開く可能性を考えようか」
「分かってるって。今日は父さんが早く知らせろって急かすからさ」
エミリオは十五になったばかりの少年だった。日に焼けた頬には細かな泥が跳ね、栗色の髪は雨上がりの枝葉に引っかけたらしく、あちこちへ跳ねている。
ハミルが襟から手を離すと、彼は何事もなかったように室内を見回した。
「何か煮てる?」
「豆と兎肉」
「食べていい?」
「俺の安否より先に聞くことか?」
「元気そうだからいいだろ」
実際、エミリオはハミルの顔を確かめていた。
外套の奥に覗く黒い瞳を見ても、怯えも嫌悪も浮かべない。ただいつものように、ちゃんと起きているか、病気をしていないか、食事を抜いていないかを見ている。
その無遠慮な気遣いが、ハミルにはありがたかった。
「二人分ならある。アバドさんは?」
「荷車を見てる。坂の手前で車輪が変な音を立てたんだ。俺だけ先に来た」
「それは豆の前に言ってくれ」
「豆の匂いを嗅いだら忘れた」
「十五歳の記憶力として心配だな」
『貴様が言えたことか』
否定できないのが腹立たしい。ハミルは胸の内の声を取り合わず、壁へ手を伸ばした。
「車輪だったな。工具を持っていく」
エミリオはしばらく不思議そうにしていたが、やがて肩をすくめた。
二人と最初に出会ったのは、ぬかるみにはまった荷車をハミルが一人で引き上げた日だった。アバドは礼を言い、エミリオはどうしてそんなに力が強いのかと尋ねた。黒い髪にも瞳にも触れなかった。別れ際、次は塩を持ってくるとだけ言った。
本当に持ってきた。
それから月に二度、二人は森を訪れるようになった。
ハミルは壁から工具袋を外し、火を弱めた。
「先に食べていていいよ」
「いいの?」
「味見を頼む。豆に芯が残っていないか、正直に答えてくれ」
エミリオは嬉々として鍋へ向かった。
外へ出ると、冷えた空気が頬を撫でた。
小屋の前から細い坂道が森へ下っている。荷車はその半ばで止まり、アバドが車軸の横にしゃがみ込んでいた。灰色の混じり始めた髪に、いつものつば広帽子をかぶっている。
「おはようございます、アバドさん」
「おう、ハミル。朝から悪いな」
「客を坂の途中で立ち往生させる方が落ち着きませんから」
「客、ねえ。代金をろくに払わん客だが」
「相場より高い塩を売りつける商人よりは良心的でしょう」
「あれは森の奥まで運ぶ手間賃だ」
「では修理代にも手間賃をいただきます」
「豆一杯でどうだ」
「息子さんがもう食べています」
「あの馬鹿」
悪態をつきながら、アバドの目は笑っていた。
荷車の下へ潜ると、車輪そのものではなく、車軸を留める金具が緩んでいた。長雨で道が荒れ、いつもより強い衝撃が続いたせいだろう。ハミルは泥を払い、工具を当てる。
半刻もかからず修理は終わった。
「これで麓の町までは持ちます。ただ、次は職人に見せてください」
「助かる。ここで車輪が外れたら、荷を背負って帰る羽目になるところだった」
「エミリオに半分持たせればいい」
「あいつなら道端へ捨てる」
「父さん、聞こえてるぞ!」
坂の上から声が飛んできた。片手には木の椀、もう片方にはパンを持っている。
「食いながら叫ぶな!」
「ハミル、豆、ちゃんと煮えてる!」
ほら見ろ、とハミルは胸の内へ得意げに返した。イルからは、あの小僧は何でもうまいと言う、という冷淡な答えが来た。
アバドは笑って立ち上がった。
追及しない。
ハミルがどこから来たのかも、なぜ人目を避けるのかも、黒い髪と瞳が生まれつきなのかも。
尋ねないこともまた、彼なりの親切なのだろう。
三人で遅い朝食を囲んだ。
椅子は二脚しかないため、エミリオが薪束へ腰を下ろす。アバドが運んできた硬いパンを煮込みへ浸し、ハミルは二人が持ってきた林檎を薄く切った。
他愛のない話が続いた。
麓の宿屋の看板が嵐で飛んだこと。町長の飼っている山羊が役所へ入り込み、重要な書類を半分食べたこと。エミリオが荷車の上で居眠りし、危うく川へ落ちかけたこと。
ハミルは笑い、時折相槌を打った。
人の暮らしは、十年で変わる。
宿屋の主人は代替わりし、知らない道が増え、銅貨の意匠まで変わっていた。
それなのに、こうして食卓を囲む声は、記憶の中のものと驚くほどよく似ている。
似ているからこそ、胸の奥が痛むこともあった。
『また冷めるぞ』
イルの声がした。
ハミルは黙って椀を持ち上げた。
痛みを見つけるのも、話題を逸らすのも、この同居人は妙にうまくなった。
「そういえば」
アバドが二杯目をよそいながら言った。
「北の街道が、しばらく通れなくなった」
ハミルは林檎を切る手を止めた。
「土砂崩れですか」
「いや」
アバドは声を落とした。
「魔物が出たらしい」
小屋の中から、音が消えた。
エミリオまでパンを置き、父親を見る。
「それ、本当なのか?」
「役人が道を封鎖した。俺もこの目で見たわけじゃないが、北から逃げてきた商人がいる。荷を捨てて、馬一頭だけで町へ入ったそうだ」
「けが人は」
「何人か戻っていない」
ハミルは手の中の小刀を卓へ置いた。
胸の内側で、イルが沈黙している。
先ほどまで豆の煮え方に文句をつけていた気配が、刃のように研ぎ澄まされていた。
「魔王が倒されてから、魔物は減ったんじゃなかったのか」
エミリオが言う。
「俺が小さいころは、この辺りにも出たって聞いたけど」
「十年前に勇者様方が魔王を倒してくださってからは、めっきり見なくなった。少なくとも、街道を閉じるほどのものはな」
アバドはそこで言葉を切り、ハミルの様子を窺った。
「どうした」
「いえ」
ハミルは小刀を取り、切りかけの林檎へ刃を入れた。
「物騒だと思っただけです」
薄く切りすぎた一枚が、まな板の上で崩れた。
『下手な芝居だ。動揺が手に出ている』
分かっている、とハミルは胸中で短く返した。
「魔物だけじゃない」
彼は荷物の中から、折り畳まれた紙を取り出した。
「近ごろ、妙な噂が多い。西でも南でも魔物を見たって話が出てる。酒場じゃ、魔王が戻ったんじゃないかなんて言う奴までいる」
紙が卓の上へ置かれる。
町で配られていた刷り物らしい。粗い紙面の上部に、大きな文字が躍っていた。
ハミルは読もうとした。
だが、その下に描かれた二人の姿が先に目へ入った。
一人は、見知らぬ少年だった。
まだあどけなさの残る顔で、誇らしげに胸を張っている。髪は淡く、水色に近い。絵師が意図してそう描いたのだと、一目で分かった。
その隣には、長い髪の男が立っていた。
印刷の黒一色では、本来の色など分からない。それでも、見間違えようがなかった。
生まれた瞬間から傍にいた。
手の伸ばし方も、立つときの重心も、微笑むときにわずかに伏せられる目元も、すべて知っている。
紙面には、こう記されていた。
――新たなる水の勇者、キース。
――偉大なる水の精霊ユーフォルス、十年の沈黙を破り、真の愛し子を見出す。
ハミルは、しばらく文字を見つめた。
「水の勇者は、十年前に死んだんだろ?」
エミリオが悪気なく言う。
「だから新しい勇者が選ばれたんだってさ。年も俺と二つしか違わないんだ。すごいよな」
「……そうだな」
答えた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
アバドがエミリオの頭を軽く叩いた。
「食い終わったなら荷を下ろしてこい。ハミルに頼まれていた小麦粉がある」
「今やろうと思ってたよ」
「口より先に手を動かせ」
エミリオは不満そうに立ち上がり、戸口へ向かった。出ていく寸前、振り返る。
「刷り物、いらないなら俺にくれよ。裏に勇者の得意技も書いてあるんだ」
「あとでな」
「破るなよ?」
戸が閉じた。
その音が、妙に大きく響いた。
ハミルはふと窓へ目を向ける。
雨上がりの森は明るい。葉から雫が落ち、湿った風が梢を揺らしている。
それなのに、どこか静かだった。
何がおかしいのかまでは、まだ掴めない。ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
イルも何も言わなかった。
アバドは残った煮込みを飲み干すと、何も言わずに椀を卓へ置いた。
「今日は、泊まっていってください」
ハミルが言うと、彼は片眉を上げた。
「急だな」
「街道が危ないなら、森を抜ける前に日が暮れます」
「まだ昼前だぞ」
「車輪も直したばかりです。様子を見た方がいい」
「それだけか?」
ハミルは答えず、もう一度窓の外を見た。
やはり、静かだ。
そこでようやく気がついた。
鳥の声がしない。
一羽も。
『気づいたか』
イルの低い声が、胸の奥で響く。
ハミルは椅子を引いて立った。
「アバドさん。エミリオを中へ」
「ハミル?」
「早く」
声音が変わったのだろう。アバドは問い返さず、すぐに戸を開けた。
「エミリオ! 荷はいい、戻れ!」
返事がない。
荷車は坂の途中に停まったままだった。
開かれた荷箱の脇に、小麦粉の袋が一つ落ちている。落とした拍子に口が裂けたらしく、白い粉が湿った地面へ広がっていた。その粉を踏んだ靴跡が、木々の間へ続いている。
「エミリオ!」
アバドが外へ飛び出そうとする。その肩を、ハミルは掴んだ。
「離せ!」
「一人で行けば、あなたまで戻らない」
「息子が!」
「俺が連れ戻します」
黒い瞳が、森の奥を捉える。
小麦粉のついた靴跡。その先、低い枝に引っかかった栗色の髪が一本。
さらに奥には、人の足跡とは違う、深く抉れた痕があった。
雨の匂いに混じり、腐った水のような臭気が漂ってくる。
ハミルの心臓の周囲で、古い封印が脈打った。
『これは――』
イルが言葉を止める。
その沈黙だけで十分だった。
ハミルは外套の留め具を外し、アバドへ押しつけた。
朝の光の下へ、漆黒の髪がこぼれる。
「戸を閉めて、俺が戻るまで開けないでください」
「待て、ハミル。お前、いったい――」
「大丈夫です」
かつて何度もそうしたように、相手を安心させるための笑みを作る。
うまく笑えている自信はなかった。
「人捜しは、得意なんですよ」
ハミルは白く残った靴跡を追い、静まり返った森へ踏み込んだ。




