プロローグ 水底に残る
魔王イルの胸を、炎の大剣が貫いた。
轟音より先に、光が来た。
白熱した亀裂がイルの全身を走り、謁見の間を満たしていた闇が、内側から引き裂かれていく。燃えるような赤髪を振り乱し、レイオスが咆哮した。その両腕に重なるのは、火の精霊バーミッドの剛力だった。
「砕けろおおおッ!」
刃の向こうで、イルの口元が歪んだ。
笑ったようにも見えた。
次の瞬間、魔王の身体が砕けた。
黒い光が、無数の破片となって弾け飛ぶ。
「フラーシア!」
「ええ、ひと欠片たりとも逃がさないわ!」
メルクリオが掲げた杖を中心に、翡翠色の風が渦を巻いた。彼の薄緑の髪が激しく翻り、その背後でフラーシアの長い髪が光の尾を引く。肉眼では砂粒ほどにも見えない核の欠片が、風に輪郭を与えられ、一つ、また一つと暗い空間からさらい上げられていった。
天井が鳴った。
玉座の背後を走った亀裂から、黒い石片が降り注ぐ。
「上!」
マルテが短く告げ、両手を床へついた。
深い茶色の髪の上へ落ちかけた瓦礫を、せり上がった岩壁が受け止める。その肩には土まみれのポルタニアがしがみつき、普段の何倍もの速さでまくしたてていた。
「もう嫌だよこの城、じめじめしてるし暗いし土もまずいし、崩れるなら先にそう言ってほしいよね! いや言われても来たけどさ、マルテが行くっていうから!」
「ポルタニア、右も頼む」
「はいはい、右ね! 右ってそっちの右で合ってる!?」
「合ってる」
地面がうねり、横殴りに飛んできた石柱を呑み込んだ。
その間にも、メルクリオたちの風は黒い欠片を集め続けていた。散り散りだった光が空中で寄り合い、やがて人ひとりを抱え込めるほど巨大な結晶を形作る。
魔王の核。
本来なら透き通っているはずのそれは、夜よりも暗かった。
表面の奥で幾筋もの影がもがき、押し合い、時折、人の顔のようなものを浮かび上がらせては消える。目にしているだけで、胸の内へ自分のものではない憎悪が流れ込んでくる。耳を塞いでも届く叫びに、ハミルは一瞬、息を忘れた。
「ハミル!」
呼ばれて我に返る。
振り向かなくとも、誰の声かは分かっていた。生まれたときから、数え切れないほど名を呼ばれてきた。
ユーフォルスが傍らへ降り立つ。長い水色の髪は煤に汚れ、白い頬には細い傷が走っていた。それでも彼はいつもと同じように穏やかに微笑み、ハミルへ手を差し出した。
「始めましょう」
「ああ」
その手を取る。
冷たい水が指先から流れ込んだ。冷たいのに、懐かしい。傷つき、熱を持った身体の隅々まで、澄んだ力が満ちていく。
ハミルは巨大な核の前へ進んだ。
背後ではレイオスが荒い息をつきながら大剣を支えに立っている。メルクリオは杖を握る手を震わせ、それを見られまいと笑っていた。マルテは無言で岩壁を保ち続けている。三人とも、立っているのが不思議なほど傷だらけだった。
精霊たちも同じだ。
それでも、誰も欠けていない。
レイオスは、幼いころから何度負けても懲りずに勝負を挑んできた。誰より不器用で、誰よりまっすぐな幼馴染だ。
メルクリオは、どれほど追い詰められても軽やかに笑う。けれど、その笑みの奥にある信念が、誰より頑固なことをハミルは知っていた。
マルテは一行でいちばん年下なのに、慌てる皆を黙って支えてくれる。弟のように思っていたはずが、いつの間にか何度も頼られていた。
豪快なバーミッドは、レイオスと一緒になって騒ぐくせに、危ないときには誰より先に彼を庇う。あの髭面を見ると、ハミルまで少し安心した。
フラーシアは何より美しいものを愛し、メルクリオにはとりわけ甘い。気位の高さに隠してはいるが、仲間の傷を誰より嫌う精霊でもあった。
ポルタニアは、起きているあいだは息をするように喋り続ける。静かなマルテとのやり取りを聞いていると、どんな野営地も少しだけ賑やかになった。
そしてユーフォルスは、生まれたときからずっと傍にいる。言葉にする前の考えまで見抜かれてしまうことを、ハミルは一度も嫌だと思ったことがなかった。
ここまで来た。
「終わらせよう」
ハミルが言うと、レイオスは血の滲んだ口の端を持ち上げた。
「遅えんだよ。とっとと片づけろ、水色頭」
「誰のおかげで、その水色頭が仕事できると思ってるんだ?」
「俺だろ」
「俺たち、だ」
訂正すると、レイオスは一度だけ目を見開き、すぐに鼻を鳴らした。
「分かってる」
ハミルは笑った。
それから核へ両手を触れた。
世界が、黒く染まった。
憎い。
苦しい。
許さない。
返せ。
幾千、幾万もの声が、腕を伝ってハミルの中へ押し寄せた。歯を食いしばる間もなく膝が折れる。だが床へつく寸前、ユーフォルスの腕が身体を支えた。
「私がいます」
耳元で、静かな声がした。
「あなたは一人ではありません」
分かっている。
分かっていたから、ここまで来られた。
ハミルは目を閉じ、押し寄せる黒の中へ水を放った。清らかな流れが、核を内側から洗っていく。黒い靄が一筋ずつ剥がれ、その下からわずかな透明が覗く。
だが、次の瞬間には倍する闇が湧き上がり、透明な箇所を呑み込んだ。
「……深すぎる」
ユーフォルスの声から、初めて余裕が消えた。
ハミルも同じ結論に達していた。
通常の魔物とは比べものにならない。湖を清めようとしていたはずが、底のない海へ手を差し入れている。こちらの力が尽きるのが先か、核が澄むのが先か。考えるまでもなかった。
それでも手は離せない。
ここで中断すれば、集めた欠片は再び散る。完全に砕けきらなかった意思が闇を寄せ集め、イルはいずれ蘇る。
足元が大きく跳ねた。
玉座が崩れ、床に呑まれていく。壁の亀裂から吹き込んだ赤黒い風が、炎を一息で消した。
「城がもたんぞ!」
バーミッドが吠えた。
「出口までの回廊も崩れ始めてる! ここにいたら、勇者も精霊もみんな生き埋めだよ!」
ポルタニアの声が裏返る。
「浄化には、どれくらいかかる」
マルテが尋ねた。
ハミルは答えなかった。
答えられなかった。
腕の中で核が脈打つたび、骨の内側を黒い刃で削られるようだった。水は確かに届いている。ほんのわずかずつだが、汚れは落ちている。
時間さえあれば。
ここではないどこかへ、この核を持ち出せれば。
しかし巨大な核を保ったまま運ぶことはできない。メルクリオとフラーシアが風を解けば、欠片は散る。マルテとポルタニアが支えを解けば、その前に城が落ちる。レイオスとバーミッドには、再び凝り始めた核をいつでも砕けるよう構えてもらわなければならない。
四人と精霊全員がここにいるから、今の均衡が保たれている。
四人と精霊全員がここにいれば、誰も生きて帰れない。
胸の奥に、ひどく静かなものが降りた。
旅の途中、何度もそうしてきたように、ハミルは仲間たちを見た。
レイオスの左脚はもうまともに動かない。メルクリオは魔力の使いすぎで焦点が合っていない。マルテの背には深い傷がある。バーミッドの右腕は半ば透け、フラーシアの光は弱く、ポルタニアの爪は何枚も割れている。
ユーフォルスだけは、ハミルを見ていた。
核も、崩れる城も見ずに。
きっと彼だけは、ハミルが何を考えたのか分かった。
「いけません」
ユーフォルスが言った。
穏やかな声音だった。いつもと変わらない敬語だった。
ただ、ハミルの肩を抱く指だけが、痛いほど強かった。
「まだ何も言ってない」
「おっしゃらなくても分かります」
「さすがだな」
「褒めている場合ではありません」
水色の瞳が、初めてはっきりと揺れた。
ハミルは核へ触れたまま、自分の内側を探った。
人間の命を支える心臓。その周囲を巡る水の力。勇者としてユーフォルスと結ばれた道。そして長い旅の末に身につけた、いくつもの封印術式。
器なら、ここにある。
核を持ち出せないのなら、自分を核の牢にすればいい。
イルを身体へ取り込み、肉体そのものを封印術式として閉じる。成功する保証はない。取り込んだ瞬間に呑まれるかもしれない。封印できても、再び外へ出られるかは分からない。
けれど、浄化を続ける時間は得られる。
「ハミル」
レイオスの声がした。
低く、押し殺した声だった。
「今、何を考えた」
「お前にしては勘がいいな」
「答えろ」
軽口は届かなかった。
レイオスが足を引きずりながら近づいてくる。バーミッドが肩を貸そうとしたが、乱暴に振り払われた。
「四人と精霊全員で出る方法を考えろ。お前、そういうの得意だろ」
「考えたよ」
「じゃあ言え」
「全員では無理だ」
レイオスの顔から、表情が消えた。
轟音が落ちる。天井の一角が崩れ、マルテの岩壁へ激突した。マルテが小さく呻き、片膝をつく。ポルタニアが泣きそうな声で彼の名を呼んだ。
猶予はない。
「俺がイルを取り込んで封じる」
ハミルは仲間たち全員に聞こえるよう、はっきりと言った。
「核をここから動かせないなら、動ける器に入れるしかない。封印したまま浄化を続ける。お前たちは今すぐ城を出ろ」
「却下だ」
レイオスは一息で答えた。
「珍しく意見が合うね。僕も反対だ」
メルクリオは笑おうとして失敗した。美しい顔が、ひどく幼く見えた。
「そんな姿、少しも美しくないわ」
フラーシアが震える声で言った。
「勝手に一人で残るなんて。ハミル、あなた、そんな醜いことをする人ではなかったでしょう」
「ごめん」
「謝ればいいと思っているの!?」
「思ってないよ」
だから、ほかに言える言葉がなかった。
「別の方法を」
マルテが、岩壁を支えたまま言った。
いつも静かな少年の声が、今は掠れていた。
「もう一度、探そう。僕も残る」
「だめだ」
「どうして」
「お前が残ったら、ポルタニアも残る」
「あたりまえだよ!」
ポルタニアが叫ぶ。
「マルテがいるのに僕だけ逃げるわけないだろ! それにハミルだっている! 僕はまだ喋り足りないんだからね、全然、ぜんっぜん足りないんだから!」
「うん。知ってる」
ハミルは微笑んだ。
それがいけなかった。
ポルタニアは大きな前脚で顔を覆い、子どものように泣き始めた。
メルクリオが杖を握り直す。
「風で君ごと運ぶ」
「核の欠片を押さえながらは無理だ」
「やってみなくちゃ分からない」
「お前なら分かるだろ」
ハミルが静かに返すと、メルクリオは唇を噛んだ。
分かっているのだ。
誰もが、もう分かっていた。
だからこそ、認められなかった。
「私が残ります」
ユーフォルスが言った。
ハミルの肩を抱いたまま、一歩も動かずに。
「ほかの三人と精霊の皆様はお逃げください。私はハミルと共にいます」
「ユーフォルス」
「あなたが残る理由があるのなら、私にも残る理由があります」
「だめだ」
「なぜです」
「君には、レイオスたち三人と精霊たちを外へ導いてもらう」
「お断りします」
微笑みは消えていた。
これほど明瞭に拒まれたのは、いつ以来だろう。生まれた瞬間から傍にいた。言葉を覚える前のハミルを知っている。初めて転んだ日も、初めて誰かのために泣いた日も、勇者として選ばれた日も、彼はすべて見ていた。
その彼へ、ハミルは残酷な願いをしようとしている。
「ユーフォルス」
「嫌です」
「まだ言ってない」
「聞きたくありません」
「聞いてくれ」
ユーフォルスの顔が歪んだ。
ほんの一瞬だった。すぐにいつもの静かな表情へ戻ったが、ハミルは見逃さなかった。
「レイオスは歩けない。メルクリオは目がよく見えていない。マルテはもう限界だ。三人と精霊たちを連れていけるのは君しかいない」
「それでも」
「お願いだ」
命令にはしたくなかった。
生まれてからずっと共にいた相手へ、最後に勇者の権利を振りかざしたくはなかった。
「三人と精霊たちを、生きて帰してくれ」
「では、あなたは」
問いの続きを、ユーフォルスは口にできなかった。
ハミルにも答えはなかった。
「俺も生きる方法を探す」
嘘ではない。
生きたいと思っていた。
旅が終わったら、レイオスとは決着をつける約束だった。メルクリオが勝手に選んだ揃いの礼服を着て、四人で王の前へ立つはずだった。マルテには、故郷の森を案内してもらうことになっていた。ポルタニアには、丸一日でも話を聞くと約束していた。
ユーフォルスとは――約束する必要さえないと思っていた。
明日も傍にいるのが、当たり前だったから。
「ふざけるな」
レイオスがハミルの胸倉を掴んだ。
核へ触れた腕が引かれ、黒い光が激しく明滅する。すぐさまハミルは手を戻したが、ほんの一瞬の中断だけで、透明になりかけていた箇所が闇へ呑まれていた。
レイオスもそれを見た。
掴んだ手が震える。
「お前はいつもそうだ。勝手に決めて、正しい顔をしやがる」
「正しいとは思ってない」
「なら来い」
「行けない」
「俺が守る」
掠れた声だった。
幼いころから、何度も聞いた言葉だった。勝負を挑むたび、負けるたび、レイオスは次こそ勝つと言った。いつかお前より強くなって、お前を守ってやると。
ハミルは胸倉を掴む手に、自分の手を重ねた。
「知ってる」
「だったら!」
「ずっと守ってもらってたよ」
レイオスが息を止めた。
「お前がいたから、ここまで来られた」
「過去形にするな」
「分かった」
「笑うな」
「分かったって」
「置いていかせるな、ハミル」
最後の言葉は、ほとんど声にならなかった。
ハミルは答えられず、その手を強く握った。
城が、また一つ大きく沈んだ。
遠くで回廊の崩れ落ちる音が続く。空気が軋み、出口へ通じる扉の向こうを闇が覆い始めていた。
もう、本当に時間がない。
ハミルは仲間たちを順に見た。
レイオス。メルクリオ。マルテ。
バーミッド。フラーシア。ポルタニア。
そして、ユーフォルス。
傷だらけで、煤だらけで、誰も英雄らしくなど見えなかった。
それでもハミルにとって、何より誇らしい仲間たちだった。
「ごめん」
もう一度だけ言った。
今度は誰も怒らなかった。
怒れなかった。
ハミルはユーフォルスと繋いだ手から、静かに水の力を返した。
そして、その道を閉じた。
「――ハミル?」
ユーフォルスの声が、初めて頼りなく揺れた。
足元から水の壁が立ち上がる。澄んだ奔流はハミルと巨大な核を内側へ残し、ほかの三人と四体の精霊を扉の側へ押しやった。
「ハミル!」
レイオスが壁を殴る。
一度。二度。拳の皮が裂け、血が透明な水へ散った。
「開けろ! ハミル、開けろッ!」
「行って」
「ハミル!」
「ユーフォルス」
名を呼ぶ。
水の壁の向こうで、彼は立ち尽くしていた。
いつものように微笑んではいなかった。泣いてもいなかった。ただ、世界のすべてを失う寸前の人の目で、ハミルを見ていた。
ハミルはその眼差しを受け止めた。
「頼んだ」
長い沈黙のあと、ユーフォルスが両腕を広げた。
水が三人と四体の精霊を包み込む。
レイオスが暴れ、メルクリオが何かを叫び、マルテがこちらへ手を伸ばした。バーミッドがレイオスを抱え込み、フラーシアが顔を覆い、ポルタニアの泣き声が崩落音を越えた。
ユーフォルスは最後まで、ハミルから目を逸らさなかった。
扉の向こうへ彼らの姿が消える。
その瞬間、水の壁が砕けた。
謁見の間に、静けさが落ちる。
いや、静かなはずはなかった。城は崩れ続け、石は降り、地の底では何かが唸っている。それでも先ほどまでそこにあった声が消えたことに比べれば、すべてが遠かった。
「……さて」
返事をする者はいない。
いつもの癖で軽口を叩こうとして、失敗した。
ハミルは黒い核へ向き直る。
内側で、イルの気配が蠢いた。砕かれ、集められ、それでもなお世界を憎み続ける巨大な意思。
怖くないと言えば、嘘になる。
死にたくない。
帰りたい。
もう一度、仲間たちの声が聞きたかった。
それでも、選ぶことはできた。
「お前を、このままにはしない」
ハミルは核へ額を寄せた。
冷たく、深い闇だった。
「俺の中へ来い、イル」
心臓の周囲へ、封印の術式を一つずつ刻んでいく。水の道を閉ざし、血と骨と魂を結び、己の身体を一つの牢へ作り替える。
最後の術式が、淡い水色の光を放った。
ハミルは目を閉じた。
そして、自らの内側へ向けて扉を開いた。




