↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/60

第008話 残った一箱

 妻が到着してから、男は同じ言葉を三度繰り返した。


「お前が、俺に置いていかれたと言った」


 寝台の脇に座った女――ミラは、そのたびに首を横へ振った。


「言ってないよ。先に行って、人を呼んでって頼んだんじゃないか」


「でも、見捨てたって……」


「言ってない。そんなこと、あんたに言うわけないだろう」


 ミラの右足首には添え木が巻かれていた。北門近くの臨時収容場所から担架で運ばれたばかりで、顔には雨と泥の跡が残っている。


 それでも夫の手を握る指には、しっかり力が入っていた。


 その手を見ていると、セラまで「言っていない」という言葉を信じたくなる。


 治療師が望みで診断を変えてはいけない。


 そう自分へ言い聞かせ、セラは男の顔へ視線を戻した。


 男は妻の顔も、名前も分かっている。自分たちがどの村から逃げてきたかも、街道で荷車が倒れたことも覚えていた。


 食い違うのは、別れ際に妻から言われたという言葉だけだ。


「その言葉を聞いたのは、いつですか」


「……昨日だ。道で、こいつと別れたとき」


「眠っているときではなく?」


「起きてた。ちゃんと聞いた」


 ミラが困ったように夫の手を握り直す。


「だから、言ってないって」


「でも……」


 男の呼吸が少し速くなった。


「分かりました。今は思い出そうとしなくて大丈夫です」


 セラはそこで話を切り、脈を数え直した。


 熱はまだある。けれど、朝より呼吸は深く、脈も落ち着いている。


 発熱。睡眠不足。何日も続いた避難生活。食事も十分ではない。


 意識が混乱する理由なら、いくつもあった。


 さらに朝の確認では、セラが半量を追加する前に、すでに二包飲んでいたという。服用量が多かったのなら、それでも説明はつく。


 ただ、本人はあのとき混乱していた。


 「朝に一包」「昼前にも一包」という話が正しいかどうかは、記録で確かめる必要がある。


 そして、それとは別に引っかかっていることがあった。


 頭巾をかぶった若い男に支えられているあいだ、何度呼びかけても届かなかった声が、急に届くようになった。


 肩の力が抜け、呼吸が深くなり、焦点の合わなかった目がセラを捉えた。


 その直後、若い男の左手は不自然なほど冷たくなっていた。


 偶然かもしれない。


 それでも、あの男は何かを隠した。


 少なくともセラには、そう見えた。


「セラさん」


 記録板を持った職員が、天幕の入口から呼んだ。


「今朝、この方へ渡した分です」


 挟まれていた空の紙包みを受け取る。折り目を開くと、内側の隅に細い青線が一本引かれていた。


 調薬所では、箱を取り違えないよう、包みの内側へ色の違う線を入れる。青線は四日前に開けた一箱の印だった。


「もう一包の方は?」


「確認中です。別の天幕でもらっていたなら、こちらの記録にはまだ上がっていません」


「分かりました。見つかったら、この方の記録に挟んでおいてください」


「この箱は下げますか?」


 セラは一瞬、手元の青線を見た。


 服用量が多かった可能性は高い。それだけで箱そのものに問題があるとは言えない。


「……いいえ。今は通常どおりで。ただし、一日の量は必ず確認してください。この方にはもう使いません」


「分かりました」


「あ、それと。今朝この箱から渡した人数だけ、分かれば控えておいてください。念のためです。症状があると決めつけて聞き回る必要はありません」


 職員が頷いて天幕を出ていく。


 セラは紙包みを記録板へ戻した。


 青線は、今のところただの記録だ。


 それでも、薬を飲ませた直後に起きた変化まで忘れる気にはなれなかった。


 昼を過ぎたころ、男はようやく眠った。


 ミラも寝台の横でうとうとし始めている。


 セラは隣の治療師へ二人を頼み、天幕の外へ出た。


 そこで足を止めた。


 朝の頭巾の男へ、もう一度話を聞きたい。


 本当に、ただ身体を支えただけなのか。


 聞いたところで素直に答えるとは思えない。そもそも、患者が落ち着いたことと彼に関係があるという根拠さえない。


 それでも、このまま記録へ「発熱と過剰摂取による混乱」とだけ書くには、朝の変化が鮮明すぎた。


 幸い、彼と一緒にいた商人なら知っている。


 アバド。


 町で荷を扱っていれば、店を探すのは難しくなかった。


「少し外します」


 腕章を外し、セラは南門を離れた。


 壁際の混雑を抜けると、町の音が少しずつ変わっていく。


 泣く子どもの声や担架を呼ぶ声が遠ざかり、代わりに値段を交わす声、荷を降ろす音、鍋を叩く音が近くなる。


 壁一枚の内側では、いつもの暮らしが続いていた。


 薬屋の前では、年配の女が紙包みを受け取りながら笑っている。


「これ、よく眠れるのよ。うちの人にも持って帰るわ」


「一度に飲みすぎちゃ駄目ですよ」


 店番も笑って返した。


 救済院から回された粉薬だ。


 セラは足を緩めた。


 目の前の女性は何の不安もなく包みをしまう。実際、薬で眠れるようになった、身体が楽になったという患者をセラ自身が何人も診ている。


 薬そのものを疑いに行くわけではない。


 確かめたいのは、朝の患者が急に落ち着いた理由と、そのときそばにいた男のことだ。


 通りを二つ曲がったところで、教えられた看板が見えた。


 アバドの店だった。


 セラは道の向かいで一度立ち止まった。


 患者の容体は落ち着いている。今すぐ聞かなければならない話ではない。


 引き返そうかと思ったところで、店の奥からエミリオの声が聞こえた。


「だから俺が持つって!」


「お前は昼飯を持て!」


 朝と変わらない親子の声だった。


 セラは小さく息を吐いた。


 ここまで来て帰る方が、よほど落ち着かない。


 表戸を二度叩いた。


 少しして、奥からアバドが顔を出した。


「……治療師さん?」


「突然すみません」


 アバドの顔から、すぐに笑みが消える。


「倒れた男に何かあったのか」


「容体は落ち着いています。奥様も無事に着きました。ただ……朝のことで、少し確認したいことがあります」


 アバドは一度だけセラの顔を見てから、店の奥を振り返った。


「入ってくれ」


 倉庫の脇を抜け、狭い居間へ通される。


 そこには三人ともいた。


 エミリオはパンと小鍋を抱え、頭巾の男は窓から遠い椅子へ座っている。


 棚の奥に、見慣れない浅い皿が置かれていた。

その中には、水で濡れた青灰色の粉が残っている。


 セラの足が止まった。


 見覚えがあった。


「休んでいたところでしたか」


「ええ。正確には、休まされていたところです」


「同じです」


「そこ、治療師は譲ってくれないんですね」


「患者も、なかなか譲ってくれませんから」


 一瞬だけ、頭巾の下の口元が笑った。


 だがセラの目は、すぐ棚の皿へ戻った。


「……それ、薬ですよね」


 青年の口元から笑みが消える。


「あー……そう見えますよね」


「見えます。南門で配っているものと同じに」


「同じものです」


「どうして、あなたが調べているんですか?」


 問いかけると、青年はすぐには答えなかった。


 アバドが戸を閉める。


「先に、そっちの話を聞かせてくれ。何を確認しに来た」


 セラは頷いた。


「朝、あの方を支えていたときのことです」


 青年の肩が、わずかに固くなる。


「本当に、身体を支えただけですか?」


「……その話ですか」


「その話です」


「支えたのは本当ですよ」


「それ以外は?」


「難しい質問ですね」


「難しくしているのはあなたです」


 青年が困ったように息を吐く。


「患者さん、何かありました?」


「今は眠っています。奥様も着きました」


 頭巾の下の表情が、少しだけ緩んだ。


「それなら良かった」


 その声には、素直な安堵があった。


「ただ、奥様が言っていない言葉を、実際に聞いたと言い続けています」


「言っていない言葉?」


「『置いていかれた』『見捨てられた』と。奥様は、先に人を呼んでほしいと頼んだだけだと言っています」


 青年が黙った。


 先ほどまでの軽い調子が消える。


「熱や疲労のせいかもしれません。服用量が多かった可能性もあります。記録もまだ全部は確認できていません。ただ――」


 セラは一度言葉を切った。


「私がここへ来た一番の理由は、あなたが触れている間に、あの方の状態が急に変わったからです」


 青年は何も言わない。


「呼びかけにも反応できなかった方が、あなたが手を離す前には私を見て返事をしました。そのあと、あなたの左手は冷たくなっていた」


「偶然かもしれませんよ」


「ええ。だから、確認に来ました」


 少し意外だったのか、青年が黙る。


 その横でエミリオが皿を見た。


「じゃあ、薬のことを聞きに来たんじゃないんだ」


「そのつもりはありませんでした」


 セラも皿を見る。


「……来るまでは」


「それはまあ、気になりますよね」


 青年が頭を掻こうとして、右手がうまく上がらず途中でやめた。


「昨日もらった薬です。ちょっと気になることがあって、開けて見てました」


「何が気になったんですか」


「それが、説明しづらくて」


「朝から、そればかりですね」


「あー……すみません」


 セラは皿へ近づいた。


 青灰色の粉は水を吸って崩れている。その中に、ごく小さな灰色の粒が二つだけ、水の表面に浮いたまま形を残していた。


「これは?」


「水を弾いた粒です。乾いてると他の粒とほとんど見分けがつかないんですが、水を落としたら、それだけ浮いたんです」


「滋養石では?」


「見た目は、そう見えます」


「見た目は?」


 青年は少し迷った。


「俺には、粒の周りに変なものが見えるんです。ただ、正体は分かりません」


 セラは皿へ顔を寄せた。


 二粒の灰色は、言われて初めて他の粉と区別できる程度のものだった。けれど確かに、水を吸った周囲の粉とは違って崩れず、表面に残っている。


 その周囲へさらに目を凝らしても、セラには何も見えない。


「粒そのものは見えます。でも、その周りには何も見えません」


「ですよね」


「危険なんですか」


「それも、まだ」


「では、どうして調べようと?」


 青年は皿を見た。


「普通の薬なら、水を入れれば崩れるか溶けるでしょう。それなのに数粒だけ、あんなふうに浮いて残った。それに、何なのか分からないものが混ざってるなら、知っておきたいなと」


「だから、薬が原因だと思っている?」


「そこまでは。飲んでも何も起きてない人もいましたから」


 原因を見つけたのではない。


 彼も、分からないから調べているだけなのだ。


 セラは手元の記録板から、患者が今朝飲んだ空の紙包みを取り出した。


「今朝、あの方が飲んだ分です」


 内側の青線を見せる。


「箱ごとの印です。青線は、四日前に開けた一箱のものです」


「その箱が怪しいんですか?」


「いいえ。今のところ、ただの記録です」


 そう言い切ってから、セラは卓の脇に畳まれていた紙へ目を止めた。


 皿へ薬を出した包みだろう。


「そちらも見ても?」


 アバドが紙を取り、内側を開いた。


 細い青線が一本あった。


 部屋が静かになる。


「……同じですね」


 セラが言う。


「昨日、俺が南門でもらった分だ」


 アバドが答えた。


 同じ薬だからではない。


 同じ箱から出た二つの包みだった。


 一つは、朝倒れた男が飲んだ。


 一つは、目の前で灰色の粒を残している。


 それでも、二つだけだ。


「偶然かもしれません」


「ええ」


 青年も頷く。


「ただ……この箱については、少し確認してみます。ほかに飲んだ方がどうだったか。調薬所の記録も残っているはず」


 過剰摂取だけなら、薬そのものに異常があるとは言えない。


 けれど、朝の患者と、目の前の灰色の粒が同じ青線の上で重なった。


 まだ疑うには足りない。


 無視するには、少し気になりすぎる。


「この皿は、そのまま置いておいてもらえますか?」


「ええ。俺たちも、もう少し見てみたいのでそのつもりです」


「分かりました。よろしくお願いします」


 セラは頷いた。


 青年の肩から、少しだけ力が抜ける。


 信用したわけではない。


 ただ、分からないものを分からないまま扱う、という点だけは同じだった。


 セラは記録板を閉じかけて、手を止めた。


 もう一つだけ、言っておくべきことがある。


「それと……」


「はい?」


「私が三日前に飲んだ薬も、青線でした」


 青年の動きが止まった。


「え?」


 初めて、年相応の声が漏れた。


 次の瞬間には、頭巾の奥の視線が青線の紙ではなく、セラの胸元へ向いていた。


 衣服を見ているのではない。


 その向こうにある何かを、確かめるような目だった。


「……どうしました?」


 呼びかけても、すぐには返事がない。


 セラは自分の胸へ手を当てた。


 痛みも、息苦しさもない。


 それなのに目の前の男は、そこに何かがあると知っているような顔をしていた。

「続きが気になる」「面白い」と感じていただけましたら、

【ブックマーク追加】 や 【★★★★★評価】 をポチッと押していただけると、執筆の大きな励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。