第008話 残った一箱
妻が到着してから、男は同じ言葉を三度繰り返した。
「お前が、俺に置いていかれたと言った」
寝台の脇に座った女――ミラは、そのたびに首を横へ振った。
「言ってないよ。先に行って、人を呼んでって頼んだんじゃないか」
「でも、見捨てたって……」
「言ってない。そんなこと、あんたに言うわけないだろう」
ミラの右足首には添え木が巻かれていた。北門近くの臨時収容場所から担架で運ばれたばかりで、顔には雨と泥の跡が残っている。
それでも夫の手を握る指には、しっかり力が入っていた。
その手を見ていると、セラまで「言っていない」という言葉を信じたくなる。
治療師が望みで診断を変えてはいけない。
そう自分へ言い聞かせ、セラは男の顔へ視線を戻した。
男は妻の顔も、名前も分かっている。自分たちがどの村から逃げてきたかも、街道で荷車が倒れたことも覚えていた。
食い違うのは、別れ際に妻から言われたという言葉だけだ。
「その言葉を聞いたのは、いつですか」
「……昨日だ。道で、こいつと別れたとき」
「眠っているときではなく?」
「起きてた。ちゃんと聞いた」
ミラが困ったように夫の手を握り直す。
「だから、言ってないって」
「でも……」
男の呼吸が少し速くなった。
「分かりました。今は思い出そうとしなくて大丈夫です」
セラはそこで話を切り、脈を数え直した。
熱はまだある。けれど、朝より呼吸は深く、脈も落ち着いている。
発熱。睡眠不足。何日も続いた避難生活。食事も十分ではない。
意識が混乱する理由なら、いくつもあった。
さらに朝の確認では、セラが半量を追加する前に、すでに二包飲んでいたという。服用量が多かったのなら、それでも説明はつく。
ただ、本人はあのとき混乱していた。
「朝に一包」「昼前にも一包」という話が正しいかどうかは、記録で確かめる必要がある。
そして、それとは別に引っかかっていることがあった。
頭巾をかぶった若い男に支えられているあいだ、何度呼びかけても届かなかった声が、急に届くようになった。
肩の力が抜け、呼吸が深くなり、焦点の合わなかった目がセラを捉えた。
その直後、若い男の左手は不自然なほど冷たくなっていた。
偶然かもしれない。
それでも、あの男は何かを隠した。
少なくともセラには、そう見えた。
「セラさん」
記録板を持った職員が、天幕の入口から呼んだ。
「今朝、この方へ渡した分です」
挟まれていた空の紙包みを受け取る。折り目を開くと、内側の隅に細い青線が一本引かれていた。
調薬所では、箱を取り違えないよう、包みの内側へ色の違う線を入れる。青線は四日前に開けた一箱の印だった。
「もう一包の方は?」
「確認中です。別の天幕でもらっていたなら、こちらの記録にはまだ上がっていません」
「分かりました。見つかったら、この方の記録に挟んでおいてください」
「この箱は下げますか?」
セラは一瞬、手元の青線を見た。
服用量が多かった可能性は高い。それだけで箱そのものに問題があるとは言えない。
「……いいえ。今は通常どおりで。ただし、一日の量は必ず確認してください。この方にはもう使いません」
「分かりました」
「あ、それと。今朝この箱から渡した人数だけ、分かれば控えておいてください。念のためです。症状があると決めつけて聞き回る必要はありません」
職員が頷いて天幕を出ていく。
セラは紙包みを記録板へ戻した。
青線は、今のところただの記録だ。
それでも、薬を飲ませた直後に起きた変化まで忘れる気にはなれなかった。
昼を過ぎたころ、男はようやく眠った。
ミラも寝台の横でうとうとし始めている。
セラは隣の治療師へ二人を頼み、天幕の外へ出た。
そこで足を止めた。
朝の頭巾の男へ、もう一度話を聞きたい。
本当に、ただ身体を支えただけなのか。
聞いたところで素直に答えるとは思えない。そもそも、患者が落ち着いたことと彼に関係があるという根拠さえない。
それでも、このまま記録へ「発熱と過剰摂取による混乱」とだけ書くには、朝の変化が鮮明すぎた。
幸い、彼と一緒にいた商人なら知っている。
アバド。
町で荷を扱っていれば、店を探すのは難しくなかった。
「少し外します」
腕章を外し、セラは南門を離れた。
壁際の混雑を抜けると、町の音が少しずつ変わっていく。
泣く子どもの声や担架を呼ぶ声が遠ざかり、代わりに値段を交わす声、荷を降ろす音、鍋を叩く音が近くなる。
壁一枚の内側では、いつもの暮らしが続いていた。
薬屋の前では、年配の女が紙包みを受け取りながら笑っている。
「これ、よく眠れるのよ。うちの人にも持って帰るわ」
「一度に飲みすぎちゃ駄目ですよ」
店番も笑って返した。
救済院から回された粉薬だ。
セラは足を緩めた。
目の前の女性は何の不安もなく包みをしまう。実際、薬で眠れるようになった、身体が楽になったという患者をセラ自身が何人も診ている。
薬そのものを疑いに行くわけではない。
確かめたいのは、朝の患者が急に落ち着いた理由と、そのときそばにいた男のことだ。
通りを二つ曲がったところで、教えられた看板が見えた。
アバドの店だった。
セラは道の向かいで一度立ち止まった。
患者の容体は落ち着いている。今すぐ聞かなければならない話ではない。
引き返そうかと思ったところで、店の奥からエミリオの声が聞こえた。
「だから俺が持つって!」
「お前は昼飯を持て!」
朝と変わらない親子の声だった。
セラは小さく息を吐いた。
ここまで来て帰る方が、よほど落ち着かない。
表戸を二度叩いた。
少しして、奥からアバドが顔を出した。
「……治療師さん?」
「突然すみません」
アバドの顔から、すぐに笑みが消える。
「倒れた男に何かあったのか」
「容体は落ち着いています。奥様も無事に着きました。ただ……朝のことで、少し確認したいことがあります」
アバドは一度だけセラの顔を見てから、店の奥を振り返った。
「入ってくれ」
倉庫の脇を抜け、狭い居間へ通される。
そこには三人ともいた。
エミリオはパンと小鍋を抱え、頭巾の男は窓から遠い椅子へ座っている。
棚の奥に、見慣れない浅い皿が置かれていた。
その中には、水で濡れた青灰色の粉が残っている。
セラの足が止まった。
見覚えがあった。
「休んでいたところでしたか」
「ええ。正確には、休まされていたところです」
「同じです」
「そこ、治療師は譲ってくれないんですね」
「患者も、なかなか譲ってくれませんから」
一瞬だけ、頭巾の下の口元が笑った。
だがセラの目は、すぐ棚の皿へ戻った。
「……それ、薬ですよね」
青年の口元から笑みが消える。
「あー……そう見えますよね」
「見えます。南門で配っているものと同じに」
「同じものです」
「どうして、あなたが調べているんですか?」
問いかけると、青年はすぐには答えなかった。
アバドが戸を閉める。
「先に、そっちの話を聞かせてくれ。何を確認しに来た」
セラは頷いた。
「朝、あの方を支えていたときのことです」
青年の肩が、わずかに固くなる。
「本当に、身体を支えただけですか?」
「……その話ですか」
「その話です」
「支えたのは本当ですよ」
「それ以外は?」
「難しい質問ですね」
「難しくしているのはあなたです」
青年が困ったように息を吐く。
「患者さん、何かありました?」
「今は眠っています。奥様も着きました」
頭巾の下の表情が、少しだけ緩んだ。
「それなら良かった」
その声には、素直な安堵があった。
「ただ、奥様が言っていない言葉を、実際に聞いたと言い続けています」
「言っていない言葉?」
「『置いていかれた』『見捨てられた』と。奥様は、先に人を呼んでほしいと頼んだだけだと言っています」
青年が黙った。
先ほどまでの軽い調子が消える。
「熱や疲労のせいかもしれません。服用量が多かった可能性もあります。記録もまだ全部は確認できていません。ただ――」
セラは一度言葉を切った。
「私がここへ来た一番の理由は、あなたが触れている間に、あの方の状態が急に変わったからです」
青年は何も言わない。
「呼びかけにも反応できなかった方が、あなたが手を離す前には私を見て返事をしました。そのあと、あなたの左手は冷たくなっていた」
「偶然かもしれませんよ」
「ええ。だから、確認に来ました」
少し意外だったのか、青年が黙る。
その横でエミリオが皿を見た。
「じゃあ、薬のことを聞きに来たんじゃないんだ」
「そのつもりはありませんでした」
セラも皿を見る。
「……来るまでは」
「それはまあ、気になりますよね」
青年が頭を掻こうとして、右手がうまく上がらず途中でやめた。
「昨日もらった薬です。ちょっと気になることがあって、開けて見てました」
「何が気になったんですか」
「それが、説明しづらくて」
「朝から、そればかりですね」
「あー……すみません」
セラは皿へ近づいた。
青灰色の粉は水を吸って崩れている。その中に、ごく小さな灰色の粒が二つだけ、水の表面に浮いたまま形を残していた。
「これは?」
「水を弾いた粒です。乾いてると他の粒とほとんど見分けがつかないんですが、水を落としたら、それだけ浮いたんです」
「滋養石では?」
「見た目は、そう見えます」
「見た目は?」
青年は少し迷った。
「俺には、粒の周りに変なものが見えるんです。ただ、正体は分かりません」
セラは皿へ顔を寄せた。
二粒の灰色は、言われて初めて他の粉と区別できる程度のものだった。けれど確かに、水を吸った周囲の粉とは違って崩れず、表面に残っている。
その周囲へさらに目を凝らしても、セラには何も見えない。
「粒そのものは見えます。でも、その周りには何も見えません」
「ですよね」
「危険なんですか」
「それも、まだ」
「では、どうして調べようと?」
青年は皿を見た。
「普通の薬なら、水を入れれば崩れるか溶けるでしょう。それなのに数粒だけ、あんなふうに浮いて残った。それに、何なのか分からないものが混ざってるなら、知っておきたいなと」
「だから、薬が原因だと思っている?」
「そこまでは。飲んでも何も起きてない人もいましたから」
原因を見つけたのではない。
彼も、分からないから調べているだけなのだ。
セラは手元の記録板から、患者が今朝飲んだ空の紙包みを取り出した。
「今朝、あの方が飲んだ分です」
内側の青線を見せる。
「箱ごとの印です。青線は、四日前に開けた一箱のものです」
「その箱が怪しいんですか?」
「いいえ。今のところ、ただの記録です」
そう言い切ってから、セラは卓の脇に畳まれていた紙へ目を止めた。
皿へ薬を出した包みだろう。
「そちらも見ても?」
アバドが紙を取り、内側を開いた。
細い青線が一本あった。
部屋が静かになる。
「……同じですね」
セラが言う。
「昨日、俺が南門でもらった分だ」
アバドが答えた。
同じ薬だからではない。
同じ箱から出た二つの包みだった。
一つは、朝倒れた男が飲んだ。
一つは、目の前で灰色の粒を残している。
それでも、二つだけだ。
「偶然かもしれません」
「ええ」
青年も頷く。
「ただ……この箱については、少し確認してみます。ほかに飲んだ方がどうだったか。調薬所の記録も残っているはず」
過剰摂取だけなら、薬そのものに異常があるとは言えない。
けれど、朝の患者と、目の前の灰色の粒が同じ青線の上で重なった。
まだ疑うには足りない。
無視するには、少し気になりすぎる。
「この皿は、そのまま置いておいてもらえますか?」
「ええ。俺たちも、もう少し見てみたいのでそのつもりです」
「分かりました。よろしくお願いします」
セラは頷いた。
青年の肩から、少しだけ力が抜ける。
信用したわけではない。
ただ、分からないものを分からないまま扱う、という点だけは同じだった。
セラは記録板を閉じかけて、手を止めた。
もう一つだけ、言っておくべきことがある。
「それと……」
「はい?」
「私が三日前に飲んだ薬も、青線でした」
青年の動きが止まった。
「え?」
初めて、年相応の声が漏れた。
次の瞬間には、頭巾の奥の視線が青線の紙ではなく、セラの胸元へ向いていた。
衣服を見ているのではない。
その向こうにある何かを、確かめるような目だった。
「……どうしました?」
呼びかけても、すぐには返事がない。
セラは自分の胸へ手を当てた。
痛みも、息苦しさもない。
それなのに目の前の男は、そこに何かがあると知っているような顔をしていた。
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