第009話 胸元の影
目を凝らすと、セラの心臓のすぐ脇に、黒い弧があった。
南門で見たものより短く、まだ輪には遠い。細い染みのような弧が、衣服の向こうで呼吸に合わせてかすかに揺れている。
空だった。
恐れも、後悔も、まだそこへは流れ込んでいない。
それでも、何もないとは言えなかった。
『一包で、三日残ったか』
『……そういうことになるな』
ハミルは棚の皿へ視線を移した。
浅い皿には、水を弾いた灰色の粒が残っている。
その一粒から、髪よりも細い黒い線が伸び始めていた。
先端が向いているのは、セラの胸にある短い弧だ。
弧から薬へ向かっているのではない。
薬の側が、そこにある未完成の形を見つけたように、ゆっくり距離を詰めている。
さっき皿を覗き込んだときには、こんな動きはなかった。
近くに弧を持つ者がいなかったからなのか。それとも、別の条件があるのか。
「……あの」
セラが自分の胸元を見下ろした。
「さすがに、そこまで黙って見られると気になるんですが」
「ああ、すみません。少し考えていました」
「私の胸を見ながら?」
「……言い訳の難しいところを見られましたね」
「言い訳ではなく、説明をしてください」
「ですよね」
アバドが低く咳払いし、エミリオは露骨にこちらを見ている。
誤魔化しきれる状況ではなかった。
「まず確認させてください。痛みや息苦しさは、本当にありませんか」
「ありません。熱も動悸も」
「三日前から、変わった夢は?」
セラは少し考えた。
「薬を飲んだ夜に、一度だけ。以前診た患者の夢を見ました」
「どんな?」
「助けられなかった患者です。ただ、昔の夢を見ることがあるとは説明を受けていましたし……内容も、私の記憶にあるものです」
「起きたあと、夢と現実が混ざった感じは?」
「いいえ。それはありません」
返事に迷いはなかった。
男のように、なかった言葉を事実と思い込んでもいない。
「胸の近くに、さっき話したものと似た反応が見えます」
セラの指が、衣服の上でわずかに強張った。
「見える……?」
「傷や病変ではありません。少なくとも、俺にはそう見えるというだけです。何なのかも、害があるのかも、まだ分かりません」
「私には何も見えません」
「ええ」
「服の上から、身体の内側にあるものが見える、と?」
「……まあ、そういうことになります。黒いモヤみたいな、線みたいなものが見えると思ってもらえれば」
セラの目が細くなる。
「あなたがそう言っていること以外に、確かめる方法はありますか」
「今のところは、ありません」
「では、それを事実として受け入れることはできません」
きっぱりした声だった。
エミリオが何か言いかけたが、ハミルは小さく首を振った。
その反応でいい。
自分にしか確かめられないものを、無条件に信じてもらう方が怖い。
「倒れた方にも、それが?」
「ありました。ただ、形が違います。あの方のものは心臓を囲んでいた。あなたのものは、まだ短い」
「では、あの方の脈が変わったのも――」
「そこまでは分かりません」
「……分からないことが多いですね」
「あー……はい。残念ながら」
知ったふりをするよりはいい。魔王だったイルでさえ、あの粒を知らなかったのだから。
倒れた男と同じ状態になる可能性を考えたのか、セラの呼吸が浅くなる。
同時に、胸元の弧がほんのわずかに伸びた。
『ハミル』
『見えてる』
「セラさん。俺を見てください」
「え?」
「大丈夫。息を吸って。急いで答えを出さなくていいです。俺も今のところ、胸を見て困った顔をするくらいしかできていませんから」
「それは……安心させる言葉ですか?」
「半分くらいは」
「残りは?」
「正直な自己申告です」
セラが呆れたように息を吐いた。
「こんなときまで冗談を言うんですね」
「こんなときだからですよ」
浅かった呼吸が少しだけ戻る。
伸びかけた弧も止まった。
感情に反応したように見える。
だが、まだ一度だ。
ハミルは結論を飲み込んだ。
「今、変化があったんですね」
セラが言った。
「……俺、何も言ってませんよ」
「言わないから分かります。さっきより目が険しくなった」
「治療師って本当によく見てますね」
「患者に隠し事をされるのも仕事のうちです」
「まだ患者なんですか、俺」
「少なくとも、その両手がまともになるまでは」
厳しい。
ハミルは苦笑してから、胸元へ視線を戻した。
「ほんの少しだけ伸びました。あなたが不安を感じた直後に」
「感情に反応するんですか」
「その可能性はあります。でも、まだ可能性です」
セラはしばらく黙った。
考えるとき、彼女は少しだけ視線を下げる。
今もそうだった。
ただ、その視線が止まった先は記録板ではなかった。
棚に置いてある浅い皿だった。
セラがゆっくりと、棚へ近づいていく。
熱に浮かされたように、焦点の合わない目で一点を見ている。
「もし、もう一度同じ条件を――」
言いながら、指先を伸ばしながら棚へ近づいていく。
薬まで、あと一尺。
灰色の粒から伸びた線が、ぴんと張った。
セラの胸元の弧が、呼応するように震える。
『止めろ』
「セラさん」
ハミルが呼んだ。
「はい?」
返事をしながらも、進みは止まらない。
あと半尺。
「手」
「え?」
「右手、見てください」
そこで初めて、セラが自分の手を見た。
指先が薬へ伸びている。
その表情から、考えていたことが抜け落ちた。
手が止まる。
「……私、何を」
セラはゆっくり腕を引いた。
自分の手なのに、知らない誰かの動きを見たような顔だった。
「薬を取ろうとしていました」
「分かっています」
「飲むつもりでした?」
問いかけると、セラはすぐには答えなかった。
「……分かりません」
短い沈黙。
「いいえ」
今度は、はっきり首を振った。
「飲む理由がありません。さっきまで私は、薬をもう一度使うことなど考えていませんでした」
自分の言葉を確かめるように、一語ずつ区切っている。
「それなのに、身体が動いた」
「はい」
張りつめた声だった。
老人の証言より、ハミルにしか見えない弧より、自分の意思に反して動いた身体の方が、セラにはずっと無視しにくいはずだ。
ハミルは皿を見る。
黒い線はまだセラへ向いている。
手を引いても、消えていない。
「アバドさん」
「何だ」
「皿から少し離れてもらえますか。エミリオも」
声の調子で何かを察したのか、二人とも理由を聞かずに下がった。
「危ないのか」
「……今、初めてそうかもしれないと思いました」
薬からセラの胸へ線が伸び、その最中に、本人の意思と噛み合わない行動が起きた。
偶然だとしても、もう人の手の届く場所へ置いておきたくはなかった。
「何が見えてるんだ」
アバドが尋ねる。
「薬とセラさんの間に、細いものが見えます。さっきまではありませんでした」
「それが、今の動きと関係ある?」
エミリオの声から軽さが消えている。
「分からない。でも、無関係だと思って触らせる気にはなれないな」
セラが自分の右手を握った。
「私も同意します。少なくとも、今の私はあれへ触れない方がいい」
「じゃあ、片づけるぞ」
アバドが倉庫の方を見た。
「人が寝起きしない場所に、大きな陶器の甕がある。皿ごと入れられる」
「直接持つのはやめましょう。皿の下へ布を通して、離れたところから動かせますか」
「できる」
「俺もやる」
エミリオが言う。
「お前は布を持ってこい」
「またそれかよ」
「今は文句を言うな」
「……分かった」
珍しく素直に、エミリオは倉庫へ走った。
セラがまだ自分の手を見ている。
「怖いですか」
ハミルが尋ねると、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「怖くないと言ったら、治療師として信用しますか」
「しませんね」
「では、怖いです」
その答えに、ハミルは小さく笑った。
「正直で助かります」
「あなたに言われたくありません」
「え、そこですか?」
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
だがセラはすぐ、南門の方角へ顔を向けた。
「あの箱から薬を受け取った方が、ほかにもいます」
「そうですね」
「今までは、同じ箱だったというだけでした。でも今は、私自身に説明できない行動が起きた」
「それでも、薬が原因だと決まったわけじゃないですよ」
「分かっています。だから全部を止めるとは言いません。ただ、同じ箱を受け取った方々の状態は確認します。私と同じようなことが起きていないか」
ハミルは少し考えた。
「……俺も離れたところから見てもいいですか」
「胸元を見るために?」
「はい。ただ、見えたものだけで原因だとは決めません」
「それなら」
セラは頷いた。
そこでエミリオが革布を抱えて戻ってきた。
「持ってきた。あと父さん、甕が重いから一人じゃ無理」
「分かった」
アバドが立ち上がる。
四人で距離を取りながら、皿の下へ革布を通した。
灰色の粒へ直接触れないよう、そのまま卓の端から陶器の甕へ滑らせる。
蓋を閉じる。
黒い線が陶器の表面まで追ってきて、そこで薄く揺れた。
しばらく待つ。
線はそれ以上伸びず、やがて見えなくなった。
『消えたか』
『見えなくなっただけかもしれない』
『慎重になったな』
『遅いくらいだろ』
ハミルは甕から目を離した。
薬が人の側へ何かを伸ばした。
その最中に、人の意思と噛み合わない行動が起きた。
まだ仕組みは分からない。それでも、二つを別々の偶然として片づけるには、重なり方が鮮明すぎた。
「名前を聞いてもいいですか」
不意にセラが言った。
「え?」
「南門からずっと、あなたの名前を知らないまま話しています」
「あ」
そういえば名乗っていなかった。
「ハミルです。遅くなってすみません」
「セラです」
「それは知ってます」
「私だけ知らなかったんですね」
「あー……そこは本当にすみません」
セラは呆れたように息を吐いた。
「では、ハミルさん。南門へ戻る前に、一つだけ」
「はい」
「私がまた薬へ手を伸ばしたら、止めてください」
冗談ではなかった。
「もちろん」
ハミルも軽く返さなかった。
そこへ、エミリオが椅子の上のパンと小鍋を指差す。
「その前に昼飯」
「今から?」
「今から。朝からまともに食ってないだろ」
「セラさんも急いでるんじゃ」
「食べずに戻って倒れたら、患者が一人増えます」
「……治療師がそう言うなら仕方ないですね」
「治療のときもそのくらい素直なら助かります」
「それは別件です」
「別件にしないでください」
アバドが小鍋の蓋を開けた。
「話は食いながらにしろ。冷めきるぞ」
「もう冷めてるよ、父さん」
「誰のせいだ」
三人の視線が、なぜかハミルへ集まった。
「……俺ですか?」
エミリオが笑った。
それでも、居間の隅に置かれた陶器の甕を、誰ももうただの薬とは思っていなかった。
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