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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第一章

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第009話 胸元の影

 目を凝らすと、セラの心臓のすぐ脇に、黒い弧があった。


 南門で見たものより短く、まだ輪には遠い。細い染みのような弧が、衣服の向こうで呼吸に合わせてかすかに揺れている。


 空だった。


 恐れも、後悔も、まだそこへは流れ込んでいない。


 それでも、何もないとは言えなかった。


『一包で、三日残ったか』


『……そういうことになるな』


 ハミルは棚の皿へ視線を移した。


 浅い皿には、水を弾いた灰色の粒が残っている。


 その一粒から、髪よりも細い黒い線が伸び始めていた。


 先端が向いているのは、セラの胸にある短い弧だ。


 弧から薬へ向かっているのではない。


 薬の側が、そこにある未完成の形を見つけたように、ゆっくり距離を詰めている。


 さっき皿を覗き込んだときには、こんな動きはなかった。


 近くに弧を持つ者がいなかったからなのか。それとも、別の条件があるのか。


「……あの」


 セラが自分の胸元を見下ろした。


「さすがに、そこまで黙って見られると気になるんですが」


「ああ、すみません。少し考えていました」


「私の胸を見ながら?」


「……言い訳の難しいところを見られましたね」


「言い訳ではなく、説明をしてください」


「ですよね」


 アバドが低く咳払いし、エミリオは露骨にこちらを見ている。


 誤魔化しきれる状況ではなかった。


「まず確認させてください。痛みや息苦しさは、本当にありませんか」


「ありません。熱も動悸も」


「三日前から、変わった夢は?」


 セラは少し考えた。


「薬を飲んだ夜に、一度だけ。以前診た患者の夢を見ました」


「どんな?」


「助けられなかった患者です。ただ、昔の夢を見ることがあるとは説明を受けていましたし……内容も、私の記憶にあるものです」


「起きたあと、夢と現実が混ざった感じは?」


「いいえ。それはありません」


 返事に迷いはなかった。


 男のように、なかった言葉を事実と思い込んでもいない。


「胸の近くに、さっき話したものと似た反応が見えます」


 セラの指が、衣服の上でわずかに強張った。


「見える……?」


「傷や病変ではありません。少なくとも、俺にはそう見えるというだけです。何なのかも、害があるのかも、まだ分かりません」


「私には何も見えません」


「ええ」


「服の上から、身体の内側にあるものが見える、と?」


「……まあ、そういうことになります。黒いモヤみたいな、線みたいなものが見えると思ってもらえれば」


 セラの目が細くなる。


「あなたがそう言っていること以外に、確かめる方法はありますか」


「今のところは、ありません」


「では、それを事実として受け入れることはできません」


 きっぱりした声だった。


 エミリオが何か言いかけたが、ハミルは小さく首を振った。


 その反応でいい。


 自分にしか確かめられないものを、無条件に信じてもらう方が怖い。


「倒れた方にも、それが?」


「ありました。ただ、形が違います。あの方のものは心臓を囲んでいた。あなたのものは、まだ短い」


「では、あの方の脈が変わったのも――」


「そこまでは分かりません」


「……分からないことが多いですね」


「あー……はい。残念ながら」


 知ったふりをするよりはいい。魔王だったイルでさえ、あの粒を知らなかったのだから。


 倒れた男と同じ状態になる可能性を考えたのか、セラの呼吸が浅くなる。


 同時に、胸元の弧がほんのわずかに伸びた。


『ハミル』


『見えてる』


「セラさん。俺を見てください」


「え?」


「大丈夫。息を吸って。急いで答えを出さなくていいです。俺も今のところ、胸を見て困った顔をするくらいしかできていませんから」


「それは……安心させる言葉ですか?」


「半分くらいは」


「残りは?」


「正直な自己申告です」


 セラが呆れたように息を吐いた。


「こんなときまで冗談を言うんですね」


「こんなときだからですよ」


 浅かった呼吸が少しだけ戻る。


 伸びかけた弧も止まった。


 感情に反応したように見える。


 だが、まだ一度だ。


 ハミルは結論を飲み込んだ。


「今、変化があったんですね」


 セラが言った。


「……俺、何も言ってませんよ」


「言わないから分かります。さっきより目が険しくなった」


「治療師って本当によく見てますね」


「患者に隠し事をされるのも仕事のうちです」


「まだ患者なんですか、俺」


「少なくとも、その両手がまともになるまでは」


 厳しい。


 ハミルは苦笑してから、胸元へ視線を戻した。


「ほんの少しだけ伸びました。あなたが不安を感じた直後に」


「感情に反応するんですか」


「その可能性はあります。でも、まだ可能性です」


 セラはしばらく黙った。


 考えるとき、彼女は少しだけ視線を下げる。


 今もそうだった。


 ただ、その視線が止まった先は記録板ではなかった。


 棚に置いてある浅い皿だった。


 セラがゆっくりと、棚へ近づいていく。


 熱に浮かされたように、焦点の合わない目で一点を見ている。


「もし、もう一度同じ条件を――」


 言いながら、指先を伸ばしながら棚へ近づいていく。


 薬まで、あと一尺。


 灰色の粒から伸びた線が、ぴんと張った。


 セラの胸元の弧が、呼応するように震える。


『止めろ』


「セラさん」


 ハミルが呼んだ。


「はい?」


 返事をしながらも、進みは止まらない。


 あと半尺。


「手」


「え?」


「右手、見てください」


 そこで初めて、セラが自分の手を見た。


 指先が薬へ伸びている。


 その表情から、考えていたことが抜け落ちた。


 手が止まる。


「……私、何を」


 セラはゆっくり腕を引いた。


 自分の手なのに、知らない誰かの動きを見たような顔だった。


「薬を取ろうとしていました」


「分かっています」


「飲むつもりでした?」


 問いかけると、セラはすぐには答えなかった。


「……分かりません」


 短い沈黙。


「いいえ」


 今度は、はっきり首を振った。


「飲む理由がありません。さっきまで私は、薬をもう一度使うことなど考えていませんでした」


 自分の言葉を確かめるように、一語ずつ区切っている。


「それなのに、身体が動いた」


「はい」


 張りつめた声だった。


 老人の証言より、ハミルにしか見えない弧より、自分の意思に反して動いた身体の方が、セラにはずっと無視しにくいはずだ。


 ハミルは皿を見る。


 黒い線はまだセラへ向いている。


 手を引いても、消えていない。


「アバドさん」


「何だ」


「皿から少し離れてもらえますか。エミリオも」


 声の調子で何かを察したのか、二人とも理由を聞かずに下がった。


「危ないのか」


「……今、初めてそうかもしれないと思いました」


 薬からセラの胸へ線が伸び、その最中に、本人の意思と噛み合わない行動が起きた。


 偶然だとしても、もう人の手の届く場所へ置いておきたくはなかった。


「何が見えてるんだ」


 アバドが尋ねる。


「薬とセラさんの間に、細いものが見えます。さっきまではありませんでした」


「それが、今の動きと関係ある?」


 エミリオの声から軽さが消えている。


「分からない。でも、無関係だと思って触らせる気にはなれないな」


 セラが自分の右手を握った。


「私も同意します。少なくとも、今の私はあれへ触れない方がいい」


「じゃあ、片づけるぞ」


 アバドが倉庫の方を見た。


「人が寝起きしない場所に、大きな陶器の甕がある。皿ごと入れられる」


「直接持つのはやめましょう。皿の下へ布を通して、離れたところから動かせますか」


「できる」


「俺もやる」


 エミリオが言う。


「お前は布を持ってこい」


「またそれかよ」


「今は文句を言うな」


「……分かった」


 珍しく素直に、エミリオは倉庫へ走った。


 セラがまだ自分の手を見ている。


「怖いですか」


 ハミルが尋ねると、彼女は少しだけ眉を寄せた。


「怖くないと言ったら、治療師として信用しますか」


「しませんね」


「では、怖いです」


 その答えに、ハミルは小さく笑った。


「正直で助かります」


「あなたに言われたくありません」


「え、そこですか?」


 張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 だがセラはすぐ、南門の方角へ顔を向けた。


「あの箱から薬を受け取った方が、ほかにもいます」


「そうですね」


「今までは、同じ箱だったというだけでした。でも今は、私自身に説明できない行動が起きた」


「それでも、薬が原因だと決まったわけじゃないですよ」


「分かっています。だから全部を止めるとは言いません。ただ、同じ箱を受け取った方々の状態は確認します。私と同じようなことが起きていないか」


 ハミルは少し考えた。


「……俺も離れたところから見てもいいですか」


「胸元を見るために?」


「はい。ただ、見えたものだけで原因だとは決めません」


「それなら」


 セラは頷いた。


 そこでエミリオが革布を抱えて戻ってきた。


「持ってきた。あと父さん、甕が重いから一人じゃ無理」


「分かった」


 アバドが立ち上がる。


 四人で距離を取りながら、皿の下へ革布を通した。


 灰色の粒へ直接触れないよう、そのまま卓の端から陶器の甕へ滑らせる。


 蓋を閉じる。


 黒い線が陶器の表面まで追ってきて、そこで薄く揺れた。


 しばらく待つ。


 線はそれ以上伸びず、やがて見えなくなった。


『消えたか』


『見えなくなっただけかもしれない』


『慎重になったな』


『遅いくらいだろ』


 ハミルは甕から目を離した。


 薬が人の側へ何かを伸ばした。


 その最中に、人の意思と噛み合わない行動が起きた。


 まだ仕組みは分からない。それでも、二つを別々の偶然として片づけるには、重なり方が鮮明すぎた。


「名前を聞いてもいいですか」


 不意にセラが言った。


「え?」


「南門からずっと、あなたの名前を知らないまま話しています」


「あ」


 そういえば名乗っていなかった。


「ハミルです。遅くなってすみません」


「セラです」


「それは知ってます」


「私だけ知らなかったんですね」


「あー……そこは本当にすみません」


 セラは呆れたように息を吐いた。


「では、ハミルさん。南門へ戻る前に、一つだけ」


「はい」


「私がまた薬へ手を伸ばしたら、止めてください」


 冗談ではなかった。


「もちろん」


 ハミルも軽く返さなかった。


 そこへ、エミリオが椅子の上のパンと小鍋を指差す。


「その前に昼飯」


「今から?」


「今から。朝からまともに食ってないだろ」


「セラさんも急いでるんじゃ」


「食べずに戻って倒れたら、患者が一人増えます」


「……治療師がそう言うなら仕方ないですね」


「治療のときもそのくらい素直なら助かります」


「それは別件です」


「別件にしないでください」


 アバドが小鍋の蓋を開けた。


「話は食いながらにしろ。冷めきるぞ」


「もう冷めてるよ、父さん」


「誰のせいだ」


 三人の視線が、なぜかハミルへ集まった。


「……俺ですか?」


 エミリオが笑った。


 それでも、居間の隅に置かれた陶器の甕を、誰ももうただの薬とは思っていなかった。

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