第010話 王都へ続く印
エミリオが作った食事を終えると、セラは腕章をつけ直した。
ハミルも外套の前を合わせ、頭巾を深くかぶる。
「本当に行くのかよ」
エミリオが聞いた。
「昼飯まで食べたからな。ここで寝たら、さすがにアバドさんに叩き出される」
「寝ろって言ってるんだよ」
「戻ったら考えるよ」
「それ、寝ないやつの言い方だろ」
「半年でよく分かるようになったな」
エミリオは笑わなかった。
「ちゃんと戻れよ」
軽く返せばいい場面だった。
けれど、その言葉を口にするには、胸の奥へ引っかかるものが多すぎた。
「薬を見に行くだけだよ」
代わりにそう言って、エミリオの跳ねた髪を左手で軽く押さえた。
「その間、頼んだ」
「子ども扱いするな」
「十五歳は、まだ俺に言わせれば子どもだな」
「見た目は大して変わらないくせに」
「見た目の話はしてないだろ」
ようやくエミリオが口を尖らせる。
それを見届けてから、ハミルはセラと共に家を出た。
*
南門へ近づくにつれ、人の声が増えていく。
昼を過ぎても、避難者の列は短くなっていなかった。粥をよそう音、子どもの泣き声、荷車を誘導する門番の声。白い天幕のあいだを、灰色の制服と腕章が忙しく行き来している。
セラは広場へ入る手前で足を止めた。
「私は記録を確認します。あなたは、あの荷車の陰にいてください」
「邪魔にならない場所としては満点ですね」
「目立たない場所として選びました」
「今朝の評価が厳しいなあ」
「私が呼ぶまで、そこにいてください」
「善処します」
「そこにいる、と言ってください」
「分かりました。います」
ようやく頷き、セラは天幕へ向かった。
『信用があるらしいな』
『今のは別の話だ』
ハミルは荷車の陰へ入った。
ほどなく、セラが青線の紙包みを受け取った者を一人ずつ連れてきた。
七人。
胸元に弧が見えたのは四人だった。
一包飲んだ二人には、セラと同じ短い弧。半包だけの老人には、針で引いたほどのものがある。
一方で、今朝一包を飲んだ若い男には何もない。飲まずに家族へ渡した者にもなかった。
服用だけで決まるわけではない。
だが、弧のある者は全員、青線の薬を飲んでいた。
――少なくとも、確認できた七人の中では。
セラが記録板へ最後の印を書き込んだとき、配給の列を離れた女がハミルの視界を横切った。
胸元に、短い黒の弧がある。
先ほど並んだ七人ではない。
『あれもだ』
『見えてる』
女は咳をしながら、別の天幕で受け取った紙包みを荷袋へしまった。
セラへ目配せすると、彼女もすぐに意図を察したらしい。女へ近づき、無理のない調子で声をかける。
「その薬は、こちらで受け取りましたか」
「いいえ。昨日、北門の方で。喉が痛いって言ったらもらいました」
「包みの印を確認しても?」
女は荷袋を探ったが、出てきたのは新しい一包だけだった。
内側には薄い緑の線がある。
飲んだものと同じ箱かは分からない。
「昨日の包みは捨てちゃったよ。同じ薬だと思うけど」
「分かりました。ありがとうございます」
女が去ってから、セラが荷車の陰へ戻ってくる。
「青線ではありませんでした」
「昨日飲んだものまで同じ印だったとは限りません」
「はい」
青線の一箱はまだ怪しい。だが、それだけを追えばいいとも言い切れなくなった。
『道が増えたな』
『嬉しくない増え方だ』
そのとき、北側の天幕から怒鳴り声が上がった。
「触るな!」
朝、倒れた初老の男だった。
妻のミラが肩を支えようと伸ばした手を、怯えた顔で払いのけている。
「また置いていく気だろう!」
男の胸を囲む輪は、朝よりも濃くなっていた。
その言葉に、確認のため並んでいた四人が同時に反応した。
一人が息を呑む。
一人は胸元を押さえた。
もう一人は、誰も呼んでいないのに背後を振り返った。
ハミルの目には、それより先に異変が見えていた。
四つの弧が、まるで同じ風に煽られたように一斉に男の方へ傾いた。
――何だ。
輪の縁から、髪よりも細い黒い線が一本伸びる。
二本目。
三本目。
線は空中を探るように揺れたあと、離れた弧の先端へ触れた。
触れた瞬間、四つの弧が同時に震えた。
『ハミル』
『見えてる』
最後の一本が、四人目へ届く。
ぷつり、と何かが嵌まるような感覚がした。
線が張った。
男の恐れが、目に見えない糸を伝って周囲へ流れていく。
『……繋がった』
イルの声にも、わずかな硬さがあった。
男が寝台から転げ落ちる音が重なる。
並んでいた女が、自分の腕を抱いた。
「今、誰かが……帰るなって」
別の男が青ざめる。
「俺も……聞こえた」
その場にいた職員たちが、互いの顔を見た。
誰が言った、と確かめるように。
けれど、口を開いていた者はいない。
ミラも言葉を失い、夫と、離れた場所で同じ恐怖を口にした二人を交互に見た。
見えないものは何もないはずなのに、その一角だけ、別の何かが人のあいだを渡っている。
隣の天幕では子どもが泣き、鍋の蓋が鳴り、門番が荷車を誘導している。いつもの喧騒が続いているからこそ、ここだけ同じ言葉に侵されていく異様さが際立った。
朝、一人の中に閉じていたはずの恐怖が、今度は他人へ渡っている。
ハミルの背筋が冷えた。
『これ、人の感情まで渡してるのか』
『少なくとも、そう見える』
ハミルは壁から背を離した。
『いると言ったばかりだぞ』
『見ているだけならな』
人垣の外側を回り、初老の男のいる天幕へ近づく。
「セラさん。さっき並んでいた四人、今の声に反応しています」
「四人とも?」
「はい。俺には、あの方から四人へ何かが伸びたように見えます」
そのとき、セラの胸元にも細い線が向きを変えた。
ハミルは息を呑む。
「セラさん、少し離れて」
「私も――」
セラが言葉を切った。
「今、誰かが……救済院を疑うな、と」
「誰も言っていません」
「はい」
彼女の顔から迷いが消えた。
「何ができますか」
ハミルは一度、四人と老人を見た。
朝、老人の穢れらしきものを引いたときとは違う。
何が起きているのか、まだ分からない。
それでも、あの線が自分へ絡んだときの感触なら覚えている。
「……俺なら、何とかできるかもしれません」
「できます、ではなく?」
「初めて見るものなので。試してみないと分かりません」
セラは一瞬だけ黙った。
「危険は?」
「あります。俺にも、あの人たちにも」
「それは……では、私たちは何を」
「皆を少し離して、声をかけ続けてください。聞こえた言葉が、本当に誰かに言われたものなのか、一つずつ確かめてもらいたいです」
セラは一度だけハミルの左手を見た。
「あなたは」
「なるべく大人しくしますよ」
「なるべく、では困ります」
「じゃあ、無茶は一度までにします」
「それを無茶と言うんです」
言いながらも、セラはすぐ職員たちへ向き直った。
「四人を離してください! 押さえつけないで、声だけ途切れさせないでください。聞こえた言葉を復唱させないで!」
返事が飛ぶ。
職員が椅子を引き、患者同士の間隔を空ける。だが、身体を離しても黒い線はたわむだけだった。
「帰るなって言っただろ!」
初老の男が叫ぶ。
「言ってないよ!」
ミラの声が震える。
その横で、線に繋がれた若い男まで「置いていかないでくれ」と呟き始めた。
自分の言葉ではない。
なのに、その顔には本人の恐怖が浮かんでいる。
ハミルは人垣の外に残った。
ここで目立つわけにはいかない。
けれど、見ているだけならもっとまずい。
左手を外套の内側へ入れ、自分の胸へ当てる。
『また我を呼び水に使う気か』
『嫌なら断ってくれ』
『断れば、貴様一人でやるだろう』
『よく分かってるな』
胸の奥の気配を、ほんのわずかだけ外へにじませた。
瞬間。
四本の線が、獲物を見つけたように一斉にこちらを向いた。
ぞわり、と首筋が粟立つ。
『来るぞ』
一本目が触れた。
右腕の紋様が、皮膚の下から焼けるように熱を持つ。
同時に、知らない恐怖が胸へ流れ込んだ。
置いていかれる。
役に立たないと思われている。
ここにいてはいけない。
どれもハミル自身の感情ではない。
それでも一瞬、自分の記憶と区別がつかなくなる。
『ハミル』
『分かってる』
歯を食いしばり、線を自分へ引きつける。
患者の一人が大きく息を吐いた。
「……あれ?」
その声を聞く暇もなく、二本目が絡みつく。
左手の小指から感覚が消えた。
冷たさが薬指へ、掌へと這い上がってくる。
視界の端でセラが患者の肩を支えながら叫んでいた。
「ここを見てください。今いるのは南門です。あなたが今朝食べたものは?」
「……パン、だ」
「誰と?」
「一人で……」
「そうです。それはあなた自身が覚えていることです」
声が現実へ繋ぎ止める杭のように響く。
三本目。
今度は身体が先に拒んだ。
胸の奥がひどく軋み、右腕の熱が肩まで跳ね上がる。
息が詰まった。
膝が折れそうになる。
『やめろ』
『あと一人だ』
『今のお前には多い』
『分かってるよ』
分かっている。
だからこそ、やめられない。
まだ一人、線の向こうで自分のものではない恐怖に呑まれている。
「嫌だ、置いていくな!」
女が泣き出した。
職員が慌てて手を伸ばしかけ、セラが止める。
「無理に触らないで! ここにいると伝えて!」
「大丈夫です、誰も置いていきません!」
声が重なる。
南門のざわめきも、荷車の軋みも、泣く子どもの声も、全部が遠くなる。
ハミルには最後の一本だけが見えていた。
『……一回だけだ』
『何がだ』
『無茶するの』
イルが何か言うより先に、ハミルは最後の線を引いた。
胸の内側を鷲掴みにされたような衝撃が走る。
「っ……!」
声を殺しきれなかった。
左腕から一気に力が抜け、壁へ肩をぶつける。
右腕の紋様が脈打つたび、熱と冷気が交互に走った。
それでも、線は離さない。
一本。
もう一本。
自分へ絡め取った線同士が、胸元で黒く軋む。
ハミルは息を吐きながら、それらを自分の方へさらに引いた。
ぷつん。
小さな音などするはずがないのに、そう聞こえた。
四人へ伸びていた線が、同時に弾けるようにほどけた。
女が膝から崩れ、職員に支えられる。
若い男が何度も瞬きをした。
「……俺、何を……」
「大丈夫です。今は何も答えなくていいです」
セラがすぐにしゃがみ込む。
初老の男の輪は残っている。
四人の弧も消えてはいない。
何一つ治したわけではない。
ただ、互いを繋いでいたものだけが消えた。
それだけなのに、さっきまで他人の声で満ちていた一角へ、急に普通のざわめきが戻ってきた。
その差に、ハミルはようやく自分が息を止めていたことに気づいた。
吸い込んだ空気が喉に痛い。
左手はもう、手首から先の感覚がなかった。
外套の下で震える指を握ろうとして、握れない。
『立てるか』
『たぶん』
『その返事は立てぬ者のものだ』
『じゃあ、壁が立ってくれてる』
返した声が、自分でも分かるほど掠れていた。
人に見られる前に、ハミルは荷車の陰まで戻り、壁へ肩を預けた。
*
しばらくして、セラが戻ってきた。
「四人とも落ち着きました」
「それはよかった」
「あなたは何をしましたか」
「見えていたものを少し。結果として、四人への影響は弱まったみたいです」
「……何をしたか、明確には教えてくださらないのですね」
「説明できるほど、自分自身何なのか分かってませんから」
セラは少しだけ目を細め、それ以上は追及しなかった。
「また、手の感覚がなくなっていますね」
「治療師は本当によく見ていますね」
「誤魔化さないでください」
セラは息を整えると、記録板を差し出した。
「青線の薬を受け取ったのは、記録に残っているだけで十二人です。七人は確認できました。残りは北門側か、町を出たあとです」
「さっきの方は?」
「北門の記録を照合します。ただ、昨日飲んだ包みの印は分かりません」
「ほかの町へも、同じ薬は?」
「粉薬自体は、北辺のすべての救済所へ送られています。箱ごとの調薬記録は、ここにはありません」
記録板の末尾に、王都の中央調薬所を示す刻印と承認番号が並んでいる。
「この番号から、何が分かりますか」
「この町へ届く前に、どの調薬台を通り、誰が検分し、どの荷と一緒に出たか。中央の台帳なら追えます」
「ここから問い合わせることは?」
「できます。ただ、返答を待つだけで十日以上かかります」
荷車なら王都まで六日か七日。
返書を待つより、人が行く方が早い。
セラは記録板へ視線を落とした。
「私は、今日起きたことを正式に報告します。あの一箱だけで説明できるとは、もう思っていません」
ハミルはもう一度、南門を見渡した。
同じ薬を飲んでも何も起きない者がいる。違う印の包みを持ちながら弧のある者もいる。そして今、誰にも見えない線が人の恐怖を別の人間へ渡した。
青線は手掛かりではあっても、答えではない。
『行くのか』
イルが尋ねた。
森の小屋へ戻れば、また畑を耕し、獣を狩り、人目を避けて暮らせる。
少なくとも、しばらくは。
だが、ここで見たものを知らなかったことにはできない。
ハミルは記録板をセラへ返した。
「セラさんは、王都へ?」
「はい。中央の記録を確認する必要があります。正式報告も持っていきます」
ハミルは南へ続く街道を見た。
自分が行かなければ、セラたちは見える事実だけで調べることになる。
それが悪いわけではない。
むしろ、本来ならそれで十分なはずだった。
けれど今日、誰にも見えない線が人から人へ繋がるところを見た。
同じことが別の場所で起きていたとしても、誰も気づけないかもしれない。
その可能性だけが、どうしても残った。
「……俺も王都へ行きます」
セラは驚かなかった。
「その身体で、六日以上の道を?」
「今日中に出るとは言ってませんよ」
「止めても行くのでしょうね」
「よく分かってきましたね」
セラは小さく息を吐いた。
「同行を認めたわけではありません」
「では、俺は俺で道を探します。たまたま同じ荷車になったら、そのときはよろしくお願いします」
「ずいぶん都合のいい偶然ですね」
「旅は道連れと言いますから」
「患者を道連れにする言葉ではありません」
「まだ患者なんですか、俺」
「両手がまともに使えるようになるまでは」
北から来た荷車が、重い音を立てて門をくぐる。
その向こう、南へ伸びる街道は、水の国の王都へ続いている。
十年前、仲間たちと歩いた場所。
帰還してから、一度も近づこうとしなかった場所。
今の自分が同じ道を歩いても、あのころの続きを始められるわけではない。
『まだ戻れるぞ』
イルが言った。
今度は冗談ではなかった。
ハミルはしばらく街道を見た。
『……そうだな』
戻れる。
だからこそ、今ここで背を向ければ、そのことをずっと覚えているだろう。
「戻ったら、旅支度ですね」
ハミルが言うと、セラは一拍置いて頷いた。
「まずは、あなたの手当てです」
「そこは旅支度に含めてもらえませんか」
「含めません」
胸の奥で、イルが低く笑った。
ハミルも小さく笑い、王都へ続く道を見た。
「続きが気になる」「面白い」と感じていただけましたら、
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