第011話 四人目の場所
王都の中央広場で、最初に聞こえたのは歓声だった。
「水の勇者様だ!」
「キース様!」
馬車の窓を少し開けただけで、声が波のように押し寄せてくる。
キースは反射的に背筋を伸ばした。隣に座るユーフォルスが、いつもの穏やかな笑みを向ける。
「手を振って差し上げてください。皆、あなたを待っています」
「うん」
窓から身を乗り出さないよう気をつけながら、キースは広場へ手を振った。
淡い水色の旗が揺れる。花びらが飛ぶ。子どもを肩車した男も、買い物籠を抱えた女も、北から逃れてきたらしい旅装の人々も、馬車を見上げていた。
三月前まで、キースはこの広場の端を、荷運びの帰りに通るだけだった。
運河へ落ちた木箱を拾えば、荷主が礼を言ってくれる。それで十分だった。
今は、手を振るだけで何百人もの顔が明るくなる。
それが嬉しくないわけではない。
「偽物を英雄の隣に立たせるな!」
歓声の切れ目を、鋭い声が貫いた。
キースの手が止まる。
広場の噴水脇で、二人の男が一枚の刷り物を引っ張り合っていた。
「偽物は昔の方だろう! ユーフォルス様が真の愛し子を見つけたんだぞ!」
「ハミル様は命を懸けて世界を救った! 十年経ったからって、なかったことにできるか!」
周囲の人々が足を止める。
護衛の騎士たちが馬を寄せるより先に、キースは扉へ手をかけていた。
「止めてくる」
「お待ちください」
ユーフォルスの声は柔らかかった。
だが、扉の取っ手へ伸ばしたキースの手首を、水の帯が静かに囲んでいた。
「護衛に任せましょう。あなたが姿を見せれば、かえって争いを大きくします」
「でも、俺のことで喧嘩してる」
「だからこそです」
窓の外では、騎士が二人のあいだへ入り始めていた。
ユーフォルスの言うことは正しいのだろう。
キースが降りて、どちらかへ何かを言えば、その言葉は明日の刷り物で何倍にも膨らむ。
それでも、閉められた窓の向こうで自分の名前と、会ったこともない人の名前が投げ合われるのを、座って聞いているのは嫌だった。
「あの刷り物に、真の愛し子って書かせたのは誰?」
「王宮の広報官でしょう」
「ユーフォルスは、そう言ったの?」
水色の長い髪が、馬車の揺れに合わせてわずかに動く。
「あなたが出生時から私の愛し子であったと、必要な説明をしました」
「じゃあ、ハミルは?」
ほんの一瞬だった。
ユーフォルスの周囲で、光を含んでいた水の粒が止まった。
「今は、あなたの話をしています」
微笑みは変わらない。
声も、どこまでも優しい。
それなのにキースは、それ以上尋ねてはいけないのだと分かった。
馬車が広場を抜け、城の訓練場へ入る。
門の内側では、三人の勇者と、それぞれの精霊がすでに待っていた。
先頭に立つレイオスは、絵本で見た十九歳の青年よりひと回りも大きく見えた。燃えるような赤髪の下には古い傷が走り、厚い肩へ騎士団長の外套を掛けている。傍らのバーミッドは、本人以上に不機嫌そうな顔で腕を組んでいた。
その隣では、薄緑の髪を風に遊ばせたメルクリオが、眩しそうに目を細めている。十年分だけ大人びた顔にも、英雄画と同じ涼しげな笑みがあった。背後に浮かぶフラーシアは、到着した馬車より自分の爪先を気にしている。
少し離れた木陰には、三人の中で最も背の高いマルテがいた。深い茶色の髪を後ろで束ね、肩には土色の外套を羽織っている。その足元から、モグラの姿をしたポルタニアが顔を出した。
「遅いよ! 待ってる間に僕は三回も寝られたし、マルテは一言しか喋ってないし、フラーシアは水の国の空気は髪がまとまらないってずっと――」
「余計なことまで数えなくていいのよ」
「ほら、文句ばっか!」
フラーシアが眉を寄せ、メルクリオが楽しそうに笑う。
キースは馬車を降りると、三人と精霊たちへ頭を下げた。
「遅れてすみません」
「時間どおりだ」
レイオスが言った。
「俺たちが早く来ただけだ。始めるぞ」
責められなかったことにほっとして、すぐにそんな自分が情けなくなる。
彼らは、子どもの頃から物語で読んできた救世主だ。
三人が並んでいるだけで、キースは自分だけが訓練場へ迷い込んだ見習いのように思えた。
三人が揃って水の国へ来たのは、キースが水の勇者として公表されてから、今回が初めてだった。
各地で魔物が増える中、新しい水の勇者が、十年前から変わらない火、風、地の勇者と本当に四つの役目を果たせるのか。四国からの要請を受け、三人は数日だけ王都へ招かれていた。
レイオスは騎士団を、メルクリオは魔術師団を長く空けられない。滞在は明日の巡回までと聞いている。
マルテは祝宴と式典への招待を断り、四人で人を救えるかを確かめる訓練にだけ応じたらしい。
「三回も断ったんだよ。祝宴は行かない、式典も行かない、偉い人との夕食も行かない。でも訓練なら行くって。僕は夕食くらい出てもよかったと思うんだけどさ」
ポルタニアが得意げに教えてくれる。
「二回」
マルテが訂正した。
「そこだけ喋るの?」
キースが思わず笑うと、マルテはわずかに首を傾げた。
今日の訓練は、北辺で増えている魔物を想定したものだった。
本物の魔物を使うわけにはいかない。訓練場の中央には、魔術師団が作った黒い水晶の塊が置かれている。外側を砕けば細かな破片が飛び散り、集めた破片へ四人が順に力を通す仕組みだ。
十年前と同じ三人に、新しい水の勇者を加えて、四人の動きを確かめる。
説明役の術師はそう言った。
同じ、という言葉だけが、キースの耳に残った。
「核に見立てた水晶を、俺が砕く」
レイオスが大剣を肩へ担ぐ。
「メルクリオが破片を集める。キースが水を通したあと、マルテが地へ落とす。順番は分かるな」
「はい」
「敬語はいらない。俺が剣を入れたら、破片から目を離すな」
「分かった」
レイオスの口元がわずかに緩んだ。
「それでいい」
バーミッドが豪快に笑い、大剣の刃へ炎が走る。
空気が一瞬で熱を帯びた。
「行くぞ!」
炎の大剣が水晶を貫く。
黒い塊は轟音とともに砕け、大小の破片が四方へ弾け飛んだ。
「フラーシア!」
「分かっているわ」
翡翠色の風が訓練場を包む。
メルクリオが杖を返すたび、破片は空中で流れを変え、一つの球へ集まっていく。
キースは両手を構えた。
ここだ。
最後の破片が加わると同時に、集められた水晶へ水を注ぐ。
そう教えられていた。
だが、その前にレイオスが叫んだ。
「ハミル、左が抜ける!」
誰も動かなかった。
ほんの一瞬だけ。
バーミッドの笑みが消えた。
フラーシアが顔を上げ、ポルタニアの口が開いたまま止まる。
マルテは弾かれたように左を見た。
メルクリオの杖を巡っていた風さえ、わずかに揺らいだ。
そして回廊の影で見ていたユーフォルスの周囲から、水音が消えた。
名前一つで、全員の空気が変わった。
キースだけが、その名を呼ばれる前の動きを知らない。
けれど、身体の方はまだ覚えているのだと分かった。
その一瞬の遅れで、集まりかけた破片の一つが左へ飛び出す。
キースは反射的に手を伸ばした。
水の鞭が破片へ巻きつき、地面へ落ちる直前で受け止める。
「取った!」
「そのまま戻して!」
メルクリオの声に従い、水ごと破片を風へ押し戻す。
球が閉じる。
今度こそ、キースは水を通した。
黒い水晶の内側を、澄んだ青が満たしていく。訓練用の色が消えたのを確認し、マルテが片膝をついた。
「ポルタニア」
「はいよ!」
石床に細い亀裂が走る。
透明になった水晶が光の粒へほどけ、土の中へ吸い込まれていった。
訓練場に静けさが戻る。
成功を告げる鐘が鳴った。
キースは息を吐いた。
できた。
そう思ったのに、誰もすぐには口を開かなかった。
レイオスが大剣を下ろす。刃から火が消え、石を擦る重い音がした。
「……悪い」
その言葉が誰へ向けられたのか、キースには分からなかった。
「左の破片は拾えた。訓練は成功だよ」
メルクリオが先に笑った。
「初回としては十分に美しい。少なくとも、僕ら三人の顔よりはね」
「お前と一緒にするな」
「では訂正しよう。レイオスの顔よりは美しい」
「喧嘩なら外でやってよね。せっかく綺麗に還った土が台無しになるから。いや、僕は聞いててもいいんだけど、マルテが困るし――」
「困ってない」
マルテは短く答え、キースを見た。
「今の判断はよかった」
「でも、合図を待てなかった」
「待っていたら落ちていた」
「そうだけど……」
「なら、よかった」
それだけ言って、マルテは立ち上がる。
褒められたのだと理解するまで、少し時間がかかった。
レイオスはまだ、砕いた水晶があった場所を見ていた。
キースは迷った末、口を開いた。
「ハミルなら、あの破片をどうした?」
赤い目がこちらを向く。
「同じように拾った」
「じゃあ、今の俺と同じ?」
「違う」
迷いのない答えだった。
胸の奥が小さく痛む。
けれどレイオスは、キースではなく自分を責めるように眉を寄せた。
「あいつなら、俺が言う前に拾ってた。だから俺は、左を見なくなった」
「レイオス」
バーミッドが低く呼ぶ。
「分かってる」
十年前と同じ言葉を返し、レイオスは大剣を背負った。
「今のは俺のミスだ。次はお前の名を呼ぶ」
「うん、わかった」
レイオスは頷いた。
キースの胸にあった痛みが、少しだけ形を変えた。
三人は、自分をハミルと比べたいわけではない。
比べずに動く方法を、まだ知らないのかもしれない。
「もう一度お願いします」
「だから敬語はいらんと言っただろうが」
「もう一度、やろう」
「最初からそう言え」
レイオスは新しい水晶を運ぶよう術師へ合図した。
二度目は、最初より速かった。
レイオスはきちんとキースの名を呼んだ。
メルクリオは破片が散る前に風の流れを伝え、マルテはキースの水が満ちるのを待って地へ還した。
誰も、別の名前を呼ばなかった。
成功の鐘が鳴る。
今度はレイオスが先に言った。
「遅い」
「成功したのに?」
「一度できたくらいで満足するな。次は半分の時間でやる」
「それなら最初から、そう言えばいいのに」
言ってから、まずかったかと思った。
だがバーミッドが腹を抱えて笑い、メルクリオも杖へ寄りかかる。
「君、いいね。実に美しい」
「何が?」
「それをレイオスへ言えるところが」
「どういう意味だ!」
怒鳴り声に、ポルタニアのお喋りが重なる。
マルテだけは静かなままだったが、その口元はわずかに緩んでいた。
キースも笑った。
物語の中にいた三人が、ほんの少しだけ、人になった気がした。
訓練が終わると、王宮の広報官が待っていた。
「明日の巡回についてご説明いたします」
差し出された予定表には、中央通り、南の水門、四国救済院の荷出し所が順に記されている。
「北辺からの避難者が増えております。四人の勇者が揃う姿をお見せすれば、市民も安心いたしましょう」
「三人は、明日もいるの?」
キースが尋ねると、広報官は笑顔で頷いた。
「もちろんです。新たな四人の救世主として――」
「新た、ではありません」
メルクリオが遮った。
口元には笑みがある。それでも、広報官の顔から笑みが消えた。
「僕ら三人は十年前と同じです。言葉は正しく、美しく使ってください」
「し、失礼いたしました」
「それから」
キースは、予定表の下に重ねられた刷り物を指した。
自分とユーフォルスの絵。その上に、見慣れた大きな文字がある。
真の愛し子。
「この言い方、やめてもらえませんか」
広報官が困ったようにユーフォルスを見る。
キースも振り返った。
ユーフォルスは訓練のあいだ、ずっと回廊の影から見ていた。
バーミッドはレイオスの肩を叩き、フラーシアはメルクリオの乱れた髪を直し、ポルタニアはマルテの靴の上へ土を落としている。
その輪から離れた場所に、ユーフォルスだけが立っていた。
「事実に反する表現ではありません」
「でも、これだとハミルが偽物だったみたいに見える」
「彼は十年前、立派に役目を果たしました」
役目。
キースはその言葉を胸の中で繰り返した。
「愛し子だったとは、言わないんだ」
広報官が息を呑む。
レイオスの外套が揺れた。
それでもユーフォルスの微笑みは崩れない。
「キース。あなたが他者の言葉に傷つく必要はありません」
「俺が傷ついてるんじゃないよ」
「では、なおさら気にする必要はないでしょう」
優しい声だった。
どこにも怒りはない。
だからこそ、その間へ入れる言葉が見つからなかった。
メルクリオが刷り物を一枚取り上げた。
「少なくとも、明日の分は表題を変えてもらおう。市民を安心させるために、市民同士を争わせるのは美しくない」
「しかし、すでに印刷が――」
「今夜は魔術師団の風を貸そう。乾かすのは得意だよ」
笑顔のまま逃げ道を塞がれ、広報官は予定表を抱えて去っていった。
レイオスも何も言わず、訓練場の出口へ向かう。
すれ違いざま、キースの肩へ大きな手が一度だけ置かれた。
「明日は遅れるな」
「今日も遅れてない」
「口答えは覚えたようだな」
そう言い残して歩いていく。
マルテはキースへ静かに頷き、メルクリオは刷り物を扇のように振って二人のあとを追った。
三人の背中を見送り、キースはユーフォルスの隣へ立つ。
「俺、間違ってた?」
「何についてでしょう」
「表題を変えてほしいって言ったこと」
「あなたが望むのであれば、好きになさい」
叱られてはいない。
褒められてもいない。
ユーフォルスはいつも、キースが危険から離れるよう気を配り、力の使い方を丁寧に教えてくれる。
けれど、失敗したときに肩を叩くことも、うまくできたときに一緒に笑うこともなかった。
「ねえ、ユーフォルス」
「はい」
「俺が生まれたときから傍にいたって、本当なんだよね」
水色の瞳がキースを見る。
疑うことなど思いもしないほど、澄んだ色だった。
「ええ」
短い答えだった。
キースは頷く。
信じたいと思った。
同時に、もっと知りたいとも思った。
ハミルは本当は何者だったのか。
ユーフォルスは、なぜその人の話だけをしないのか。
そして自分は、誰かを押しのけなければここに立てないのか。
訓練場の中央には、四人分の立ち位置を示す白い線が残っていた。
キースは水の印がある場所へ戻る。
誰かの代わりではなく、自分の足でそこに立った。
まだ、その場所が本当に自分のものなのかは分からなかった。
それでも、分からないまま誰かを偽物と呼ぶことだけは、したくなかった。
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