第012話 帰る場所を残して
ハミルが王都へ行くと言い出した翌朝、アバドは居間の卓から旅袋を取り上げた。
まったく、朝から油断も隙もない。
「返してください」
「断る」
「まだ何も入れてませんよ」
「入れようとしていただろうが」
寝台から抜け出してきたハミルは、上着を片腕だけ通した格好で立っていた。右の袖は肩から垂れ、左手には丸めた外套が抱えられている。
黒い髪は眠り癖で片側へ跳ねていた。
黙って椅子へ座っていれば、十九か二十そこそこの若者にしか見えない。ところが、目を離した途端に両手の利かない身体で王都へ行く支度を始める。
歳を取れば分別がつくというのは、どうやら嘘らしい。
「まず服を着ろ」
「そのための右手を、昨日どこかへ置いてきたみたいでして」
「拾ってくるまで寝てろ」
「王都への道沿いに落ちている可能性は?」
「ない」
アバドが外套を取り上げると、ハミルは素直に左腕を上着へ通した。
素直なのは、自分では袖を引き上げられないと分かっているときだけだ。
昨夜、南門から戻ったハミルは、自分の足で家へ入った。
セラから青線の薬のこと、南門で起きたこと、王都へ行くと決めたことを聞くあいだも、本人は隣で立っていた。話が終わるころには壁へ肩を預け、エミリオに椅子を押しつけられていたが、それでも大丈夫だと言い張った。
大丈夫な男は、匙を二度も床へ落とさない。
食事の途中で眠りかけもしない。
結局、セラが有無を言わせず寝台へ押し込み、そのまま朝まで目を覚まさなかった。
「腕を上げるぞ」
「お願いします」
アバドは右腕を袖へ通し、肩まで布を引き上げた。
包帯の下の腫れは、昨夜よりわずかに引いている。背中の赤黒い痣も、縁から薄くなり始めていた。初めて小屋で手当てしたときより、傷は確かに治っている。
それでも右手は、上着の留め具を摘まもうとして空を掻いた。
「惜しいですね」
「何がだ」
「今、指一本分しか外してません」
「自慢することか」
「昨日は触ったことも分かりませんでしたから、進歩ですよ」
左手で留め具を押さえようとして、こちらも取り落とす。
ハミルはしばらく自分の指を見つめたあと、何事もなかったように両手を膝へ置いた。
「今日は出さんぞ」
「セラさんの報告が整えば、昼の隊商に――」
「出さん」
「では夕方」
「明日の朝だ」
ハミルの目が上がる。
「南行きの隊商が明朝、町を出る。王都まで荷車で六日、道が荒れていれば七日。昔から付き合いのある商人が取りまとめている。二人分、荷台に場所を空けさせる」
「もう話をつけたんですか」
「夜明け前に行ってきた」
「行動が早いですね」
「誰かが遅いからな」
アバドは旅袋を卓の向こうへ置いた。
「今日一日休む。それで両手が少しでも戻れば、明日の朝、セラと一緒に出ろ。戻らんなら、荷車には乗せん」
「歩いて行くという手もありますよ」
「王都まで六日か七日の道を、その背中でか」
「途中で拾ってくれる親切な荷車がいるかもしれません」
「今、その親切な荷車を用意したところだ」
ハミルが困ったように笑う。
押し切ろうとするときではなく、押し切られたときに見せる顔だった。
「分かりました。今日は休みます」
「信用ならんな」
「ひどいなあ。俺は嘘が苦手なんですよ」
「知ってる。下手なくせによくつく」
言い返そうとしたハミルの腹が鳴った。
戸口の方から、吹き出す声が聞こえる。
エミリオが盆を抱えて立っていた。パンと、湯気の立つ椀が二つ載っている。
「病人はまず飯だってさ」
「誰が病人だよ」
「両手で服も着られない人」
「朝から言葉が鋭いな」
「昨日、心配させた人にだけだよ」
エミリオは卓へ盆を置き、ハミルの正面に座った。
ハミルが左手で椀を持ち上げる。底を支える指が頼りなく滑り、アバドは咄嗟に手を伸ばしかけた。
だが、エミリオの方が早かった。
椀の下へ両手を添え、そのままハミルの前へ戻す。
「熱くないのか」
ハミルが尋ねた。
「平気」
「凄いな、俺には熱かったけど」
椀を見つめたまま、ハミルが小さく笑った。
昨日まで鈍かった指へ、熱が戻っている。
エミリオも気づいたらしい。口元を緩めかけて、すぐに引き締めた。
「だからって、今日出るなよ」
「出ないよ。アバドさんに旅袋を人質に取られたからな」
「窓から逃げたら?」
「両手が戻る前に脚まで折られそうだ」
「よく分かってるじゃないか」
アバドは二人の前へ匙を置いた。
ハミルが左手で握る。今度は落とさなかった。
朝食のあと、アバドは倉庫の戸を確かめた。
灰色の粒を含む薬を収めた陶器の甕は、倉庫へ移動させてから、動いていない。南門から救済院の職員が二人来て、戸へ封印札を貼っていったが、中身は王都へ持ち込む方法が決まるまでここへ置かれることになった。
「これ、俺たちが見てるのか」
エミリオが倉庫の戸を睨む。
「見るだけだ。開けるなよ」
「分かってる」
「誰かが取りに来たら、名前と用件を聞け。開ける必要があると言われたら、先に南門へ確認しろ」
「分かってるって」
同じ答えを返しながら、エミリオは倉庫の戸から一歩離れた。
ハミルの忠告を冗談にしない程度には、昨日のことを見ている。
アバドは戸へ鍵を掛けた。
「しばらく遠出はやめる。町の外へ運ぶ荷は後回しだ」
「荷はどうするんだよ」
「急ぎのものじゃない。数日遅れたところで腐らん」
「でも、ずっとってわけにはいかないだろ」
「だから、町なかへ荷を届けるときは、お前にここを任せる。店を見てろ。あの甕は開けなきゃそれでいい」
エミリオは唇を結んだ。
視線は倉庫の戸ではなく、居間で横になったハミルへ向いていた。
王都へ一緒に行きたいと言い出すのではないかと、アバドは思っていた。
十五の少年に、六日以上の旅ができないわけではない。これまでも荷車へ乗せ、近隣の町まで連れていった。
だが今回は商いではない。
何が待っているのか、ハミルもセラも分かっていない。
「俺が行ったって、邪魔になるよな」
エミリオが言った。
アバドはすぐには答えなかった。
「なぜ俺に聞く」
「聞いてない」
「なら、本人に言え」
エミリオはしばらく戸口に立っていた。
やがて意を決したように居間へ戻る。アバドは少し間を空け、そのあとを追った。
ハミルは寝台で目を閉じていた。
眠ってはいないらしい。エミリオが近づくと、黒い瞳が薄く開く。
「ハミル」
「ん?」
「俺も行くって言ったら、どうする?」
「荷車から落ちないよう、縄で縛るかな」
「そうじゃなくて」
「分かってるよ」
ハミルは寝台の上で少し身体を起こした。
背中に痛みが走ったのか、眉がわずかに寄る。それを隠すように、枕を抱えて脇へ差し込んだ。
「来てくれれば助かることは、たくさんある。荷物は持ってもらえるし、俺より料理がうまい。道中も退屈しないだろうな」
「じゃあ」
「でも、今回はここにいてほしい」
エミリオの肩が落ちる。
ハミルはその顔を見てから、倉庫の方へ目を向けた。
「あの甕を勝手に開ける人がいないように見ていてほしいんだ。危険物だと決まったわけじゃないけど、今は人の手が届かない方がいい。アバドさんが荷を届けに出るあいだ、事情を知っているお前が残ってくれると安心する」
「俺が、見てるのか」
「それだけじゃないよ。アバドさんが商いを続けられるよう、店も頼みたい」
「父さんにも、同じことを言われた」
「なら、二人分の頼みだな」
エミリオは答えなかった。
昨日まで動かなかったハミルの右手が、ゆっくり持ち上がる。
指先がエミリオの袖へ触れた。掴むことはできず、布の上へ置かれただけだった。
「置いていくんじゃない。頼んでるんだよ」
エミリオは、その手を両手で包んだ。
「王都まで、六日か七日だろ」
「そうだな」
「父さんとなら、もっと長く家を空けたこともある。なのに今回は、帰ってきたときには何か変わってる気がする」
ハミルは、急かさずに続きを待った。
「昨日だって、薬を見に行くだけみたいな顔をして、まともに匙も持てなくなって帰ってきた。それにお前、帰ってこられるか分からないときほど、大丈夫そうに笑うだろ」
ハミルの口元に残っていた笑みが、わずかに止まった。
「だから聞いてるんだよ。ちゃんと帰ってくる?」
「帰るよ」
「また、薬を見に行くだけとか言うなよ」
「あれはちょっと見通しが甘かったな」
「ちょっとじゃない」
「じゃあ、かなり」
「そこじゃないだろ」
ハミルが笑う。
エミリオは笑わなかったが、包んだ手を離しもしなかった。
「帰ってこなかったら、小屋の畑、全部勝手に収穫するからな」
「それは困る。裏の豆はまだ早いんだ」
「知るか。狐にもやる」
「分かった。豆を守るために必ず帰るよ」
「俺たちのためって言えよ」
ハミルは目を瞬いた。
それから、冗談へ逃げずに頷いた。
「うん。二人のところへ帰る」
アバドは戸口に背を預けたまま、天井を見上げた。
年を取ると涙腺まで緩むというのは、本当らしい。
ーーもっとも、朝から倉庫の埃を浴びたせいにしておけばいい。
*
昼を過ぎたころ、セラが革鞄を抱えて戻ってきた。
青線の薬に関する報告書はまとまり、救済院の封蝋も受けたという。王都の中央調薬所へ至急の確認を求める文書と、南門で確認した十二人の記録が鞄へ収められている。
「明朝の隊商へ二人分、話をつけた」
アバドが告げると、セラは頷いた。
「助かります。救済院の連絡便は、明後日まで出ません」
「荷車は客用じゃない。揺れるぞ」
「歩かせるよりはましです」
二人の視線が、寝台のハミルへ揃って向く。
「俺の意見も聞いてもらえますか」
「歩きたいんですか」
「いえ。扱いが荷物と同じだなと思いまして」
「荷物は勝手に起き上がりません」
「そこは俺の長所でしょう」
「今は短所です」
セラは寝台の脇へ立ち、両手を出すよう求めた。
左手の指先へ順に触れ、どこまで感じるかを確かめる。朝には曖昧だった小指の感覚も、昼には触れた場所を言い当てられるようになっていた。
右手は、布を丸めたものなら持ち上げられた。
だが握る力は弱い。水の入った杯を持たせると、指が震え、半分も運ばないうちに卓へ戻した。
「明日の朝まで休んで、これ以上悪くならなければ出発は認めます」
「同行を認めたわけではない、と聞いた覚えがありますが」
「王都へ行く人間が、同じ荷車に乗るだけです」
「なるほど。都合のいい偶然ですね」
「誰かから教わりました」
セラの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
アバドは見なかったことにした。
その日の残りは、ハミルを寝台へ留めたまま旅支度を進めた。
乾燥肉、硬いパン、豆、塩。傷に使う薬草と清潔な布。夜の冷えを防ぐ毛布を二枚。アバドが品を積むたび、ハミルは多い、高い、持てないと口を出した。
「荷車へ乗るんでしょう。持つのは馬ですよ」
最後にはセラにまで言われ、黙った。
日が傾くころ、アバドは旅袋の底へ小さな革袋を入れた。
「何ですか、それ」
「修理代だ」
「何の」
「半年前から直させた荷車の分だ」
「豆一杯で話がついたはずでしょう」
「利息がついた」
「払う側が増やす利息なんて聞いたことがありませんよ」
「田舎の商人を甘く見るな」
ハミルは革袋を取り出そうとした。
右手では口紐を掴めず、左手を伸ばす。アバドはその上から旅袋を閉じた。
「生きて戻って、文句を言え」
黒い瞳がこちらを見る。
何かを尋ねたがっている目だった。
なぜ名前も過去も明かさない人間へ、そこまでするのか。
アバドには、答えられるほど立派な理由はなかった。
森の中で困っていた荷車を引いてくれた。
エミリオのくだらない話を笑って聞いた。
焦げた煮込みを食える味へ戻した。
そして、息子を連れ帰った。
半年もあれば、人を信じる理由としては十分だ。
「金は返せ。秘密は、帰ってから話せる分だけ話せばいい」
「ずいぶん気の長い取り立てですね」
「商人は待つのも仕事だ」
「では、逃げられませんね」
「最初から逃がす気はない」
ハミルはしばらく革袋の辺りを見ていた。
やがて、諦めたように旅袋から手を離す。
「ありがとうございます、アバドさん」
「礼は帰ってから聞く」
「それも利息ですか」
「そうだ」
*
翌朝、空が白み始める前に、南門近くの広場へ荷車が並んだ。
水の国の王都へ向かう隊商は、六台の荷車と十人あまりの商人、それに護衛を連れていた。北から逃れてきた人々とすれ違うため、予定より速度は落ちるかもしれないという。
ハミルは自分の足で広場まで歩いた。
左手では旅袋の肩紐を持っている。エミリオがその袋から旅用の木の杯を取り出すと、セラは荷台脇の水差しから半分だけ水を注いだ。
「出発前に、もう一度右手を見ます」
「朝から厳しいですね」
「検査ですから」
「こぼしたら?」
「今日の飲み水が少し減ります」
「それは責任重大だなあ」
ハミルは右手で杯を受け取った。指先は震えたが、口元まで運んで水を飲み、セラの手へ返す。縁から一滴こぼれただけだった。
「昨日よりは動いています」
「合格ですか」
「道中も診ます」
エミリオが杯を布で拭き、旅袋へ戻した。
左手の感覚は、ほとんど戻っていた。
右手も軽いものなら持てる。ただし、旅袋の留め紐を結ぼうとして二度失敗し、最後はエミリオに結ばれていた。
背中と肩の腫れも引き始めている。
長く歩けば足取りが乱れ、荷車へ乗り込むときには右腕を庇った。それでも、昨日の朝よりは明らかに身体が動いていた。
「いいですか」
セラが念を押す。
「道中は荷車からむやみに降りない。右手で重いものを持たない。傷が開いたらすぐ言う。熱や痺れが戻ったときも同じです」
「努力します」
「守ってください」
「はい。守ります」
アバドは荷台へ毛布を敷いた。
ハミルが左手をつき、膝を掛ける。背を押そうとしたところで、本人が身体を持ち上げ、どうにか腰を下ろした。
隣へセラの革鞄が置かれる。
エミリオは旅袋の紐をもう一度引き、ほどけないことを確かめていた。
「王都まで毎日見ろよ」
「何を?」
「結び目。右手が戻ったからって、勝手に解くな」
「それは俺の荷物なんだけどな」
「俺が結んだ」
「じゃあ、帰るまで解かずに持っておくよ」
「そうしろ」
エミリオは旅袋から手を離した。
「だから、帰ってこい」
「うん」
今度の返事は、軽口ではなかった。
アバドは荷台の縁へ片手を置く。
「宿場では南門の騒ぎを話しすぎるな。救済院の報告より先に噂が走れば、薬を隠す奴が出るかもしれん」
「分かりました」
「街道沿いで頭巾を外すな。王都へ近づくほど人が増える」
「はい」
「無茶はするな」
「それはセラさんにも言われました」
「なら二人分聞け」
ハミルは苦笑した。
「アバドさんは、行くなとは言わないんですね」
「止めても行くからな」
「そこまで分かりやすいですか」
「半年見てきた」
荷車の御者が出発を告げた。
前の車輪がゆっくり回り始める。
アバドは荷台から手を離した。
「行ってこい、ハミル」
黒い瞳が見開かれる。
帰ってこいとは、エミリオが言った。
なら、自分が言うのはこれでいい。
帰る場所は、こちらで残しておく。
ハミルは頭巾の奥で笑った。
「行ってきます」
荷車が動き出す。
エミリオが並んで歩き、門の手前まで何度も同じことを言った。豆を忘れるな。薬へ勝手に触るな。手紙を出せ。絶対に帰れ。
ハミルは一つずつ返事をした。
南門を抜ける直前、左手を上げる。
右手は荷台の縁へ置かれたままだった。
朝の街道を、六台の荷車が進んでいく。
姿が見えなくなるまで、アバドとエミリオはその場に立っていた。
やがてエミリオが、鼻をすすって言う。
「帰るよな」
「帰るさ」
「何で分かるんだよ」
「代金をまだ払ってない」
「それだけ?」
「十分だ」
アバドは息子の背を叩き、町へ向き直った。
倉庫には、不用意に触れないよう封をした薬が残っている。
店の戸も開けなければならない。
帰ってくる者がいるなら、いつもの暮らしを止めて待つわけにはいかなかった。




