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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第一章

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第013話 信じられるもの

 麓の町を出て一刻も経たないうちに、ハミルは荷車なら歩くより楽だと考えたことを後悔した。


 後ろから二台目の荷車には、乾燥豆と染料の樽が積まれている。荷の隙間へ二人分の場所が作られ、敷いた毛布が車輪の振動をいくらか和らげていた。


 それでも、車輪が石を踏むたび、背中の傷へ鈍い痛みが響く。


 板へ背を預けることもできず、ハミルは左肩だけを樽へつけた。揺れに合わせて漏れそうになる息を、何度か欠伸のふりで飲み込む。


 正面のセラに気づかれないよう、街道の先へ顔を向けた。


 六台の荷車は朝靄の残る畑の間を、ゆっくり南へ進んでいる。


 町の壁はもう見えない。


 見送る二人の姿も、ずっと前に街道の向こうへ消えていた。


 森の小屋を離れるときより、胸の奥が落ち着かなかった。


 八か月暮らした場所を家だと思っていた。けれど、帰りを待つと言う人ができて初めて、家は建物だけではなかったのだと知った。


 旅袋の結び目は、エミリオが結んだままだ。


 解くな、と言われた。


 帰ってこい、とも。


 アバドには、行ってこいと言われた。


 どちらも、帰ってくることを疑っていない言葉だった。


 王都へ行くと決めたのは自分だ。それでも、いざ町が見えなくなると、ほんの少しだけ惜しくなる。


 今さら引き返したいと言えば、エミリオは喜ぶより先に怒るだろう。アバドも黙って荷台へ押し戻すに違いない。


 その想像が少し可笑しく、同じくらいありがたかった。


『今から戻れば、昼飯には間に合うぞ』


 胸の奥でイルが言った。


 朝より声に張りがある。昨日一日、二人で眠った甲斐はあったらしい。


『……誘惑するなら、もう少し早く言ってくれよ』


『豆も残っている』


『豆を守りに戻るのか?』


『狐にやるくらいなら我が食う』


『畑を荒らすなら狐の方がましだな』


『帰れ。今すぐ』


『あー、それはちょっと心が動くな』


 冗談で返したのに、イルは何も言わなかった。


 本当に帰ってもいいと言っているのだと分かる。


 王都へ行かなければならない義務など、今のハミルにはない。


 勇者ではない。


 誰かに命じられたわけでもない。


 頭巾をかぶったまま森へ戻り、畑の豆を見て、アバドの店を手伝い、エミリオのくだらない話を聞いて暮らすことだってできる。


 たぶん、それは悪くない。


 むしろ、ずっと欲しかったものに近い。


 それでも、南門で見た黒い弧と、あの薬を飲む人々を思い出す。


 見えてしまったものを、見なかったことにはできなかった。


『……帰るのは、王都の用が済んでからにするよ』


『そう言うと思った』


『なら聞くなよ』


『一度くらい、貴様が自分を選ぶかと思った』


 ハミルは返事をしなかった。


 少しだけ、胸に残る言葉だった。


「どうしました」


 セラがこちらを見ていた。


「え?」


「さっきから、笑ったり難しい顔をしたりしています」


「あー……畑を狐とどちらが先に荒らすか、考えていただけです」


「誰と競っているんですか」


「留守番を頼んだ相手が、少し食い意地の張った人でして」


『誰が人だ』


「その方は麓の町に?」


「置いてきました。連れてくると食費が倍になりますから」


 嘘は言っていない。


 セラはしばらくハミルの顔を見ていたが、それ以上は尋ねなかった。


 代わりに、革鞄から細く裂いた布を取り出す。


「右手を」


「今度は何ですか」


「これを結んでください」


 差し出された布を、右手の親指と人差し指で摘む。


 朝より感覚ははっきりしていた。だが、二本の指を擦り合わせるようにしても、薄い布は思う位置で止まらない。


 左手を使えば輪までは作れた。そこへ右手の布端を通そうとすると、指先から力が抜ける。


 三度目で結び目らしきものができた。


 引けば、あっけなくほどけた。


「朝よりは動いています」


「慰めが上手ですね」


「事実です。痛みは?」


「背中は揺れるたびに少し。腕は重いくらいですよ」


「痺れは?」


「左はほとんどありません。右は指先に残っています」


 セラは頷き、布を革鞄へ戻した。


「次の休憩で傷を見ます」


「隊商の皆さんの前で脱ぐんですか」


「荷車の陰があります」


「あー……治療師の方は、もう少し患者の羞恥心を大事にしてくれるものかと」


「患者だと認めるんですね」


「そこを拾いますか」


 セラの口元がわずかに緩んだ。


 南門で初めて会ったときより、その表情を見つけやすくなっている。


 だからといって、彼女が自分を信じたわけではない。


 青線の薬と男の異変を疑い、王都へ報告する。それはセラ自身が確かめた事実から出した判断だ。ハミルにだけ見える弧も、灰色の粒の周りに見えるものも、今なお彼女にとっては確かめようのない話でしかない。


 その距離は、今のところ正しかった。


 *


 昼前、隊商は街道脇の水場で止まった。


 ハミルは荷台から降りようとして、右手を縁へついた。力をかけた途端に手首が折れ、身体が前へ傾く。


 左手で縁を掴み直すより早く、下にいたセラが肘を支えた。


「むやみに降りないでくださいと言いました」


「休憩なので、降りてもいいのかと」


「一人で、を付け足します」


「では、次から呼びます」


「呼ばなくても見ています」


「頼もしいなあ」


「見ていないと何をするか分かりませんから」


 それでも支える手つきは慎重だった。


 荷車の陰へ回る。上着を脱ぐには、頭巾ごと外套を外さなければならない。ハミルは街道の両側を確かめ、人の目がないことを確認してから頭巾を後ろへ落とした。


 午前の光が黒い髪に触れる。


 それでも、ほかの色は浮かばない。


 セラの手が、革鞄の留め具にかかったまま止まった。


 彼女の目がまず髪に留まり、それから、今まで頭巾の陰に隠れていた顔へ移る。黒い瞳と視線が重なった瞬間、わずかに息を呑む音がした。


「……髪だけではないんですね」


「ええ。目もです」


 驚かれることには慣れていた。


 完全な漆黒を見た者が、その色の意味を考えるまでの沈黙にも。


 だが、セラの視線はそこで逸れなかった。瞳から目元へ、鼻筋、口元へと移り、もう一度、顔全体を確かめるように戻ってくる。


「想像していたより、ずっと若いんですね」


「声が老けていましたか」


「話し方が。それに……」


「それに?」


「思っていたより、綺麗な顔をしています」


「そちらを口にされるとは思いませんでした」


「黒にも驚いています」


 セラは平静な声で言ったが、留め具に置いた指にはまだ力が入っていた。


「患者であることに、顔は関係ありませんから」


 思っていたよりまっすぐな言葉に、胸の奥で張っていたものが少しだけ緩んだ。


「では、引き続きお願いします」


「最初からそのつもりです」


 ハミルは外套を外したあと、右袖を抜かずに肩から上着をずらした。包帯の巻かれた背中だけが見えるよう、右腕は布の内側へ残したままにする。


 セラはその不自然さに何も言わなかった。


 黒髪黒眼を見せた以上に、これ以上何かを見せる必要はなかった。


 背中の布には、薄く血が滲んでいる。


「開いてはいません」


 セラは傷の周りへ指先を当てた。


「腫れも昨日より引いています。ただ、この揺れが六日続くことは考えてください」


「馬に、もう少し丁寧に歩くよう頼んでみましょうか」


「通じたら教えてください」


「精霊より話が分かるかもしれませんよ」


『聞こえているぞ』


 新しい布が背中へ巻かれる。


「終わりました。上着を戻してください」


「ありがとうございます」


 ハミルは左手で上着を引き上げた。


 袖の内側で、右腕の熱は朝より落ち着いている。


 それを確かめるのは、セラの視線が外れてからで十分だった。


 午後、街道の向こうから荷車の列が現れた。


 北へ向かう四国救済院の輸送隊だった。


 白い覆い布の下に、同じ大きさの木箱が幾段も積まれている。脇を歩く職員の腕には、南門で見たものと同じ印があった。


 すれ違う直前、隊商の先頭が道の端へ寄る。


 救済院の荷車も速度を落とした。


 ハミルは頭巾を深く下ろす。


 その瞬間、胸の奥でイルが言った。


『右から三台目』


 視線を向ける。


 三台目の荷車には、薬箱が積まれていた。


 南門にあったものと同じ形。


 箱の側面に、青い線が一本引かれている。


 ハミルの身体が動きかけた。


 セラの手が外套の袖を掴む。


「降りないでください」


「見ただけですよ」


「身体が先に降りようとしていました」


「……よく見てますね」


「仕事ですから」


 荷車はそのまますれ違っていく。


 青い線の箱も、北へ遠ざかる。


「追いますか」


 セラが尋ねた。


「いえ」


 ハミルは首を振った。


「一箱を追っても、たぶん足りません」


 青線は手掛かりではある。


 けれど、青線では説明できない人もいた。


 今見えた箱を止めたところで、それで全部が止まるとは思えなかった。


「王都へ行きましょう。あの箱がどこで作られ、ほかの印の箱とどこまで同じ工程を通ったのか。その方が知りたいです」


 セラは少し考え、頷いた。


「分かりました。承認番号だけ控えます」


 救済院の荷車の後ろへ書かれた番号を、革鞄の紙へ書き留める。


 それ以上、二人は追わなかった。


 遠ざかる白い覆い布を見送り、隊商は再び南へ進み始める。


『行かせるのか』


『止める根拠がない。それに、あれだけじゃないかもしれない』


 胸に引っかかるものは残った。


 それでも、ここで一箱だけを追うより、王都で共通する工程を確かめる方が多くを止められる。


 そう判断した。


 ーー正しかったかどうかは、まだ分からない。


 *


 日が傾くころ、最初の宿場町へ着いた。


 隊商の商人たちは慣れた手つきで荷を降ろし、馬へ水をやる。宿の前には旅人向けの屋台が並び、焼いた麦餅と香辛料の匂いが漂っていた。


 ハミルは荷車から降りる前に、今度はセラを呼んだ。


「降ります」


「はい」


「報告しましたよ」


「では、どうぞ」


「褒めてくれてもいいんですよ」


「一日目から褒めると、明日から調子に乗りそうなので」


「信用がないなあ」


「積み重ねです」


 支えられながら地面へ降りる。


 朝より、右脚にも疲れが溜まっていた。


 宿の部屋は二階だった。


 階段を見上げたハミルが黙る。


 セラも見上げる。


「……行けますか」


「今、行けると言うか、別の宿を探すと言うか迷っています」


「正直で結構です」


「あー……では、ゆっくりお願いします」


 一段目へ足をかける。


 背中が痛む。


 それでも朝より少しだけ、身体の動かし方が分かっていた。


 王都までは、あと五日か六日。


 長い。


 けれど、その長さに少しだけ救われてもいた。


 今日の朝には、まだ引き返せる気がした。


 明日になれば、町はもっと遠くなる。


 それでも旅袋の結び目は、エミリオが結んだままだ。


 帰る場所を持ったまま、ハミルは王都へ向かっていた。

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