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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第一章

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第014話 消えない名

 ハミルたちを運ぶ隊商の荷車が、王都へ到着する頃。


 城壁の南西、畑と低い森の境では、三体の魔物が追い立てられていた。


 四つ脚で走る姿は野犬に似ている。だが、身体を覆うのは毛ではなく、濡れた葦と黒ずんだ泥だ。窪んだ眼の奥で赤い光が揺れ、口を開くたび、折れた枝のような牙の隙間から濁った水が落ちた。


 王都の巡回を終えて帰国するはずだった日から、六日が過ぎている。


 合同訓練の翌朝、四人が中央通りを抜けたところで、城外に魔物が出たという鐘が鳴った。駆けつけた先に残っていたのは、荒らされた畑と水路へ続く足跡だけだった。


 以来、魔物は畑を荒らしては水路へ潜り、騎士が駆けつける前に別の場所へ姿を現した。逃げ足だけは厄介で、水門を一つずつ閉じ、地下まで続く流れを塞いで、今日ようやく浅い窪地へ追い込んだ。


 魔物の目撃情報を聞いたにもかかわらず、何もせず帰るわけにはいかない。レイオスたちは王都に留まり続けた。


 レイオスは土手の縁に立ち、三体の足運びと、窪地から抜けられそうな場所を順に見た。右手に浅い水路、左手に崩れかけた斜面。背後の農道には、避難を終えたと知らせる騎士の旗が上がっている。


 核の位置は三体とも胸。動きは速いが、踏み込みは浅い。自分たち三人だけなら、話し合うほどの相手ではなかった。


 だからこそ、今日は核を砕くだけで終わらせない。キースが恐怖の中でも周囲を見て、水の役目を最後まで果たせるか。それを確かめるには、ちょうどよかった。


「三体とも、見た目ほど強くはないよ」


 窪地を見下ろす土手の上で、メルクリオが言った。


 薄緑の髪が、フラーシアの起こした風に揺れている。


「動きは速いけれど、核にまとわりつく濁りは薄い。位置も胸元にはっきり見えているね」


「一体ずつなら、王都の騎士でも足止めできる」


 マルテが短く続けた。


 その足元では、モグラの姿をしたポルタニアが、土から半分だけ顔を出している。


「つまり、キースの初めての実戦にはちょうどいいってこと! あ、もちろん油断は駄目だけどね。ちょうどいいと言った途端に強くなる魔物もいるかもしれないし、僕は責任を取れないし――」


「黙って土を見ていろ」


「見てるよ。喋りながら見てる」


 十年前と変わらないやり取りを聞き流し、レイオスは隣へ目をやった。


 キースは水の国から借りた軽い胸当てを着け、窪地を見下ろしている。淡い水色の髪の下で、顔は強張っていた。


 訓練場ではなかった汗が、こめかみを伝っている。


 淡い水色を視界へ入れるたび、十年のあいだ隣にいた別の背中を探しそうになる。考えるより先に身体が探してしまうほど、染みついた癖だった。


 だが、似ているかどうかを確かめに来たのではない。レイオスは目の前の少年へ意識を戻した。


「怖いか」


 尋ねると、少年は一度だけ唇を結んだ。


「怖い。でも、やる」


「怖くないと言ったら殴ってたところだ」


「正直に言っても殴りそうなんだけど」


「口が動くなら十分だ」


 キースの後ろにはユーフォルスがいる。


 長い水色の髪も、白い衣も、窪地を渡る風にほとんど乱れていない。


「私が力を通します」


 穏やかな声で、ユーフォルスは言った。


「訓練と同じように、水を形にしてください。ただし、実際の穢れは水晶より抵抗します。急いで一度に満たそうとなさらないように」


「分かった」


「危険と判断した場合は、私が止めます」


 その言葉に、キースはわずかに眉を動かした。それでも、何も言わずに頷く。


 レイオスは大剣を肩へ担いだ。


「まず一体、訓練どおりにやる。俺が先に入る。お前は破片から目を離すな」


「うん」


 窪地の三体が、低く唸った。


 泥の隙間から、胸元の暗赤色が脈打っている。


 キースの目がそこへ向く。訓練用の水晶とは違う。本物の核を前にして、息を呑むのが横目にも分かった。


「身体じゃない。あれを見ろ」


「核……」


「そうだ。残せば、また戻ってくる」


 それだけ告げて、レイオスは大剣の柄を握り直した。


 細かな手順を並べる必要はない。訓練で一度やった。ここから先は、目の前で覚えるしかなかった。


「失敗したら」


 キースが小さく言う。


「俺たちが止める」


 レイオスは答えた。


「だが、最初から失敗したあとの顔をするな。自分の役目だけ見ろ」


「……うん」


 大剣の刃へ、バーミッドの炎が走った。


「右端からだ」


「いつでも来い、レイオス」


 髭面の火の精霊が、牙を見せて笑う。


 レイオスは土手を蹴った。


 窪地の底まで、一息だった。


 右端を自分が引き受ければ、中央の一体はメルクリオの風が止められる。左の一体が水路へ走っても、マルテの土が先に届く。正面へ身体を向けたまま、頭の中で三体の進路を割り振った。


 一体が泥を散らして飛びかかってくる。枝の牙が肩へ届くより先に、大剣の腹で横面を打った。


 軽い。


 体勢を崩した魔物の胸へ、炎の切っ先を突き込む。


 暗赤色の核に亀裂が走った。


 刃を捻る。


 乾いた音とともに核が砕け、泥の身体が内側から弾けた。


「メルクリオ!」


「見えているよ」


 翡翠色の風が渦を巻く。


 飛び散った核の破片が、泥と葦だけを置き去りにして空中へ浮かんだ。砂粒ほどの欠片まで風に拾われ、一つの黒い球へ集まっていく。


「一片でも残せば、さっきと同じよ」


 フラーシアが風の中を睨みながら言う。


 キースが小さく頷いた。


 レイオスは大剣を引き戻し、残る二体とキースの間へ立った。核を砕いたあとは風、水、地の領分だ。それでも、どこか一つが崩れれば、最初に割って入るのは自分の役目だった。


 キースは両手を前へ出した。


 ユーフォルスの指先から細い水の筋が伸び、少年の背へ触れる。


 澄んだ水が、集められた破片を包んだ。


 次の瞬間、黒い濁りが水の中へ噴き出した。


「っ……!」


 キースの腕が下がる。


 水晶を満たした訓練とは違う。破片に絡みついた穢れは、引き剥がされまいと水を内側から押し返していた。


 水の球が必要以上に膨らんでいる。キースは押し返されるたび、さらに水を足していた。


 水が濁りを洗うところは、何度も隣で見てきた。浄化は、力で濁りを押し潰すものではない。


「力で押し潰すな」


 レイオスが言う。


「でも、このままじゃ――」


「水の流れを止めないでください」


 ユーフォルスの声は変わらない。


「濁りを一度に消すのではなく、破片から離してください」


 キースは歯を食いしばった。


 大きく膨らんでいた水の球が、少しずつ形を変える。


 激しく打ちつける水ではなく、細い流れが幾重にも破片の間を通り始めた。


 黒い濁りがほどけ、水の中で色を失っていく。


 一つ、また一つと、破片が透明になっていく。


 最後の欠片から黒い筋が離れたとき、キースの膝がわずかに沈んだ。


「マルテ!」


「ああ」


 マルテが地面へ掌を置いた。


 ポルタニアが土の中へ潜り、窪地全体が低く震える。


 透明になった破片は淡い光へほどけ、雨が土へ染み込むように地面へ吸い込まれていった。


 踏み荒らされた草の根元から、小さな緑が一つだけ起き上がる。


 核を砕いたときから残っていた張りつめた感覚が、そこでようやく消えた。


 火で核を壊し、風が欠片を残さず集める。水が穢れを洗い落とし、地が残った生命力を世界へ還す。


 キースは今、その一巡を初めて本物の魔物で終えた。


 魔物の姿は、もうどこにもなかった。


 少年は息を切らしながら、その場所を見つめた。


「これが……救済」


「一体目はな」


 レイオスが言うと、少年の顔が上がった。


 残る二体が、同時に窪地を駆けていた。


 一体はレイオスへ。


 もう一体は、窪地の奥にある水路へ向かっている。


「逃がすな!」


 マルテが片足を踏み込んだ。


 土の壁が水路の手前へせり上がり、魔物の進路を塞ぐ。跳ね返された一体へ、メルクリオの風が横から叩きつけた。


 もう一体の牙を大剣で受ける。


 やはり強くはない。


 だが、弱いことと、危険でないことは別だった。


 土壁の向こうで、馬が嘶いた。


 レイオスが音の位置へ目を走らせるより先に、キースが農道を振り向いた。


「人がいる!」


 その視線の先に、避難を終えたはずの荷車が一台残っていた。老いた男が手綱を引いているが、怯えた馬は動かない。


 風に弾かれた魔物が、その音へ顔を向けた。


「持ち場を離れるな!」


 叫んだときには、キースの水が伸びていた。


 水路から持ち上がった水が農道へ走り、荷車の前に厚い壁を作る。


 魔物がぶつかる。


 水壁は大きく揺れたが、牙を通さなかった。


 その代わり、キースの足元がふらつく。


 水を広げすぎだ。あれでは男を守れても、次の浄化に使う力まで削る。


 反射的に、もっと細く水を走らせる軌道が頭へ浮かんだ。長年、隣で見続けた戦い方が、レイオスの中に残っている。


 だが、今見るべきなのは、同じようにできるかではない。水壁は間に合った。その次に、キースが何を選ぶかだ。


 キースは見捨てなかった。


「マルテ、荷車を頼む!」


「ああ」


 マルテがすぐに応じる。


 荷車の車輪の下から土が盛り上がり、馬ごと農道の奥へ押し戻した。


 人が離れたのを見て、キースは水壁を解く。


 自分一人で守り続けようとはしなかった。


「レイオス!」


「分かってる」


 水から飛び出した魔物の胸へ、大剣を振り下ろす。


 二つ目の核が砕けた。


 同時に、メルクリオの風に押さえ込まれていた一体をバーミッドの炎が囲む。


「こいつも片づけるぞ!」


「ああ!」


 泥の脚を炎で止め、横薙ぎに核を断つ。


 三つ目の身体が崩れた。


 大小二つの破片の群れが、別々の方向へ飛び散る。


 メルクリオが杖を持ち替えた。


「フラーシア、右を」


「わかってるわ」


 二つの風の球が、窪地の上へ並んだ。


「キース!」


 少年は返事をせず、両手を上げた。


 水路から二本の水が伸びる。


 それぞれが破片を包もうとして、途中で揺らいだ。


 キースの顔から血の気が引く。


「無理に二つやるな」


「でも、風をずっと止めておけないだろ」


「僕を誰だと思っているのかな」


 メルクリオは笑っていた。


「この程度なら、君が昼寝を終えるまででも持っていられるよ」


「僕はもう二回寝たよ!」


 ポルタニアの声が土から上がる。


 キースは一瞬、呆気に取られた。


 張りつめていた肩が、少し下がる。


「……一つずつなら、できる」


「なら、一つずつやれ」


 レイオスが答えた。


「今のお前にできるやり方で、全部終わらせろ」


 キースは頷いた。


 右の水を解き、左の破片だけへ意識を向ける。


 先ほどより水量は少ない。それでも流れは途切れず、破片の隙間を一つずつ通っていく。


 黒い濁りが水へ溶け、薄れていく。


 半ばまで進んだところで、一片だけ暗い色が残った。


「そこ、まだ黒い!」


「見えているわ」


 フラーシアの風が、その一片を水の中央へ押し戻す。


 キースは慌てて全体へ水を広げかけ、止めた。


 残った一片だけを細い水で包み直す。


 暗い色が消えた。


「マルテ、お願い!」


「受け取った」


 一つ目の光が地へ還る。


 キースは膝へ手をついた。


 息を一度整え、すぐに顔を上げる。


「次」


 ユーフォルスが、もう一度背へ力を通した。


「急ぐ必要はありません」


「うん。でも、待たせたままにはしたくない」


 二つ目の水が伸びる。


 最初より遅い。


 レイオスは残る魔物がいないことを確かめても、大剣を下ろさなかった。キースの水が最後の一片を洗い終えるまでが、今日の実戦だ。


 それでもキースは、できるふりをしなかった。


 一つずつならできると口にし、残した濁りを見つければ戻り、最後まで水を流し続けている。


 やがて、二つ目の破片も透明になった。


 マルテとポルタニアが生命力を地へ還す。


 窪地を覆っていた重い気配が消えた。


 静けさの中で、遠くから遅れて王都の鐘が聞こえてくる。


 キースはその場へ座り込んだ。


「終わった……?」


「三体ともな」


 レイオスが答える。


 メルクリオの風が窪地を一巡し、フラーシアが最後の欠片もないことを確かめた。


 マルテは土へ触れたまま目を閉じ、やがて頷く。


「残っていない」


 その言葉を聞いて、キースは仰向けに倒れた。


「疲れた」


「水を使いすぎだ」


 レイオスは少年の傍へ立った。


「最初の浄化は遅い。二つ同時にやろうとしたのも無駄だ。濁りを一片残した」


「全部、自分でも分かってるよ」


「なら次は直せ」


「少しくらい、できたところも言えないの?」


「できなかったら三体ともここに残ってる」


 キースが不満そうに睨んでくる。


 言葉が足りないのは分かっていた。


 十年前なら、隣にいた水色の髪が勝手に補った。


 レイオスは褒め方が下手なんだよ。つまり、よくやったと言っている。


 そんな声が、今も耳の奥にはっきり残っている。


「荷車の男を見つけたのは、お前が先だ」


 レイオスは言った。


「一人で守り続けず、マルテへ任せた。できないことも黙らなかった。それでいい」


 キースが目を瞬く。


「それ、褒めてる?」


「二度言わせるな」


 少年は少しだけ笑った。


 それから、土手の向こうへ還った光を見た。


「ハミルなら、三体まとめてできた?」


「ああ」


 嘘をつく理由はなかった。


「あいつは、お前より速かった。水の扱いも細かかった。三体程度で座り込みもしなかっただろうな」


「やっぱり、全然違うね」


「当たり前だ。あいつが何年、水の勇者をやってたと思ってる」


 キースは腕で目元を覆った。


「すぐには無理だと思う」


「何がだ」


「ハミルみたいにやるの。たぶん、真似してもできない」


「ああ」


「でも次は、今日より少し速くする。水も、もう少し少なくする」


 レイオスは、土に汚れた少年を見下ろした。


 ハミルの代わりにはならない。


 なれるはずもない。


 だが、代わりになれないと知ったうえで、自分にできることを一つずつ増やそうとしている。


 少なくとも、誰かの名の後ろへ隠れているだけの少年ではなかった。


「立て。報告へ戻るぞ」


「もう少し休ませて」


「王都まで荷を運ばせるぞ」


「勇者の初実戦が終わった直後だよ?」


「さっきの男の荷車が壊れてる。働け」


「本当に運ぶんだ……」


 ぼやきながらも、キースは差し出された手を取った。


     *


 王宮へ戻った頃には、日が西へ傾いていた。


 報告のために用意された会議室には、王宮の書記官と警備を担う騎士、それから四国救済院の総監が待っていた。


 水の国の王族は、今日も一人もいない。


 王家の印章が押された書類だけが、空いた上座へ置かれている。


 王都へ着いてから、歓迎も、滞在の依頼も、帰国延期の要請も、すべて同じだった。誰が決めたのかと尋ねれば、書記官は王家の決定だと答える。だが、その王家の誰も、他国から呼んだ勇者の前へは姿を見せない。


 王族が勇者へ頭を下げるべきだと思っているわけではない。


 ただ、決めた者が印章の後ろへ隠れたままなのは気に入らなかった。


「三体とも、救済を完遂しました」


 書記官がレイオスたちの報告を書き留める。


「周辺の畑に被害はありますが、死者、負傷者はおりません。避難に遅れた農夫も無事です」


「壊れた水路と柵は、明朝から修復へ入ります」


 向かいに座る男が穏やかに付け加えた。


 セヴラン。


 四国救済院の総監だと紹介された、灰色の髪を短く整えた細身の男だった。救済院の白い外套をまとい、声にも表情にも、長く患者を安心させてきた者らしい柔らかさがある。


 四国救済院は、魔王戦争後、傷ついた者の治療と被害地の復興のため、四国が共同で設けた組織だ。各国に治療所と配給所を持ち、水の国の王都に置かれた中央院と調薬所が、国境を越える物資の手配も担っている。


 レイオスも火の国の支院とは何度も仕事をしてきた。ただ、現在の総監本人と顔を合わせるのは、今回が初めてだった。


「畑の持ち主には、救済院から当面の食料を届けます。農具と種も、こちらで手配いたしましょう」


「助かる」


「キース様のお身体も、念のため診察いたしましょうか」


「大丈夫。水を使いすぎただけだから」


「使いすぎた人間は、だいたい大丈夫と言います」


 返された言葉に、キースがレイオスを見る。


「似たようなこと言われた」


「俺は診察しろとは言ってない」


「言ってるのと同じだよ」


 セヴランの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「では、会議のあとに脈だけでも拝見します」


 話がまとまりかけたところで、会議室の扉が叩かれた。


 救済院の職員が入り、封をされた薄い書類の束をセヴランへ渡す。


「南の宿場から届いた至急便です。先ほど、中央院で受理されました」


「この場で確認しても?」


 セヴランが書記官へ尋ねる。


「北辺と魔物に関係する報告であれば、お願いいたします」


 封を切り、セヴランは一枚目へ目を通した。


 穏やかだった目が、わずかに細くなる。


「何があった」


 レイオスが尋ねると、セヴランは書類を卓へ置いた。


「王都から北へ六、七日ほどの町で、複数の避難者が、実際には言われていない言葉を聞いたと訴えたそうです」


「言われていない言葉?」


 キースが身を乗り出す。


「妻から見捨てられた、家族から帰ってくるなと言われた――本人が強く恐れていた内容を、実際に耳で聞いたものとして認識しています」


 レイオスは眉を寄せた。


「魔物の仕業か」


「報告した治療師は、そう断定していません」


 セヴランは二枚目をめくった。


「症状が出た者の中に、四国救済院の粉薬を服用した者が複数います。同じ青線の箱から配布された薬です。ただし、服用者全員に症状があるわけではなく、服用歴を確認できない者にも似た訴えがあるため、因果関係は不明とあります」


「その箱は」


「現地で配布を保留し、封印されています。報告者の治療師が、受取人の記録と正式報告を持って王都へ向かっています」


「名前は?」


 セヴランが署名を確かめる。


「セラ。南門の治療班に所属する治療師です」


 その名に、レイオスは覚えがなかった。


 書記官が別の紙を取り上げる。


「似た申し出なら、王都の南の水門でも二件ございます。疲労による混乱として救済院へ診察を依頼しておりますが」


「荷出し所からも一件」


 警備の騎士が言った。


「荷運び人が、誰にも呼ばれていないのに自分の名を聞いたと。仕事を休ませています」


 三つの報告が、卓の上へ並んだ。


 南の町。


 王都の水門。


 四国救済院の荷出し所。


 どれも魔物の姿はなく、襲われた傷もない。


「三件を同じものと考えているのか」


「まだ判断できません」


 セヴランは率直に答えた。


「南の報告だけでも、服薬と症状が一致しない例があります。ただ、同じ時期に似た訴えが重なっている以上、別々の聞き間違いとして終わらせるべきではないでしょう」


「中央の調薬記録は確認できるか」


「承認番号が記載されています。今夜のうちに、調薬、検分、同梱、出荷の記録を用意させます」


 淀みのない返事だった。


 書記官は明らかに安堵した顔で予定表へ目を落とす。


「では、救済院で調査を進めていただき、三国の皆様には明朝、帰国のご準備を――」


「待て」


 レイオスは遮った。


「俺たちが王都に残ったのは、四人で人を救えるか確かめるためだ」


「本日の討伐で、それは十分に――」


「魔物を三体片づけて終わりじゃない。民に異変が出ているなら、見てから帰る」


 向かいのメルクリオが、卓の報告書へ指を置く。


「僕も賛成だよ。誰にも言われていない言葉が、離れた場所で同時に聞こえる。少なくとも、偶然ではなさそうだ」


「明日、南の水門と荷出し所へ行く」


 マルテが言った。


 短い一言で、三人の意思は揃った。


「俺も行く」


 キースが続ける。


「魔物と関係ないかもしれないんだろ。だったら、見ないと分からない」


 書記官が困ったように王家の印章を見る。


 印章は何も答えない。


「水門では、訴えのあった方々へ事前に説明しておきます」


 セヴランが言った。


「荷出し所には検品記録と中央の調薬記録を用意しましょう。到着したばかりの避難者もおりますので、聞き取りはご負担にならない範囲でお願いいたします」


「それでいい」


 レイオスは頷いた。


 隣では、ユーフォルスが静かに報告書を見ている。


「お前も来るんだろうな」


 声をかけると、水色の瞳がこちらを向いた。


「キースが望むのであれば」


 かつてなら、愛し子が行く場所へ自分がいることを、他人の望みの形で答えはしなかった。


「俺は来てほしい」


 キースが言う。


「では、参りましょう」


 微笑みは変わらない。


 訓練でも、実戦でも、ユーフォルスは必要な力をキースへ通した。危険から守り、方法を教え、求められた務めを果たしている。


 それでも、キースが一体目の浄化を終えたときも、三体すべてを地へ還したときも、その肩へ触れることはなかった。


 ハミルが少しでも無茶をすれば、何も言わず腕を取っていた精霊とは思えない距離だった。


 ハミルを失ったのは、ユーフォルスも同じだ。


 だから責め切れない。


 だが、なぜキースを選び、ハミルについて口を閉ざすのかは、今も分からなかった。


「明日の出発は、日の出から一刻後でよろしいでしょうか」


 書記官が尋ねる。


「ああ。異常がなければ、そのあと帰る」


「何かあったら?」


 キースが小声で尋ねた。


「見つけた奴が片づける。当然だろうが」


「今日は俺も見つけたから、俺も?」


「当たり前だ」


「聞かなきゃよかった」


 そう言いながら、キースの声は少し笑っていた。


     *


 客室へ戻る途中、王宮の西回廊を通った。


 白い壁には、歴代の水の勇者を描いた肖像が並んでいる。


 以前は、その最も新しい場所にハミルの絵があった。


 旅立つ直前に描かれたもので、本人は「もっと強そうにしてくれ」と文句を言いながら、画家が休憩するたび勝手に椅子を抜け出した。結局、ユーフォルスに肩を押さえられ、不服そうな顔のまま描かれていた。


 今、その場所には淡い布が掛けられている。


 外されたわけではない。布の下には額縁の角が見えている。


 だが、新しい水の勇者が公表された今、誰かに問われるのを避けるように隠されていた。


「気に入らんな」


 隣を歩くバーミッドが言った。


「何がだ」


「全部だ。お前もそういう顔をしてる」


 否定はしなかった。


 レイオスは布の前で足を止めた。


 剥がそうと思えば、片手で足りる。


 だが、ここで布を落とせば、明日には火の勇者が水の国へ抗議したという話に変わる。ハミルの名がまた、キースと争うために使われる。


 それは違う。


 あいつは、誰かを偽物にするために残ったのではない。


「今日のあやつはどうだった」


 バーミッドが尋ねた。


「遅い。荒い。水の使い方も下手だ」


「そこまでは聞いてない」


「三体程度を一度に浄化できん。ハミルとは比べるまでもない」


「それで?」


 布の下の肖像を見る。


 ハミルなら、三体程度で呼び戻されたことへ文句の一つも言っただろう。


 帰ったら夕飯を増やしてくれよ。


 そう笑いながら、レイオスが核を砕く前から次に散る破片を見ていたはずだ。


「逃げなかった」


 レイオスは言った。


「人を見つけた。無理なことは無理だと言った。自分にできるやり方で、全部終わらせた」


「なら、十分じゃないか」


「今はな」


 キースをハミルの代わりだと思うことはない。


 水色の髪も、借りる力も、立つ印も同じであっても、まるで違う。


 違うからこそ、あの少年が自分の足で四人目の場所へ立とうとするなら、それを見るべきなのだと思った。


「俺は、守れなかった」


 口から落ちた声は、自分でも驚くほど静かだった。


 十年前、崩れる城で、レイオスは確かに言った。


 俺が守る、と。


 ハミルは、ずっと守ってもらっていたと答えた。


 あれで救われたつもりになったことは一度もない。


 幼い頃から追いかけた。何度負けても勝負を挑んだ。いつか自分の方が強くなれば、あいつが一人で正しいことを選ばなくて済むと思っていた。


 結局、一番守りたかったときに、何もできなかった。


「お前だけじゃない」


 バーミッドが言う。


「分かってる」


「分かってない顔だな」


「うるさい」


 十年経っても、悔しさは古くならなかった。


 死体を見たわけではない。


 砕けた城の跡で、水色の髪を一本見つけたわけでもない。


 生きていると信じ切るには、十年は長すぎた。


 死んだと決めるには、何一つ足りなかった。


 明日は南の水門と、四国救済院の荷出し所へ行く。


 誰にも言われていない言葉を聞いた者たち。


 青線の箱から配られた薬。


 南から報告を持ってくるという治療師。


 魔物と関係があるのか、ないのか。


 王宮が見せたいものだけを見て帰る気はなかった。


「明日、何もなければ帰る」


 レイオスは肖像を覆う布から目を離した。


「何かあったら?」


「さっきも答えただろうが」


 バーミッドが牙を見せて笑った。


「それでこそ、俺の愛し子だ」


 二人は西回廊を歩き出した。


 背後に残した肖像は、布に隠されたままだった。


 けれど、その下から名前まで消えたわけではない。


 少なくともレイオスの中では、十年経っても、一度も。

本日から、毎日19時頃に1話投稿するペースになる予定です!よろしくお願いします。


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